柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 以前、388号(06年9月29日)「大橋図書館について」で、「入江達吉」と書いたのが、これは「入澤達吉」の間違いであった。 訂正して、お詫びする。 さて、それではと言うのではないが、入澤達吉について改めて書くことにする。 尚、ブログ『柏崎通信』には、同文を訂正して転載する。

 先ず、参考に為に、その時書いた「入澤達吉」の部分を転載する。

 「入澤達吉は、現在の見附市今町の出身(名誉市民になっているようだ、1871年、慶応六年生)、近代日 本内科学を確立した。 13歳の時、東大医学部予科を卒業したと言うから、その天才振りが想像できる。 また、森鴎外との縁も深いようだ(25歳の時、4年間ドイツ留学)。」

 偶然、入澤達吉に出会ったのは、夏目漱石を調べていた時だった。 漱石は、胃潰瘍を患い明治43年6月から翌年の2月まで、長与胃腸科病院に入院している。 この辺りの事を『思い出す事など』をいう随筆に書いている。 その注釈に「入澤達吉」が出てくる。 注釈によれば、入澤達吉は、胃腸科の名医として名が高く、旧友らの発案で、漱石の診察を依頼した。 余談だが、満鉄病院に在籍していたようだ。 ところが、長与病院院長である長与稱吉(称吉)が危篤状態にあり、代わりに、当時麹町区永楽町にあった永楽病院院長の宮本叔(はじめ)が療養先である修善寺に往診したとあるのだ。

 因みに、長与称吉は、長与専斎の長男。 長与専斎は、最初、緒方洪庵の「適塾」に学ぶが、ポンペ・松本良順による長崎(小島)医学所が開設された折、洪庵の命により嫡子・三平(惟準)と共に、医学所に派遣されている。 その後、この医学所を引き継いだのも専斎だった。 この辺りの人の繋がりは、実の興味深い。 後日、改めて書くことにしよう。 尚、この辺りの事情は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に詳しい。

 ところで、その入澤達吉は、司馬遼太郎の『峠』にも記載があるのだ。 入江達吉は、随筆家でもあったようだ。 『峠』には、その随筆『加羅山随筆』からの引用がある。 佐倉の順天堂・佐藤尚中(たかなか、舜海)らが中心となって構成された「明治医学会」にいた書記の話だ。 田中稔という。 今町口の戦いで、銃士隊隊長として活躍した。 その話なのだ。 詳しくは、『峠』の「八町沖」の節を参照されたい。

 更に、『峠』の中に、松本良順が、河井継之助を診察するエピソードがある。 松本良順は、佐藤泰然の長男、佐藤舜海とは義理の兄弟に当たる。 長与専斎は、泰然の門人であり、尚中とは兄弟弟子の関係にある。 何とも不思議な縁ではないか。 しかも、入江達吉は、慶応6年生まれだから、戊辰戦争当時のことをある程度記憶している。 その入江達吉が、明治33年ごろ、田中稔のことを知るのである。

 序でに書けば、漱石の『思いだすこと』に長与病院の副院長・杉本東造が、修善寺に往診したとある。 この杉本東造が、新潟県の出身なのだ。 著作に『胃腸の新しい衛生』がある。 昭和2年出版とあるから、当時(漱石往診時)、若手医師として既に名を成した人だろう。 因みに、漱石の明治43年10月11日の『日記』に次のような一文がある。 尚、この日は、漱石が東京に帰る日であった。

 「入院故郷に帰るが如し。 修善寺より静かななり。 面会謝絶、医局の札をかかげたる由。 壁を塗り交へ畳をかへて待つていると杉本氏の言葉はまころなり。 落付いて寝る。 電車の音も左迄ならず」と。

 いずれにしても、幕末前後を起点とするこの人の繋がりには驚くのである。 複雑、これは矢張り図式化しなければなるまい。

『柏崎通信』(2006年12月21日)424号より転載

 前回と同様、松本良順を調べていた。 良順は、明治になって初代の陸軍軍医総監になった。 実は、一度確認していたのだが、第三代陸軍軍医総監、石黒忠悳(ただのり)は、三島郡片貝村(現在の小千谷市)の出身で、幕府医学所の出身、すなわち松本良順の門人なのだ。 因みに、越後長岡周辺には、医学の近代化に貢献した人物が多いのだ。 例えば、入澤達吉がいる。 入江達吉は、現在の見附市今町の出身(名誉市民になっていたようだ、1871年、慶応六年生)、近代日本内科学を確立した。 13歳の時、東大医学部予科を卒業したと言うから、その天才振りが想像できる。 また、森鴎外との縁も深いようだ(25歳の時、4年間ドイツ留学)。

