柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  マリア・ルス(Maria Luz)号事件を国際法の見地から助言したのが、お雇い米国人・エラスムス・ペシャイン・スミス(Erasmus Peshine Smith)である。 「Virtual American Biographies」に掲載されていたので、以下、訳出する。


エラスムス・ペシャイン・スミスは、法律家であり、1814年3月2日、ニューヨーク市で生まれ、1882年10月21日、ニューヨーク州ロチェスターで没した。 幼少期、両親がニューヨーク州ロチェスターに移住したため、幼年期の教育は、同地で受けた。 1832年、コロンビア大学、翌1833年、ハーバード・ロー・スクールを卒業後すぐに、ロチェスターで法実務に従事した。 この間、当初は、ロチェスターの「デモクラット」のコラム作家兼編集者を、その後、バッファローの「コマーシャル・アドヴァータイザー(Commercial Advertiser)」、「ワシントン・インテリジェンサー(Washington Intelligecer)」の編集者になった。 1850年、ロチェスター大学から数学科の科長として招聘され、2年間務めた後、オルバニーの教育長に就任した。 1857年、ニューヨーク州の控訴裁判所の判例集編纂者(reporter)に指名され、第二回目にのみ編纂者が明記されたが、それ以降、判例全体を通じて番号を付す慣例を確立した。 1864年、ワシントンで移民長官に指名されたたが、その後すぐに、国務省の審判官(Examiner of Claims)に就任、ここで、彼は、ウィリアム・シュワードおよびハミルトン・フィッシュ下の国務省の政策形成に影響を与え、また、彼の国際法に関する知識が政府に多大な貢献をした。 1871年、日本政府から天皇の国際法に関する顧問(国務省に於けるのと同様の職責)の推薦を請われたフィッシュは、スミス氏を推薦した。 彼は、日本政府を公的資格で補佐する最初のアメリカ人であり、5年間滞在し、この間、国際関係においては、条約の締結や制度の確立に貢献した。 こうした重要な外交問題に携わる一方で、国内においては、苦力貿易の撤廃に関与した。 苦力輸送中のペルー船籍「マリア・ルス号」が日本沿岸で難破したが、スミスの助言に従い、230人の清国人は、日本政府によって抑留された。 事件は、ロシア皇帝により調停され、また、日本政府を代表する彼の判断で、苦力は、このような貿易撤廃という結果と共に、清国に送還された。 スミス氏は、リカルドやマルサスの理論を論駁する『Manual of Political Economy』(1853、ニューヨーク)を出版した。 これは、「純粋に物理法則に基いた政治経済学の骨子を構築する試みであり、それ故に、実証的科学に属する絶対確実な結論を得たものである」と述べている。 この点に関しては、この著作は全くオリジナルなもので、その後の経済学に大きな影響を与えた。 尚、この著作は、既にフランス語に翻訳されている。 スミス氏は、また、従来使われていた「テレグラフィック・メッセージ」や「テレグラフィック・デスパッチ」のような扱い難い語句に代わって、「テレグラム」という言葉を、オルバニーの『イブニング・ジャーナル』を通じて、英語として定着させた。 彼が、日本から帰国したのは、1876年のことである。

(注1)ウィリアム・H・シュワード(William H. Sheward): 第24代国務長官(1861/03/06-1869/03/04)、リンカーン大統領およびアンドリュー・ジョンソン大統領
(注2)ハミルトン・フィッシュ(Hamilton Fish): 第26代国務長官(1869/03/17-1877/03/12)、ユリシーズ・グラント大統領

文中あるように、スミスには、米国における国際法の大家の感がある。 このことが、日本政府の要請に対して、フィッシュ国務長官が、スミスを推薦した理由であるように思える。 日本における法整備は、その経緯から対外的な法整備、すなわち、国際法に対する諸制度の確立が必要だった。 考えてみれば、国内法については、従来通りの法がある訳であり、漸進的に法制度を充実することも可能だった訳である。 しかし、それにしても、この人選は最適だったといえるだろう。 先ず、神奈川県による裁判、その後の仲裁裁判、そのいずれにも、スミスが深く関与していたことが窺える。 もし、スミスが居なければ、マリア・ルス号事件の経緯も大いに変わっていたのではないだろうか。

ところで、少々気になったのが、ロチェスター大学の数学科の科長(原文では、「Chair」だったことに、興味を覚える。 どう見ても、法律あるいは政治畑か報道畑を邁進したと思えるのだが、数学が出てくるとは。 政治経済学の著作があるところを見ると、統計学なのかもしれないが、数学に関心があったことに違いはあるまい。 先の略歴にもあるように、政治経済学を自然の法則あるいは自然科学的に解明しようとしたのが、『Manual of Political Economy』である。

当時、資本主義経済学は、ラセフェール(自由貿易主義)を唱えたイギリス学派とある程度の関税を認めたアメリカ学派に分かれていた。 スミスは、マシュー、ヘンリー・ケアリー親子の影響を受け、アメリカ学派に属すリーダー的存在でもあったようだ。 そこで、ケアリーいについて、説明する必要があるだろう。 また、経歴に中に興味深い事実があるので、オランダのグロニンゲン(Groningen)大学の資料から訳出する。

