柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第二 與板村

 

白川風土記ニ曰ク、與板ハ柏崎陣屋ヨリ卯辰ノ方二里十八町ニアリ、村長サ東西一丁許、南北六丁許、戸数五十七軒、向背等シカラズ、東ハ御料所善根村ヘ七丁許、西ハ久米村ヘ拾丁許、南ハ宮平村ヘ七丁許、北ハ加納ヘ七丁余、地界入リ交リ分明ニ記シ難シ、堰一ケ所、村ノ南十丁五十間、御料所石曽根村ノ地内ニアリ鯖石川ヲ堰グ参拾五間ニ株土俵ヲ以テ造ル、御料所善根村、当領宮平村ノ地内ヲ挽キテ当村ノ田所ニ灌グ
《『白川風土記・越後国之部』に、「与板は柏崎陣屋から卯辰の方角(東と東南東の間)、2里18町(およそ1㎞)にあり、村の長さは、東西およそ1丁(約110m)、南北およそ6丁(約660m)で、戸数は57軒あるが、必ずしも一定ではない。東には7丁ばかりで御料所(天領)の善根村があり、西は10丁ほどで久米村に至り、南は7丁ばかりで宮平村に接し、北の加納村まではおよそ7丁ある。しかし、村境は、入り交じって明確に描くことができない。また堰が一ヶ所ある。村の南、10丁50間(約1200m弱)で、御料所(天領)石曽根村の域内にあり、鯖石川を堰き止める35間にわたる株(杭)と土俵(俵で作る土嚢)で作られたもので、御料所・善根村と当村(与板村)、白河藩領宮平村の域内を通って当村(与板村)の田圃を潤している。」とある。》

以上ハ白川風土記ヲ抜抄シタルモノナルガ其年代ヲ詳ニセザルヲ惜ム。幸ニシテ阪田一弥方所有ニカヽル観音堂土蔵中ヨリ寛政及文化ノ書上明細帳ヲ発見セリ、寛政三年ハ紀元二千四百五十一年ニシテ今ヨリ凡ソ百十年昔ナリ、其ノ重要ノ事項記載ス

《以上は、『白川風土記越後国之部』から抜抄したものだが、書かれた年代を明らかにしていたのが残念である。ただ幸いに、阪田一弥氏方に所有されている観音堂の土蔵から寛政と文化年代の「書上明細帳」を発見した。寛政三年(1791年)は皇紀2451年に当たり、今からおよそ110年昔のことだ。その中で重要と思われる事項を紹介する。》

【補注】白河藩の時代、刈羽五組制度が成立し、五大肝煎が各組に置かれる。柏崎市史(中巻第三章第二項「大肝煎・庄屋と郷(在)会所の変遷」1「大肝煎」)に、「鯖石組坂井・高橋・西巻の三大肝煎は変動することなく幕末を迎えた。これに対し上条組は、明和期(1764年から1772年)の記録で下組は関矢で変わらないが、上組は早くも飯塚弥兵衛に代わって宮川四郎兵衛となり、さらに文化期(1804年から1818年)には上組は山田健介(下山田)、下組は山田甚三郎(山甚・やまじん)が大肝煎となり幕末に至ったが、慶応四年に山甚が瀬下平七に代わっている。上条上組の大橋・飯塚は郷内出身であるが、宮川・山田はともに柏崎町商人である。また、下組の山田も柏崎町商人である。彼等は家業で蓄えた資本を農村に投下し、寄生地主となり、不在村居町の大肝煎に就任するのであるが、その農村進出は宝暦期(1751年から1764年)に増大している。(中略)なぜ上条郷だけが町人支配を受けたのか興味深い問題である。」とある。また、次の2「刈羽郡諸村の庄屋」に、加納村(源十郎・小左衛門)、与板村(平四郎・市郎大夫)、宮平村(権兵衛)の記載がある。
 更に、3「郷会所の変遷」に、鯖石組の内として①坂井三太夫組(慶応四年)に、比角、安田、長浜、両田尻、下田尻、上田尻、南條、加納、善根、与板、森近、宮平、岡田、漆島、萩之嶋、門出、栃ヶ原の各村の記載があるが、一見して地理的な関係が分らない。言い換えると、坂井三太夫組にまとめられた意図が何であるか、知りたいところである。

 

