柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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『中鯖石村誌』は単なる地誌あるいは郷土史ではない。

 南北朝時代、人々は各地に散り、それぞれの地で、今に繋がる歴史を築いた。それを著すのが、今回手がけた『中鯖石村誌』である。三浦の乱で流れが変り、大江氏に連なる毛利氏は、本家筋の永井氏の背景もあり、命脈を越後と安芸に繋ぐ。ただ、不思議なのが、中興の祖・元春の時、何故に、本貫の地である越後国佐橋を捨て、安芸国吉田に本貫を写したのか?
 かく言うう我が先祖、安芸国山県郡の坪野に定着したのが天文11年、今もその地に在住する。その初代は、通称を永井蔵人、二男であった事もあるのかも知れないが、今の梶谷の祖・斎藤氏の養嗣子となった。尹盛(ただもり)という。

 家に伝わる古文書に、安芸国山県郡坪野に着とした訳が伝わる。尼子氏との最前線、太田川と水内川が交わる要衝の地。毛利氏が関ケ原に敗北し、防長二ヶ国に追いやられた時、越後の上杉氏と同様に、可能性としての「捲土重来」を期し、遺民を残した。

 それはさて措き、今回、『中鯖石村誌』を公開するのは、縁もさることながら、個人としての限界を感じるからだ。

 先日、カナダ移民の苦難の歴史が放映された。中鯖石から移民として海を渡るのは一人、シアトルの移民局に足跡がある。

 中途なのだが、読者貴兄の意見が聞いたい。納得がいかなないまま、集めた史料とその警鐘を聞きたい。

Best regards
梶谷恭巨

第四節 領主

 

當地方ノ往古ノ領主ハ知ルノ途ナシ只王朝ノ末六條院ノ私領ニシテ鎌倉時代ヨリ吉野朝時代ニアリテハ毛利氏ノ領有セルコトハ前節鯖石庄ノ項ニ述ベタル如シ貞治参年上杉憲顕子憲栄ノ越後ニ封ゼラルヽヤ慶長三年景勝ノ會津ニ移サルヽ迄全国ハ上杉氏ニ統一セラレ他ノ族ヲ混ズルコトナシ当善根加納與板宮平モ其領ニ属セル 勿論ニシテ我領主ノ衰盛ヲ探グルモ又興アリ越後上杉氏ノ系譜ヲ左ニ挙グ
《この地域の大昔の領主に付いては調べる方法がないが、ただ平安時代の末期、六條院の私領であった事が判っている。鎌倉時代から南北朝時代に付いては、毛利氏が領有していた事を前節第三「鯖石庄」の項で述べた通りである。貞治3年(1364)、上杉憲顕(のりあき)の子・憲栄(のりよし)が越後守護に任じられ、越後上杉氏の開祖となった。慶長三年(1598)に景勝が会津移封となるまで、越後一国は上杉氏により統一され、他家の存在を許さなかった。ここ善根・加納・与板・宮平も上杉領に属していた。勿論、当地の領主の栄枯盛衰の研究も興味ある事だ。越後上杉氏の系譜を次に挙げる。》

 

 

北條氏相模ニ勢力ヲ有セシヨリ山内家「遂ニ」上野ニ留マルアタハズ憲政文書家寶ヲ携ヘテ越後ニ奔リ家名ヲ越後上杉ノ宰長尾景虎(後ニ輝虎ト改名シ謙信ト号ス)ニ譲リ託スルニ後讎ヲ以テス景虎上杉氏ヲ冒シ越後守トナル時ニ越後上杉ニハ定實アリテ春日山ニ住セシガ後上杉景勝兄景虎ト家ヲ争フニ及ビ定實景虎ニ味方シテ其ノ家遂ニ滅ブ長尾上杉氏系譜ヲ左ニ挙ゲ仝好ノ士ノ参考トス
《北条氏が、依然として相模国に勢力を有していた頃、既に山内上杉家は、最早上野国に留まるだけの勢力が無く、関東管領・上杉憲政は、伝来の古文書や家宝を携えて越後国に下り、上杉家の家宰である長尾景虎(後に、輝虎と改名し謙信と号した)に関東管領職と家名(家督)を譲ったが、輝虎(謙信)の死後、景虎(謙信の養子・北條氏康の七男)が上杉を冒(おか)し越後守を名乗った時、越後上杉氏には、旧守護職の血筋である定実が春日山に居住していたが、景勝が景虎と家督相続を争った際、景勝に味方した為、上杉憲顕系上杉氏は滅亡した。長尾上杉氏の系譜を次に挙げ、興味ある人の参考に供す。》
【注】冒す: 越後・相模(上杉・北条)が同盟し、謙信の姉と結婚し養子になったが、その越相同盟が失効した後の事なので、管見だが、「冒す」と言ったのではないだろうか。ただ、この辺りの事情については、多くの研究書や小説などあり、解釈を避ける。