 石黒忠悳は、その後、貴族院議員・第四代日本赤十字社長を歴任し、子爵に叙せられている。 実は、この石黒忠悳が、大橋図書館の初代館長に就任しているのだ。 それでは、大橋図書館とは何なのだと言う事になる。

 大橋図書館は、長岡出身で、明治の大手出版社「博文館」の創設者大橋佐平が、明治20年、財団法人として設立した。 大橋家の家訓「大橋共全会規約」に、その趣旨があるので紹介しよう。

 「大橋図書館は中興の祖奉公の宿志を遂ぐる為め左の趣旨(設立趣旨)を以って設立たる者なるを以って大橋家の子孫は該財団法人の協議員と共に永遠に其大成を期すべし。・・・・」とあるように、その意気込みが伺われる。 因みに、その趣旨をは、図書・雑誌の出版で成功した博文館の利益を社会に還元する、と言うものであった。 また、設立にかけた資金は、大橋家の資産の4分の1(125000円)であったと言うから、驚きである。 その後も、大橋家次代は、図書館の充実に多大な寄付をするのだが、関東大震災で全壊、再建の為に、25万円を基本金として寄付し、昭和15年には、図書館の資産が150万円に達したと云う。

 更に、この財団(大橋家)の社会的貢献は続き、博文館記念日等祝事の毎に、各大学の図書館への図書購入費援助や、金沢文庫の復興には、神奈川県知事と「神奈川県の径庭として永久に維持する事」と契約書を交わし、資金援助から物品・備品の購入まで援助したというのである。

 その後、図書館長は、石黒忠悳の枢密顧問官就任に伴い、加茂市出身で東京専門学校(早稲田)の学生時代から博文館に勤務していた坪谷善四郎に引き継がれた。 坪谷善四郎は、博文館の取締役・編集長の傍ら、現在の日比谷図書館の設立に貢献している。 因みに、大蔵喜八郎も同郷と言うこともあり、大いに支援したそうである。

 いずれにしても、博文館大橋家の社会への貢献は、現在、経団連が策定した『企業憲章』における企業倫理(CSR、企業の社会的責任)の手本とでもなるべきものではないだろうか。

 先週日曜日の日経文化欄は、国立国会図書館の電子化の問題を採り上げていた。 遅々として進まない電子化の問題である。 私は、電子図書館サービスが開始された当初(平成15年辺り)から利用登録しているのだが、このサービスは、全く不親切・不十分・不完全、更に、特定の情報に関しては、有料で、しかも高額なのだ。 例えば、学会誌の検索など、題名とサマリーのみので本文を見ることが出来ない(一部可能、徐々に公開か?)。 しかも、利用条件として、認定学会のメンバーであることを要求される。 私のように、個人の研究者には経費的にも利用が難しい。 そんな訳で、むしろ、米国の国立アーカイブ(文書館)や公的機関、あるいは各大学のデータベースを利用している。 日本の文献を探す場合でも、米国から調べた方が良いのだから、あきれてしまう。

 ただ、国立国会図書館は、世界にも珍しい立法府に所属する図書館だ。 調査、特に文献の調査に関しては、優れている。 公開されないが、国会図書館調査月報は、充実していた。 学生時代、フリーパスを貰っていたので、大いに活用したものである。

 言語と言う障壁があることは分かるのだが、技術は既に問題を解決する域にまで達している。 ペンシルバニア大学だったか1大学から始まった、「グーテンベルク・プロジェクト」は、私が加入した15年前(CDで供給されていた)から年々拡大し、今では、世界規模のプロジェクトになっている。 それに公開で、参加者を拒まない。 最近、ダンテの作品をダウンロードしたのだが、その時、確か50万冊以上が電子化され、約2万冊のEブックが閲覧できると記憶する。 (ただし、検索の仕方によっては、大抵のEブックに到達できる。 尚、公開で問題になるのが、著作権であるようだ。)

