家に伝わる古文書に、安芸国山県郡坪野に着とした訳が伝わる。尼子氏との最前線、太田川と水内川が交わる要衝の地。毛利氏が関ケ原に敗北し、防長二ヶ国に追いやられた時、越後の上杉氏と同様に、可能性としての「捲土重来」を期し、遺民を残した。
それはさて措き、今回、『中鯖石村誌』を公開するのは、縁もさることながら、個人としての限界を感じるからだ。
先日、カナダ移民の苦難の歴史が放映された。中鯖石から移民として海を渡るのは一人、シアトルの移民局に足跡がある。
中途なのだが、読者貴兄の意見が聞いたい。納得がいかなないまま、集めた史料とその警鐘を聞きたい。
Best regards
梶谷恭巨
當地方ノ往古ノ領主ハ知ルノ途ナシ只王朝ノ末六條院ノ私領ニシテ鎌倉時代ヨリ吉野朝時代ニアリテハ毛利氏ノ領有セルコトハ前節鯖石庄ノ項ニ述ベタル如シ貞治参年上杉憲顕子憲栄ノ越後ニ封ゼラルヽヤ慶長三年景勝ノ會津ニ移サルヽ迄全国ハ上杉氏ニ統一セラレ他ノ族ヲ混ズルコトナシ当善根加納與板宮平モ其領ニ属セル 勿論ニシテ我領主ノ衰盛ヲ探グルモ又興アリ越後上杉氏ノ系譜ヲ左ニ挙グ
《この地域の大昔の領主に付いては調べる方法がないが、ただ平安時代の末期、六條院の私領であった事が判っている。鎌倉時代から南北朝時代に付いては、毛利氏が領有していた事を前節第三「鯖石庄」の項で述べた通りである。貞治3年(1364)、上杉憲顕(のりあき)の子・憲栄(のりよし)が越後守護に任じられ、越後上杉氏の開祖となった。慶長三年(1598)に景勝が会津移封となるまで、越後一国は上杉氏により統一され、他家の存在を許さなかった。ここ善根・加納・与板・宮平も上杉領に属していた。勿論、当地の領主の栄枯盛衰の研究も興味ある事だ。越後上杉氏の系譜を次に挙げる。》
北條氏相模ニ勢力ヲ有セシヨリ山内家「遂ニ」上野ニ留マルアタハズ憲政文書家寶ヲ携ヘテ越後ニ奔リ家名ヲ越後上杉ノ宰長尾景虎(後ニ輝虎ト改名シ謙信ト号ス)ニ譲リ託スルニ後讎ヲ以テス景虎上杉氏ヲ冒シ越後守トナル時ニ越後上杉ニハ定實アリテ春日山ニ住セシガ後上杉景勝兄景虎ト家ヲ争フニ及ビ定實景虎ニ味方シテ其ノ家遂ニ滅ブ長尾上杉氏系譜ヲ左ニ挙ゲ仝好ノ士ノ参考トス
《北条氏が、依然として相模国に勢力を有していた頃、既に山内上杉家は、最早上野国に留まるだけの勢力が無く、関東管領・上杉憲政は、伝来の古文書や家宝を携えて越後国に下り、上杉家の家宰である長尾景虎(後に、輝虎と改名し謙信と号した)に関東管領職と家名(家督)を譲ったが、輝虎(謙信)の死後、景虎(謙信の養子・北條氏康の七男)が上杉を冒(おか)し越後守を名乗った時、越後上杉氏には、旧守護職の血筋である定実が春日山に居住していたが、景勝が景虎と家督相続を争った際、景勝に味方した為、上杉憲顕系上杉氏は滅亡した。長尾上杉氏の系譜を次に挙げ、興味ある人の参考に供す。》
【注】冒す: 越後・相模(上杉・北条)が同盟し、謙信の姉と結婚し養子になったが、その越相同盟が失効した後の事なので、管見だが、「冒す」と言ったのではないだろうか。ただ、この辺りの事情については、多くの研究書や小説などあり、解釈を避ける。
景勝ハ長尾政景ノ子上杉謙信ニ養ハレテ其嗣トナル初メ謙信越後越中ノ半ヲ景勝ニ与ヘ能登佐渡ヲ景虎ニ与フ
《景勝は、長尾政景の子・上杉謙信に育てられ、その嗣子となった。はじめ、謙信が越後・越中の半ばを景勝に与え、能登と佐渡を景虎に与えた。》
謙信卒スルヤ両子相争フ景勝遂ニ景虎ヲ仆シ全土ヲ領ス慶長三年正月豊臣秀吉ノ為メニ會津百二十万石ニ転封セラレ秀吉薨后関ケ原ノ役ニ関スル故ヲ以テ米沢ニ移サレ三十万石ニ削ラル
《謙信の死後、二人は家督を争ったが、景勝が最終的に景虎を破り、全領地を継承した。慶長3年(1598)正月、豊臣秀吉によって、会津120万石に移封され、秀吉没後、関ケ原の戦で石田三成に味方した事から、徳川家康によって米沢に移され30万石に減封された。》
慶長三年堀左衛門督秀治上杉氏ニ代リテ越後ヲ領シ越前北庄ヨリ春日山ニ移ル食封三十万石頸城魚沼刈羽三島ハ総テ其ノ封内ニ帰セバ当地方モ勿論堀氏ノ治下ニ属ス
《慶長3年(1598)、堀左衛門督秀治が、上杉氏に代り、越前国北庄から越後国(春日山)に移封され、30万石を領有した。頸城・魚沼・三島の三郡の大部分と刈羽郡の当地域も堀氏の領地に属する事になった。》
慶長三年堀氏封内ノ田畑屋敷ヲ検ス時猶旧法ニ因リ三百六十歩ヲ一反トシ其ノ小割ニ百四十歩ヲ大百八十歩ヲ半百二十歩ヲ小トス
《慶応3年、堀氏が領内の田畑家屋敷を検地した時は、旧来の方法で検地したので、360歩を1反とし、その小割で、240歩を大、180歩を半(中)、120歩を小とした。》
【注】田畑屋敷ヲ検ス:検地の事。ここで謂う「旧法」が何に当るのか不明だが、検地に付いては、次章「第七章 検知」に詳細に書かれているので省略する。
慶長十一年秀治卒シ嗣子忠俊封ヲ襲ヒ越後守トナル
《慶長11年(1606)、秀治が没し、嗣子・忠俊が家督を継いで越後守となった。》
慶長十二年徳川氏天下ニ令シテ山城ヲ毀タシムルニ及ビ堀氏春日山ヲステヽ直江津近傍春日新田ニ福島城ヲ築キ従リ治ス慶長十五年二月忠俊事ニ座シ国除カルニ因ツテ松平上総介忠輝(東照公第七子)越後ニ封ゼラレ信濃国川中島ヨリ福島城ニ従リ治ス食封六十万石本村其ノ封内ニアル故ノ如シ忠輝慶応十七年高田城ヲ菩提原ニ築ク仝十九年三月徳川氏諸侯伯ニ命ジテ高田築城ノ役ヲ助ケシム松平陸奥守政宗台命ヲ奉ジ其臣片倉小十郎縄張普請奉行ニハ瀧川豊前守伊藤右馬允山城宮内等ナリ高田城ヲ一ニ鮫城或ハ法螺城ト呼ベリ竣リテ忠輝卿之ニ従ル
《慶長12年(1607)、徳川幕府の命令で山城を破却する事になり、春日山城を廃城とし、新に直江津に近い春日新田に福島城を築き、藩政を行なった。慶長15年2月、所謂「越後福嶋騒動」の時、忠俊は改易となり陸奥磐城平藩主鳥居忠政に預けられ、その地で没した。その後、松平上総介忠輝(徳川家康七男)が、信濃国川中島から越後に転封となり、60万石加増され、福島城で藩政を行なった。故に当地は、その領内に属した。慶長17年、忠輝は、菩提原に高田築城を始めた。同19年、徳川幕府は、諸大名に高田築城の諸役を命じた。この時、松平(伊達)陸奥守政宗は、台命(タイメイ、幕府の命令)を承り、家臣の片倉小十郎に縄張(城全体の設計)を、瀧川豊前守(忠征)、伊藤右馬允(?)、山城宮内(?)などが普請奉行にあたった。また高田城を「鮫城」あるいは「法螺城」と呼ぶ事があった。竣工後、忠輝卿もそれその様に言ったそうだ。》
【注】忠俊事ニ座シ国除カル: 越後福嶋騒動の事
【補注】越後福嶋騒動:忠俊が家督を相続した時、未だ11歳であり、そのために藩政は家老の堀直政(三条藩主)が担当したが、慶長13年(1608)2月、直政が没すると、藩政の実権をめぐって直政の後を継いだ堀直清と坂戸藩主の堀直寄(直清の異母弟)との間に争いが生じ、その結果、改易になった事件。(ウィディペキア參照)
元和二年四月松平忠輝罪アリテ国除カル仝年酒井左衛門尉家次上野国高崎ヨリ高田ニ移封セラレ十万石ヲ食ムト雖モ当地方ハ酒井氏ノ封内ニ属セズシテ仝年牧野駿河守忠成上州大胡ヨリ長峰ニ移封セラルヽニ及ビ加納與板宮平ハ其封内ニ入ル善根ハ御料ナルヲ以テ之ニ関セズ長峰城ハ潟町上下濱直海濱ノ東ニアリ今日尚畳址邸跡ノ辨ズベキモノアリ
《元和2年(1616)4月、松平忠輝は「大坂夏の陣への遅参」を理由に改易された。同年、酒井左衛門尉家次が、上野国高崎より高田に移封となり、10万石を領した。しかし、当地域は酒井家高田藩に属さず、加納・与板・宮平は、上州(上野)大胡から長峰に移封された牧野駿河守忠成に属し、善根は、御料所(天領)となった。尚、長峰城(現・上越市吉川区長峰)は、潟町、上下浜、直海浜(柿崎)の東に位置し、現在も尚、城址や屋敷跡があり、興味深い。》
【注】「畳址」は、明らかに「城址」の誤植だろう。また、長峰城址は、上下浜の東にある。当時の位置感覚から潟町と直海浜を加えたのだろうか。
元和四年三月牧野忠成長岡ニ移封セラレ元和五年松平伊豫守忠昌(家康ノ孫越前中納言秀康之子)酒井忠勝ニ代リテ信濃川中島ヨリ高田ニ移封セラレ二十四万石ヲ食ムニ及ビ酒井牧野ノ領地其封内ニ入ルヲ以テ加納與板宮平ハ松平忠昌之領トナル寛永元年三月松平忠昌越前福井ニ移リ松平仙千代丸高田ニ封ゼラレ其封地前ト異ルナシ
《元和4年(1618)3月、牧野忠成が長岡に移封されると、翌元和5年、松平伊予守忠昌(家康の孫で、越中中納言結城秀家の二男)が、酒井忠勝に代り、信濃国川中島から移封され、24万石を領したので、酒井家あるいは牧野家の領内にあった加納・与板・宮平は、松平忠昌の領地となった。寛永元年(1624)3月、松平忠昌は、越前福井に移封となり、松平仙千代丸が同石高で高田に封じられた。》
仙千代丸父ハ秀康公長男忠直卿母ハ徳川秀忠三女後ニ越後守光長又ハ三位中将光長ト称ス
《仙千代丸の父は結城秀家の長男・忠直で、母は徳川秀忠の三女・勝姫である。後に、越後守光長あるいは三位中将光長と称した。》
天和元年六月松平中将光長甥綱国罪アリ国除カルヽニ及ビ仝月幕府高田ヲ以テ番城トナシ松平大藏大輔榊原式部大輔(村上城主)牧野駿河守(長岡城主)溝口信濃守(新発田城主)在蕃セリ本郡ハ御用掛代官岡登次郎兵衛之ヲ支配シ加納宮平與板善根ハ其下ニ属ス
《天和元年(1683)6月、松平中将光長は甥・綱国を世継ぎとして養子にしたが、家督相続を巡り御家騒動(越後騒動)に発展し、改易となった。同月、高田は、幕府直轄の番城となり、松平大蔵大輔(越中富山藩第二代藩主・前田正甫[まさとし])、榊原式部大輔(越後村上藩第二代藩主・政邦)、牧野駿河守(越後長岡藩第三代藩主・忠辰[ただとき])、溝口信濃守(越後新発田藩第四代藩主重雄[しげかつ])が在番した。刈羽郡は、御用掛代官(幕府代官)岡登次郎兵衛(岡上景能[おかのぼり・かげよし])が管轄し、加納・与板・宮平・善根は、その支配下に属した。》