 

景勝ハ長尾政景ノ子上杉謙信ニ養ハレテ其嗣トナル初メ謙信越後越中ノ半ヲ景勝ニ与ヘ能登佐渡ヲ景虎ニ与フ
《景勝は、長尾政景の子・上杉謙信に育てられ、その嗣子となった。はじめ、謙信が越後・越中の半ばを景勝に与え、能登と佐渡を景虎に与えた。》

謙信卒スルヤ両子相争フ景勝遂ニ景虎ヲ仆シ全土ヲ領ス慶長三年正月豊臣秀吉ノ為メニ會津百二十万石ニ転封セラレ秀吉薨后関ケ原ノ役ニ関スル故ヲ以テ米沢ニ移サレ三十万石ニ削ラル
《謙信の死後、二人は家督を争ったが、景勝が最終的に景虎を破り、全領地を継承した。慶長3年(1598)正月、豊臣秀吉によって、会津120万石に移封され、秀吉没後、関ケ原の戦で石田三成に味方した事から、徳川家康によって米沢に移され30万石に減封された。》

 

慶長三年堀左衛門督秀治上杉氏ニ代リテ越後ヲ領シ越前北庄ヨリ春日山ニ移ル食封三十万石頸城魚沼刈羽三島ハ総テ其ノ封内ニ帰セバ当地方モ勿論堀氏ノ治下ニ属ス
《慶長3年(1598)、堀左衛門督秀治が、上杉氏に代り、越前国北庄から越後国(春日山)に移封され、30万石を領有した。頸城・魚沼・三島の三郡の大部分と刈羽郡の当地域も堀氏の領地に属する事になった。》

慶長三年堀氏封内ノ田畑屋敷ヲ検ス時猶旧法ニ因リ三百六十歩ヲ一反トシ其ノ小割ニ百四十歩ヲ大百八十歩ヲ半百二十歩ヲ小トス
《慶応3年、堀氏が領内の田畑家屋敷を検地した時は、旧来の方法で検地したので、360歩を1反とし、その小割で、240歩を大、180歩を半(中)、120歩を小とした。》
【注】田畑屋敷ヲ検ス:検地の事。ここで謂う「旧法」が何に当るのか不明だが、検地に付いては、次章「第七章 検知」に詳細に書かれているので省略する。

慶長十一年秀治卒シ嗣子忠俊封ヲ襲ヒ越後守トナル
《慶長11年(1606)、秀治が没し、嗣子・忠俊が家督を継いで越後守となった。》

慶長十二年徳川氏天下ニ令シテ山城ヲ毀タシムルニ及ビ堀氏春日山ヲステヽ直江津近傍春日新田ニ福島城ヲ築キ従リ治ス慶長十五年二月忠俊事ニ座シ国除カルニ因ツテ松平上総介忠輝(東照公第七子)越後ニ封ゼラレ信濃国川中島ヨリ福島城ニ従リ治ス食封六十万石本村其ノ封内ニアル故ノ如シ忠輝慶応十七年高田城ヲ菩提原ニ築ク仝十九年三月徳川氏諸侯伯ニ命ジテ高田築城ノ役ヲ助ケシム松平陸奥守政宗台命ヲ奉ジ其臣片倉小十郎縄張普請奉行ニハ瀧川豊前守伊藤右馬允山城宮内等ナリ高田城ヲ一ニ鮫城或ハ法螺城ト呼ベリ竣リテ忠輝卿之ニ従ル
《慶長12年(1607)、徳川幕府の命令で山城を破却する事になり、春日山城を廃城とし、新に直江津に近い春日新田に福島城を築き、藩政を行なった。慶長15年2月、所謂「越後福嶋騒動」の時、忠俊は改易となり陸奥磐城平藩主鳥居忠政に預けられ、その地で没した。その後、松平上総介忠輝(徳川家康七男)が、信濃国川中島から越後に転封となり、60万石加増され、福島城で藩政を行なった。故に当地は、その領内に属した。慶長17年、忠輝は、菩提原に高田築城を始めた。同19年、徳川幕府は、諸大名に高田築城の諸役を命じた。この時、松平(伊達)陸奥守政宗は、台命(タイメイ、幕府の命令)を承り、家臣の片倉小十郎に縄張(城全体の設計)を、瀧川豊前守(忠征)、伊藤右馬允(?)、山城宮内(?)などが普請奉行にあたった。また高田城を「鮫城」あるいは「法螺城」と呼ぶ事があった。竣工後、忠輝卿もそれその様に言ったそうだ。》
【注】忠俊事ニ座シ国除カル: 越後福嶋騒動の事
【補注】越後福嶋騒動:忠俊が家督を相続した時、未だ11歳であり、そのために藩政は家老の堀直政(三条藩主)が担当したが、慶長13年(16082月、直政が没すると、藩政の実権をめぐって直政の後を継いだ堀直清と坂戸藩主の堀直寄(直清の異母弟)との間に争いが生じ、その結果、改易になった事件。(ウィディペキア參照)