 しかし、これは一例に過ぎない。 技術的最先端にある日本が、むしろ、先進国中最後進国であるというのは如何なものであろう。 情報が世界を制する時代、我が国の状況は、背筋に寒気を覚えるほどだ。 「プロジェクト・グーテンベルク」は、一大学の提唱に始まり、企業の支援で広がった。 過って、大橋佐平の社会への貢献は、我が国の図書館の在り方の基本を作った。

 柏崎に住みながら、あるいは長岡や六日町に棲んではいたが、今現在のことには全くの無知、最近、様々な情報が通り過ぎていくのだが、必然性と言える歴史も、可能性としての未来のビジョンも、聞こえて来ない。 これでは、キルケゴールの『死に至る病』ではないか。 まあ、異邦人の戯言、ご容赦あれ。

『柏崎通信』(2006年9月29日)388号から転載

 青島氏が亡くなった。 調べてみると、1932年生まれと言うから、15歳年上である。 我々団塊の世代にとって、何かに付け印象に残る人だった。 特に、直木賞受賞作『人間万事、塞翁が丙午』は、印象に残る。 新潟に来た翌年の受賞作だ。 柏崎マイコンスクールの仕事も順調とは言えず、昼は、ほとんど来ない生徒を待って暇を託ち、午後遅くなれば、小学生相手の塾の講師、夕方からは高校生の家庭教師、それが終わればスナックの厨房で働く(午前中には仕込みをするのだが)。 着たきりスズメで柏崎に着たので、住む所も侭ならず、ましてや本を買うこともできない。 そんな時に、読んだのが『人間万事、塞翁が丙午』だ。 鬱屈した気持ちを慰めてくれる笑いがあった。 TVの番組など関心が無かったし、見る暇もなかった。 そんなことで、この小説は、青島氏を見直す好い機会でもあった。 そう、ある意味、その作品の笑いの効用に感謝さえしているのだ。

 振り返ってみると、当時、諧謔というのか、ブラックユーモアとでもいうのか、そんな笑いが流行していた。 余り読まなかったユーモア小説を、と言っても、せいぜい井上ひさしの小説ぐらいだが、よく読んだものこの時期だ。 そうそう、井上ひさしの『モッキンポット師の後始末』を読んだのも、家庭の事情で広島に帰り、生命保険、ジャノメのセールス、百科事典緒の営業をしていた時期だ。 人間、塞いだ時には、笑いを求めるようである。

 さて、今の時代は、どうだろう。 お笑い番組が全盛かに見える。 しかし、どうも疑問を持つのだ。 「諧謔」などという高尚なセンスなど微塵も感じない。 何かしら、底の浅い「哂い」のみ。 どこか嘲笑に似た響きがあり、臭いがする。 退廃の時代の「ワライ」なのだろうか。

 青島氏、逝去のニュースを聞き、昔の「笑い」を想いうかべた。 「ああ、人生、人間万事、塞翁が丁亥(ひのとい)」と。

 青島幸雄氏の御冥福をお祈りします。

(12月20日)『柏崎通信』423号から転載

 

 司馬遼太郎の『峠』の中に面白いことが書かれている。 継之助は、母親似だと云うのだ。 その母親の趣味が算盤で和算の問題を解く事だとある。 そこで、小千谷の佐藤雪山(虎三郎)の通機堂の門人を調べてみると、長岡縁の門人は次の通りだ(『五十嵐秀太郎著『評伝・佐藤雪山』による)。

 助教・阿倍留吉正明(長岡中島)、学頭・南五兵衛亮方(長岡在寺島)、学頭・吉澤作右衛門義利(長岡千手)、高橋吉太郎知道(長岡藩)、小林常松泰(古志郡長岡)らが見える。 当時(幕末)、雪山の門人は、広く全国に及び、江戸・京都・富山・上州・下野・安芸・長州などに広がっていたようだ。 因みに、佐藤雪山は、関流和算の正統八伝(代と同様の意味)で、六伝・長谷川善左衛門(弘あるいは寛)社中列名に師である越後水原の七伝・山口坎山(倉八・和)と共に、「別伝(免許皆伝)」に名前があるから、その才能が全国に認められていたのである。

 そこで、門人録にある長岡縁の名前を調べるのだが、少なくともインターネットではヒットしない。 当時、和算は学問と言うよりは、趣味と見られていたようだから、研究者が少ないのかも知れない。