【補注1】越後騒動: 越後騒動は、江戸時代前期に越後国高田藩で起こったお家騒動。藩政を執っていた首席家老小栗正矩と、これに敵対するお為方を称する一族重臣とが争い、将軍徳川綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下され、高田藩は改易となった。(ウィキペディア参照)
【補注2】高田城請取: 本文では、請取と在番の大名を挙げているが、実務を担当した幕府役人に付いて、『柏崎市史』中巻第二章「幕藩体制社会の展開」第一節「幕府領の成立と貢租」第一項「幕府領の成立(天和~貞享)に次のように書かれている。(尚、『寛政重修諸家譜』は、原文には無く加筆したものである。)
「(前略)改易後、延宝九年(1680)七月二六日、幕府は、大目付坂本右衛門佐(重治)・勘定奉行高木善左エ門(守勝)・平目付中根主税(正和『寛政重修諸家譜』552巻)・使番中坊長兵衛(秀時『(同書)』1041巻)・蒔田八郎左衛門(定則『(同書)』939巻)・大番津田平四郎(正常『(同書)』494巻)・勘定桜井藤兵衛(政在『(同書)』954巻)・平勘定衆滝野十右衛門(忠央『(同書)』1321巻)・本多新五兵衛(政興『(同書)』1388巻、代々千姫に属し、千姫死後、支配勘定)・杉田五左衛門(勝行『(同書)』944巻)らの請取の役人と、糸魚川城請取の使番岩瀬吉左衛門(氏勝『(同書)』963巻)らを派遣した」とある。
【補注3】岡登次郎兵衛景能: 岡上次郎兵衛景能(おかのぼりじろうべえかげよし)(1629?-1687)は、江戸時代前期にこの地域を治めていた代官です。岡上家は、徳川幕府開設以来の18代官の1家として、代々代官職を務める家柄でした。足尾代官を勤めた景能は、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図りました。
銅輸送の効率化では、大間々-平塚河岸間に最短ルートとなる、笠懸野の原野を縦断するルートを新たに設け、現在の太田市大原町に本町宿をつくりました。景能は、本町宿に水を引くため、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行いました。この笠掛野御用水は、宿用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされ、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになりました。
このように数々の業績を上げた景能でしたが、幕府から罪を問われ切腹を命じられました。景能の墓は、国瑞寺に置かれ、景能は現在も笠懸野の住民の尊敬を集めています。
明治に至り、景能の開削した笠懸野御用水は流路を変えて「岡登用水」として再興されました。(群馬県みどり市の公式ホームページより転写)
此ノ時代ニアリテハ領民ヲ三分シテ御天領又ハ「御」料所御預領御私領トス御天領ハ幕府直轄ニシテ代官支配ニ係ルモノナリ次ニ御預領トハ幕府直轄ナルモ地方大名ノ之ヲ預ケ支配スルモノナリ次ニ御私領ハ大名ノ領民タリ而シテ互ニ相羨ミ相卑ミ甚シキハ婚嫁ヲモ通ゼザルニ至レリトイフ
《この時代には、領民を三つに分け、御天領あるいは「御」料所、御預領と御私領のいずれかに属するとした。「御天領」あるいは「御料所」は、幕府直轄地で代官が支配し、「御預領」は、幕府の直轄地ではあるが、その地方の大名が預りあるいは委託されて支配するもので、「御私領」は大名の領地である。こうした事から、それぞれの領民は、互に羨望したりいがみ合い、極端な場合は、嫁の遣り取りも行わなかった。》
貞享三年稲葉丹後守正通相州小田原ヨリ十一万石ニテ高田ニ移封セラル加納與板宮平ハ其封内ニ属シ善根ハ御天領ナルコト故ノ如シ
《貞享3年(1686)、稲葉丹後守正通(正往)が、小田原(10万2千石)より10万3千石で高田に移封となり、加納・与板・宮平は、その領内に属したが、善根は、御天領のままであった。》
元禄十四年稲葉丹後守正通下総佐倉ヘ徒リ戸田能登守忠実(松平忠昌ノ二男)下総国佐倉ヨリ高田ニ移封セラルヽニ及ビ加納與板宮平ハ其封内ニ入ル
《元禄14年(1701)、稲葉丹後守正往が下総国佐倉(10万2千石)へ移封となり、戸田能登守忠実(松平忠昌の二男)が下総国佐倉(7万1千石)から入れ代りに高田(6万8千石)に移封された。加納・与板・宮平は、その封内に入った。》
寶永七年松平越中守定重伊勢桑名ヨリ高田ニ移封シ十一万石ヲ食ム加納與板宮平ハ其封内ニ属ス
《宝永7年(1710)、松平(久松)越中守定重が、伊勢国桑名(11万3千石)より同石高で高田に移封となった。加納・与板・宮平は、同じくその封内に属した。》
因幡守貞遠 越中守定儀 越中守定賢ノ四代高田居城寛保元年十一月定員奥州白川ニ移封セラレタリト雖モ加納與板宮平及ビ善根半部ハ依前松平家領タリ
《その後、因幡守定逵(さだみち)、越中守定輝、同定儀(さだのり)、同定賢(さだよし)の四代の高田居城を経て、寛保元年(1741)11月、定賢は、奥州白川に移封になったが、加納・与板・宮平と善根の半分は、従来通り松平家の領地として残された。》
【注】貞遠: 後の系譜に定達とあり、定達あるいは定逵(さだみち)の誤り。
【注】定員(さだかず): 久松松平系はあるが、父・康尚は、伊勢国長島藩主であり、恐らく「定賢」を誤植したのではないだろうか。
文政六年松平越中守定永白川ヨリ勢州桑名ニ移封セラレタリ当村ハ従前ノ通リニシテ明治元年ニ至ル
《文政6年(1823)、松平越中守定永が、奥州白河より桑名に移封になったが、各村は、従来通りで明治元年に至った。》
領主ノ節終ルニ臨ミ加納與板宮平ノ永ク関係ヲ有セシ松平家ノ系譜ヲ記ス
《「領主」の節を終るに当たり、加納・与板・宮平と長く関係のあった松平(久松)家の系譜を挙げる。》
越中守定治―摂津守定良―越後守定重(高田在城)―因幡守定達―越中守定輝
―越中守定儀―越中守定賢―越中守定邦―越中守定信―定永―定和―定猶―定敬―定教―和雄(大正元年ニ十七歳)
以下、定綱系久松松平家の家譜を加筆して紹介する。
越中守定治: 「定治」の名前は久松松平の系譜に見当らない。定綱の間違いではないだろうか。
摂津守定良(さだよし): 定綱系久松松平家2代、伊勢桑名藩主。父・定綱は下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩の各藩主。
越後守定重(さだしげ): 定綱系久松松平家3代(養嗣子)桑名藩主→高田藩主。伊予国松山藩主・松平定頼の三男。
因幡守定逵(さだみち): 定達とも書く。定綱系久松松平家4代、高田2代藩主。高田藩初代藩主・松平定重の五男。
越中守定輝(さだてる): 定綱系久松松平家5代、高田3代藩主。
越中守定儀(さだのり): 定綱系久松松平家6代、高田4代藩主。松平定重の六男。甥定輝が早世したため跡を継いだ。
越中守定賢(さだよし): 定綱系久松松平家7代(養嗣子)、高田5代藩主→白河初代藩主。陸奥守山藩主・松平頼貞の六男。
越中守定邦(さだくに): 定綱系久松松平家8代、白河2代藩主。
越中守定信(さだのぶ): 定綱系久松松平家9代(養嗣子)、白河3代藩主。8代将軍・吉宗の孫、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男。第11代将軍・徳川家斉の時、老中首座として「寛政の改革」を断行した。
定永(さだなが): 定綱系久松松平家10代、白河4代藩主→桑名初代藩主。
定和(さだかず): 定綱系久松松平家11代、桑名2代藩主。
定猶(さだみち): 定綱系久松松平家12代、桑名3代藩主。
定敬(さだあき): 定綱系久松松平家13代(養嗣子)、桑名4代藩主。美濃国高須藩主・松平義建の八男。尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂栄、会津藩主松平容保、石見浜田藩主松平武成は兄。維新後、西南戦争に旧桑名藩士を率い従軍、兄・会津松平容保の跡を継ぎ日光東照宮宮司など。
定教(さだのり): 定綱系久松松平家14代(養嗣子)、桑名藩知藩事、子爵。第三代藩主・松平定猷の長男として生まれたが、幼少であり庶子であった為、第四代定敬の養子となった。家督は定敬の四男である定晴が婿養子となって継いだ。
定晴(さだはる): 子爵(養嗣子、定教の長女・栄子と結婚)、定敬四男。和雄は、養子になる前の名前。
定光(さだみつ): 楽翁・松平定信の自序伝『宇下人言・修行録』(岩波文庫の収蔵・初版昭和17年)の校訂を行なう。
新政ノ始メ、府藩縣ノ三治ヲ以テ国郡ヲ理セラレシガ、尚地方ハ府縣ノ配下ニ属シ、明治元年戦争中柏崎ニ民生局ヲ於カレ、後民世局ヲ廃シ或ハ縣或ハ府或ハ縣ト変遷シ、遂ニ柏崎縣ヲ廃シ新潟縣ニ合シ、刈羽郡役所ヲ置カラルヽニ至レルハ、別章ニ述ベタルコトナレバコヽニ略シ、直ニ加納村・與板村・宮平村・善根村ノ明治ニ入リ幾多ノ分合ニヨリ、現今鯖石村ニ成レルコトヲ序述セン
《明治新政府は、当初、府・藩・県の三方式によって旧国や郡を統治しようとたが、まだ地方は府・県の管轄下にあった。明治元年の戦争(戊辰戦争あるいは北越戦争)中に、柏崎には、民生局が置かれたが、民生局を廃止し、県あるいは府、更に県の管轄下と変遷し、最後に、柏崎県を廃止し、新潟県に合併して、刈羽郡役所を設置されるに至った。これ等の変遷については、別の章で述べるので、ここでは省略し、加納村・与板村・宮平村・善根村が、明治に入ってからの合併・分離などの変遷のみを採り上げ、現今(当時)の鯖石村になった経緯について叙述する。》
第一 加納村
明治ニ入リ四年ニ至ル迄、従前ノ庄屋ニ後勤務ヲ命ジ村ヲ治メタルコト加納・與板・宮平・善根皆同様ナリサレバ、各村之ヲ略シ、戸長役場ノ設置ヨリ記スルコヽトナシヌ
《明治4年(1871)まで、村政は、従来通り庄屋が行っていた。この事は、加納・与板・宮平・善根も同様なので、各村に付いての説明は省略し、戸長役場の設置から書くことにする。》
【注】「記スルコヽトナシヌ」の部分は、「記スルコトヽナシヌ」の誤植か。
