柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 幕末、「お陰参り」、あるいは「ええじゃないか」が、まさに降って湧いたように
発生する。 アルフレッド・T・マハン(Alfred Thayer Mahan)は、日本来航の年
(1867)、兵庫(神戸)でこれを目撃した。 彼は、当時、米艦「イロコイ号」
に副長(少佐、Lieutenant Commander)として乗艦していた。 余程「ええじゃない
か」が印象に残ったのだろう、翌年1月2日付の母親、更に1月13日の妹への手紙
に、このときの模様を、「まるで、本で読んだことのあるラテン・アメリカのカーニ
バルのようだ」と書き送った。 因みに、彼には、「ええじゃないか」が、「You're
a nigger, He's a nigger」と聞こえたようである。 文面からは、むしろ楽しんで
いるように読み取れるのだ。 ところが、これが、アーネスト・サトウになると、全
く見方が変わってくる。 慶応3年(1867)12月に、冷静に観察した客観的記
録を残している。

 ところで、この「お陰参り」とは何なのだろうか。 最初の記録は、元和3年(1
615)とあるが、その後だいたい70年の周期で最後の慶応3・4年までに7回発
生しているだ。 しかし、それぞれに予兆のようなものがあったのではないだろう
か。 例えば、勝小吉(勝海舟の父親)は『夢酔独言』の中で、無断で江戸を出奔し
た模様を書いているが(11歳と21歳の時)、ひしゃく片手に伊勢参りと言えば何
処でも往来できたし、江戸の何某(恐らく、講の主催者だと思うのだが)の名前を挙
げると、旅費まで出してくれたそうだから、お伊勢参りが一種の社会的安全弁として
機能していたのではないだろうか。 また、それが「お陰参り」として爆発するの
は、安全弁の許容範囲を超えた何事かが発生していたからではないだろうか。 例え
ば、慶応3年は、「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)」勃発の年なのである。

 ただ、最後の「お陰参り」には、薩長による謀略説がある。 定かではないが、そ
の首謀者として名前が挙がるのが、薩摩の益満休之助だ。 江戸の御用盗や薩摩屋敷
放火事件も、実は、益満による謀略であるという説まである。 確かに、世情が不安
定で、文政13年の「お陰参り」では、約三ヶ月でおよそ500万人(当時の人口の
約6分の1)が伊勢に殺到したという事実を知っていたとすれば、この対幕府謀略は
極めて有効である。 謂わば、「プロパガンダ戦略」だが、これは決して現代的戦略
ではない。

 余談だが、孫子を始めとする兵学書は、本家である中国では度重なる戦乱で、その
多くが失われていたそうだ。 (明治の廃仏毀釈の時、多くの漢文学関連書籍が放出
されたそうだ。 その時、清朝政府は、それを大量に買い求めたと伝えれている。)
 その為、兵学あるいは軍事学・戦略戦術論の理論的体系化が行われなかった。 し
かし、日本では、兵学が一つの学問的体系として確立した。 その代表的な兵学者
が、山鹿素行だ。 有名になるのは、赤穂浪士の討ち入り事件で、大石内蔵助が山鹿
流兵学に基き陣立てを行い、指揮したことだ。 そして、幕末には吉田松陰が、家学
である山鹿流兵法を継承し、藩主にその講義を行っている。 西欧に比較すれば、山
鹿素行(1622-1685)が兵学を体系化したのが、西欧的戦略論の開祖とも云
われるクラウゼヴィッツ(1780-1831)やジョミニ(1779-1869)
より、150年も前のことだから驚きである。 付言すれば、日本海海戦(日露戦
争)の作戦を立案した秋山真之は、「多くを山鹿流兵学と小笠原家に伝わっていた能
島水軍の兵学書にヒントを得た」と伝えている。

 本題に戻る。 「お陰参り」は、閉塞した社会環境の中で庶民のストレスが爆発し
た現象と言えないだろうか。 そこで、比較するのが、米国の「大覚醒運動(The
Great Awaking)」、あるいは「信仰復興(Revival)」だ。 有名なのは「ノーサン
プトン・リヴァイヴァル」と呼ばれるコネチカットに発生した「大覚醒」(173
0・40年頃)で、ジョナサン・エドワーズの説教が切っ掛けとなったと云われてい
る。 また、南北戦争の前年頃に、テネシー・ケンタッキー辺りでも大規模な「大覚
醒」が発生している。 「お陰参り」とに似ているのは、老若男女、人種を問わず、
ある日突然に大群衆が形成され、平和的な大熱狂が生まれるのだ。

 「お陰参り」と「大覚醒」には、以前から興味があり文献を探してきた。 イン
ターネットが使えるようになって、資料も入手し易くなったのだが、未だ確信を得て
いない。 一時期は、「進化生物学」や「スウォーム・アルゴリズム」に解答を求め
たが、結論を得ない。 ただ、1つ気になることがある。 安定した社会的場に、新
しい価値観のような文化的特異点が生まれる、あるいは移入されると、「場」は安定
を求めて、急激な回帰現象を生むことがある。 例えば、宗教的原理主義運動が、そ
うではないかと考える。 過っての学生運動も、そうではなかったのではないだろう
か。 そこで、昨今の様々な事件、何かの予兆と考えるのだが、杞憂だろうか。  

Best regards
梶谷恭巨

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