 ただ言える事は、当時、小千谷・柏崎・長岡近辺は、日本における和算の中心的存在であったのではないだろうか。 すなわち、佐藤雪山の後継者は、柏崎・茨目の村山雪斎(禎治)であり、その後、関流の正統は継承されていないのだ。 (但し、別説もあるようだが。)

 それではと、雪山の師である山口坎山の足跡を調べてみる。 坎山は、有名な『道中日記』を残している。 都合三回の旅をしているのだが、坎山が故郷水原を始め越後を旅したのは、第三回目だ。 この旅は、文政三年(1820)7月22日から文政五年12月1日までの約2年半に近い旅で、三回の中では最も長い。 この時、神田から信州を回り、直江津から日本海側を通って新潟・新発田まで行き、故郷水原に滞在している。 その後、信濃川沿いに長岡に至り、直江津に出て日本海沿いに関西に向かっている。

 この旅で、長岡に寄ったのは文政四年4月26日で、先ず悠久山の蒼芝(柴)神社に参拝している。 そこで、算額を見、書き写している。 『道中日記』の写真を見ると、詳細は不明だが、描かれた図形などから面積の問題のようだ。 この算額は、文化元年(1804)と寛政十年(1798)のものだから、和算が長岡で盛んであった事の査証ではないだろうか。 因みに、当時、坎山の門人が最も多かったのは、柏崎であるようだ。

 いずれにしても、長岡は信濃川水運の要の土地柄であったことが、和算を盛んにした背景にあるのではないだろうか。 しかし、それが、武家の奥方にまで及んでいた事実が、長岡藩の特異性を示しているように思える。 ただ、継之助の父親・代右衛門が新潟奉行をした時期があるので、その辺りの事情も考える必要があるのかも知れない。

 単なる推測の域を出ないが、継之助の人となり、あるいは、横浜におけるスネルとの交渉のエピソードなどを見ると、案外、母親の和算趣味、あるいは和算の盛んだった土地柄が大いに影響しているのではないだろうか。

 余談だが、山口坎山は、先にも書いたように三回の大旅行をしている。 そこで、少々この旅について触れておこう。 最初の旅(文化十四年4月、1817)は、神田から始まり、水戸街道を北上して、取手・上蛇村(水海道市上蛇町)・寺具村(つくば市寺具)・飯田・土浦・玉作(玉造町五町田)・鹿島・香取を巡り、江戸に帰っている。 二回目の旅は、同年十月、江戸を発ち、筑波・会瀬(日立)・岩沼・仙台・石巻から金華山を見、一旦石巻に返って、一ノ関・盛岡・むつ・大畑・恐山を回り、むつから日本海側に抜けて、能代・鳥海山・酒田・湯殿山・月山から、岩沼に還り、日立から笠間・小港・銚子などを巡り、江戸に帰っている。 三回目が今回採り上げた旅だが、これが最も長い旅だ。 直江津から先に進むと、金沢・福井・敦賀・京都・大津、琵琶湖を渡り長浜、南下して伊勢・松坂、鈴鹿越えで、奈良・吉野・和歌山、船で堺に至り、大阪・岡山、瀬戸内海を渡り、丸亀・金比羅・今治・松山、復瀬戸内海を渡り、広島・岩国・防府・小倉・唐津・伊万里・長崎・熊本・久留米(和算の盛んなところ)・宇佐・小倉から本州へ、更に広島から日本海・石見に抜け、出雲・鳥取・宮津、敦賀に還り、江戸に帰っている。 これらの旅を『道中日記』に詳細に記している。 それが、芭蕉の『奥の細道』に匹敵する旅日記と言われる所以である。 因みに、道中、門人あるいは他流の算額道場を訪れ、時には、教授あるいは道場破りのようなことも行っているようだ。 (佐藤健一著『和算家の旅日記』、伊達宗行著『和の日本史』ほか、東北大学和算アーカイヴなどを参照した。)

 和算は、明治以降、西洋数学によって影を潜めるのだが、江戸時代から明治初年における和算の意味は、単に数学史というより、社会あるいは歴史そのものに与えた影響が相当にあると考えるのだが、如何せん、微力、勉強不足で、確証に至らない。 ただ、この分野、数学としての内容よりも、文化として、実に面白い分野だとは思うのだが。