【補注】戸長役場: 明治11年(1878)の「郡区町村編制法」によって設置されたが、ここで謂う戸長役場は、明治4年(1871)4月5日、「戸籍法」が制定され、数ヶ村をまとめて「区」とし戸籍を区単位で管理する事に成り、翌明治5年4月9日、太政官布告によって、旧来の庄屋・名主などの村役人を戸長・副戸長としたことで、その事務の場所を戸長役場としたのではないかと思はれる。
明治四年八月、戸長役場ヲ設置シ大橋安治氏戸長タリ、時ニ柏崎縣管内五郡ヲ九区ニ分タレ、一区毎ニ長副ヲ置カレタルカ、当加納以下三ヶ村ハ第一大区ニ属シ大区長・中田村尾崎三左エ門氏、副ハ岡野町・村山藤栄氏ナリ、而シテ大区ヲ又小区ニ小区ヲ番組ニ分タレタリ、加納ハ第十小区七番組タリ
《明治4年(1871)8月、戸長役場を設置し、大橋安治氏が戸長に就任した。当時、柏崎県管轄の5郡を9区に分割し、一区毎に戸長・副戸長を置いた。加納村以下の3ヶ村は、第一大区に属し、大区長に中田村の尾崎三左衛門氏、副大区長に岡野町村の山村藤栄氏が就任した。結果、大区を小区、小区を番組に分割し、加納村は、第10小区7番組となった。》
明治六年九月、戸長ヲ廃シ用掛ト改ム、大橋氏又時ノ用掛タリ、仝時ニ大小区ノ改正行ハル、越後ヲ分チテ二十四大区トシ、更ニ分チテ小区ヲ二百四十九区ト為ス、刈羽郡ハ三島郡ノ一部ヲ加ヘ第五大区及六大区ノ二ツトナシ、更ニ小別シテ五大区ヲ小十九区ト六大区ヲ小二十区トナス、加納・與板・宮平・善根ハ第五大区小十区ニ含マレ、善根・北村輯平氏ハ小十区長タリ、第五大区長ハ山田八十八郎氏ナリ
《明治6年(1873)9月、戸長制が廃止され、用掛と改められ、大橋氏は、それに伴い用掛となった。また、同時に大小区の改正が実施され、越後は、24大区になり、小区は249小区に分割された。刈羽郡は、三島郡の一部を加え、第五区と第六大区のニ大区となり、第五区を19小区、第六区を20小区に分け、加納・与板・宮平・善根は、第五大区第十小区に属し、善根の北村輯平氏が第十小区長に就任し、第五大区長には山田八十八郎氏が就任した。》
八年九月小区長組合用掛ヲ戸長ト改ム九年七月小区長を廃シ大区ニ大区長毎小区ニ副大区長ヲ置ク其後明治十一年第十七号布告ヲ以テ郡区町村編成法ノ規定ヲ定メラレ毎郡ニ郡長区ニ戸長ヲ置ク事トナリ明治十二年四月ヨリ施行セラレタリ而シテ明治十七年組合役場ヲ組織セラルル迄大橋安治氏ハ通ジテ八ヶ年十一ヶ月戸長タリ
《明治8年(1875)9月、小区長組合用掛の名称を戸長と改正する。同9年(1876)7月、小区長を廃止し、大区に大区長、各小区毎に副大区長を配置した。その後、明治11年(1878)の太政官布告第17号「郡区町村編成法」が発布され、各郡に郡長、区に戸長を置く事になった。新潟県では、翌明治12年(1879)4月9日より施行され、明治17年(1884)、組合役場(連合戸長役場)が組織されるまで、大橋安治氏が8年11ヶ月間、戸長であった。》
明治十七年八月官令ニヨリ安田村加納村南條村組合役場ヲ組織シ安田村大字鳥越大日堂ニ開ク吏員左記ノ如シ
《明治17年(1884)8月、官令により安田村・加納村・南條村は、組合役場(連合戸長役場)を組織し、安田村大字鳥越の大日堂に開設した。吏員(長および職員)は左記の通り。》
【補注】大日堂: 大日如来を安置する御堂。ただ、藤巻泰男氏他の『安田の今昔物語』第四章第三節「寺社関係」に大日堂の記載が無い。
戸長 藍澤敬一
筆生 上野熊治
此ノ時代ノ戸長ハ官ノ辞令ニヨリ成レルヲ以テ官選戸長ノ称アリ意気盛ナリシモノナリトイウ大橋安治氏ハ藍澤氏ニ代リ戸長明治二十一年地方自治制ヲ発布セラレ翌二十二年四月ヨリ施行セラヽルニ当リ組合役場組織ス始メハ大橋安治方ニ置キシモ後観音堂ニ移転ス而シテ村長ハ本間孫市助役ハ加藤三郎ニシテ勤務年限ヲ四ヶ年トス之ヲ第一期村長ト称ス第二期村長ハ明治二十六年四月ヨリ三十年三月迄ニシテ村長ハ関儀三太助役ハ西沢賢作タリ
《この時代の戸長は、官(県知事)の辞令によるもので、「官選戸長」と呼称し、権威を背景に意気盛んだった大橋安治氏は、藍沢氏に代り戸長となったが、明治21年の地方自治制の発布、翌22年4月の施行に伴い、組合役場(連合戸長役場)の組織を始めた当初、それを大橋安治氏宅に置いたが、後に観音堂に移転した。そうした事で、村長は本間孫市氏、助役は加藤三郎氏が就任し、勤務年限を4年とした。この本間氏の就任を第一期村長と呼び、第二期村長は、明治26年4月より同30年3月までとし、村長は関儀三太氏、助役は西沢賢作氏が就任した。》
第三期村長ハ三十年ヨリ三十三年五月ニ渡リ村長西沢賢作助役長谷川長松書記長谷川長作時ノ書記ハ助役ノ実務ヲ執リ収入役ヲ兼ヌ
《第三期村長は、明治30年より同33年5月まで、村長は西沢賢作氏、助役は長谷川長松氏、書記は長谷川長作氏が就任した。因みに、この時の書記は、助役の実務を執行し、収入役を兼務していた。》
第四期村長ハ明治三十三年五月ヨリ三十四年十二月ニ至ル間ニシテ善根加納秋津(現今ノ宮平與板ノ合村)ノ三村聯合シテ組合役場ヲ組織ス一時ハ西沢賢作氏事務取扱ヒヲ命ゼラレシガ九月ニ至リ左記ノ如ク決定ス
《第四期村長は、明治33年5月から同34年12月までであり、善根・加納・秋津(現在の宮平と与板の合村)の三村が連合して組合役場を組織した。一時は、西沢賢作氏が事務取扱を命じられたが、9月(明治33年のことか?)になって左記のように決定された。》
組合村長 高野孝太郎
助役 田村 熊司
収入役 長谷川儀一
書記 長谷川長作
明治三十四年ノ町村大分合ノ時ニ組合役場ヲ廃シテ中鯖石村ヲ組織シ仝時ニ選挙名簿ヲ調製シ六十日ニシテ公選ヲ行ヒ明治三十五年一月ヨリ村政ヲ執行ス時ノ村長助役次ノ如シ
《明治34年(1901)の町村大分合(合併と分離)の時、組合役場は廃止され、中鯖石村が組織され、同時に、選挙名簿を調製(作成と調整)し、60日後に公選を実施し、明治35年1月より村政を執行した。この時の村長と助役は次の通りである。》
中鯖石村長 高野孝太郎
助役 西沢賢作
第二 與板村
明治四年八月迄與板村庄屋後勤務 阪田一彌
明治六年九月迄第一大区十小区五番組戸長 阪田一彌
明治八年九月迄第五大区第十小区五番組用掛 阪田一彌
仝十七年七月迄第五大区第十小区八番組用掛 阪田一彌
《明治4年(1871)8月まで、与板村の庄屋だった阪田一彌氏が引き続き勤務した。その後、明治6年9月まで、第1大区第10小区5番組戸長、明治8年9月まで、第5大区第10小区8番組戸長、明治17年(1884)7月まで、第5大区第10小区8番組戸長も、引き続き阪田一彌氏が就任した。》
官選戸長役場時代及第一期第二期第三期村長時代ハ宮平ノ欄秋津村ニ記ス
《官選戸長役場時代及び第一期・第二期・第三期村長時代に付いては、次の「第三 宮平村」の秋津村の所に記載する。》
第三 宮平村
明治四年八月迄宮平村庄屋後勤務 高野孝太郎
仝 六年九月迄第一区十小区番組長 高野孝太郎
仝 八年九月迄第五大区第 小区番組用掛 高野孝太郎
仝十七年七月迄第五大区第 小区番組戸長 高野孝太郎
《明治4年(1871)8月まで、与板村の庄屋だった高野孝太郎氏が引き続き勤務した。その後、明治6年9月まで、第1大区第10小区番組戸長(何番組かの記載なし)、同8年9月まで第五大区(第何小区何番組かの記載はない)用掛、同17年7月まで第五大区(第何小区何番組かの記載はない)戸長も、引き続き高野孝太郎氏が就任した。》
【補注】『柏崎編年史』「第八章明治・大正期の柏崎」の別表2「明治9年5月の大区制区域編成表」では、第五大区小十区に、安田・加納・与板・宮平・善根・南條村とあり、番組は不明だが、第十小区である事は確かであろう。
仝十七年八月ヨリ二十二年三月ニ至ル迄善根村南條村與板村宮平村ニテ組合役場ヲ組織・・・・ニ役場ヲ設ク時ノ戸長ハ高野孝太郎ナリ
《明治17年(1884)より同22年3月まで、善根・南條・与板・宮平村で連合し組合役場を組織し、「・・・・」に役場を設置した時の戸長は、矢張り高野孝太郎氏であった。》
【補注】「・・・・」の部分は、原文でも同様だが、「第一加納村」には、「安田村大字鳥越大日堂ニ開ク」とあり、後に加筆した補注に記した様に、「大日堂」は誤りではないかと推測される。
明治二十二年三月組合役場ヲ解キ與板宮平聯合シテ秋津村ト命名シ大字與板ニ役場ヲ置キ村治ヲ為ス時ノ村長ハ高野孝太郎タリ助役ハ阪田桂治満四ヶ年ヲ経テ第二期村長トナル
《明治22年(1889)3月、組合役場を廃止し、与板村と宮平村が連合して秋津村を創設し、大字与板に役場を開設し、村政を施行する事になった。この時、初代村長に高野孝太郎、助役に阪田桂治が就任した。以後、満四年を経て第二期村長時代となる。》
第二期村長ハ二十六年十一月ヨリ三十年五月ニ至ル阪田一彌氏村長タリシカドモ中途ニシテ辞サレ高野孝太郎氏代ハラル
《第二期村長は、明治26年11月より、同30年5月まで、阪田一彌氏が村長を務めるはずであったが、中途で辞任されたため、高野孝太郎氏が代って引き継いだ。》
第三期ハ三十年五月ヨリ三十三年五月ニ至ル
《第三期は、明治30年5月から同33年5月までである。》
明治三十三年ノ組合役場組織ノ事ハ加納ノ項ニ記ス
《明治33年の組合役場組織に付いては、加納村の項に記載する。》
第四 善根村
善根村上組庄屋後勤務ヲ北村輯平ニ命ゼラレ四年八月ニ至ル田村五郎兵衛氏ハ四年八月ヨリ六年九月迄第一大区十小区一番組戸長タリ六年九月大区小区ノ改正アリ戸長ヲ廃シテ用掛ニ改メラレシ時モ田村五郎兵衛氏ハ用掛タリ而シテ八年九月亦戸長ト改メ明治十七年七月ニ至ル
《善根村上組の庄屋・北村輯平氏が、明治4年(1871)8月に至るまで、引き続き維新後の村政を命じられ、次いで、同4年8月より同6年9月まで、第1大区第10小区1番組戸長に田村五郎兵衛氏が就任した。同6年9月、大区小区の改正があり、戸長を廃止して用掛に改められた。この時も引き続き田村五郎兵衛氏が用掛に任命され、同8年9月、また呼称を戸長と改められた以降、明治17年7月まで継続して戸長を務めた。》
善根村下組庄屋後勤務ヲ中沢臺治受ク而シテ四年八月ニ至リ庄屋廃サレ第一大区第十小区二番組戸長ト称セラリヽヤ中沢氏時ノ戸長タリ六年九月ヨリ八年九月ニ至ル迄第五大区十小区二番組用掛ト改正セラルヽヤ中沢氏又其役ニ当リ其後十七年七月ニ至ル迄第五大区小十区二番組戸長タリ
