柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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白川風土記抜抄
白川風土記ハ松平家ノ編纂ニカヽルモノニシテ松平越中守定重ノ勢州桑名ヨリ高田ニ移封セラルヽヤ当地ハ其領内ニ属ス而シテ寶永七年八月ヨリ明治ニ至ル迄其封タリ。
《『白河風土記』は、松平家(陸奥白河藩久松系松平定信)の編纂によるもので、松平越中守定重(伊予松山藩久松系松平定頼の三男)は伊勢桑名藩より高田藩へ移封になった時、当地は、高田藩領に属し、宝永7年(1710)8月より明治に至るまで高田藩領であった。》
【注】上記記述は、著者の誤認があったのではないだろうか。先ず、最後の「明治に至るまで高田藩領」とある所だが、加納村は、桑名藩松平家の飛び領であり、柏崎陣屋の支配下にあり、明治に至った。(『柏崎編年史』など、參照)
 高田藩が久松系松平家(11万3千石)の支配下にあったのは、宝永7年(1710年)閏8月15日、初代・越中守定重が(従五位下)桑名藩から移封してから第五代・越中守(従四位下)定賢(さだよし)が寛保元年(1741年)111日、陸奥白河に移封されるまでである。

【註】『白川風土記』は、白河藩第三代藩主・松平定信(楽翁)の命により、藩儒(定信侍講)の広瀬典(蒙斎)によって著された。本編『白河風土記』は、天地二編全14巻の構成であり、『白川風土記越後之部』は巻之15「越後国之部(1)刈羽郡」から巻之32「同(18)蒲原郡奥山庄加地郷」までの全18巻構成である。
【補注】広瀬典: 明和5年(1768年) - 文政12210日(1829314日)、白河・桑名藩の藩士であるとともに、定信の侍講、儒学者。『白河風土記』の著編者。詳細については、他に資料があると思うのだが、取り敢えず、下記『先哲百家伝』參照。
◎現時点で、失念しているのだが、蒙斎は、『白川風土記越後国之部』を編纂するに当たり、柏崎陣屋を起点にして、領内各所を巡検したという記事を読んだ事がある。また、この時、一人で来たのではなく、藩の重役か誰かと来たように記憶している。しかし、資料を捜したのだが、まだ見つけていない。
 干河岸貫一(ひがし・かんいち)著『先哲百家伝(続編)』(青木喬山堂・明治43年)に、(出来るだけ現代語にして)、《広瀬政典(まさのり)は、字は以寧(イネイ)、後に仲謨(チュウボ)と改め、蒙斎(モウサイ)と号し、臺八(だいはち)と称した。世々、白河侯(楽翁・松平定信)に仕え、後に桑名に移封するに及び、従って桑名の人となる。蒙斎は、天性(生まれながら)、質直(質朴、地味でまじめ)で幼くして学問を好む。寛政三年(1791)、侯の命を受け昌平黌(湯島聖堂、幕府の昌平坂学問所)に入学する。この頃、定信侯は、広く全国に当時の著名な学者を募集し、出仕させた。その為、学問が盛んになり、文学(朱子学)の中興と呼ばれた。(盛んになったのは、「朱子学」であり、幕府は朱子学以外を禁じた。寛政2年(1790)の「寛政異学の禁」)蒙斎は、昌平黌在学中の数年、学問に励み、文章の蒙斎と言われるまでになった。そこで蒙斎は、「一章一句を読むものあり、未だ善く一篇を読むものあらず。文、善く一篇を読むに至り、而して後、始めて與に(共に)言うべし」と云ったという。すなわち、その造詣の深さを知ることができる。(寛政)9年、定信侯は、蒙斎を抜擢して、馬廻り役(親衛隊)に取り立て、藩校の学頭を兼任させ、更に短期間の中に教授に進み、その後も藩政の諸職を歴任したが、共に兼務を続けた。ただ人は、蒙斎の文章の才能を知るだけだが、定信侯の政策や施政に参画していた事を知る人は少ない。(同様の繰り返しなので中略)しかし蒙斎の事績として知られるのは、奉行所にあった頃、重臣の発議であったとしても、理非曲直を正し、無暗に従う事はなかった。その一例として、定信侯が老中首座の時、海防の為、房総沿岸を何度も巡察し、幕府の海防策を提起した。(以下、抄略)その後、傍様になど二代にわたり歴任するが、老公(定信)よち先に没し、その才や業績を惜しまれた。》

 