A Biography of Henry Carey 1793-1879, "From Revolution to Reconstruction - an.HTML Project
 ヘンリー・ケアリーは、マシュー・ケアリーの長男として生まれた。 父・マシューは、ベンジャミン・フランクリンによって創設されたアイルランド解放軍(Irish Freedom Fighter)として諜報部門に徴募され、フィラデルフィアに派遣されたが、そこで、後に米国でも最大となる出版社を設立した。 1814年に出版されたマシュー・ケアリーの著作『The Olive Branch』は、英国海軍提督コックバーンが、ワシントンD.C.を略奪し放火した直後に刊行され、当時、戦争遂行の主要な原因までなっていた連邦主義者(Federalist)と共和主義者間の分裂を暴露することによって、低下しつつあった市民あるいは軍隊の士気を高揚させるのに、多大な影響を与えた。
 1817年1月1日、ヘンリー・ケアリーは、父親の出版社会社、ケアリー・リー&ケアリー社の共同経営者になり、ワシントンDCのアービングで出版事業を行った。 1835年、ロンドンの投資家が米国から撤退し始めた頃、これが1837年の恐慌の原因となるのだが、ケアリーは実業から退き、経済問題の研究に専念した。 彼の最初の著作『Essay on the Rate of Wages』は、その年に出版された。 『the Dictionary of American Biography』によると、ケアリーは、資本と人間の発明(技術)の応用は理論上の不毛の大地の限界を克服すると主張し、英国の自由貿易主義「ラセフェール(Laissez-faire)」を認める一方で、デイヴィッド・リカルドの貸借論(the doctrine of rent)を拒絶し、トマス・マルサスの人口論(実際には、「the Doctrine of Ever Scare Resourse」とある)を】論駁した。

以上、途中まで訳したのだが、長くなるので次回に。 というのも、最近の事件から、学生時代の国際模擬裁判のことを思い出したからだ。 忘れぬ内に、書いておきたい。

学生時代、自分は、法学部政治学科に属していた。 何だか変な言い方だが、部活動は経済研究会、個人的な関心は英文学、特に近代英米詩に関心を持ち、本来の専門である法学あるいは政治学を疎かにしていた時期だった。 その政治学科の必須科目のひとつが国際法だった。 (法学科、経済学部は選択科目。) 最初は、余り関心が無かったのだが、授業が面白く、皆勤した。 教官は、当時、新進気鋭の波多野里望助教授、確か、留学から帰国されてすぐの頃だったと記憶する。 波多野先生のご尊父は、心理学者の波多野完治先生、母上は、当時、評論家としても有名だった波多野勤子先生で、里望先生は確か長男だったと思う。 先生の授業は独特で、学期の終わりには模擬裁判が行われた。 ペーパーテストも行われるのだが、この模擬裁判が期末試験なのだ。 人気のある授業だったので、学習院では二番目に大きな教室(旧講堂)で講義があった。 模擬裁判は、ここの舞台上で行われた。 学生は、それぞれ5名の弁護側(被告)と検事側(原告)に分かれて論争する。 ただし、判定委員は、裁判長が教官で、その他は、当事者以外の全学生である。 私は、この模擬裁判で、検事側に選任された。 確か、前期のテーマが、追跡権で、第二次世界大戦中のドイツ戦艦アドミラル・グラフ・シュペー号事件で、後期のテーマが、人道主義と国際法だっただろうか、具体的な内容は忘れてしまった。 そこで、記憶が割と鮮明な前者に付いて紹介する。

シュペー号事件は、同艦が、英国艦隊に追われ、ウルガイのモンテビデオ港に避難したことから始まる。 ウルガイ政府は、中立国で、隣国アルゼンチンとの関係から、むしろ、ドイツに同情的な国だった(実際には、国ではなく、当時のモンテビデオの市長が、そうだったといわれている)。 シュペー号の入港は、そうした背景もあり、むしろ歓迎されたのである。 (歓迎レセプションやパーティが連日開催された。) 英国政府は、これに対し、国際法上の追跡権を主張し、ドイツ軍艦の停泊は、国際法上、違法であると、同艦の引渡し、あるいは、強制出港を求めた。 結果的には、シュペー号艦長ハンス・ランドルフの判断で、自沈、艦長は後に責任を取り、アルゼンチンのブエノスアイレスで自決した。 映画にもなったので、ご存知の方もあるだろう。

問題の焦点は、戦時下における中立国と追跡権の関係である。 追跡権とは、当事者国内で発生した事件は、公海上においても、当該船舶を継続的に追跡することによって、訴追の権利を留保できるというものだ。 事件の発生が、この場合、英国領内であれば、中立国の問題はクリアできる。 しかし、戦時中であり、英国とドイツは戦闘状況にあった。 私は、「戦闘が行われ、その後、継続的に該艦を追跡したのであれば、中立国に対しても追跡権は認められる」と弁論を展開した。 まあ、その時の経過は措くとして、問題は、追跡権と公海上における事件および中立国の関係だったのである。

今はどうか知らないが、大体、大学でも、国際法はマイナーな学問だった。 グローバル化とか、多国籍企業とか言われる割に、国際法についての認識は薄いのが実情ではないだろうか。 それだけに、国際法の重要性は日増しに増大している。 国際法に係る事件は、当事者国間の文化や価値観の拮抗でもある。 グロチウスは、その事を想定して、『戦争と平和の法』を書いた。 17世紀のことである。

Best regards
梶谷恭巨
 

 

コメント
エラスムス・ペシャイン・スミスを読む
渡辺惣樹「朝鮮開国と日清戦争」を読み始めていたら明治初期の朝鮮外交に外務省顧問のエラスムス・ペシャイン・スミスの影響があったと載っていた。渡辺の本にもスミスの米国での働きが書かれていたので、日本での具体的な働きを知りたくネットで探しヒットしましたので読ませていただきました。ありがとうございました。
【2017/11/18 13:40】 NAME[古見酒] WEBLINK[] EDIT[]


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