(12月19日)『柏崎通信』422号より転載

 様々な議論があるかもしれないが、日本の国民皆保険制度は、世界に類を見ない制度として評価された時代もあった。 もうずいぶん前のことだが、文京区の伝通院に、当時(60~70年代)、医療問題評論家として有名だった石垣純二先生を訪ねたことがある。 確か、伝通院の事務所は二階建の古びたビルで、その二階の事務所は、壁面全てが本棚で、そこに溢れた本やら資料の束が所狭しと置かれていた。 窓を背にした先生の大きなデスクも、書き物をするスペースしか無い状況だった。 事前に連絡をしてもらっていたので、「話しは聞いている。 まあ、どうぞ、と言っても」と、書類の束で隠れたソファを片付けながら、「この有様だから、勘弁」と言われた。

 訪問の目的は、海外における医療制度と病院システムについて、御教授頂くことだったのだが、さて、その経緯をよく覚えていないのだ。 ただ、当時、慶応病院のシステム構築に携わっていたので、それに関連してではないかと思うのだが。 いずれにしても、医療問題、特に病院のシステムと地域医療に関して調べていた時期なのだ。 勿論、失礼にならないよう、事前に各国の事情などは調べていたが、私の関心が、社会問題としての医療ではなく(全くないという訳ではない)、病院のシステムを構築する際に必要な地域を含む医療のマン・マシンシステムに関することであった為、少々ちぐはぐな話から始まった。 何しろ、当時の私は、学生に毛の生えたようなガキである。 ただ気負うところがあり、分もわきまえず話したようだ。 しばらく黙って聞いておられたが、その後は、言わずもがな。

 医療問題の話になると、今でも、このときのことが思い出される。 スウェーデンのリューデラント、サンフランシスコのカイザイー記念病院とカイザー・パーマネンテ、そして、英国エグゼター市の所謂「エグゼター・シティ・プロジェクト」、皆、石垣先生からお聞きしたことなのだ。 その後、私なりに調べて来た。 特に、十数年前、フィンランドのサイバー・ヘルシンキ・プロジェクトが発表になった時、改めて、カイザーやリューデラントを調べ直す機会を得た。 理念も進歩していたが、実際のシステムも、技術的発展に即して大いに発展していたのだ。

 ところが、どうであろう。 石垣先生にお会いした時から既に30余年、わが国における医療システムは、技術的には進歩したが、さて理念や社会システムとなると、はたと、首をかしげるのだ。

 特に、昨今の国民保健の問題を傍見すると、先人たちが描いた理想とは程遠いものを感じるのだ。 例えば、先に上げた「エグゼター」の例がある。 医療財政に破綻を来たした英国政府は、1つのモデルとして「エグゼター・シティ・プロジェクト」を実施した。 専門医と開業医(ジェネラル・プラクティショナー)の分離(ホーム・ドクター制度と、ホーム・ドクターの紹介がなければ専門病院にかかれないなど)、開業医への世帯割り当て(1人の開業医に対して600世帯を割当てる制度)など、その他にも在ったのだが、記憶が定かでない。 いずれにしても地域全体を有機的にカバーする医療システムを構築したのだ。 (記憶違いがあれば、御容赦の程。 何しろ大昔のことなのだ。)

 ただ、この計画には、批判もあったようだ。 余りにも先進過ぎたのかもしれないし、あるいは冷戦時代を背景にした極度に社会主義的政策に反発があったのかもしれない。 しかし、この計画は、基本的には成果を上げたようだ。 私が、その計画書や資料を読んだ30余年前には、そのような報告があった。 その時読んだ書籍の中の1冊を、つい最近まで持っていたのだが、現在は行方不明だ。 もしかすると、誰かに貸したままなの
か?

 先回、武見太郎先生について触れたが、石垣純二先生とは犬猿の仲とか。 国民保健について喧々諤々の論議が世情を賑やかせたものだ。 さて今は、と言えば、本質論ならぬスキャンダル的空論が横行しているように見受けられる?

 我家は、保険的には二重構造。 女房殿は社会保険、私と息子は国民健康保険。 実は、切実なもんだなのだ。 さて、どうなることやら。 まあ、刹那的楽観主義、今を大切に生きるしかあるまい。

(12月15日)『柏崎通信』421号より転記



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