《善根村下組の庄屋・中沢台治氏が維新後の村政を任され、明治4年(1871)8月に庄屋が廃され。第1大区第10小区2番組戸長に改まった時も、中沢氏が継続して村政に当った。戸長が用掛に改称された同6年9月から同8年9月まで、中沢氏が戸長を勤め、また名称が戸長に戻った後も、明治17年7月まで、第五大区第10小区2番組戸長を務めた。》
明治十七年八月善根上下宮平與板南條ト聯合シ組合村ヲ成ス此ノ時ノ事ハ宮平ノ欄ニ記ス
《明治17年(1884)8月、善根村上下組、宮平村、与板村、南條村が連合して組合村を組織した。この時の事は、宮平村の欄に記載する。》
明治二十二年五月組合村ヲ解キ善根村ヲ組織シ字飛岡ニ役場ヲ設ク第一期村長ハ山岸繁作助役田村熊司
《明治22年(1889)5月、組合村を解散し、善根村を組織し、字飛岡に役場を開設した。この時期を第一期として、村長に山岸繁作氏、助役に田村熊司氏が就任した。》
第二期村長二十六年五月ヨリ三十年五月ニ至ル村長田村熊司助役中沢常治
《第二期は、同26年から同30年5月まで、村長に田村熊司氏、助役に中沢常治氏が就任した。》
第三期村長三十年五月ヨリ三十三年五月ニ至ル村長田村熊司助役小林吉次田村氏ハ三十一年十一月辞サルヽニ及ビ中村武平之ニ代ル
《第三期は、同30年5月から同33年5月まで、村長に田村熊司氏、助役に小林吉次氏が就任したが、同31年11月、田村氏が辞任されたのに伴い中村武平氏が村長に就任した。》
明治三十三年又善根村加納村秋津村組合役場ヲ組織ス以後加納欄ニ記ス
《明治33年(1900)、また善根村、加納村、秋津村が連合して組合役場を組織した。これ以降の事は、加納村の欄に記載する。》
【補注】中鯖石村成立までの史料を集めた。参考までに、『柏崎編年史』『柏崎市史』及び『柏崎市史資料集』は除くが、興味ある史料を二点挙げる。
◎『改正官員録』: 明治26年までの官吏の名鑑で、全国の郡長までは記載がある。
◎『新潟県戸長必携』:佐藤敬三郎編・明治17年7月刊、当時の戸長に必要な法律や通達、届出や請願の書式などがまとめられたハンドブック様の書籍だが、518ページもある大書。
この中で、例として戸長の給料に関する通達を挙げる。(91頁・52コマ)
○戸長以下給料其他諸費支給法 本県乙第七十三号達 明治十五年八月十日
戸長以下給料其他諸費支給法、県会ノ議決ヲ認可シ左ノ通、相定、十五年度始ヨリ施行候條、此旨相達候事
戸長給 戸長一人ニ付年給三十五円宛
筆生給 二百戸ニ付筆生一人ノ割年給二十円、戸長扱ノ戸数ニ応ジ分配ス
小使給 年給五円、戸長役場ヘ平均一人宛、尚戸長取扱ノ戸数百戸ニ付三円割ヲ以テ分配ス
職務取扱諸費
(以下省略)
白川風土記ニ曰ク柏崎陣屋ヨリ卯辰方二里十八町ニアリ村長サ東西貮丁許南北八丁許戸数参拾軒向背ヒトシカラズ四至東ハ御料所善根村ヘ八丁西ハ山深クツヾキテ近辺ニ村里ナシ南ハ御料所石曽根村ヘ七丁北ハ與板村ヘ七丁何レモ地境入リ交リ詳ナラズ
《『白川風土記(越後国之部)』に、宮平村は、柏崎陣屋より卯辰方角(東南東と東の間)に2里8町(8700m強)にあり、村の長さは、東西およそ2丁(220m弱)、南北およそ8丁(870m弱)で、戸数は30軒、それぞれの対辺は等しくなく、四方は、東に御料所(天領)の善根村があり、西には深い山が続き周辺に村や里は無く、南は御料所の石曽根村まで7丁(760m強)で、北に7丁で與板村だが、何れの村境も入り組んで明確ではない。》
端村岩野ハ本村ヨリ南ノ方拾五丁許ニアリ村長サ東西貮拾五間南北壱丁許戸数九軒向背ヒトシカラズ
《村はずれの岩野は、本村(宮平)から南へおよそ15丁(1600m強)で、村の長さは、東西25間(45m強)、南北およそ1丁(110m弱)あり、戸数は9軒あるが、それぞれの対辺は等しくない。》
岩野ハ明治十八年宮平村を分離シ現今ハ南鯖石村大字石曽根ニ属ス
《岩野は、明治18年(1885年)に宮平村から分離し、今現在は、南鯖石村大字石曽根に属している。》
明治二十三年宮平與板両村ヲ合シテ秋津村ト称セシガ明治三十四年中鯖石村創立ニ際シ秋津村ノ名称ヲ廃シ旧ニ依リテ大字宮平ノ名称ニ復ス
《明治23年(1890年)、宮平と与板の両村が合併して秋津村となったが、明治34年(1901年)、中鯖石村が新に創立された際に、秋津村の名称を廃止し、旧名称を基に大字宮平の名称に戻った。》
宮平村鑑明細帳(古書ニシテ表紙破損シ年代詳ラカナラザレドモ今ヨリ百四五十年前ノモノナラン)ニ挙グル所ノ戸数人口ハ左ノ如シ
《宮平村鑑の明細書(古い冊子なので、表紙が破損し、年代が明らかではないが、今から140あるいは150年前のものの様だ)に、記載された戸数と人口は次の通りである。》
一、戸数参十九軒
人口 貮百廿三人(223人)
内 男 百二十人(120人)
女 百人(100人)
座頭 壱人(1人)
僧 貮人(2人)
第四 善根村
善根ハ足利時代ノ新称ニシテ坂野下、久野木、飛岡、佐之久、太野田、石川、久木太ノ七ケ村合併セルモノナリ善根ハ古軍記ニ往々善言ニ作リ善根トスルナシト刈羽郡旧蹟志ニ見ユ石川中村嘉平治氏ノ保存ニ係ハル明和八年卯十二月ト明記セル越後国刈羽郡善根村明細帳ヨリ抜抄ス
《善根は、足利時代の新しい名称で、坂野下、久野木、飛岡、佐之久、太野田、石川、久木太の七ヶ村が合併したもので、古軍記ではしばしば「善言」と記すことがあると、『刈羽郡旧蹟志』に書かれている。また、石川の中村嘉平治氏所蔵の明和八年(卯)十二月と明記された『越後国刈羽郡善根村明細帳』を抜抄して紹介する。》
【補注】古軍記について、山田八十八郎著『刈羽郡旧蹟志』には、軍記に関して「考証書目」に、『北越軍記』(越後・佐渡デジタルライブラリー収蔵)、『越後軍記』『北越太平記』(共に近代デジタルライブラリー収蔵)などを挙げているが、何れの軍記か特定していない。後に、これら軍記を検証する予定である。
また、『越後国刈羽郡善根村明細書』については、『柏崎市史資料集・近代編2の下』に関係文献が記載されているが、該当する明細書はなく、『柏崎市史』の編纂時に、十分な調査がなされなかったか、既に失われていたことが考えられる。今も現存するのであれば、図書館あるいは大学などの関係機関に登録するのが望ましい。
一、家数 貮百弐拾九軒
人口 千貮拾五人
内 男 四百八拾七人
女 五百 拾六人
出家 八人
山伏 一人
道心 十一人
座頭 二人
一、女馬 参拾壱匹
一、當村祭礼
七月廿七日 八月十五日 八月十六日 九月九日 九月廿九日
是ハ毎年右月日祭礼ト名付氏子共宮参候他村ヨリ男女寄合申儀御座候
〔これは、毎年、右月日を祭礼と名付け、氏子ども宮参りそうろう他、男女寄り合い申す儀にござそうろう。〕
明和八年ハ紀元二千四百参拾壱年ニ当リ大正元年ヨリ百四十年前ナリ
《明和八年(1771年)ハ皇紀2431年に当り、大正元年(1912年)より140年前になる。》
中鯖石村旧家数及人口
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加納 |
與板 |
宮平 |
善根 |
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年号 |
紀元 |
家数 |
男女人口 |
家数 |
男女人口 |
家数 |
男女人口 |
家数 |
男女人口 |
貞享元年 |
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282 |
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223 |
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259 |
|||||||||
延享 |
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89 |
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54 |
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123 |
|
|
100 |
|||||||||
明和八年 |
|
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229 |
509 |
516 |
|||||||||
寛政三年 |
|
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57 |
153 |
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|
155 |
|||||||||
文化元年 |
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白川風土記ニ曰ク柏崎陣屋ヨリ卯辰方二里十八町ニアリ村長サ東西貮丁許南北八丁許戸数参拾軒向背ヒトシカラズ四至東ハ御料所善根村ヘ八丁西ハ山深クツヾキテ近辺ニ村里ナシ南ハ御料所石曽根村ヘ七丁北ハ與板村ヘ七丁何レモ地境入リ交リ詳ナラズ
《『白川風土記(越後国之部)』に、宮平村は、柏崎陣屋より卯辰方角(東南東と東の間)に2里8町(8700m強)にあり、村の長さは、東西およそ2丁(220m弱)、南北およそ8丁(870m弱)で、戸数は30軒、それぞれの対辺は等しくなく、四方は、東に御料所(天領)の善根村があり、西には深い山が続き周辺に村や里は無く、南は御料所の石曽根村まで7丁(760m強)で、北に7丁で與板村だが、何れの村境も入り組んで明確ではない。》
端村岩野ハ本村ヨリ南ノ方拾五丁許ニアリ村長サ東西貮拾五間南北壱丁許戸数九軒向背ヒトシカラズ
《村はずれの岩野は、本村(宮平)から南へおよそ15丁(1600m強)で、村の長さは、東西25間(45m強)、南北およそ1丁(110m弱)あり、戸数は9軒あるが、それぞれの対辺は等しくない。》
