柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第四節 領主

 

當地方ノ往古ノ領主ハ知ルノ途ナシ只王朝ノ末六條院ノ私領ニシテ鎌倉時代ヨリ吉野朝時代ニアリテハ毛利氏ノ領有セルコトハ前節鯖石庄ノ項ニ述ベタル如シ貞治参年上杉憲顕子憲栄ノ越後ニ封ゼラルヽヤ慶長三年景勝ノ會津ニ移サルヽ迄全国ハ上杉氏ニ統一セラレ他ノ族ヲ混ズルコトナシ当善根加納與板宮平モ其領ニ属セル 勿論ニシテ我領主ノ衰盛ヲ探グルモ又興アリ越後上杉氏ノ系譜ヲ左ニ挙グ
《この地域の大昔の領主に付いては調べる方法がないが、ただ平安時代の末期、六條院の私領であった事が判っている。鎌倉時代から南北朝時代に付いては、毛利氏が領有していた事を前節第三「鯖石庄」の項で述べた通りである。貞治3年(1364)、上杉憲顕(のりあき)の子・憲栄(のりよし)が越後守護に任じられ、越後上杉氏の開祖となった。慶長三年(1598)に景勝が会津移封となるまで、越後一国は上杉氏により統一され、他家の存在を許さなかった。ここ善根・加納・与板・宮平も上杉領に属していた。勿論、当地の領主の栄枯盛衰の研究も興味ある事だ。越後上杉氏の系譜を次に挙げる。》

 

 

北條氏相模ニ勢力ヲ有セシヨリ山内家「遂ニ」上野ニ留マルアタハズ憲政文書家寶ヲ携ヘテ越後ニ奔リ家名ヲ越後上杉ノ宰長尾景虎(後ニ輝虎ト改名シ謙信ト号ス)ニ譲リ託スルニ後讎ヲ以テス景虎上杉氏ヲ冒シ越後守トナル時ニ越後上杉ニハ定實アリテ春日山ニ住セシガ後上杉景勝兄景虎ト家ヲ争フニ及ビ定實景虎ニ味方シテ其ノ家遂ニ滅ブ長尾上杉氏系譜ヲ左ニ挙ゲ仝好ノ士ノ参考トス
《北条氏が、依然として相模国に勢力を有していた頃、既に山内上杉家は、最早上野国に留まるだけの勢力が無く、関東管領・上杉憲政は、伝来の古文書や家宝を携えて越後国に下り、上杉家の家宰である長尾景虎(後に、輝虎と改名し謙信と号した)に関東管領職と家名(家督)を譲ったが、輝虎(謙信)の死後、景虎(謙信の養子・北條氏康の七男)が上杉を冒(おか)し越後守を名乗った時、越後上杉氏には、旧守護職の血筋である定実が春日山に居住していたが、景勝が景虎と家督相続を争った際、景勝に味方した為、上杉憲顕系上杉氏は滅亡した。長尾上杉氏の系譜を次に挙げ、興味ある人の参考に供す。》
【注】冒す: 越後・相模(上杉・北条)が同盟し、謙信の姉と結婚し養子になったが、その越相同盟が失効した後の事なので、管見だが、「冒す」と言ったのではないだろうか。ただ、この辺りの事情については、多くの研究書や小説などあり、解釈を避ける。

 

景勝ハ長尾政景ノ子上杉謙信ニ養ハレテ其嗣トナル初メ謙信越後越中ノ半ヲ景勝ニ与ヘ能登佐渡ヲ景虎ニ与フ
《景勝は、長尾政景の子・上杉謙信に育てられ、その嗣子となった。はじめ、謙信が越後・越中の半ばを景勝に与え、能登と佐渡を景虎に与えた。》

謙信卒スルヤ両子相争フ景勝遂ニ景虎ヲ仆シ全土ヲ領ス慶長三年正月豊臣秀吉ノ為メニ會津百二十万石ニ転封セラレ秀吉薨后関ケ原ノ役ニ関スル故ヲ以テ米沢ニ移サレ三十万石ニ削ラル
《謙信の死後、二人は家督を争ったが、景勝が最終的に景虎を破り、全領地を継承した。慶長3年(1598)正月、豊臣秀吉によって、会津120万石に移封され、秀吉没後、関ケ原の戦で石田三成に味方した事から、徳川家康によって米沢に移され30万石に減封された。》

