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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前

(註20)建保三年十月: 1213年(丁酉(ひのととり)

 『吾妻鏡』に、

 十日 乙未 越後国撿斷事、守護人相共、可致沙汰之旨、西念承畢。

 (十日 乙未(きのとひつじ)  越後国(えちごのこく)検断(けんだん)の事、守護人(しゅごに)相共に、沙汰(さた)致すの旨、西念承り(おわ)んぬ。)
(註21)西念: 佐々木盛綱の法名。後に「法善」とあり、どうも判然としない。そこで、別史料を調べていると、『山形県立米沢女子短期大学紀要』(第43号)に佐々木紀一氏による「佐々木氏勲功伝承と『平家物語』」という論文があり、そこに、宇都宮佐々木氏の系図として、明応(1492年~1501)本『佐々木系図』に次の様な抜粋がある。

 (盛綱)「号加地三郎兵衛尉、佐々木三郎」「本名秀綱、住相模俣野、備前児島渡了」「伊予讃岐守護」「法名西念」

 どうもこれ以外には、「西念」の記載は見当たらないようだ。こうして見ると、私には何だか盛綱と云う人物が何にも居る様に思われる。兎に角、佐々木氏が、柏崎と関係があった事は事実だろうが、全く途方に暮れてしまう。 

(註22)正應六年: 1293年(庚巳(かのえみ))、この年、85日改元して、永仁に代る。

(註23)礎明山松岸寺: 現在の群馬県安中市ある曹洞宗の寺院。
面白い事が書いてあったので、そのURLを。

 http://guntabi.web.fc2.com/annaka/matugan.html

(註24)柏崎光圓寺: 現在の光円寺、
新潟県柏崎市東本町にある真宗大谷派の寺院の事か。序に言うと、本町通り「ホンジェ」の裏にある様なのだが、今まで気が付かなかった。また、インターネットで検索したが「光円寺」に関する基本情報も殆どなかった。
(註25)越前橋立眞宗寺: 現在の真宗寺、
福井県鯖江市鳥羽町にある浄土真宗本願寺派の寺院の事か。

 ただ、『本願寺史料研究所報』(1995年6月刊、第12号)によると、次の様な文章がある。

 『文政由緒書』によると、開基の佐々木盛綱は、近江国佐々木に居住したさ佐々木義秀の三男で、相模秦野に転じて源頼朝に属し、さらに越前今立郡方上庄橋立村に居住した。承元元年(1207)に親鸞が越後左遷の途上で止宿すたので信者となり、共奉して越後に至って出家し、法名を光実坊法善と称した。やがて橋立村に戻って真宗寺を建立し、阿弥陀如来像・上宮太子像を安置するが、正元元年(1259)七月二日に往生した。法善の木像は讃。名ともに親鸞の筆とされている。

 とあるが、問題点もかなりある様で、信頼性は低いと書かれている。
 以上の事から推測すると、柏崎の光圓寺は、親鸞配流の折、
高田に住した事から、後に高田派と言われる寺院の一つで、親鸞あるいは佐々木盛綱と何かしら直接の関係があったのかも知れない。しかし、本願寺史料研究所の文献に「光圓寺」の記載を見ることは出来なかった。
(註26)和漢三才圖繪(わかんさんさいずえ): 『和漢三才図絵』(10581冊)は、江戸時代中期に出来た謂わば日本の百科事典である。
(註27)(ほう)(ぜん): 佐々木盛綱の別、法名。註25の史料によれば、先ず法名を「法善」と称した事になる。
(註28)(とし)(つな): 佐々木俊綱。現在の大阪府茨木(いばらき)市目垣にある浄土真宗本願寺派の寺院「佛照寺(ぶっしょうじ)」の寺伝に、「勝光坊西順」によって建立とあえり、実は、この「西順」が、佐々木俊綱のことで、「承久の乱」(1221)の後、高野山にで勝光阿闍(あじゃ)()と称し、その後、常陸(たち)国稲田で親鸞に帰依し、親鸞ち伴に帰京、先の茨木に佛照寺を建立したとある。
 因みに、この時の「囲碁の会」の相手である工藤祐経は、「曽我物語」の敵役として有名である。しかし、最近では『曽我物語』も、歌舞伎ファンでもない限り、知る人が少なくなった。私は、子供の頃、父からよく聞いたので今でも記憶しているのだが。
(註29)太郎兵衛(ひょうえ)信實(ぼぶざね): 文脈から言えば、「盛綱」の孫に当る訳だが、他の史料によると、盛綱の嫡男とある。越後国加地庄を継ぎ、盛綱の功に依り備前国守護、後、加地氏の祖となる。その子孫は、揚北(あがきた)衆」として上杉氏に従がった。余談だが、「(あがきた)衆」は、「柿崎衆」と共に、初期、謙信の越後統一の障害でもあった。
(註30)越後及び備前兒島(こじま): 越後国加地庄(現在の新発田市東宮内)と現材の岡山県倉敷市児島。
(註31)承久(じょうきゅう)の役: 「承久の乱」、承久三年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して起こした。幕府に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐(おき)海士(あま)隠岐島、現在の島根県隠岐郡海士(あま)町)に配流された。因みに、後鳥羽上皇は、壇ノ浦で二位尼(平清盛の妻・時子)と共に入水した「安徳天皇」の異母弟。
(註32)河匂(かわわ)八郎家賢(いえかた): 『吾妻鏡』の承久三年529日(第14151行目に、次の様な記載がある。