岩野ハ明治十八年宮平村を分離シ現今ハ南鯖石村大字石曽根ニ属ス
《岩野は、明治18年(1885年)に宮平村から分離し、今現在は、南鯖石村大字石曽根に属している。》
明治二十三年宮平與板両村ヲ合シテ秋津村ト称セシガ明治三十四年中鯖石村創立ニ際シ秋津村ノ名称ヲ廃シ旧ニ依リテ大字宮平ノ名称ニ復ス
《明治23年(1890年)、宮平と与板の両村が合併して秋津村となったが、明治34年(1901年)、中鯖石村が新に創立された際に、秋津村の名称を廃止し、旧名称を基に大字宮平の名称に戻った。》
宮平村鑑明細帳(古書ニシテ表紙破損シ年代詳ラカナラザレドモ今ヨリ百四五十年前ノモノナラン)ニ挙グル所ノ戸数人口ハ左ノ如シ
《宮平村鑑の明細書(古い冊子なので、表紙が破損し、年代が明らかではないが、今から140あるいは150年前のものの様だ)に、記載された戸数と人口は次の通りである。》
一、戸数参十九軒
人口 貮百廿三人(223人)
内 男 百二十人(120人)
女 百人(100人)
座頭 壱人(1人)
僧 貮人(2人)
第四 善根村
善根ハ足利時代ノ新称ニシテ坂野下、久野木、飛岡、佐之久、太野田、石川、久木太ノ七ケ村合併セルモノナリ善根ハ古軍記ニ往々善言ニ作リ善根トスルナシト刈羽郡旧蹟志ニ見ユ石川中村嘉平治氏ノ保存ニ係ハル明和八年卯十二月ト明記セル越後国刈羽郡善根村明細帳ヨリ抜抄ス
《善根は、足利時代の新しい名称で、坂野下、久野木、飛岡、佐之久、太野田、石川、久木太の七ヶ村が合併したもので、古軍記ではしばしば「善言」と記すことがあると、『刈羽郡旧蹟志』に書かれている。また、石川の中村嘉平治氏所蔵の明和八年(卯)十二月と明記された『越後国刈羽郡善根村明細帳』を抜抄して紹介する。》
【補注】古軍記について、山田八十八郎著『刈羽郡旧蹟志』には、軍記に関して「考証書目」に、『北越軍記』(越後・佐渡デジタルライブラリー収蔵)、『越後軍記』『北越太平記』(共に近代デジタルライブラリー収蔵)などを挙げているが、何れの軍記か特定していない。後に、これら軍記を検証する予定である。
また、『越後国刈羽郡善根村明細書』については、『柏崎市史資料集・近代編2の下』に関係文献が記載されているが、該当する明細書はなく、『柏崎市史』の編纂時に、十分な調査がなされなかったか、既に失われていたことが考えられる。今も現存するのであれば、図書館あるいは大学などの関係機関に登録するのが望ましい。
一、家数 貮百弐拾九軒
人口 千貮拾五人
内 男 四百八拾七人
女 五百 拾六人
出家 八人
山伏 一人
道心 十一人
座頭 二人
一、女馬 参拾壱匹
一、當村祭礼
七月廿七日 八月十五日 八月十六日 九月九日 九月廿九日
是ハ毎年右月日祭礼ト名付氏子共宮参候他村ヨリ男女寄合申儀御座候
〔これは、毎年、右月日を祭礼と名付け、氏子ども宮参りそうろう他、男女寄り合い申す儀にござそうろう。〕
明和八年ハ紀元二千四百参拾壱年ニ当リ大正元年ヨリ百四十年前ナリ
《明和八年(1771年)ハ皇紀2431年に当り、大正元年(1912年)より140年前になる。》
中鯖石村旧家数及人口
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加納 |
與板 |
宮平 |
善根 |
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年号 |
紀元 |
家数 |
男女人口 |
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男女人口 |
家数 |
男女人口 |
家数 |
男女人口 |
貞享元年 |
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282 |
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延享 |
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明和八年 |
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寛政三年 |
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文化元年 |
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白川風土記ニ曰ク、與板ハ柏崎陣屋ヨリ卯辰ノ方二里十八町ニアリ、村長サ東西一丁許、南北六丁許、戸数五十七軒、向背等シカラズ、東ハ御料所善根村ヘ七丁許、西ハ久米村ヘ拾丁許、南ハ宮平村ヘ七丁許、北ハ加納ヘ七丁余、地界入リ交リ分明ニ記シ難シ、堰一ケ所、村ノ南十丁五十間、御料所石曽根村ノ地内ニアリ鯖石川ヲ堰グ参拾五間ニ株土俵ヲ以テ造ル、御料所善根村、当領宮平村ノ地内ヲ挽キテ当村ノ田所ニ灌グ
《『白川風土記・越後国之部』に、「与板は柏崎陣屋から卯辰の方角(東と東南東の間)、2里18町(およそ1㎞)にあり、村の長さは、東西およそ1丁(約110m)、南北およそ6丁(約660m)で、戸数は57軒あるが、必ずしも一定ではない。東には7丁ばかりで御料所(天領)の善根村があり、西は10丁ほどで久米村に至り、南は7丁ばかりで宮平村に接し、北の加納村まではおよそ7丁ある。しかし、村境は、入り交じって明確に描くことができない。また堰が一ヶ所ある。村の南、10丁50間(約1200m弱)で、御料所(天領)石曽根村の域内にあり、鯖石川を堰き止める35間にわたる株(杭)と土俵(俵で作る土嚢)で作られたもので、御料所・善根村と当村(与板村)、白河藩領宮平村の域内を通って当村(与板村)の田圃を潤している。」とある。》
以上ハ白川風土記ヲ抜抄シタルモノナルガ其年代ヲ詳ニセザルヲ惜ム。幸ニシテ阪田一弥方所有ニカヽル観音堂土蔵中ヨリ寛政及文化ノ書上明細帳ヲ発見セリ、寛政三年ハ紀元二千四百五十一年ニシテ今ヨリ凡ソ百十年昔ナリ、其ノ重要ノ事項記載ス
《以上は、『白川風土記越後国之部』から抜抄したものだが、書かれた年代を明らかにしていたのが残念である。ただ幸いに、阪田一弥氏方に所有されている観音堂の土蔵から寛政と文化年代の「書上明細帳」を発見した。寛政三年(1791年)は皇紀2451年に当たり、今からおよそ110年昔のことだ。その中で重要と思われる事項を紹介する。》
【補注】白河藩の時代、刈羽五組制度が成立し、五大肝煎が各組に置かれる。柏崎市史(中巻第三章第二項「大肝煎・庄屋と郷(在)会所の変遷」1「大肝煎」)に、「鯖石組坂井・高橋・西巻の三大肝煎は変動することなく幕末を迎えた。これに対し上条組は、明和期(1764年から1772年)の記録で下組は関矢で変わらないが、上組は早くも飯塚弥兵衛に代わって宮川四郎兵衛となり、さらに文化期(1804年から1818年)には上組は山田健介(下山田)、下組は山田甚三郎(山甚・やまじん)が大肝煎となり幕末に至ったが、慶応四年に山甚が瀬下平七に代わっている。上条上組の大橋・飯塚は郷内出身であるが、宮川・山田はともに柏崎町商人である。また、下組の山田も柏崎町商人である。彼等は家業で蓄えた資本を農村に投下し、寄生地主となり、不在村居町の大肝煎に就任するのであるが、その農村進出は宝暦期(1751年から1764年)に増大している。(中略)なぜ上条郷だけが町人支配を受けたのか興味深い問題である。」とある。また、次の2「刈羽郡諸村の庄屋」に、加納村(源十郎・小左衛門)、与板村(平四郎・市郎大夫)、宮平村(権兵衛)の記載がある。
更に、3「郷会所の変遷」に、鯖石組の内として①坂井三太夫組(慶応四年)に、比角、安田、長浜、両田尻、下田尻、上田尻、南條、加納、善根、与板、森近、宮平、岡田、漆島、萩之嶋、門出、栃ヶ原の各村の記載があるが、一見して地理的な関係が分らない。言い換えると、坂井三太夫組にまとめられた意図が何であるか、知りたいところである。
一、当村ヨリ松野山上田妻有魚沼海道筋ニ御座候
(海道ハ街道ノ誤)
〔当村より松之山・上田・妻有・魚沼街道筋にござそうろう〕
一、家数五拾七軒
人数 参百〇八人
内男百四拾九人
女百五拾五人
道心 壱人(出家者。特に一三歳または一五歳で出家となった者。)
僧 三人
一、農業外 男ハ正月ヨリ農出之節マデ農道具拵仕候
女者不ト布常用斗存候
〔農業外、男は正月より農出の節まで、農道具こしらえ仕りそうろう〕
一、当村ハ蚕無之候
〔当村は、蚕、これ無くそうろう〕
是ノ個条存スルヨリ推セバ此ノ頃ヨリ近郊ニ養蚕ノ行ハレタルヲ推定セラル
《この条文がある事から推測すると、この頃から柏崎近郊で養蚕がおこなわれていたと思はれる。》
一、鯖石川当村ヨリ東ヲ通申川幅拾九間余こみ川高川幅年々増減御座候
〔鯖石川、当村より東を通り申し、川幅19間余り(35m弱)こみ(を含め)川高・川幅、年々増減に、ござそうろう〕
一、鯖石川通リ川欠横地瀬ガイ等御座候時ハ川除普請目論見張差上候、而御見分之上杭株等ハ御林ヨリ被下置候儀御座候、人足外入用ハ村中割合申儀御座候
〔鯖石川通り、川欠け(河川が決壊して田畑が押し流され、当分復旧する見込みのない農地をいう)・横地(?)・瀬ガイ(崖?)等、ござそうろう時は、川除(川浚)・普請・目論(もくろみ)・見張り、差上げそうろうて、ご検分の上、杭株等は、御林(御用林)より、下し置かれそうろう儀に、ござそうろう、人足外、入用は村中割合申すの儀に、ござそうろう。〕
以テ鯖石川ハ今昔ヲ問ハズ灌漑ノ利ヲ与フト共ニ汎濫ヲ極メ人民ヲ害スルノ状、察セラルベシ
《先の様に鯖石川は、時代に関係なく灌漑の利便をもたらすと共に、氾濫することも極めて多く、住民に多大な被害を与えていた様子が、推察される。》
一、糀屋貮軒(こうじ屋二軒)
一、紺屋貮軒 (こん屋二軒)
但シ百姓常用外ト存ジ木綿少々差染申候、年々御役上納仕候
〔ただし、百姓常用の外と存じ、木綿少々さし染め申しそうろう、年々御役上納仕りそうろう〕