 

慶長三年堀左衛門督秀治上杉氏ニ代リテ越後ヲ領シ越前北庄ヨリ春日山ニ移ル食封三十万石頸城魚沼刈羽三島ハ総テ其ノ封内ニ帰セバ当地方モ勿論堀氏ノ治下ニ属ス
《慶長3年(1598)、堀左衛門督秀治が、上杉氏に代り、越前国北庄から越後国(春日山)に移封され、30万石を領有した。頸城・魚沼・三島の三郡の大部分と刈羽郡の当地域も堀氏の領地に属する事になった。》

慶長三年堀氏封内ノ田畑屋敷ヲ検ス時猶旧法ニ因リ三百六十歩ヲ一反トシ其ノ小割ニ百四十歩ヲ大百八十歩ヲ半百二十歩ヲ小トス
《慶応3年、堀氏が領内の田畑家屋敷を検地した時は、旧来の方法で検地したので、360歩を1反とし、その小割で、240歩を大、180歩を半(中)、120歩を小とした。》
【注】田畑屋敷ヲ検ス:検地の事。ここで謂う「旧法」が何に当るのか不明だが、検地に付いては、次章「第七章 検知」に詳細に書かれているので省略する。

慶長十一年秀治卒シ嗣子忠俊封ヲ襲ヒ越後守トナル
《慶長11年(1606)、秀治が没し、嗣子・忠俊が家督を継いで越後守となった。》

慶長十二年徳川氏天下ニ令シテ山城ヲ毀タシムルニ及ビ堀氏春日山ヲステヽ直江津近傍春日新田ニ福島城ヲ築キ従リ治ス慶長十五年二月忠俊事ニ座シ国除カルニ因ツテ松平上総介忠輝(東照公第七子)越後ニ封ゼラレ信濃国川中島ヨリ福島城ニ従リ治ス食封六十万石本村其ノ封内ニアル故ノ如シ忠輝慶応十七年高田城ヲ菩提原ニ築ク仝十九年三月徳川氏諸侯伯ニ命ジテ高田築城ノ役ヲ助ケシム松平陸奥守政宗台命ヲ奉ジ其臣片倉小十郎縄張普請奉行ニハ瀧川豊前守伊藤右馬允山城宮内等ナリ高田城ヲ一ニ鮫城或ハ法螺城ト呼ベリ竣リテ忠輝卿之ニ従ル
《慶長12年(1607)、徳川幕府の命令で山城を破却する事になり、春日山城を廃城とし、新に直江津に近い春日新田に福島城を築き、藩政を行なった。慶長15年2月、所謂「越後福嶋騒動」の時、忠俊は改易となり陸奥磐城平藩主鳥居忠政に預けられ、その地で没した。その後、松平上総介忠輝(徳川家康七男)が、信濃国川中島から越後に転封となり、60万石加増され、福島城で藩政を行なった。故に当地は、その領内に属した。慶長17年、忠輝は、菩提原に高田築城を始めた。同19年、徳川幕府は、諸大名に高田築城の諸役を命じた。この時、松平(伊達)陸奥守政宗は、台命(タイメイ、幕府の命令)を承り、家臣の片倉小十郎に縄張(城全体の設計)を、瀧川豊前守(忠征)、伊藤右馬允(?)、山城宮内(?)などが普請奉行にあたった。また高田城を「鮫城」あるいは「法螺城」と呼ぶ事があった。竣工後、忠輝卿もそれその様に言ったそうだ。》
【注】忠俊事ニ座シ国除カル: 越後福嶋騒動の事
【補注】越後福嶋騒動:忠俊が家督を相続した時、未だ11歳であり、そのために藩政は家老の堀直政(三条藩主)が担当したが、慶長13年(16082月、直政が没すると、藩政の実権をめぐって直政の後を継いだ堀直清と坂戸藩主の堀直寄(直清の異母弟)との間に争いが生じ、その結果、改易になった事件。(ウィディペキア參照)

