柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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  マリア・ルス号事件は、日本初の国際裁判である。 明治五年(1872)、事件は、たペルー船籍のマリア・ルス号が、ポルトガル領マカオから清国人苦力(クーリー)約230人をペルー輸送する途中、横浜に停泊時に起こった。 苦力の一人・木慶が、船内の虐待に耐えられず脱出し、英国の軍艦アイアン・デューク号に救助され、英国領事が日本政府に通告したが、神奈川県は、船長・ヘレイラを召喚し状況の改善を求めたのみで、身柄を引渡した。 しかし、約束に反し、木慶は鞭打ちにより処罰された。 その後、別の苦力が脱出、同様の経過をたどった。 横浜領事は、人道的見地から、代理公使ワトソンに通報、ワトソンは外務省に通告すると共に清国人虐待に対する措置を促した。 外務卿・副島種臣は、神奈川県参事・大江卓に事件の糾明を命じ、神奈川県庁に大江を裁判長とする特別法廷が設けられ、内外の圧力を押し切って、無罪の判決を下し、苦力は、解放され清国に引き渡された。 その後、当然の如くペルー政府は、特使を派遣し、管轄権の無い裁判として、判決の無効を訴え、謝罪と賠償を要求した
 
 日本政府は、ペルー政府の要求を拒絶、結果として、仲裁裁判を行うことで合意した。 仲裁裁判は、当事国と最も関係の薄いロシア帝国を当事国に選び、約二年後の明治八年、日本政府の損害賠償の責任はないと判決された。 以上が、マリア・ルス号事件の概略、顛末である。 以上、萩原延壽著『遠い崖』から。


何処やら最近起こった事件と似た気配がある。 尤も、マリア・ルス事件の問題は、苦力虐待、人身売買の如き就労契約など、人道上の問題から発展しているのだが。 しかし、仲裁裁判と云う発想は必要かもしれない。 マリア・ルス号事件の場合も、原告側は、ポルトガル領マカオで行われた契約に違法性は無いと主張して、被告側は、人身売買的契約を、国際的良俗に反するものとして、争っているのである。 1899年、第一回ハーグ平和会議により国際常設仲裁裁判所が設立される四半世紀前のことであり、国際司法裁判所が設立される73年昔の事件であり裁判であることが興味深い。

この事件そのものは措くとして、興味思ったのは、当事者が共に外国であったことから、日本に未だ近代司法制度が確立されておらず、弁護士が居なかったこともあり、共に英国の弁護士、原告側ディキンズ(Frederick Victor Dikins)、被告側デヴィドソン(John Davidson)が選ばれたことだ。 特に、原告側弁護人ディキンズに関心をもった。 尚、残念なことに、被告側(清国苦力側)の弁護人、デヴィドソンについてインターネットで調べてみたが、日本でも英国でも見つけることが出来なかった。

フレデリック・V・ディキンズ(1838-1915)の経歴は、実に興味深い。 外科医(海軍軍医)、弁護士、日本学者、そして最後は、大学の学長を務めている。 ディキンズは、1863年、英国艦コロマンデール(Colomandel)の軍医として、初めて日本に訪れている。 その後、横浜の病院に三年間勤務、この間に、日本の医師やアーネスト・サトウと親交を持ち、日本文化に興味を持ち、日本語を学んだようだ。 また、その間(1863-1865)、日本のシダ類に興味を持ち、横浜と熱海のシダ類を採集し、王立植物園のフーカー(J.D.Hooker)に標本を送った。 その後、一旦、帰国し、海軍を退官した後、幾つかの仕事を就いたが、1871年(明治四年)、弁護士として再度来日し開業した。 ディキンズは、日本の古典文学に興味を持ち、開業の傍ら、『百人一首』『仮名手本忠臣蔵』『竹取物語』などを英訳した。 また、パークスの伝記『The Life of Sir Harry Parks』全二巻の内、第二巻日本編を就筆した。 因みに、第一巻(エジプト編)の著者、スタンレー・レイン-プール(Stanley Lane-Poole)は、1874年から1892年まで、大英博物館に勤務、その後、エジプトで考古学調査研究、1897年から1904年まで、ダブリン大学(アイルランド)のアラビア学科の主任教授を務めた。

ディキンズは、結果的には敗訴した訳だが、原告が彼を選んだ理由が判るような気がする。 経歴からも判るように、ディキンズは、単なる弁護士ではなく、日本に対する深い知識と理解があり、人格見識ともに他に優れた人物だと考えられる。 弁護士である以上、原告の利益を優先しなければならなかったのだろうが、その本心は、どうだったのだろうか。 因みに、英国政府は、他国の反発に対し、全面的に被告側、すなわち、日本の判決を全面的に支持している。 (例えば、唯一ワトソンを支持した米国臨時代理公使シェパードの見解を、公使デ・ロングは帰任後、撤回している。) 
 

また、副産物として、人身売買、芸妓娼妓の年季奉公を禁じた「芸娼妓解放令」が、明治五年10月1日(1872/11/02)に、太政官より布告されたことは重要である。

Beast regards
梶谷恭巨
 


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