一、鍛冶屋壱軒(鍛冶屋一軒)
但シ鍬鎌許之鍛冶ニ御座候、年々御役上納仕候
〔ただし、鍬(くわ)鎌(かま)ばかりの鍛冶にござそうろう、年々御役上納仕りそうろう〕
與板ハ久野木郷ノ中心地ニシテ街道ニ沿フテ交通ノ便ヲ得コヽニ種々ノ営業職ノ存在スルモ理ナリ
《与板は、久野木郷の中心地にして、街道に沿って交通の利便があり、そのため、様々な業種や職種が存在した訳である。》
一、地続隣村 西ハ久米村道法壱里山道ニ御座候
〔西は、久米村、道のり一里の山道にござそうろう〕
南ハ宮平村道法八町余
〔南は、宮平村、道のりは八町余り(900m弱)〕
北ハ加納村道法七町余
〔北は、加納村、道のりは七町余り(800m弱)〕
東ハ御領所善根村道法ハ七町余
〔東は、御料所・善根村、道のりは七町余り(800m弱)〕
一、越後国之御下ニ
当村ヨリ高田ニ道法拾五里余
〔当村より高田に、道のり十五里(59㎞弱)〕
当村ヨリ長岡ニ道法七里半余
〔当村より長岡に、道のり七里半余り(28㎞強)〕
一、庄屋給米 四石八斗ニ御座候百姓割合而出シ候
〔四石八斗にござそうろう、百姓割合にて出しそうろう〕
一、組頭給米 七斗但シ百姓割合而出シ申候
〔七斗、ただし百姓割合二て出し申しそうろう〕
一、仲便給米 壱石六斗但シ百姓割合貮人ニ而相勤メ申候
〔一石六斗、ただし百姓割合二人にて相勤め申しそうろう〕
【補注】仲便は、「中間」と同義語か?古語辞典に記載なし。
加納・与板・宮平村
元和 二年(1616) 長峰藩 牧野忠成(ただなり)
元和 五年(1619) 高田藩 松平忠昌(ただまさ)
寛永 元年(1624) 高田藩 松平光長(みつなが)
天和 元年(1681) 幕領
貞享 三年(1686) 高田藩 稲葉正通(まさみち)
元禄十四年(1701) 高田藩 戸田忠真(ただざね)
宝永 七年(1710) 高田藩 松平定重(さだしげ)
寛保 元年(1741) 白河藩 松平定賢(さだよし)
文政 六年(1823) 桑名藩 松平定永(さだなが)
善根村(貞享三年まで同じ)
貞享 三年(1741) 幕領
元禄十四年(1701) 幕領
宝永 七年(1710) 高田藩 松平定重
長岡領 *牧野忠辰(ただとき)
寛保 元年(1741) 白河藩 松平定賢
幕領
文政 六年(1823) 桑名藩 松平定永
幕領
【補注】『元禄郷帳』(其二・越後国高田・長岡領)の末尾に「高都合四拾六万六千五百六拾五石四斗七升三合六勺七才・村数貮千貮百八拾九ヶ村・元禄十五壬午年十二月 牧野駿河守」の記載がある。この『元禄郷帳』は、元禄13年から調査が開始されたようだから、先の署名から考えると、一覧表の高田藩戸田家との関わりに疑問が残る。ただ、後の長岡藩牧野忠辰が、松平光長改易の時の高田城受取り役を務めているから、それが関係するのかも知れない。
先ずこれらの所は措くとして、この郷帳に帰された加納村の石高は、773石8斗2升(宮平村301石4斗、与板村349石8升6合、因みに下方村329石6斗6升2合)である。
また、もう一点着目するのが、刈羽郡の石高である。総高というより、その細かさだ。「六勺七才」、「勺」は単位として知っていたが、その下に「才」という単位がある事を知らなかった。調べて見ると、三勺枡は今も販売されている様だが(アマゾンでも販売)、それ以下となると、何に使うのだろうと考えてしまう。憶測はすべきではないが、先に挙げた疑問と関連付ければ、牧野駿河守家が、他領(戸田家)の検地を行なった事に関係するのかも知れない。要するに、「我が藩は、ここまで正確に検知した」と云う面子とか。
【省略2】「山川 鯖石川 村ノ南ノ方五丁許(ばか)ニアリ、水源ハ黒姫山鯖石谷ヨリ出流、末、悪田村ニテ海水ニ入」
加納村ハ柏崎陣屋ヨリ卯辰ノ方行程二里十八町ニアリ、村長サ東西一町南北二十一町余、戸数百拾壱軒家並向背均シカラズ四至東ハ御領所善根村ヘ八丁許、西ハ南下村一里余、南ハ與板村ヘ七丁余、北ハ安田村ヘ七丁余、イヅレモ地界入リ交リ分明ナラズ、(省略1)、(省略2)、「井堰」、堰三ヶ所(二ヶ所)、一ケ所ハ村ヨリ南方四丁余ニアリ安田村南條村当水ノ養水ナリ。一ケ所ハ南方五丁余ニアリテ御領所善根村当村ノ養水なり、共ニ鯖石川ヲ堰普請ハ養水持合ノ村々ノ預ルトコロナリ。
《加納村は柏崎陣屋より卯辰(東と東南東の間)の方角へ2里18丁(約10㎞、正確には9,818.17m)あり、村の長さは東西1町(約110m、正確には109.09m)南北21町余(約2300m)であり、戸数は111軒で家並みは道筋に沿って点在している。四方には、東に御領所(天領)善根村へ8丁(およそ900m)、西の南下村まで1里ほどで(約1㎞)、南に向って与板村までが約7丁(およそ760m)、北の安田村までがおよそ7丁である。ただ、どの村とも境界が入り組んで村境は明確ではない。堰は三ヶ所(二ヶ所の誤り)あり、一ケ所は村の南4丁余りで(約440m)、安田村と南條村の用水に利用されている。また一ケ所は矢張り南に5丁ばかりの所に在り、御領所の善根村を潤している。これらは、共に鯖石川を堰普請(工事)したもので、工事の分担は、その堰による用水の利用割合によるものである。》
【省略1】「往古ノ領主不詳、貞治年間、上杉左近将監憲榮(のりよし)、越後国一統ヲ領セシヨリ代々ノ傳領ナリシカ、景勝、慶長三年、奥州會津ニ封ヲ移サレシ時、越後国ヲ堀秀治ニ賜テ、當村モ春日山ノ直領ナリシト云、慶長十五年ヨリ越後少将忠輝卿領、元和二年ヨリ牧野駿河守領、同六年ヨリ松平伊豫守領、寛永元年ヨリ松平越後守領、天和元年ヨリ御領所、貞享三年ヨリ稲葉丹後守領、元禄十四年ヨリ戸田能登守領、正徳元年ヨリ當領トナル」
《随分昔の領主については詳しい事が判らない。禎治年間(ジョウジ、1362-1368)に、上杉左近将監憲栄が越後国の全域を領有して後、上杉氏が代々領主であったようだが、景勝が、慶長3年(1598)に奥州会津に移封した時、越後国を堀秀治が継承し、当村も春日山の直轄領になったと伝えられる。しかし、慶長13年(1608)、堀直政が死去すると相続を巡って内紛が起こり、慶長15年(1610年)直次(越後三條城主)は改易の上、出羽最上に流刑、直寄(越後坂戸城主)は信濃飯山藩4万石に懲罰的な移封となった。慶長15年(1610)に徳川家康の六男・越後少将(従五位下・上総介、従四位下・左近衛権少将)松平忠輝が領主となったが、元和2年(1616年)に改易となった。元和元年(1615)、牧野駿河守(忠成)の領地なる。(【補注】に記す。また、高田藩については、上野高崎藩10万石の酒井家次が、忠輝改易後の7月、高田城の受け取りを勤め、10月に入部したが、子の忠勝の時、元和5年(1619年)3月に信濃松代藩へ移封されたとある。)、元和6年(1620)から松平伊予守(忠昌、徳川家康の二男・結城秀康の二男)領、寛永元年(1624)より松平越後守(光長、結城秀康の長男・忠直の長男)領、「越後騒動」が原因となり、延宝8年(1680年)に改易(光長は、翌年、伊予松山藩に配流)、天和元年(1681)より御領所(天領)、貞享3年(1686)より稲葉丹後守(正往あるいは正通が小田原藩より移封)領となったが、元禄14年(1701)老中就任に伴い下総佐倉藩に移封、入替りに佐倉藩より戸田能登守(忠真[ただざね])が転封となり、宝永7年(1710)宇都宮藩へ移封となり、翌正徳元年(1711)よりは、当領(久松松平家白河藩)となった。》
【補注】『柏崎市史』(中巻)第一章「幕藩体制社会の支配」第一節「諸藩領の成立と変遷」では、
①慶長三年の堀氏の入国を、一期・春日山藩として統治期間を慶長3年(1598)~同11年(1606)としている。ここに「加納村」は出てこないが、史料として秀吉が堀秀治に与えた『越後国知行方目録』が引用されているので、また『白川風土記越後之国部』について特に言及されていないので、加納村は春日山藩領と考えられる。尚、この知行目録に付いては、関西学院大学『人文論究』17巻5号(1967-03-20)p126-138、永島福太郎著「慶長三年豊臣秀吉の堀久太郎宛越後国知行方目録について」に原文(活字)の記載がある。
また『柏崎市史』の同所に、詳細な記載はないが、堀氏検地に付いて、如宝寺村(西山町妙法寺)、原田村(柏崎市花田)に検地帳が残っているそうだ。
②「福島藩、堀忠俊、慶長11年(1606)~慶長15年(1610)」とある。福島藩は、福島築城による。
③「福島藩、松平忠輝、慶長15年(1610)~慶長19年(1614)」とある。「加納村」の記載はない。
④「高田藩、松平忠輝、慶長19年(1614)~元和元年(1616)」とある。高田藩は、高田築城による。加納村の記載はない。
以降は、第二項「諸藩の分立」で、「忠輝の改易により、旧高田藩は高田・長峰・藤井・長岡・三条藩に分立した。柏崎・刈羽に関するのは三条を除く諸藩で、いずれも譜代大名である。」とある。
①「高田藩 酒井家次・忠勝、元和二年(1616)~元和四年(1618)」とあり、
「領地は頸城郡の約半分の他に一三か村、刈羽郡三七か村であったという。(『中頸城郡誌』)県史もこれに追随しているが、いずれの史料に典拠したのか、どの村がそれにあたるのかは明示されていない。一方、『刈羽郡旧蹟志』(山田八十八郎著・明治42年刊)には「其封内に入るもの三十箇村、村名左の如し」」として柏崎町以下記載されているが、「加納村」の記載はない。
②「長峰藩、元和二年(1616)~元和四年(1618)」
「元和二年七月、牧野駿河守忠成が越後の国頸城郡長峰(吉川町大字長峰)五万石城主に命ぜられた。」とあり、「『天和検地帳』の庄・郷・保にもとづいて整理すると」、鵜川庄、上条郷、別俣郷、鏡郷、鯖石郷(田嶋山室村・大沢村・高柳村)、曽地郷、武町保、野崎保、小国保の13地域が記載されているが、「加納村」の記載はない。しかし、「これに対して、『刈羽郡旧蹟志』(山田八十八郎著)では、牧野氏領ニ八か村として」以下に、『牧野氏知行目録』に記載がない村として、上条郷に「新道村、貝淵村、堀村」、別俣郷に「細越村」、鯖石郷に「加納村、與板村、宮平村、森近村、南条村」、北条郷に「北条村、小島村、山澗村、長島村」を揚げ(小山田村の記載があるが、未だ一村として独立していないとして著者により、小島村と山澗村は鯖石郷へ、小島村は北条郷へ分類)、「これらの村は藤井藩稲垣氏領に属したと推定される(藤井藩の項参照)。」とある。
