先回、古文書等のデジタル化に付いて付随的に書いたのだが、Googleブックを見ると、このところ、一挙に蔵書数が増えていることを実感する。 というのも、アーネスト・サトウの『近世史略』が、Googleブックに収録されていたのだ。 「Japan」で検索すると、その他に、頼山陽の『日本外史』が収録されているし、ドイツの外交官、von・クロプロートの著作が三冊収録されている。 また、以前に見た英国のフォンブランクの紀行もある。 また、意外に多いのが、中国の文献だ。 これは、Googleブックだけのことだが、前にも書いたように、他にも幾つかのサイトが同様の閲覧サービスを行っているのだ。 こうしてみると、何だか、競争の感がある。
ところが、最近、全文の閲覧が出来ない文献が多くなった。 その理由は、復刻版が出版されたことらしい。 「らしい」というのは、他のサイトでは閲覧が可能なところもあるのである。 また、こうした場合、ダウンロードが出来ないのも一般的だ。 しかし、このデジタル化は、前駆的現象に過ぎないだろう。 要するに、完全なデジタル化(テキスト化)し、それに注釈をつければ、新たな著作権が発生するのである。
日本人には、こうした発想に乏しい。 これは、日本の本屋の特異性にもある。 再販制が原因か。 また、日本では、書籍が在庫あるいは棚卸し資産として扱われるから課税の対象になる。 それ故に、本屋はなるべく在庫を持たないようにする。 これが欧米の場合、本の在庫は非課税なのだ。 大体、文化とか教育に課税する国など無いのが普通なのだ。 このことが、デジタル化に対する感覚を麻痺させているのかもしれない。 言い換えれば、復刻版を作っても売れなければ在庫となり、課税されるから出版しないという構図を意識するのだろうか。
ところが、数年前、山口の古本屋さんが、埋もれていく史料の救済手段として、復刻あるいは史料・文献の出版を始めた。 大きな冒険であったろう。 ただ、方法としては、前もって購入者を探し、定数達したら出版するというものだ。 結果的には高額なものになる。 しかし、ある程度、成功しているそうだ。
まあ、それが日本の実情なのだ。 話を戻すと、Googleブックには、先にも上げたように『日本外史』のような漢字・漢文の文献も収録されている他、中国の文献も可也ある。 勿論、欧文のものより圧倒的に少ないのだが。 兎に角、このようなデジタル化をGoogleが推進しているのである。 以前、古文献のデジタル化の話をGoogleに近い友人にしたことがあるが、余り関心が無かったようだ。 しかし、当のGoogleは、歴史に注目し始めている。 Googleブックのほかに、「タイムライン」がある。 歴史を勉強する者には、非常に有効な手段だ。
その背景というか、何故、最近、デジタル化が進むのかというと、一旦、デジタル化してしまえば、メンテナンスの必要もないし、先のように注釈でもつければ、著作権を主張できるというメリットがあるからだ。 兎に角、「何でもデジタル化しておけ」なのである。 後は、餅を団子に出来る訳だ。 だから、そのことに気付いたサイトや団体、あるいは出版社がこぞってデジタル化を始めた訳だ。 そりゃ、今は、「プロジェクト・グーテンベルクに敵わない」ということだろうが、こちらは、ボランティア、あちらは、巨大企業で資金は潤沢とくれば、後は時間の問題である。
戦略的に考えても、デジタル化情報の多寡が社会の趨勢まで左右する。 著作権の失効した古書・古本まに新たな権利を付加するのだから、資源は無限に近い。 文芸や学術の世界まで、巨大資本が支配するも遠くない将来かもしれない。 こうした危機感あるいは感覚に乏しい日本は、どうなることやら。 しかも、iPodなどの出現である。 既に、教育現場が右に倣えの状態だ。
繰り返しになるが、古書古本のデジタル化は、既に、長期ビジネス戦略として着々と進んでいるのだ。 付け加えると、日本に、そうした取り組みが無いというのではない。 「青空文庫」や漢文大系のデジタルサイトもある。 国立国会図書館のデジタルライブラリーもある。 前者は、ボランティアによる入力だが、矢張り、偏りがあるし、後者は、電子コピーの段階だ。 平凡社の『東洋文庫』辺りで、既に事業化が進められているのかもしれない。 完全なデジタル化は、日本語である故に、様々な障害がある。 まあ、これが防波堤の役割をするのかもしれない。 いずれにしても、早急な取り組みが必要なのだが。
Best regards
梶谷恭巨