元和二年四月松平忠輝罪アリテ国除カル仝年酒井左衛門尉家次上野国高崎ヨリ高田ニ移封セラレ十万石ヲ食ムト雖モ当地方ハ酒井氏ノ封内ニ属セズシテ仝年牧野駿河守忠成上州大胡ヨリ長峰ニ移封セラルヽニ及ビ加納與板宮平ハ其封内ニ入ル善根ハ御料ナルヲ以テ之ニ関セズ長峰城ハ潟町上下濱直海濱ノ東ニアリ今日尚畳址邸跡ノ辨ズベキモノアリ
《元和2年(1616)4月、松平忠輝は「大坂夏の陣への遅参」を理由に改易された。同年、酒井左衛門尉家次が、上野国高崎より高田に移封となり、10万石を領した。しかし、当地域は酒井家高田藩に属さず、加納・与板・宮平は、上州(上野)大胡から長峰に移封された牧野駿河守忠成に属し、善根は、御料所(天領)となった。尚、長峰城(現・上越市吉川区長峰)は、潟町、上下浜、直海浜(柿崎)の東に位置し、現在も尚、城址や屋敷跡があり、興味深い。》
【注】「畳址」は、明らかに「城址」の誤植だろう。また、長峰城址は、上下浜の東にある。当時の位置感覚から潟町と直海浜を加えたのだろうか。

元和四年三月牧野忠成長岡ニ移封セラレ元和五年松平伊豫守忠昌(家康ノ孫越前中納言秀康之子)酒井忠勝ニ代リテ信濃川中島ヨリ高田ニ移封セラレ二十四万石ヲ食ムニ及ビ酒井牧野ノ領地其封内ニ入ルヲ以テ加納與板宮平ハ松平忠昌之領トナル寛永元年三月松平忠昌越前福井ニ移リ松平仙千代丸高田ニ封ゼラレ其封地前ト異ルナシ
《元和4年(1618)3月、牧野忠成が長岡に移封されると、翌元和5年、松平伊予守忠昌(家康の孫で、越中中納言結城秀家の二男)が、酒井忠勝に代り、信濃国川中島から移封され、24万石を領したので、酒井家あるいは牧野家の領内にあった加納・与板・宮平は、松平忠昌の領地となった。寛永元年(1624)3月、松平忠昌は、越前福井に移封となり、松平仙千代丸が同石高で高田に封じられた。》

仙千代丸父ハ秀康公長男忠直卿母ハ徳川秀忠三女後ニ越後守光長又ハ三位中将光長ト称ス
《仙千代丸の父は結城秀家の長男・忠直で、母は徳川秀忠の三女・勝姫である。後に、越後守光長あるいは三位中将光長と称した。》

天和元年六月松平中将光長甥綱国罪アリ国除カルヽニ及ビ仝月幕府高田ヲ以テ番城トナシ松平大藏大輔榊原式部大輔(村上城主)牧野駿河守(長岡城主)溝口信濃守(新発田城主)在蕃セリ本郡ハ御用掛代官岡登次郎兵衛之ヲ支配シ加納宮平與板善根ハ其下ニ属ス
《天和元年(1683)6月、松平中将光長は甥・綱国を世継ぎとして養子にしたが、家督相続を巡り御家騒動(越後騒動)に発展し、改易となった。同月、高田は、幕府直轄の番城となり、松平大蔵大輔(越中富山藩第二代藩主・前田正甫[まさとし])、榊原式部大輔(越後村上藩第二代藩主・政邦)、牧野駿河守(越後長岡藩第三代藩主・忠辰[ただとき])、溝口信濃守(越後新発田藩第四代藩主重雄[しげかつ])が在番した。刈羽郡は、御用掛代官(幕府代官)岡登次郎兵衛(岡上景能[おかのぼり・かげよし])が管轄し、加納・与板・宮平・善根は、その支配下に属した。》
【補注1】越後騒動: 越後騒動は、江戸時代前期に越後国高田藩で起こったお家騒動。藩政を執っていた首席家老小栗正矩と、これに敵対するお為方を称する一族重臣とが争い、将軍徳川綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下され、高田藩は改易となった。(ウィキペディア参照)
【補注2】高田城請取: 本文では、請取と在番の大名を挙げているが、実務を担当した幕府役人に付いて、『柏崎市史』中巻第二章「幕藩体制社会の展開」第一節「幕府領の成立と貢租」第一項「幕府領の成立(天和~貞享)に次のように書かれている。(尚、『寛政重修諸家譜』は、原文には無く加筆したものである。)
 「(前略)改易後、延宝九年(1680)七月二六日、幕府は、大目付坂本右衛門佐(重治)・勘定奉行高木善左エ門(守勝)・平目付中根主税(正和『寛政重修諸家譜』552巻)・使番中坊長兵衛(秀時『(同書)』1041巻)・蒔田八郎左衛門(定則『(同書)』939巻)・大番津田平四郎(正常『(同書)』494巻)・勘定桜井藤兵衛(政在『(同書)』954巻)・平勘定衆滝野十右衛門(忠央『(同書)』1321巻)・本多新五兵衛(政興『(同書)』1388巻、代々千姫に属し、千姫死後、支配勘定)・杉田五左衛門(勝行『(同書)』944巻)らの請取の役人と、糸魚川城請取の使番岩瀬吉左衛門(氏勝『(同書)』963巻)らを派遣した」とある。
【補注3】岡登次郎兵衛景能: 岡上次郎兵衛景能(おかのぼりじろうべえかげよし)(1629-1687)は、江戸時代前期にこの地域を治めていた代官です。岡上家は、徳川幕府開設以来の18代官の1家として、代々代官職を務める家柄でした。足尾代官を勤めた景能は、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図りました。