③「藤井藩、元和二年(1616)~元和六年(1620)」
「元和二年、稲垣平右衛門重綱は上野国伊勢崎から越後国刈羽郡藤井二万石に転封になった」とあり、「藤井は鯖石川中流域の平野部で、初めて城郭と城下町建設が試みられたが、その完成をみないうちに、同六年五月、重綱の蒲原郡三条城の移封で廃城となった」とああり、また「『刈羽郡旧蹟志』では、稲垣氏領を藤井村・畔屋村・与三村・矢田村・吉井村の五か村しかあげていない」とある。
以下、便宜上、残りの部分も掲載する。
④「長岡藩、元和二年(1616)~元和四年(1618)」
「元和二年、信濃国飯山城主堀直奇(なおより)が三万石加増して長岡城主八万石に任ぜられた」とあるが、知行地等の記載はない。
⑤「椎谷藩、元和二年(1616)明治四年(1871)」
「元和二年七月、堀秀治の藩老監物直政の五男、堀直之が越後国刈羽郡椎谷谷に五千五〇〇石を賜ったに始まる。
⑥「安西領、元和二年(1616)~明治四年(1871)」
「安西右馬允は松平忠輝の改易後、幕府の旗本として五〇〇石で取り立てられた」とあり、「所領は元和二年一二月、刈羽郡上高町村三六〇石八斗・同下高町村之内一三九石二斗分の長岡藩堀氏領を割いて渡されている。(中略)寛永二年(1625)知行目録では三五〇石の開発地を加え、八五〇石が安西領である。元禄郷帳では大沼村を加えた三村が安西領である。」とある。
次に、同じく『柏崎市史』から高田藩成立以降の支配の変遷を挙げる。
第三項「高田藩の成立」
①「松平忠昌、元和四年(1618)~寛永元年(1624)」
「元和四年松平忠昌が、越後国高田藩へ二五万石で入封した。忠昌は家康の子、秀康の次男で、慶長一一年上総の国姉崎領主一万石を与えられ、大阪の陣で戦功をたて、元和元年伊予守に任ぜられ常陸国下妻領主四万石、同二年信濃国川中島一二万石を経て、このたび加増され入封した。」、(中略)、「寛永元年三月一五日、忠昌は越後国[越前国の誤り]北庄城(後に福井と改める)に移されて五〇万石を与えられる。これが越前藩である。」とあるが、知行地に関する記載はない。
②「松平光長、寛永元年(1624)~延宝九年(1681)」
「寛永元年(1624)三月15日、松平忠昌に代って、越前宰相忠直の嫡子仙千代丸が高田城を与えられた。」、(中略)、「寛永六年一二月七日元服して、従四位下左近衛少将に任じられ、越後守光長と名乗り、慶安四年一二月二五日、従三位右近衛中将に進んだ。延宝九年六月二六日、越後騒動の罪により改易される。」とあるが、ここでは知行地についての記載がない。
続いて、第二節高田藩の領政機構」
第一項「謎の橋場町陣屋」、第二項「橋場陣屋の前提」と続き、第三項「橋場陣屋の機構」
(1)郡奉行の郷村支配
「郡奉行の人数は、寛文一二年から延宝三年ころの分限帳には越後領内だけで九人であったが(『松平家越後時代侍帳』)、『越州之士分限帳』をみると、郡奉行は四人あり、苅羽郡奉行を拾うと、松井治兵衛は[苅羽・魚沼並銀山]、石川源兵衛は[同断但、刈羽・三嶋計]とある。共に二〇〇石である。」とあり、何人かの郡奉行を挙げている。
①郡奉行青山瀬兵衛について、後に関連する「藤井堰」の築造、「北条村以南の鯖石川下流域、高一万一千二八七石一斗八升一合の地に恩恵を与えた。工事は正保元年(1644)から承応三年(1654)の一〇年におよぶ難工事であった。」とある。
【補注】「北条村以南の鯖石川下流域」とあるのだが、地理的関係から言えば、現在の鯖石川流域から言えば「以北」ではないだろうか。ただ、鯖石川は時代によって流域を変える暴れ川だったと聞いた事があり、流域に大きな変化があったのかも知れない。
②郡奉行鱸彦左衛門、「万治元年(1658)より延宝七年(1679)まで(後略)」とあるが、中鯖石に関する記載はない。
③郡奉行細井甚五左衛門、「代官として慶安四年(卯、1651)から明暦四年(戌、1658、万治元年と改元)まで(後略)とあるが、中鯖石に関連する記載はない。
④郡奉行大門与兵衛、特記なく省略。
⑤郡奉行石川源兵衛、「延宝二年(1674)から延宝九年の松平光長の改易までその名を残す。」とあるが、省略。
⑥郷手代、と続き、第4表「代官・下代」を挙げているが、中鯖石に関連する記載が無いので省略する。
(2)刈羽郡代官と下代
冒頭に『大橋文書』が挙げられ、この中に「鯖石組」が出て来る。以下、その部分を紹介すると、「(前略)、細矢与四右衛門殿・小泉義兵衛殿鯖石組と名付籠屋の西方ニ一軒御座候、(後略)」とあり、続いて著者が「この史料で受ける第一印象は、また、代官配下の下代が、嶋組・中組・鯖石組・小国相之原に四分されて支配されている。」と解説している。また、「『越州之士分限帳』によると、代官は柏崎組鳴海九右衛門、宮川組風間角兵衛に二分される。大橋文書よって、この柏崎組(三万一千八〇〇石)が、さらに嶋組・中組・鯖石組・小国組に細分されたことが判明したが、宮川組(二万六千二〇〇石)も同様に細分されていたであろう。」と述べている。
以上の事から、高田藩分限帳を確認できないので確証はないが、中鯖石の加納村他は、松平光長時代、代官・鳴海九右衛門の下、細矢・小泉の両人の支配下にあったと云えるのではないか。尚、『上越市史叢書5「高田の家臣団」(2000年刊)』の第一章に、松平光長関連の三史料の記載がる。ただ、現在は完売の状況で、「日本の古本屋」など調べて見たが、この巻(5)は無かった。(柏崎市立図書館に一冊ある様である。)
久野木郷ハ王朝時代ノ呼称ニシテ善根村久野木ヨリ出デタルナラン。善根・加納・與板・宮平及現今ノ南鯖石村ヲ含ム。元明天皇、寧楽建都ノ時、勅シテ風土記ヲ編纂シタルヲ始トシテ後年折々其企アリ、徳川時代ニ入リ各地ニ明細書ノ記載要項ヲ示シ書上セシム。若シ村中ニ注意深キノ士アリテ其ヲ書写シ現今ニ伝フルアラバ、昔日ノ状態ヲ語ル唯一ノ材料タリ。然レドモ当郷ニ存スルモノ少ク、偶々見受クルモ、皆二百年代ノモノニシテ、鎌倉時代ハ愚カ戦国時代、徳川時代ノ初年時代ニ於ケル当村ヲモ知ルノ途ナシ。加納村ニ天和元年ノ村鏡貞享元年書上写及文化元年ノ明細帳写、與板ニハ寛政及文化ノ明細帳写及善根明和八年ノ明細帳写存セリ。是レ等併ニ白川風土記ヲ参考トシテ各村沿革ヲ述ブ。
《久野木郷は、王朝時代(奈良・平安時代)の呼名で、善根村久野木由来だと考えられ、善根・加納・与板・宮平と今の南鯖石村を含む地域である。
元明天皇(661年[斉明天皇7年] - 721年12月29日[養老5年12月7日]、第43代天皇[在位:707年8月18日(慶雲4年7月17日) - 715年10月3日(和銅8年9月2日)])が寧楽(なら、奈良)に建都(都の建設)した時、勅令を下し『風土記』を編纂した。その後、何度か地誌編纂の機会があり、徳川時代になると、各地に地誌の詳細を記載した書上(下から上に出す報告書)を提出させた。こうした場合も、将来を考える志を持った人も居るもので、書上等を書き写し後世に伝えた。こうした書写・写本が現在では、郷土の歴史を知る為の唯一の史料になっている。
しかしながら、この地域に伝わり残っている史料は少く、偶然に発見されたものも、大抵は大体200年位前のものまでで、鎌倉時代どころか戦国時代、徳川時代の初期のものさえ現存せず、南鯖石村の歴史を知る方法が無い。ただ加納村に、天和元年(1681、霊元天皇、将軍綱吉)の村鏡(村の歴史書)、貞享元年(1684)の書上の写本と文化元年(1804、光格天皇、将軍家斉)の明細帳の写があり、与板には、寛政(1789-1801)と文化(1804-1818)の明細帳写、また善根には、明和8年(1771、後桃園天皇、将軍家治)の明細帳写が残っている。これらの古文書と『白川風土記』(同書、刈羽郡の部)を参照しながら、各村の沿革を述べて行きたい。》
第一 加納村
加納ハ王朝時代ニ於ケル新開地ノ特称ナルコト古史ニ見ユ。其例少シトセズ。或ハ加納ハ久野木村ノ新田地タルカ古記録ノ證スベキナケレバ断定シ、今長谷川儀一氏ノ写サレタル貞享元書上ヲ抜摘ス。
《嘉納は王朝時代(奈良・平安時代)に新に開墾された土地に対する特別な呼び方で、古い歴史書にその事が書かれており、その事例は少なくない。もしかすると、嘉納は久野木村で開墾した新田かも知れないが、古い記録に記載がなく、検証する事が出来ないので、独断ではあるが、今(当時)の長谷川儀一が写された貞享元年(1684)の書上から抜粋して紹介する。》
貞享元年ハ紀元二千三百四十四年、徳川綱吉将軍時代ナリ。大正元年ヲ去ル二百二十八年ナリ。
《貞享元年は紀元(皇紀)2344年(1684)で、徳川綱吉の将軍時代に当り、大正元年から数えて228年の昔である。》
越後国刈羽郡加納村高辻併小物成諸色明細
【註1】小物成: 江戸時代の日本で高外地に賦課された租税の総称である。いわゆる雑税であり、地域により多様な内容を持つ。(ウィキペディア參照)
【註2】諸色: 江戸時代において物価を指した言葉。一般的には米を除いた日常品の価格を指す場合が多い。(ウィキペディア參照)
【補注】加納村高辻とある「高辻」は加納村の字と考えられるが、調べても「高辻」という地名が見付からない。また、文脈から(「併」は「あわせ」だが、他の文脈から「幷」とも読める)、「高辻」に物の意味があるとも考えられ、こちらも調べて見たが、歴史的に名字・地名以外の「高辻」は発見できなかった。
また後に揚げる『天保国絵図越後国高田長岡』(天保9年[1838])に記載された加納村に属する村は、五か村あり、①加納村内・町加納村②同内・ためと村③同内・小黒村④同内・日新(日影?)村⑤同内・青木(春木?)村とあるが、字を調べても、該当する地名がないか、先の様に判読できない(推測される名前を捜すが該当する地名がない)。