 廿九日 壬子(みずのえね) 雨降、佐々木兵衛太郎信實、兵衛盛綱法師等、相従北陸道大将軍、朝時、令上洛。爰阿波宰相中将、信成卿亂逆之張本、家人河匂八郎家賢、腰瀧口季賢後胤、引率伴類六十余人、籠于越後国、加地庄、願文山之間、信實追討之訖。関東士、敗官軍之最初也。相州、武州等、率大軍上洛事。今日達叡聞、云々。院中上下消魂、云々。
 (二十九日 辛子(かのとね) 佐々木兵衛尉(ひょうえのじょう)信實(のぶざね)(ひょうえ)盛綱(もりつな)法師(ほうし)等、北陸道大将軍、朝時(ともとき)、に相従い、上洛せしむ。ここに阿波(あわ)宰相(さいしょう)中将(ちゅうじょう)が、信成卿、乱逆の張本、家人河匂(かわわ)八郎家賢(いえかた)瀧口季賢(すえかた)後胤(こういん)伴類(ばんるい)六十余人引率越後国(えちごのくに)加地(かじ)(しょう)願文山(がんもんやま)(こも)間、信實追討。関東の士、官軍をやぶるの最初なり。相州、武州(とう)大軍を率いて上洛の事。今日(きょう)叡聞(いもん)に達すと、うんぬん。)

 とある。また調べて見ると、「河匂氏」は、藤原秀郷の流れをくみ、奥州藤原氏(藤原三代)と縁戚関係あったとある。また、神奈川県中郡二宮町山西に、「川勾神社」があり、先の『吾妻鏡』の建久三年(119289日に項に、頼朝が北條政子の安産を「二宮河匂大明神」に祈願し、神馬を奉納したとある。この事が如何に「河匂氏」と関わるのか不明だが、戦乱の時代、親兄弟が敵味方に別れ家を残す事を第一義と考えた事から、「河匂氏」も家を二分して官軍と鎌倉方に分れたのかも知れない。
(註32)北条越後守朝時: 第二代執権・北條義時の二男。母は、比企(ひき)朝宗(ともむね)の娘で正室の「姫の前」だが、建仁三年(1203)の「比企(よしかず)の乱」により比企氏が滅亡、両親が離婚した。名越に住した事から、名越朝時と云われ、名越氏の祖となった。NHKの大河ドラマ『草燃ゆる』では、「姫の前」を坂口良子が、北条義時を渡辺謙が、比企能員を佐藤慶が演じている。(頼朝は石坂浩二、政子は岩下志麻)余談だが、比企氏は、先の河匂氏と同様、藤原秀郷流だ。
(註33)薩摩の乃木大将: こらは明らかに、作者の誤解である。日露戦争、二百三高地の戦いで有名な乃木希典は、長州藩士(支藩の長府藩士)乃木希次の三男として、嘉永二年(18491111日、江戸の長府藩上屋敷で生まれた。
(註34)頼朝の石塔: 新発田市岡田の法音寺大日堂五輪塔の事。現在、新発田市指定有形文化財に指定されている。因みに、詳しくは、下記URLで。

 http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/6011865.html
 
 Best regards
梶谷恭巨
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コメント
無題
はじめまして。
さて、加地一族は、その後は、近江国野村一族の歴史へと変遷します。
そして、日向国から薩摩国へと移動していきます。
【2018/03/21 20:25】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]


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