加納村ハ柏崎陣屋ヨリ卯辰ノ方行程二里十八町ニアリ、村長サ東西一町南北二十一町余、戸数百拾壱軒家並向背均シカラズ四至東ハ御領所善根村ヘ八丁許、西ハ南下村一里余、南ハ與板村ヘ七丁余、北ハ安田村ヘ七丁余、イヅレモ地界入リ交リ分明ナラズ、(省略1)、(省略2)、「井堰」、堰三ヶ所(二ヶ所)、一ケ所ハ村ヨリ南方四丁余ニアリ安田村南條村当水ノ養水ナリ。一ケ所ハ南方五丁余ニアリテ御領所善根村当村ノ養水なり、共ニ鯖石川ヲ堰普請ハ養水持合ノ村々ノ預ルトコロナリ。

《加納村は柏崎陣屋より卯辰(東と東南東の間)の方角へ2里18丁(約10㎞、正確には9,818.17m)あり、村の長さは東西1町(約110m、正確には109.09m)南北21町余(約2300m)であり、戸数は111軒で家並みは道筋に沿って点在している。四方には、東に御領所(天領)善根村へ8丁(およそ900m)、西の南下村まで1里ほどで(約1㎞)、南に向って与板村までが約7丁(およそ760m)、北の安田村までがおよそ7丁である。ただ、どの村とも境界が入り組んで村境は明確ではない。堰は三ヶ所(二ヶ所の誤り)あり、一ケ所は村の南4丁余りで(約440m)、安田村と南條村の用水に利用されている。また一ケ所は矢張り南に5丁ばかりの所に在り、御領所の善根村を潤している。これらは、共に鯖石川を堰普請(工事)したもので、工事の分担は、その堰による用水の利用割合によるものである。》

【省略1】「往古ノ領主不詳、貞治年間、上杉左近将監憲榮(のりよし)、越後国一統ヲ領セシヨリ代々ノ傳領ナリシカ、景勝、慶長三年、奥州會津ニ封ヲ移サレシ時、越後国ヲ堀秀治ニ賜テ、當村モ春日山ノ直領ナリシト云、慶長十五年ヨリ越後少将忠輝卿領、元和二年ヨリ牧野駿河守領、同六年ヨリ松平伊豫守領、寛永元年ヨリ松平越後守領、天和元年ヨリ御領所、貞享三年ヨリ稲葉丹後守領、元禄十四年ヨリ戸田能登守領、正徳元年ヨリ當領トナル」
《随分昔の領主については詳しい事が判らない。禎治年間(ジョウジ、1362-1368)に、上杉左近将監憲栄が越後国の全域を領有して後、上杉氏が代々領主であったようだが、景勝が、慶長3年(1598)に奥州会津に移封した時、越後国を堀秀治が継承し、当村も春日山の直轄領になったと伝えられる。しかし、慶長13年(1608)、堀直政が死去すると相続を巡って内紛が起こり、慶長15年(1610年)直次(越後三條城主)は改易の上、出羽最上に流刑、直寄(越後坂戸城主)は信濃飯山藩4万石に懲罰的な移封となった。慶長15年(1610)に徳川家康の六男・越後少将(従五位下・上総介、従四位下・左近衛権少将)松平忠輝が領主となったが、元和2年(1616年)に改易となった。元和元年(1615)、牧野駿河守(忠成)の領地なる。(【補注】に記す。また、高田藩については、上野高崎藩10万石の酒井家次が、忠輝改易後の7月、高田城の受け取りを勤め、10月に入部したが、子の忠勝の時、元和5年(1619年)3月に信濃松代藩へ移封されたとある。)、元和6年(1620)から松平伊予守(忠昌、徳川家康の二男・結城秀康の二男)領、寛永元年(1624)より松平越後守(光長、結城秀康の長男・忠直の長男)領、「越後騒動」が原因となり、延宝8年(1680年)に改易(光長は、翌年、伊予松山藩に配流)、天和元年(1681)より御領所(天領)、貞享3年(1686)より稲葉丹後守(正往あるいは正通が小田原藩より移封)領となったが、元禄14年(1701)老中就任に伴い下総佐倉藩に移封、入替りに佐倉藩より戸田能登守(忠真[ただざね])が転封となり、宝永7年(1710)宇都宮藩へ移封となり、翌正徳元年(1711)よりは、当領(久松松平家白河藩)となった。》
【補注】『柏崎市史』(中巻)第一章「幕藩体制社会の支配」第一節「諸藩領の成立と変遷」では、