元和二年四月松平忠輝罪アリテ国除カル仝年酒井左衛門尉家次上野国高崎ヨリ高田ニ移封セラレ十万石ヲ食ムト雖モ当地方ハ酒井氏ノ封内ニ属セズシテ仝年牧野駿河守忠成上州大胡ヨリ長峰ニ移封セラルヽニ及ビ加納與板宮平ハ其封内ニ入ル善根ハ御料ナルヲ以テ之ニ関セズ長峰城ハ潟町上下濱直海濱ノ東ニアリ今日尚畳址邸跡ノ辨ズベキモノアリ
《元和2年(1616)4月、松平忠輝は「大坂夏の陣への遅参」を理由に改易された。同年、酒井左衛門尉家次が、上野国高崎より高田に移封となり、10万石を領した。しかし、当地域は酒井家高田藩に属さず、加納・与板・宮平は、上州(上野)大胡から長峰に移封された牧野駿河守忠成に属し、善根は、御料所(天領)となった。尚、長峰城(現・上越市吉川区長峰)は、潟町、上下浜、直海浜(柿崎)の東に位置し、現在も尚、城址や屋敷跡があり、興味深い。》
【注】「畳址」は、明らかに「城址」の誤植だろう。また、長峰城址は、上下浜の東にある。当時の位置感覚から潟町と直海浜を加えたのだろうか。

元和四年三月牧野忠成長岡ニ移封セラレ元和五年松平伊豫守忠昌(家康ノ孫越前中納言秀康之子)酒井忠勝ニ代リテ信濃川中島ヨリ高田ニ移封セラレ二十四万石ヲ食ムニ及ビ酒井牧野ノ領地其封内ニ入ルヲ以テ加納與板宮平ハ松平忠昌之領トナル寛永元年三月松平忠昌越前福井ニ移リ松平仙千代丸高田ニ封ゼラレ其封地前ト異ルナシ
《元和4年(1618)3月、牧野忠成が長岡に移封されると、翌元和5年、松平伊予守忠昌(家康の孫で、越中中納言結城秀家の二男)が、酒井忠勝に代り、信濃国川中島から移封され、24万石を領したので、酒井家あるいは牧野家の領内にあった加納・与板・宮平は、松平忠昌の領地となった。寛永元年(1624)3月、松平忠昌は、越前福井に移封となり、松平仙千代丸が同石高で高田に封じられた。》

仙千代丸父ハ秀康公長男忠直卿母ハ徳川秀忠三女後ニ越後守光長又ハ三位中将光長ト称ス
《仙千代丸の父は結城秀家の長男・忠直で、母は徳川秀忠の三女・勝姫である。後に、越後守光長あるいは三位中将光長と称した。》

天和元年六月松平中将光長甥綱国罪アリ国除カルヽニ及ビ仝月幕府高田ヲ以テ番城トナシ松平大藏大輔榊原式部大輔(村上城主)牧野駿河守(長岡城主)溝口信濃守(新発田城主)在蕃セリ本郡ハ御用掛代官岡登次郎兵衛之ヲ支配シ加納宮平與板善根ハ其下ニ属ス
《天和元年(1683)6月、松平中将光長は甥・綱国を世継ぎとして養子にしたが、家督相続を巡り御家騒動(越後騒動)に発展し、改易となった。同月、高田は、幕府直轄の番城となり、松平大蔵大輔(越中富山藩第二代藩主・前田正甫[まさとし])、榊原式部大輔(越後村上藩第二代藩主・政邦)、牧野駿河守(越後長岡藩第三代藩主・忠辰[ただとき])、溝口信濃守(越後新発田藩第四代藩主重雄[しげかつ])が在番した。刈羽郡は、御用掛代官(幕府代官)岡登次郎兵衛(岡上景能[おかのぼり・かげよし])が管轄し、加納・与板・宮平・善根は、その支配下に属した。》
【補注1】越後騒動: 越後騒動は、江戸時代前期に越後国高田藩で起こったお家騒動。藩政を執っていた首席家老小栗正矩と、これに敵対するお為方を称する一族重臣とが争い、将軍徳川綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下され、高田藩は改易となった。(ウィキペディア参照)
【補注2】高田城請取: 本文では、請取と在番の大名を挙げているが、実務を担当した幕府役人に付いて、『柏崎市史』中巻第二章「幕藩体制社会の展開」第一節「幕府領の成立と貢租」第一項「幕府領の成立(天和~貞享)に次のように書かれている。(尚、『寛政重修諸家譜』は、原文には無く加筆したものである。)
 「(前略)改易後、延宝九年(1680)七月二六日、幕府は、大目付坂本右衛門佐(重治)・勘定奉行高木善左エ門(守勝)・平目付中根主税(正和『寛政重修諸家譜』552巻)・使番中坊長兵衛(秀時『(同書)』1041巻)・蒔田八郎左衛門(定則『(同書)』939巻)・大番津田平四郎(正常『(同書)』494巻)・勘定桜井藤兵衛(政在『(同書)』954巻)・平勘定衆滝野十右衛門(忠央『(同書)』1321巻)・本多新五兵衛(政興『(同書)』1388巻、代々千姫に属し、千姫死後、支配勘定)・杉田五左衛門(勝行『(同書)』944巻)らの請取の役人と、糸魚川城請取の使番岩瀬吉左衛門(氏勝『(同書)』963巻)らを派遣した」とある。
【補注3】岡登次郎兵衛景能: 岡上次郎兵衛景能(おかのぼりじろうべえかげよし)(1629-1687)は、江戸時代前期にこの地域を治めていた代官です。岡上家は、徳川幕府開設以来の18代官の1家として、代々代官職を務める家柄でした。足尾代官を勤めた景能は、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図りました。