 銅輸送の効率化では、大間々-平塚河岸間に最短ルートとなる、笠懸野の原野を縦断するルートを新たに設け、現在の太田市大原町に本町宿をつくりました。景能は、本町宿に水を引くため、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行いました。この笠掛野御用水は、宿用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされ、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになりました。

 このように数々の業績を上げた景能でしたが、幕府から罪を問われ切腹を命じられました。景能の墓は、国瑞寺に置かれ、景能は現在も笠懸野の住民の尊敬を集めています。

 明治に至り、景能の開削した笠懸野御用水は流路を変えて「岡登用水」として再興されました。(群馬県みどり市の公式ホームページより転写)

此ノ時代ニアリテハ領民ヲ三分シテ御天領又ハ「御」料所御預領御私領トス御天領ハ幕府直轄ニシテ代官支配ニ係ルモノナリ次ニ御預領トハ幕府直轄ナルモ地方大名ノ之ヲ預ケ支配スルモノナリ次ニ御私領ハ大名ノ領民タリ而シテ互ニ相羨ミ相卑ミ甚シキハ婚嫁ヲモ通ゼザルニ至レリトイフ
《この時代には、領民を三つに分け、御天領あるいは「御」料所、御預領と御私領のいずれかに属するとした。「御天領」あるいは「御料所」は、幕府直轄地で代官が支配し、「御預領」は、幕府の直轄地ではあるが、その地方の大名が預りあるいは委託されて支配するもので、「御私領」は大名の領地である。こうした事から、それぞれの領民は、互に羨望したりいがみ合い、極端な場合は、嫁の遣り取りも行わなかった。》

貞享三年稲葉丹後守正通相州小田原ヨリ十一万石ニテ高田ニ移封セラル加納與板宮平ハ其封内ニ属シ善根ハ御天領ナルコト故ノ如シ
《貞享3年(1686)、稲葉丹後守正通(正往)が、小田原(10万2千石)より10万3千石で高田に移封となり、加納・与板・宮平は、その領内に属したが、善根は、御天領のままであった。》

元禄十四年稲葉丹後守正通下総佐倉ヘ徒リ戸田能登守忠実(松平忠昌ノ二男)下総国佐倉ヨリ高田ニ移封セラルヽニ及ビ加納與板宮平ハ其封内ニ入ル

《元禄14年(1701)、稲葉丹後守正往が下総国佐倉(10万2千石)へ移封となり、戸田能登守忠実(松平忠昌の二男)が下総国佐倉(7万1千石)から入れ代りに高田(6万8千石)に移封された。加納・与板・宮平は、その封内に入った。》

寶永七年松平越中守定重伊勢桑名ヨリ高田ニ移封シ十一万石ヲ食ム加納與板宮平ハ其封内ニ属ス
《宝永7年(1710)、松平(久松)越中守定重が、伊勢国桑名(11万3千石)より同石高で高田に移封となった。加納・与板・宮平は、同じくその封内に属した。》