一、人数五百四十一人
内二百八十二人男 内六十一人十歳以下 内一人下男
二百五十五人女 内五十五人十歳以下
一、六社一堂 是レヲ略ス
一、御年貢蔵 四棟柏崎ニ有 但シ下シ御蔵
是ハ前ニヨリ鯖石組ノ内加納、山潤(やまだに)、長濱、両田尻、下田尻、上田尻、善根、與板、宮平、石曽根、森近、山室、大澤、岡田、岡之町、高尾、漆島、萩之島、門出、朽原、山中、此ニ十一ケ村入用ヲ以テ四十五年以前卯年建申候。
《・・・建申候、申し建てそうろう》
一、川除五ケ所 惣長二百間余
《川除が五ヶ所で、総延長200間あまり(約364m)》
【註】川除: かわよけ、堤防や川浚(かわざらい)による氾濫対策
内鯖石川筋
山王川原 こしまい
一、延寶七未年ヨリ天和三亥年迄、人足二千七百五十五人、但シ一ケ年平均人足五百五十一人ニ当ル。人足ハ所ニ堰川除等御普請所ヘ遣申候。
《延宝七年(1679)未(己未、つちのとひつじ)より天和三年(1683)亥(癸亥、みずのとい)まで、・・・・・・・人足(労役、労働者)は所(加納)に堰(せき)川除など、普請所へ申し遣わしそうろう。》
鯖石川ハ現今ハ凡ソ鯖石平野ノ中央ヲ流レ善根加納ノ耕地ヲ等分スト雖モ昔ハ余程西部ニ偏シ巒山ノ麓ヲ洗エタルモノナラン。其ハ加納旧家ハ皆連山ノ麓ニアリテ旧道ト称スルモノ漆山ヨリ加納ノ各字ヲ縫フテ向安田ニ出ツルヨリ推シテ知ルベシ。殊ニ鯖石川ノ汎濫ニ村民ノ苦シミハ前記ニヨリ知ラル。又為メニ多額ノ失費ヲ要シタリト見エ仝書上ニ延寶七年未ヨリ天和三亥迄五ヶ年村中入用銀一貫百拾八匁七分五厘、但シ一ケ年平均二百二十三匁七分五厘ニ当ルト。
《鯖石川は、現在(当時)、およそ鯖石平野の中央を流れ、善根・加納の耕地を二分するのだが、昔は、大分西の方へ偏り、巒山(ランザン、連山、やまなみ)の麓(ふもと)を流れていた様である。何故なら、嘉納の旧家が皆連山の麓にあり、「旧道」いわれている道が漆山から嘉納の各字(あざ)を縫うようにして、安田に出ていることからも推測される。とりわけ、鯖石川の氾濫に村民が苦しんだ事は、先の様に良く知られている。またこの為、多額の出費が必要になったと、前掲の書上に延宝7年(1679)未の年から天和三年(1683)の亥の年までの5年間に要した村の出費は、銀一貫八匁七分五厘(銀一貫=1,000匁=10,000分=100,000厘=1,000,000毛、一般的な計算をするとおよそ130万円)、ただし、1年平均で、銀二百二十三匁七分五厘(およそ26万円)に当る。》
【補注】銀貨の換算に付いては、時代と共に変遷がある。そこで、当時(延宝~天和間)の三貨(金銀銭)相場を『地方史研究必携』(岩波書店・昭和60年版)掲載の表4.12「三貨(金・銀・銭)相場一覧」(P221)、天和元年~元禄3年を見ると、「一両=銀60匁(大阪・京都)」とあり、前後するが、同書の表4.9「米価変動表」(P213)によると、延宝7年が一石=銀54匁2分5厘、天和3年が米百俵=銀1貫680匁である(但し、前年は米百俵=銀2貫580匁、翌年・貞享元年は米一石=銀40匁)。これからも分る様に、単純に現在の金額に換算する事が出来ない。
一、馬三十二匹
一、延寶七未ヨリ天和三亥迄五ヶ年、御役駄賃馬八十五疋、馬ノ儀ハ当国併近国御大名様方高田或ハ大阪御在番御上下之筋宿場斗ニ不足ニ付在々ヘ介馬仰付ノ如此。
《延宝7年(1679)未(己未、つちのとひつじ)より天和三年(1683)亥(癸亥、みずのとい)までの五年間、御役駄賃馬(役目に駄賃が支払われる馬)85疋、馬の事は、当国(越後)並に近隣の国の大名など、高田あるいは大阪在番の街道上下に当る宿場で不足しているので、その在所ごとに、馬の世話を先の様に申し付ける。》
【補注】御役駄賃馬: 幕府や藩などの公用に使う馬で、荷物の重量等で駄賃を払う馬。
桑原孝氏(当時、長岡市史編纂委員)の論文『脇街道に於ける人馬賃銭~越後の街道の場合』(交通史研究第9巻、1983、P1-21、[小野家文書・山岸家文書・宮家文書より作成)第1表「前期北国・三国街道人馬賃銭増減貞享(本馬1駄)」、延宝9年に高田領(天和元年より天領)石地宿の項に増減(寛文2年御定を基準に対前回改訂年比)2割贈(延宝3年)、椎谷2里=86文、出雲崎1里=43文の記載がある。
一、庄屋給米 六石六斗壱升参合
村中合力、但高百石ニ付米一石ツヽ出シ申シ
役高参拾七石四斗、前ニヨリ郡縣ク物傳馬人足百姓内証ニテ引来申候。
《庄屋の役給は、米6石6斗1升3合(延宝8年大阪相場で、米1石=銀67匁=1.34両)、銀貨に換算すると約443匁となる。
これらの費用は、村の各戸割り当ての合計で、石高100石に対し米1石の割合で供出した。
役高37石4斗は、銀約2512.5匁(2貫512匁500分)に当り、前例から郡に掛る物、伝馬、人足分については、百姓が内々で算出した。》
一、組頭二人分給米 壱石参斗貮升貮合
一人ニツキ六斗六升壱合、但シ高百石ニツキ米貮斗ツヽ遣申候。
《組頭二人分の役給は、1石3斗2升2合は、約銀89匁弱。
一人当り6斗6升1合、即ち約銀44匁となる。》
【補注】時代は下るが、国立公文書館デジタルアーカイブに『天保国絵図越後国高田長岡』(天保9年[1838])がある。これによると、加納村の石高は、827石(判読が難しい所があり、読める範囲で)とある。因みに、善根村は、およそ1200石(読める範囲で)。
尚、この絵図作成の前年、即ち天保8年は、天保の飢饉後の救済を求め生田萬が、桑名藩陣屋に打ち入りした年でり、大阪の「大塩平八郎の乱」の起った年である。
●光房 備中守 右馬頭 入道号淨濟
『尊卑分脈』には、入道号「淨濟」を次代・熈元としている。
元中三年(1386、北朝、至徳三年)正月二十六年、父が跡・本知自分安堵たるべきむね、今川了俊より証文をうく。これ父戦死のとき光房胎内にありて、譲状なきにより。応永十年、大内新介弘茂が加勢となり、周防国におもむき大内六郎盛見を攻。二十一年五月二十五日、右馬頭に任ず。のち大内介持世、九州にをいて、弓矢難儀にをよぶ。光房これをたすけ、永享八年(1436)、ふたたび九州にいたり、二嶽のたたかひのとき、その地にをいて卒す。年五十一。
毛利氏第十世代
●熈元 初熈房 少輔太郎 治部少輔 備中守
『尊卑分脈』には、「普光院殿時也、備中守治部少輔、永享年内也、於九州死去 法名淨濟」とある。
永享二年(1430)二月十日、家を継、八年、熈元病にかかるにより、弟・少輔次郎某を陣代として九州に在陣せしむ。後、勝定院義持の弟・大覚寺大僧正義昭、謀反のきこえあるにより、熈元、洛に上るとき大和国の役あり。ただちに基地におもむき在陣すること三年、所々にをいて忠戦をはげます。嘉吉元年、細川治部少輔持常に属し播磨国を攻。また大内持世にしたがひ少弐嘉頼を討、あるひは細川勝元が手にありて伊予の河野たたかふ。寛正五年(1464)二月五日、卒す。大樹光茂大通院と号す。
寛永系図に、永享年中、九州にをいて死す。法名淨濟といふ。今の呈譜に拠るに、おそらくは光房が伝を混ずるならん。
○某 少輔次郎
○女子 山内上野介熈通が妻。
毛利氏第十一世代
●豊元 或は熈房 松壽丸 少輔太郎 治部少輔
『尊卑分脈』には、「少輔太郎、治部少輔、熈房と号す。小字松壽丸、普光院殿時也」とある。
宝徳三年(1451)八月二十八日、家を継。寛正三年(1462)、山名弾正忠是豊が手に属して河内国にむかひ、畠山義就をせむ。応仁元年(1467)、山名宗全(持豊)、細川勝元と矛盾し、京洛、合戦の街となる。ときに豊元は勝元に与力し、所々にをいて忠戦を励す。このとき伊勢兵庫助某おほやけをかすめて、豊元が本領・安芸国中、内部庄豊島郷を押領(オウリョウ)す。文明元年(1469)九月以降、豊元しきりにこれを愁訴すといえども恩裁なし。よりて三年帰国し、閏八月、遂に但馬の山名右衛門督持豊、周防の大内左京大夫政弘に与し西方となる。十九日、慈照院義政より、すみやかに出陣すべき旨書あたへらる。其後、豊元、備後国山内、甲山江田旗返にをいて東方の軍を切崩す。八年五月二十八日、卒す。年三十三。月江常澄廣修寺と号す。
○元家 與二郎
○女子 山内上野介時通が妻。
毛利氏第十二世代
●弘元 千代壽丸 少輔太郎 備中守 治部少輔
文明七年(1475)十一月二十四日、父が家督を継、十年二月十二日、大内左京大夫政弘、首服(元服)をくはへ一字をあたふ。これより弘元と名のり、父に次で政弘に属し、軍忠を励す。明応六年(1497)、備後国に在陣して山名俊豊に与力し、永正三年(1506)、卒す。室は福原式部大輔廣俊が女。
毛利氏第十三世代
●興元 幸千代丸 少輔次郎 母は廣俊が女。
明応九年(1500)三月二十九日、家を継、永正四年(1507)十一月六日、元服し、大内左京大夫義興が諱字を受て興元と称す。十二年、武田刑部少輔元繁、安芸国山県の有田城を攻、城主己斐某、防戦難儀にをよぶ。興元、後詰となりて武田が猛勢を切崩し、ただちに有田を領す。同国壬生の城主源蔵人大夫元泰もこれを聞て降る。十三年八月二十五日、卒す。年二十四。秀岳常松と号す。室は高橋某が女。
○女子 母は上におなじ。武田某が妻。
○元就 陸奥守 母は上におなじ。姪(甥)幸松丸が遺領を相続す。
○女子 母は某氏、澁川某が妻。
○女子 母は上におなじ、井上右衛門大夫元光が妻。
○元網 四郎 相合を称す、母は上におなじ。逆意を企るにより討果さる。
○女子 母は上に同じ、吉川治部少輔元經が妻。
○女子 母は上に同じ、井原常陸介元師が妻。
○就勝 式部少輔 北を称す、母は有田氏。
毛利氏第十四世代
○女子 母は高橋某が女。山内次郎四郎豊通が妻となり、豊通死するのち、小早川中務少輔興景に嫁す。興景もまた死して杉原某がもとにゆき、また杉原播磨守盛重に嫁す。
●某 幸松丸 母は上に同じ。
大永三年(1523)、尼子伊予守經久、大軍を率ゐて安芸国北池田に出張し、亀井能登守秀綱をもって幸松丸をまねき、則、西條鏡山の先鋒を命ず。幸松丸、幼少たるにより叔父元就後見となりて、これにしたがひ、終に鏡山城を攻おとす。七月十五日、卒す。年九。明嚴紹光と号す。
毛利氏第十五世代
●元就 ]]>