 銅輸送の効率化では、大間々-平塚河岸間に最短ルートとなる、笠懸野の原野を縦断するルートを新たに設け、現在の太田市大原町に本町宿をつくりました。景能は、本町宿に水を引くため、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行いました。この笠掛野御用水は、宿用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされ、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになりました。

 このように数々の業績を上げた景能でしたが、幕府から罪を問われ切腹を命じられました。景能の墓は、国瑞寺に置かれ、景能は現在も笠懸野の住民の尊敬を集めています。

 明治に至り、景能の開削した笠懸野御用水は流路を変えて「岡登用水」として再興されました。(群馬県みどり市の公式ホームページより転写)

此ノ時代ニアリテハ領民ヲ三分シテ御天領又ハ「御」料所御預領御私領トス御天領ハ幕府直轄ニシテ代官支配ニ係ルモノナリ次ニ御預領トハ幕府直轄ナルモ地方大名ノ之ヲ預ケ支配スルモノナリ次ニ御私領ハ大名ノ領民タリ而シテ互ニ相羨ミ相卑ミ甚シキハ婚嫁ヲモ通ゼザルニ至レリトイフ
《この時代には、領民を三つに分け、御天領あるいは「御」料所、御預領と御私領のいずれかに属するとした。「御天領」あるいは「御料所」は、幕府直轄地で代官が支配し、「御預領」は、幕府の直轄地ではあるが、その地方の大名が預りあるいは委託されて支配するもので、「御私領」は大名の領地である。こうした事から、それぞれの領民は、互に羨望したりいがみ合い、極端な場合は、嫁の遣り取りも行わなかった。》

貞享三年稲葉丹後守正通相州小田原ヨリ十一万石ニテ高田ニ移封セラル加納與板宮平ハ其封内ニ属シ善根ハ御天領ナルコト故ノ如シ
《貞享3年(1686)、稲葉丹後守正通(正往)が、小田原(10万2千石)より10万3千石で高田に移封となり、加納・与板・宮平は、その領内に属したが、善根は、御天領のままであった。》

元禄十四年稲葉丹後守正通下総佐倉ヘ徒リ戸田能登守忠実(松平忠昌ノ二男)下総国佐倉ヨリ高田ニ移封セラルヽニ及ビ加納與板宮平ハ其封内ニ入ル

《元禄14年(1701)、稲葉丹後守正往が下総国佐倉(10万2千石)へ移封となり、戸田能登守忠実(松平忠昌の二男)が下総国佐倉(7万1千石)から入れ代りに高田(6万8千石)に移封された。加納・与板・宮平は、その封内に入った。》

寶永七年松平越中守定重伊勢桑名ヨリ高田ニ移封シ十一万石ヲ食ム加納與板宮平ハ其封内ニ属ス
《宝永7年(1710)、松平(久松)越中守定重が、伊勢国桑名(11万3千石)より同石高で高田に移封となった。加納・与板・宮平は、同じくその封内に属した。》