因幡守貞遠 越中守定儀 越中守定賢ノ四代高田居城寛保元年十一月定員奥州白川ニ移封セラレタリト雖モ加納與板宮平及ビ善根半部ハ依前松平家領タリ
《その後、因幡守定逵(さだみち)、越中守定輝、同定儀(さだのり)、同定賢(さだよし)の四代の高田居城を経て、寛保元年(1741)11月、定賢は、奥州白川に移封になったが、加納・与板・宮平と善根の半分は、従来通り松平家の領地として残された。》
【注】貞遠: 後の系譜に定達とあり、定達あるいは定逵(さだみち)の誤り。
【注】定員(さだかず): 久松松平系はあるが、父・康尚は、伊勢国長島藩主であり、恐らく「定賢」を誤植したのではないだろうか。

文政六年松平越中守定永白川ヨリ勢州桑名ニ移封セラレタリ当村ハ従前ノ通リニシテ明治元年ニ至ル
《文政6年(1823)、松平越中守定永が、奥州白河より桑名に移封になったが、各村は、従来通りで明治元年に至った。》

領主ノ節終ルニ臨ミ加納與板宮平ノ永ク関係ヲ有セシ松平家ノ系譜ヲ記ス
《「領主」の節を終るに当たり、加納・与板・宮平と長く関係のあった松平(久松)家の系譜を挙げる。》

越中守定治―摂津守定良―越後守定重(高田在城)―因幡守定達―越中守定輝
―越中守定儀―越中守定賢―越中守定邦―越中守定信―定永―定和―定猶―定敬―定教―和雄(大正元年ニ十七歳)
以下、定綱系久松松平家の家譜を加筆して紹介する。

越中守定治: 「定治」の名前は久松松平の系譜に見当らない。定綱の間違いではないだろうか。

摂津守定良(さだよし): 定綱系久松松平家2代、伊勢桑名藩主。父・定綱は下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩の各藩主。

越後守定重(さだしげ): 定綱系久松松平家3代(養嗣子)桑名藩主→高田藩主。伊予国松山藩主・松平定頼の三男。

因幡守定逵(さだみち): 定達とも書く。定綱系久松松平家4代、高田2代藩主。高田藩初代藩主・松平定重の五男。

越中守定輝(さだてる): 定綱系久松松平家5代、高田3代藩主。

越中守定儀(さだのり): 定綱系久松松平家6代、高田4代藩主。松平定重の六男。甥定輝が早世したため跡を継いだ。

越中守定賢(さだよし): 定綱系久松松平家7代(養嗣子)、高田5代藩主→白河初代藩主。陸奥守山藩主・松平頼貞の六男。

越中守定邦(さだくに): 定綱系久松松平家8代、白河2代藩主。

越中守定信(さだのぶ): 定綱系久松松平家9代(養嗣子)、白河3代藩主。8代将軍・吉宗の孫、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男。第11代将軍・徳川家斉の時、老中首座として「寛政の改革」を断行した。

定永(さだなが): 定綱系久松松平家10代、白河4代藩主→桑名初代藩主。

定和(さだかず): 定綱系久松松平家11代、桑名2代藩主。

定猶(さだみち): 定綱系久松松平家12代、桑名3代藩主。

定敬(さだあき): 定綱系久松松平家13代(養嗣子)、桑名4代藩主。美濃国高須藩主・松平義建の八男。尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂栄、会津藩主松平容保、石見浜田藩主松平武成は兄。維新後、西南戦争に旧桑名藩士を率い従軍、兄・会津松平容保の跡を継ぎ日光東照宮宮司など。

定教(さだのり): 定綱系久松松平家14代(養嗣子)、桑名藩知藩事、子爵。第三代藩主・松平定猷の長男として生まれたが、幼少であり庶子であった為、第四代定敬の養子となった。家督は定敬の四男である定晴が婿養子となって継いだ。

定晴(さだはる): 子爵(養嗣子、定教の長女・栄子と結婚)、定敬四男。和雄は、養子になる前の名前。

定光(さだみつ): 楽翁・松平定信の自序伝『宇下人言・修行録』(岩波文庫の収蔵・初版昭和17年)の校訂を行なう。

第四項 明治時代町村ノ変遷

新政ノ始メ、府藩縣ノ三治ヲ以テ国郡ヲ理セラレシガ、尚地方ハ府縣ノ配下ニ属シ、明治元年戦争中柏崎ニ民生局ヲ於カレ、後民世局ヲ廃シ或ハ縣或ハ府或ハ縣ト変遷シ、遂ニ柏崎縣ヲ廃シ新潟縣ニ合シ、刈羽郡役所ヲ置カラルヽニ至レルハ、別章ニ述ベタルコトナレバコヽニ略シ、直ニ加納村・與板村・宮平村・善根村ノ明治ニ入リ幾多ノ分合ニヨリ、現今鯖石村ニ成レルコトヲ序述セン
《明治新政府は、当初、府・藩・県の三方式によって旧国や郡を統治しようとたが、まだ地方は府・県の管轄下にあった。明治元年の戦争(戊辰戦争あるいは北越戦争)中に、柏崎には、民生局が置かれたが、民生局を廃止し、県あるいは府、更に県の管轄下と変遷し、最後に、柏崎県を廃止し、新潟県に合併して、刈羽郡役所を設置されるに至った。これ等の変遷については、別の章で述べるので、ここでは省略し、加納村・与板村・宮平村・善根村が、明治に入ってからの合併・分離などの変遷のみを採り上げ、現今(当時)の鯖石村になった経緯について叙述する。》