①慶長三年の堀氏の入国を、一期・春日山藩として統治期間を慶長3年(1598)~同11年(1606)としている。ここに「加納村」は出てこないが、史料として秀吉が堀秀治に与えた『越後国知行方目録』が引用されているので、また『白川風土記越後之国部』について特に言及されていないので、加納村は春日山藩領と考えられる。尚、この知行目録に付いては、関西学院大学『人文論究』17巻5号(1967-03-20p126-138、永島福太郎著「慶長三年豊臣秀吉の堀久太郎宛越後国知行方目録について」に原文(活字)の記載がある。
 また『柏崎市史』の同所に、詳細な記載はないが、堀氏検地に付いて、如宝寺村(西山町妙法寺)、原田村(柏崎市花田)に検地帳が残っているそうだ。
②「福島藩、堀忠俊、慶長11年(1606)~慶長15年(1610)」とある。福島藩は、福島築城による。
③「福島藩、松平忠輝、慶長15年(1610)~慶長19年(1614)」とある。「加納村」の記載はない。
④「高田藩、松平忠輝、慶長19年(1614)~元和元年(1616)」とある。高田藩は、高田築城による。加納村の記載はない。
 以降は、第二項「諸藩の分立」で、「忠輝の改易により、旧高田藩は高田・長峰・藤井・長岡・三条藩に分立した。柏崎・刈羽に関するのは三条を除く諸藩で、いずれも譜代大名である。」とある。
①「高田藩 酒井家次・忠勝、元和二年(1616)~元和四年(1618)」
あり、
 「領地は頸城郡の約半分の他に一三か村、刈羽郡三七か村であったという。(『中頸城郡誌』)県史もこれに追随しているが、いずれの史料に典拠したのか、どの村がそれにあたるのかは明示されていない。一方、『刈羽郡旧蹟志』(山田八十八郎著・明治42年刊)には「其封内に入るもの三十箇村、村名左の如し」」として柏崎町以下記載されているが、「加納村」の記載はない。
②「長峰藩、元和二年(1616)~元和四年(1618)」
 「元和二年七月、牧野駿河守忠成が越後の国頸城郡長峰(吉川町大字長峰)五万石城主に命ぜられた。」とあり、「『天和検地帳』の庄・郷・保にもとづいて整理すると」、鵜川庄、上条郷、別俣郷、鏡郷、鯖石郷(田嶋山室村・大沢村・高柳村)、曽地郷、武町保、野崎保、小国保の13地域が記載されているが、「加納村」の記載はない。しかし、「これに対して、『刈羽郡旧蹟志』(山田八十八郎著)では、牧野氏領ニ八か村として」以下に、『牧野氏知行目録』に記載がない村として、上条郷に「新道村、貝淵村、堀村」、別俣郷に「細越村」、鯖石郷に「加納村、與板村、宮平村、森近村、南条村」、北条郷に「北条村、小島村、山澗村、長島村」を揚げ(小山田村の記載があるが、未だ一村として独立していないとして著者により、小島村と山澗村は鯖石郷へ、小島村は北条郷へ分類)、「これらの村は藤井藩稲垣氏領に属したと推定される(藤井藩の項参照)。」とある。
③「藤井藩、元和二年(1616)~元和六年(1620)」
 「元和二年、稲垣平右衛門重綱は上野国伊勢崎から越後国刈羽郡藤井二万石に転封になった」とあり、「藤井は鯖石川中流域の平野部で、初めて城郭と城下町建設が試みられたが、その完成をみないうちに、同六年五月、重綱の蒲原郡三条城の移封で廃城となった」とああり、また「『刈羽郡旧蹟志』では、稲垣氏領を藤井村・畔屋村・与三村・矢田村・吉井村の五か村しかあげていない」とある。
以下、便宜上、残りの部分も掲載する。
④「長岡藩、元和二年(1616)~元和四年(1618)」
 「元和二年、信濃国飯山城主堀直奇(なおより)が三万石加増して長岡城主八万石に任ぜられた」とあるが、知行地等の記載はない。
⑤「椎谷藩、元和二年(1616)明治四年(1871)」
 「元和二年七月、堀秀治の藩老監物直政の五男、堀直之が越後国刈羽郡椎谷谷に五千五〇〇石を賜ったに始まる。
⑥「安西領、元和二年(1616)~明治四年(1871)」
 「安西右馬允は松平忠輝の改易後、幕府の旗本として五〇〇石で取り立てられた」とあり、「所領は元和二年一二月、刈羽郡上高町村三六〇石八斗・同下高町村之内一三九石二斗分の長岡藩堀氏領を割いて渡されている。(中略)寛永二年(1625)知行目録では三五〇石の開発地を加え、八五〇石が安西領である。元禄郷帳では大沼村を加えた三村が安西領である。」とある。
 次に、同じく『柏崎市史』から高田藩成立以降の支配の変遷を挙げる。