一、当村ヨリ松野山上田妻有魚沼海道筋ニ御座候
(海道ハ街道ノ誤)
〔当村より松之山・上田・妻有・魚沼街道筋にござそうろう〕

一、家数五拾七軒
人数 参百〇八人
 内男百四拾九人
  女百五拾五人
  道心  壱人(出家者。特に一三歳または一五歳で出家となった者。)
  僧   三人

一、農業外 男ハ正月ヨリ農出之節マデ農道具拵仕候
    女者不ト布常用斗存候
〔農業外、男は正月より農出の節まで、農道具こしらえ仕りそうろう〕

一、当村ハ蚕無之候
〔当村は、蚕、これ無くそうろう〕
是ノ個条存スルヨリ推セバ此ノ頃ヨリ近郊ニ養蚕ノ行ハレタルヲ推定セラル
《この条文がある事から推測すると、この頃から柏崎近郊で養蚕がおこなわれていたと思はれる。》
一、鯖石川当村ヨリ東ヲ通申川幅拾九間余こみ川高川幅年々増減御座候
〔鯖石川、当村より東を通り申し、川幅19間余り(35m弱)こみ(を含め)川高・川幅、年々増減に、ござそうろう〕
一、鯖石川通リ川欠横地瀬ガイ等御座候時ハ川除普請目論見張差上候、而御見分之上杭株等ハ御林ヨリ被下置候儀御座候、人足外入用ハ村中割合申儀御座候
〔鯖石川通り、川欠け(河川が決壊して田畑が押し流され、当分復旧する見込みのない農地をいう)・横地(?)・瀬ガイ(崖?)等、ござそうろう時は、川除(川浚)・普請・目論(もくろみ)・見張り、差上げそうろうて、ご検分の上、杭株等は、御林(御用林)より、下し置かれそうろう儀に、ござそうろう、人足外、入用は村中割合申すの儀に、ござそうろう。〕

以テ鯖石川ハ今昔ヲ問ハズ灌漑ノ利ヲ与フト共ニ汎濫ヲ極メ人民ヲ害スルノ状、察セラルベシ
《先の様に鯖石川は、時代に関係なく灌漑の利便をもたらすと共に、氾濫することも極めて多く、住民に多大な被害を与えていた様子が、推察される。》

一、糀屋貮軒(こうじ屋二軒)

一、紺屋貮軒 (こん屋二軒)
但シ百姓常用外ト存ジ木綿少々差染申候、年々御役上納仕候
〔ただし、百姓常用の外と存じ、木綿少々さし染め申しそうろう、年々御役上納仕りそうろう〕

 一、鍛冶屋壱軒(鍛冶屋一軒)
但シ鍬鎌許之鍛冶ニ御座候、年々御役上納仕候
〔ただし、鍬(くわ)鎌(かま)ばかりの鍛冶にござそうろう、年々御役上納仕りそうろう〕

與板ハ久野木郷ノ中心地ニシテ街道ニ沿フテ交通ノ便ヲ得コヽニ種々ノ営業職ノ存在スルモ理ナリ
《与板は、久野木郷の中心地にして、街道に沿って交通の利便があり、そのため、様々な業種や職種が存在した訳である。》

 一、地続隣村  西ハ久米村道法壱里山道ニ御座候
〔西は、久米村、道のり一里の山道にござそうろう〕
南ハ宮平村道法八町余
〔南は、宮平村、道のりは八町余り(900m弱)〕
北ハ加納村道法七町余
〔北は、加納村、道のりは七町余り(800m弱)〕
東ハ御領所善根村道法ハ七町余
〔東は、御料所・善根村、道のりは七町余り(800m弱)〕

 一、越後国之御下ニ
当村ヨリ高田ニ道法拾五里余
〔当村より高田に、道のり十五里(59㎞弱)〕
当村ヨリ長岡ニ道法七里半余
〔当村より長岡に、道のり七里半余り(28㎞強)〕

 一、庄屋給米  四石八斗ニ御座候百姓割合而出シ候
〔四石八斗にござそうろう、百姓割合にて出しそうろう〕

 一、組頭給米  七斗但シ百姓割合而出シ申候
〔七斗、ただし百姓割合二て出し申しそうろう〕

 一、仲便給米  壱石六斗但シ百姓割合貮人ニ而相勤メ申候
〔一石六斗、ただし百姓割合二人にて相勤め申しそうろう〕
【補注】仲便は、「中間」と同義語か?古語辞典に記載なし。

此外文化元年書上帳ニハ領主ノ事細シ之ヲ他節ニ譲ル、其ノ他家数ヲ五拾七軒ト記シ寛政ト増減ナシ、他ハ大差ナシ、サレバ略ス
《この他、文化元年(1804)の書上帳には、領主の事が詳しく書かれているが、他の節に改めて記載する。その他、家数を57軒と記載し寛政との増減はなく、他も大差ないので省略する。》

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