 

第一 加納村

 

明治ニ入リ四年ニ至ル迄、従前ノ庄屋ニ後勤務ヲ命ジ村ヲ治メタルコト加納・與板・宮平・善根皆同様ナリサレバ、各村之ヲ略シ、戸長役場ノ設置ヨリ記スルコヽトナシヌ
《明治4年(1871)まで、村政は、従来通り庄屋が行っていた。この事は、加納・与板・宮平・善根も同様なので、各村に付いての説明は省略し、戸長役場の設置から書くことにする。》
【注】「記スルコヽトナシヌ」の部分は、「記スルコトヽナシヌ」の誤植か。
【補注】戸長役場: 明治11年(1878)の「郡区町村編制法」によって設置されたが、ここで謂う戸長役場は、明治4年(1871)4月5日、「戸籍法」が制定され、数ヶ村をまとめて「区」とし戸籍を区単位で管理する事に成り、翌明治5年4月9日、太政官布告によって、旧来の庄屋・名主などの村役人を戸長・副戸長としたことで、その事務の場所を戸長役場としたのではないかと思はれる。

明治四年八月、戸長役場ヲ設置シ大橋安治氏戸長タリ、時ニ柏崎縣管内五郡ヲ九区ニ分タレ、一区毎ニ長副ヲ置カレタルカ、当加納以下三ヶ村ハ第一大区ニ属シ大区長・中田村尾崎三左エ門氏、副ハ岡野町・村山藤栄氏ナリ、而シテ大区ヲ又小区ニ小区ヲ番組ニ分タレタリ、加納ハ第十小区七番組タリ
《明治4年(1871)8月、戸長役場を設置し、大橋安治氏が戸長に就任した。当時、柏崎県管轄の5郡を9区に分割し、一区毎に戸長・副戸長を置いた。加納村以下の3ヶ村は、第一大区に属し、大区長に中田村の尾崎三左衛門氏、副大区長に岡野町村の山村藤栄氏が就任した。結果、大区を小区、小区を番組に分割し、加納村は、第10小区7番組となった。》

 

明治六年九月、戸長ヲ廃シ用掛ト改ム、大橋氏又時ノ用掛タリ、仝時ニ大小区ノ改正行ハル、越後ヲ分チテ二十四大区トシ、更ニ分チテ小区ヲ二百四十九区ト為ス、刈羽郡ハ三島郡ノ一部ヲ加ヘ第五大区及六大区ノ二ツトナシ、更ニ小別シテ五大区ヲ小十九区ト六大区ヲ小二十区トナス、加納・與板・宮平・善根ハ第五大区小十区ニ含マレ、善根・北村輯平氏ハ小十区長タリ、第五大区長ハ山田八十八郎氏ナリ
《明治6年(1873)9月、戸長制が廃止され、用掛と改められ、大橋氏は、それに伴い用掛となった。また、同時に大小区の改正が実施され、越後は、24大区になり、小区は249小区に分割された。刈羽郡は、三島郡の一部を加え、第五区と第六大区のニ大区となり、第五区を19小区、第六区を20小区に分け、加納・与板・宮平・善根は、第五大区第十小区に属し、善根の北村輯平氏が第十小区長に就任し、第五大区長には山田八十八郎氏が就任した。》

 

八年九月小区長組合用掛ヲ戸長ト改ム九年七月小区長を廃シ大区ニ大区長毎小区ニ副大区長ヲ置ク其後明治十一年第十七号布告ヲ以テ郡区町村編成法ノ規定ヲ定メラレ毎郡ニ郡長区ニ戸長ヲ置ク事トナリ明治十二年四月ヨリ施行セラレタリ而シテ明治十七年組合役場ヲ組織セラルル迄大橋安治氏ハ通ジテ八ヶ年十一ヶ月戸長タリ
《明治8年(1875)9月、小区長組合用掛の名称を戸長と改正する。同9年(1876)7月、小区長を廃止し、大区に大区長、各小区毎に副大区長を配置した。その後、明治11年(1878)の太政官布告第17号「郡区町村編成法」が発布され、各郡に郡長、区に戸長を置く事になった。新潟県では、翌明治12年(1879)4月9日より施行され、明治17年(1884)、組合役場(連合戸長役場)が組織されるまで、大橋安治氏が8年11ヶ月間、戸長であった。》

