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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 今回は、「里見氏」の関わりであったが、調べて見ると、『南総里見八犬伝』やその映画化などで広く知られている事から安易に考えていたのだが、これが実に難しい。一つには、後に書く「天文の内乱」で嫡流が滅びた事もあるのだろうが、何せ、源平の争乱、鎌倉幕府の相克、北条氏の滅亡、南北朝時代と戦乱の続いた上に、室町後期になると、内紛がおこり、戦国時代には事実上滅亡するのだから、どう見ても断片的で、調べれば調べるほど、一読の関係など時代的にも不確かで、兎に角、謎の多い一族一統なのだ。

 

 著者である関甲子次郎も、その辺りの事があり、短い文章で最後には「略す」と書いている。反面、こうした謎の多い氏族であるが故に、ロマンも掻き立てられるのだろう。滝沢馬琴が二十数年の歳月をかけて『南総里見八犬伝』を著したのも、そうしたロマンを感じたからではないだろうか。いずれにしても、その経緯から里見氏に連なる家系は全国に及び、それぞれに興味深い伝承と共に、続いているようだ。例えば、「正木氏」についても、里見一族から派生した一族で、今までは、広島の「正木氏」を広島の歴史とは何となく孤立した存在だと考えていたのだが、どうも南北朝時代にその源がある様に思えてきたのだ。即ち、毛利氏との因縁である。この辺りの事を書くと止め処がないので、何れ機会を見て書こうとは思うのだが、(我が家の歴史を書いた『家史談叢』では若干触れたが)、どうも本論から外れそうなので、今回もこの程度に留め置きたい。

 

 いずれにしても、今回の『くぢらなみ』、流石に関甲子次郎翁と感服する次第である。インターネットの無い時代、これだけの事を書けるのは、その教養・学識が群を抜いているのだ。柏崎市民は、温故知新ではないが、もう一度、先人たちの業績を見直すべきではないかと、改めて思う次第である。

 

 少々心残りだが、次回は、「宇佐美氏」に移る。ざっと見ても、何だか時間が掛りそうに思える。嘆息。

 

承前。

 

(二)里見(さとみ) 南北朝の頃、新田家の一族里見氏の領下たり、文化中の書上帳に新田一族里見烏山の人々領知云々と見ゆ、烏山氏は此邊に関係無し、里見氏の事は水上村志に詳記し、こゝには略す。

 

(註1)里見氏: 里見氏は、新田(よし)(しげ)の長男・義俊を開祖とする新田氏の庶流の一つ。新田(よし)(とし)(里見太郎)が、上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市里見)に住した事から「里見」姓を名乗った。越後里見氏は、義俊の二男・(よし)(きよ)が上野国那波郡(なはごうり)田中村に住し、田中姓を名乗った。田中義清は、越後に領地を得た。(ちな)みに、この田中氏の末裔が千利休云われる。また、義俊の嫡子・義成(よしなり)里見氏二代目当主)の次男・義継が越後国波多岐(はたき)荘(中魚沼郡)大井田(おおいだ)郷(現在の新潟県十日町市)に所領を得、「大井田(おおいだ)」姓を名乗り、三男・時成(きなり)烏山時成(からすやまときなり))も波多岐(はたき)荘に所領を得、「烏山(からすやま)」を姓とした。後に出る「烏山」はこの系譜か。里見義胤(よしたね)は、鎌倉末期、元弘(げんこう)元年(1331)に起きた「元弘の乱」で、北条氏が滅びた「鎌倉の戦い」に新田(よし)(さだ)に従い功があって「越後守護代(しゅごだい)」になった。

江戸後期、天保の頃、発刊された有名な滝沢(曲亭(きょくてい))馬(きん)の『南総里見八犬伝』は、室町時代を舞台とした伝奇小説。

(註2)新田家: 新田氏は、河内源氏の源(よし)(くに)が、上野国足利庄(現在の群馬県足利市)を開墾し、足利と称した。その長男・()(しげ)が庶子であった為、新に新田郡(にったごうり)現在の群馬県太田市及びみどり市、新田郡(にったぐん)は、2006年に消滅)に住し、新田姓を名乗ったのが始まり。因みに、新田(よし)(しげ)を祖先とした徳川家康は、江戸幕府(征夷大将軍)を起す際、義重に「鎮守府(ちんじゅふ)将軍(しょうぐん)」の官位を追贈(ついぞう)した。

(註3)文化中の書上帳: 「書上帳」は、領主に対して提出された上申書の類。具体的に書かれていないので調べようがないのだが、文政二年(1819)の柏崎「諸値段書上帳」と云うものがあるようだ。

(註4)里見烏山: ここは「里見流烏山氏」と解釈すべきだろう。そこで、「烏山氏」だが、断片的な史料はあるようだが、判然としない。当初、那須烏山、即ち栃木県烏山市に関係すると考えたのだが、この那須烏山は、里見流烏山氏とは関係がないようだ。そこで一つ面白いと思うのが、現在の千葉県館山市南条に在ったと云う「南条城址」別名「烏山城址」だ。この南条城を築いたのが、里見氏の一門である烏山時明とある。ただ、一説には、時明の孫に当る時貞とあるが、いずれにしても、この地が、烏山氏の発祥に地と云えるのではないだろうか。また、天文二年(15337月に起きた「天文の内乱」で滅んだ里見義豊の正妻・一渓院が、烏山時貞の娘であり、悲劇的最後を遂げた事などあり、もしかすると、滝沢馬琴は、この辺りの事情を踏まえて『南総里見八犬伝』を書いたのかも知れない。

(註5)水上村志: 柏崎市立図書館に蔵書はなく、『水上村志』については不詳。「水上村」について調べて見ると、中頸城郡に存在し、昭和29年に合併によって新井市(現在は妙高市)に編入されている。尚こちらは、「みずかみ」と読む。(地元関係者の方からコメントを頂き、修正しました。)

しかし、国立歴史民俗博物館の「れきはくデータベース」で、村名「水上」で検索すると、全件数14件、内越後関係は2件のヒットがあり、共に読みは「みずかみ」、「越後国苅羽郡」で、旧領名「桑名藩分」旧県名「柏崎県」旧高「351.521」、旧領名「大光寺除地」旧県名「柏崎県管下」旧高「4.794」とある。因みに、数値は「石」である。

 

Best regards

梶谷恭巨

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コメント
「水上村」の読みについて
> 中頸城郡に存在し、昭和29年に合併によって新井市(現在は妙高市)に編入されている。尚こちらは、「みなかみ」と読む。

→ 中頸城郡にかつて存在した村は「みずかみむら」です。ウィキペディアも間違っています。
私は、水上地区にあった「みずかみほいくえん」(現在は閉園)を卒園した者です。
平成元年にできた地区内の老人ホーム「みなかみの里」があるので間違われる方が多いのですが、正しくは「みずかみ」です。
【2018/04/17 01:00】 NAME[まつ] WEBLINK[] EDIT[]
「水上村」の読み方について
 ご指摘、早速、修正しました。ありがとうございます。

Best regards
【2018/04/17 13:16】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]


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