因幡守貞遠 越中守定儀 越中守定賢ノ四代高田居城寛保元年十一月定員奥州白川ニ移封セラレタリト雖モ加納與板宮平及ビ善根半部ハ依前松平家領タリ
《その後、因幡守定逵(さだみち)、越中守定輝、同定儀(さだのり)、同定賢(さだよし)の四代の高田居城を経て、寛保元年(1741)11月、定賢は、奥州白川に移封になったが、加納・与板・宮平と善根の半分は、従来通り松平家の領地として残された。》
【注】貞遠: 後の系譜に定達とあり、定達あるいは定逵(さだみち)の誤り。
【注】定員(さだかず): 久松松平系はあるが、父・康尚は、伊勢国長島藩主であり、恐らく「定賢」を誤植したのではないだろうか。

文政六年松平越中守定永白川ヨリ勢州桑名ニ移封セラレタリ当村ハ従前ノ通リニシテ明治元年ニ至ル
《文政6年(1823)、松平越中守定永が、奥州白河より桑名に移封になったが、各村は、従来通りで明治元年に至った。》

領主ノ節終ルニ臨ミ加納與板宮平ノ永ク関係ヲ有セシ松平家ノ系譜ヲ記ス
《「領主」の節を終るに当たり、加納・与板・宮平と長く関係のあった松平(久松)家の系譜を挙げる。》

越中守定治―摂津守定良―越後守定重(高田在城)―因幡守定達―越中守定輝
―越中守定儀―越中守定賢―越中守定邦―越中守定信―定永―定和―定猶―定敬―定教―和雄(大正元年ニ十七歳)
以下、定綱系久松松平家の家譜を加筆して紹介する。

越中守定治: 「定治」の名前は久松松平の系譜に見当らない。定綱の間違いではないだろうか。

摂津守定良(さだよし): 定綱系久松松平家2代、伊勢桑名藩主。父・定綱は下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩の各藩主。

越後守定重(さだしげ): 定綱系久松松平家3代(養嗣子)桑名藩主→高田藩主。伊予国松山藩主・松平定頼の三男。

因幡守定逵(さだみち): 定達とも書く。定綱系久松松平家4代、高田2代藩主。高田藩初代藩主・松平定重の五男。

越中守定輝(さだてる): 定綱系久松松平家5代、高田3代藩主。

越中守定儀(さだのり): 定綱系久松松平家6代、高田4代藩主。松平定重の六男。甥定輝が早世したため跡を継いだ。

越中守定賢(さだよし): 定綱系久松松平家7代(養嗣子)、高田5代藩主→白河初代藩主。陸奥守山藩主・松平頼貞の六男。

越中守定邦(さだくに): 定綱系久松松平家8代、白河2代藩主。

越中守定信(さだのぶ): 定綱系久松松平家9代(養嗣子)、白河3代藩主。8代将軍・吉宗の孫、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男。第11代将軍・徳川家斉の時、老中首座として「寛政の改革」を断行した。

定永(さだなが): 定綱系久松松平家10代、白河4代藩主→桑名初代藩主。

定和(さだかず): 定綱系久松松平家11代、桑名2代藩主。

定猶(さだみち): 定綱系久松松平家12代、桑名3代藩主。

定敬(さだあき): 定綱系久松松平家13代(養嗣子)、桑名4代藩主。美濃国高須藩主・松平義建の八男。尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂栄、会津藩主松平容保、石見浜田藩主松平武成は兄。維新後、西南戦争に旧桑名藩士を率い従軍、兄・会津松平容保の跡を継ぎ日光東照宮宮司など。

定教(さだのり): 定綱系久松松平家14代(養嗣子)、桑名藩知藩事、子爵。第三代藩主・松平定猷の長男として生まれたが、幼少であり庶子であった為、第四代定敬の養子となった。家督は定敬の四男である定晴が婿養子となって継いだ。

定晴(さだはる): 子爵(養嗣子、定教の長女・栄子と結婚)、定敬四男。和雄は、養子になる前の名前。

定光(さだみつ): 楽翁・松平定信の自序伝『宇下人言・修行録』(岩波文庫の収蔵・初版昭和17年)の校訂を行なう。


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