明治十七年八月官令ニヨリ安田村加納村南條村組合役場ヲ組織シ安田村大字鳥越大日堂ニ開ク吏員左記ノ如シ
《明治17年(1884)8月、官令により安田村・加納村・南條村は、組合役場(連合戸長役場)を組織し、安田村大字鳥越の大日堂に開設した。吏員(長および職員)は左記の通り。》
【補注】大日堂: 大日如来を安置する御堂。ただ、藤巻泰男氏他の『安田の今昔物語』第四章第三節「寺社関係」に大日堂の記載が無い。

戸長          藍澤敬一

筆生          上野熊治

 

此ノ時代ノ戸長ハ官ノ辞令ニヨリ成レルヲ以テ官選戸長ノ称アリ意気盛ナリシモノナリトイウ大橋安治氏ハ藍澤氏ニ代リ戸長明治二十一年地方自治制ヲ発布セラレ翌二十二年四月ヨリ施行セラヽルニ当リ組合役場組織ス始メハ大橋安治方ニ置キシモ後観音堂ニ移転ス而シテ村長ハ本間孫市助役ハ加藤三郎ニシテ勤務年限ヲ四ヶ年トス之ヲ第一期村長ト称ス第二期村長ハ明治二十六年四月ヨリ三十年三月迄ニシテ村長ハ関儀三太助役ハ西沢賢作タリ
《この時代の戸長は、官(県知事)の辞令によるもので、「官選戸長」と呼称し、権威を背景に意気盛んだった大橋安治氏は、藍沢氏に代り戸長となったが、明治21年の地方自治制の発布、翌22年4月の施行に伴い、組合役場(連合戸長役場)の組織を始めた当初、それを大橋安治氏宅に置いたが、後に観音堂に移転した。そうした事で、村長は本間孫市氏、助役は加藤三郎氏が就任し、勤務年限を4年とした。この本間氏の就任を第一期村長と呼び、第二期村長は、明治26年4月より同30年3月までとし、村長は関儀三太氏、助役は西沢賢作氏が就任した。》

 

第三期村長ハ三十年ヨリ三十三年五月ニ渡リ村長西沢賢作助役長谷川長松書記長谷川長作時ノ書記ハ助役ノ実務ヲ執リ収入役ヲ兼ヌ
《第三期村長は、明治30年より同33年5月まで、村長は西沢賢作氏、助役は長谷川長松氏、書記は長谷川長作氏が就任した。因みに、この時の書記は、助役の実務を執行し、収入役を兼務していた。》

 

第四期村長ハ明治三十三年五月ヨリ三十四年十二月ニ至ル間ニシテ善根加納秋津(現今ノ宮平與板ノ合村)ノ三村聯合シテ組合役場ヲ組織ス一時ハ西沢賢作氏事務取扱ヒヲ命ゼラレシガ九月ニ至リ左記ノ如ク決定ス
《第四期村長は、明治33年5月から同34年12月までであり、善根・加納・秋津(現在の宮平と与板の合村)の三村が連合して組合役場を組織した。一時は、西沢賢作氏が事務取扱を命じられたが、9月(明治33年のことか?)になって左記のように決定された。》

組合村長             高野孝太郎

助役                 田村 熊司

収入役               長谷川儀一

書記                 長谷川長作

 

明治三十四年ノ町村大分合ノ時ニ組合役場ヲ廃シテ中鯖石村ヲ組織シ仝時ニ選挙名簿ヲ調製シ六十日ニシテ公選ヲ行ヒ明治三十五年一月ヨリ村政ヲ執行ス時ノ村長助役次ノ如シ
《明治34年(1901)の町村大分合(合併と分離)の時、組合役場は廃止され、中鯖石村が組織され、同時に、選挙名簿を調製(作成と調整)し、60日後に公選を実施し、明治35年1月より村政を執行した。この時の村長と助役は次の通りである。》

中鯖石村長           高野孝太郎

助役           西沢賢作

 

 

第二 與板村

 

明治四年八月迄與板村庄屋後勤務                   阪田一彌

明治六年九月迄第一大区十小区五番組戸長           阪田一彌

明治八年九月迄第五大区第十小区五番組用掛         阪田一彌

仝十七年七月迄第五大区第十小区八番組用掛         阪田一彌
《明治4年(1871)8月まで、与板村の庄屋だった阪田一彌氏が引き続き勤務した。その後、明治6年9月まで、第1大区第10小区5番組戸長、明治8年9月まで、第5大区第10小区8番組戸長、明治17年(1884)7月まで、第5大区第10小区8番組戸長も、引き続き阪田一彌氏が就任した。》
官選戸長役場時代及第一期第二期第三期村長時代ハ宮平ノ欄秋津村ニ記ス
《官選戸長役場時代及び第一期・第二期・第三期村長時代に付いては、次の「第三 宮平村」の秋津村の所に記載する。》

