さて、今回は、ヘンリー・ケアリーの略歴の続きから訳す。
ケアリーは、経済の理念を更に発展させ、1837年かr1840年に全三巻からなる『Principles of Political Economy』を出版した。 『The Dictionary of American Biography』は云う、ケアリーは、「土地が更なる価値を生み出すという[英国の経済理論家]から根本的に脱却し」、そして、労働者の賃金が資本の見返りよりも急速に増大し、それ故に、「社会の最下層の冨の累進的な拡散」に向かうと。
父マシューが自由貿易に対する保護を普段から提唱していたこともあり、1840年に続く財政及び経済的不況は、ケアリーを1840年代の自由貿易主義者の恐ろしく口うるさい敵対者に成長させた。 1845年の小論『COmmercial Associations in France and England』、それに続く1848年の著作『Past, Present, and Future』は、ケアリーの新たな立場の最初の主要な声明である。 この著作は、チャールズ・ディケンズの小説に描かれた社会的経済的難局に急落し、国を不幸が覆った、英国議会の穀物法撤廃直後に出版された。 ケアリーは、当時、ホレイス・グレイルズの『ニューヨーク・トリビューン』の寄稿者になり、経済と財政の主要問題の主導的政治家と親交を始めていた。
ケアリーの次の著作、『The Harmony of Interests: Agricultural, Manufacyuring & Commercial(利息の調和: 農業、工業および商業)』は、1851年に出版され、英国経済政策に対する間断の無い苛烈な批判で注目された。 (以下、マルサスの人口論に言及しているが、省略し、以降、長くなるので概略を記す。)
ケアリーは、当時懸案だった南部諸州の危機に注目し、1853年、『The Slave Trade, Domestic and Foreign』を出版した。 1850年代後半には、新共和党の最も熱心な支持者のひとりになった。 ケアリーは、その後の米国政治経済学および政策に多大な影響を与えた米国資本主義経済学の開祖のような人物である。 また、リンカーン大統領の経済顧問を務めた。
ケアリーがスミスに多大な影響を与えた背景を書く積りが、ケアリーのことが長くなってしまった。
ところで、前回の略伝中に在ったアイルランドの「自由の戦士」の件は、実に興味深い。 しかも、ベンジャミン・フランクリンが、その諜報機関の創設者であるとは、全く知らなかったフランクリンの一面である。 どうも、ダン・ブラウンの『Lost Symbol』ではないが、米国史には知られざる裏面史が存在する。 機会があれば、これらのことも調べてみたい。
余談だが、米国の政策あるいは企図するものと、世論には大きな格差があるようだ。 ハッチントンは、その事を『Who are We?』に書いているが、そこに上げられた事実は、当に知られざるアメリカの実態だ。 良しにつけ、悪しきにつけ、米国は身近な存在だが、意外に知られていたいのが、その歴史である。 高校の世界史は、米国史にはほとんど触れていない。 随分昔のことだが、米国のハイスクールの教科書を取り寄せたことがある。 自国の歴史に付いては当然のことだろうが、強いて世界史と言えば、その教科書の分厚いこと、日本の教科書の比ではなかった。 もっとも、米国の友人(女房殿の友人の旦那)に問合せたことがあるのだが、マニアックな歴史愛好家は居ても、通史となると、知る人が少ないそうだ。 グローバル化と言われる時代、少なくとも近隣諸国と米国の歴史をもっと重点的に採り上げるべきではないだろうか。
Best regards
梶谷恭巨