第三項「高田藩の成立」
①「松平忠昌、元和四年(1618)~寛永元年(1624)」
 「元和四年松平忠昌が、越後国高田藩へ二五万石で入封した。忠昌は家康の子、秀康の次男で、慶長一一年上総の国姉崎領主一万石を与えられ、大阪の陣で戦功をたて、元和元年伊予守に任ぜられ常陸国下妻領主四万石、同二年信濃国川中島一二万石を経て、このたび加増され入封した。」、(中略)、「寛永元年三月一五日、忠昌は越後国[越前国の誤り]北庄城(後に福井と改める)に移されて五〇万石を与えられる。これが越前藩である。」とあるが、知行地に関する記載はない。
②「松平光長、寛永元年(1624)~延宝九年(1681)」
 「寛永元年(1624)三月15日、松平忠昌に代って、越前宰相忠直の嫡子仙千代丸が高田城を与えられた。」、(中略)、「寛永六年一二月七日元服して、従四位下左近衛少将に任じられ、越後守光長と名乗り、慶安四年一二月二五日、従三位右近衛中将に進んだ。延宝九年六月二六日、越後騒動の罪により改易される。」とあるが、ここでは知行地についての記載がない。
 続いて、第二節高田藩の領政機構」
第一項「謎の橋場町陣屋」、第二項「橋場陣屋の前提」と続き、第三項「橋場陣屋の機構」
(1)郡奉行の郷村支配
 「郡奉行の人数は、寛文一二年から延宝三年ころの分限帳には越後領内だけで九人であったが(『松平家越後時代侍帳』)、『越州之士分限帳』をみると、郡奉行は四人あり、苅羽郡奉行を拾うと、松井治兵衛は[苅羽・魚沼並銀山]、石川源兵衛は[同断但、刈羽・三嶋計]とある。共に二〇〇石である。」とあり、何人かの郡奉行を挙げている。
①郡奉行青山瀬兵衛について、後に関連する「藤井堰」の築造、「北条村以南の鯖石川下流域、高一万一千二八七石一斗八升一合の地に恩恵を与えた。工事は正保元年(1644)から承応三年(1654)の一〇年におよぶ難工事であった。」とある。
【補注】「北条村以南の鯖石川下流域」とあるのだが、地理的関係から言えば、現在の鯖石川流域から言えば「以北」ではないだろうか。ただ、鯖石川は時代によって流域を変える暴れ川だったと聞いた事があり、流域に大きな変化があったのかも知れない。
②郡奉行鱸彦左衛門、「万治元年(1658)より延宝七年(1679)まで(後略)」とあるが、中鯖石に関する記載はない。
③郡奉行細井甚五左衛門、「代官として慶安四年(卯、1651)から明暦四年(戌、1658、万治元年と改元)まで(後略)とあるが、中鯖石に関連する記載はない。
④郡奉行大門与兵衛、特記なく省略。
⑤郡奉行石川源兵衛、「延宝二年(1674)から延宝九年の松平光長の改易までその名を残す。」とあるが、省略。
⑥郷手代、と続き、第4表「代官・下代」を挙げているが、中鯖石に関連する記載が無いので省略する。
(2)刈羽郡代官と下代
冒頭に『大橋文書』が挙げられ、この中に「鯖石組」が出て来る。以下、その部分を紹介すると、「(前略)、細矢与四右衛門殿・小泉義兵衛殿
鯖石組と名付籠屋の西方ニ一軒御座候、(後略)」とあり、続いて著者が「この史料で受ける第一印象は、また、代官配下の下代が、嶋組・中組・鯖石組・小国相之原に四分されて支配されている。」と解説している。また、「『越州之士分限帳』によると、代官は柏崎組鳴海九右衛門、宮川組風間角兵衛に二分される。大橋文書よって、この柏崎組(三万一千八〇〇石)が、さらに嶋組・中組・鯖石組・小国組に細分されたことが判明したが、宮川組(二万六千二〇〇石)も同様に細分されていたであろう。」と述べている。
 以上の事から、高田藩分限帳を確認できないので確証はないが、中鯖石の加納村他は、松平光長時代、代官・鳴海九右衛門の下、細矢・小泉の両人の支配下にあったと云えるのではないか。尚、『上越市史叢書5「高田の家臣団」(2000年刊)』の第一章に、松平光長関連の三史料の記載がる。ただ、現在は完売の状況で、「日本の古本屋」など調べて見たが、この巻(5)は無かった。(柏崎市立図書館に一冊ある様である。)


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