 

第三 宮平村

 

明治四年八月迄宮平村庄屋後勤務                   高野孝太郎

仝 六年九月迄第一区十小区番組長                 高野孝太郎

仝 八年九月迄第五大区第 小区番組用掛           高野孝太郎

仝十七年七月迄第五大区第 小区番組戸長           高野孝太郎
《明治4年(1871)8月まで、与板村の庄屋だった高野孝太郎氏が引き続き勤務した。その後、明治6年9月まで、第1大区第10小区番組戸長(何番組かの記載なし)、同8年9月まで第五大区(第何小区何番組かの記載はない)用掛、同17年7月まで第五大区(第何小区何番組かの記載はない)戸長も、引き続き高野孝太郎氏が就任した。》
【補注】『柏崎編年史』「第八章明治・大正期の柏崎」の別表2「明治9年5月の大区制区域編成表」では、第五大区小十区に、安田・加納・与板・宮平・善根・南條村とあり、番組は不明だが、第十小区である事は確かであろう。

仝十七年八月ヨリ二十二年三月ニ至ル迄善根村南條村與板村宮平村ニテ組合役場ヲ組織・・・・ニ役場ヲ設ク時ノ戸長ハ高野孝太郎ナリ
《明治17年(1884)より同22年3月まで、善根・南條・与板・宮平村で連合し組合役場を組織し、「・・・・」に役場を設置した時の戸長は、矢張り高野孝太郎氏であった。》
【補注】「・・・・」の部分は、原文でも同様だが、「第一加納村」には、「安田村大字鳥越大日堂ニ開ク」とあり、後に加筆した補注に記した様に、「大日堂」は誤りではないかと推測される。

明治二十二年三月組合役場ヲ解キ與板宮平聯合シテ秋津村ト命名シ大字與板ニ役場ヲ置キ村治ヲ為ス時ノ村長ハ高野孝太郎タリ助役ハ阪田桂治満四ヶ年ヲ経テ第二期村長トナル
《明治22年(1889)3月、組合役場を廃止し、与板村と宮平村が連合して秋津村を創設し、大字与板に役場を開設し、村政を施行する事になった。この時、初代村長に高野孝太郎、助役に阪田桂治が就任した。以後、満四年を経て第二期村長時代となる。》

第二期村長ハ二十六年十一月ヨリ三十年五月ニ至ル阪田一彌氏村長タリシカドモ中途ニシテ辞サレ高野孝太郎氏代ハラル
《第二期村長は、明治26年11月より、同30年5月まで、阪田一彌氏が村長を務めるはずであったが、中途で辞任されたため、高野孝太郎氏が代って引き継いだ。》

第三期ハ三十年五月ヨリ三十三年五月ニ至ル
《第三期は、明治30年5月から同33年5月までである。》

明治三十三年ノ組合役場組織ノ事ハ加納ノ項ニ記ス
《明治33年の組合役場組織に付いては、加納村の項に記載する。》

 

第四 善根村

 

善根村上組庄屋後勤務ヲ北村輯平ニ命ゼラレ四年八月ニ至ル田村五郎兵衛氏ハ四年八月ヨリ六年九月迄第一大区十小区一番組戸長タリ六年九月大区小区ノ改正アリ戸長ヲ廃シテ用掛ニ改メラレシ時モ田村五郎兵衛氏ハ用掛タリ而シテ八年九月亦戸長ト改メ明治十七年七月ニ至ル
《善根村上組の庄屋・北村輯平氏が、明治4年(1871)8月に至るまで、引き続き維新後の村政を命じられ、次いで、同4年8月より同6年9月まで、第1大区第10小区1番組戸長に田村五郎兵衛氏が就任した。同6年9月、大区小区の改正があり、戸長を廃止して用掛に改められた。この時も引き続き田村五郎兵衛氏が用掛に任命され、同8年9月、また呼称を戸長と改められた以降、明治17年7月まで継続して戸長を務めた。》

善根村下組庄屋後勤務ヲ中沢臺治受ク而シテ四年八月ニ至リ庄屋廃サレ第一大区第十小区二番組戸長ト称セラリヽヤ中沢氏時ノ戸長タリ六年九月ヨリ八年九月ニ至ル迄第五大区十小区二番組用掛ト改正セラルヽヤ中沢氏又其役ニ当リ其後十七年七月ニ至ル迄第五大区小十区二番組戸長タリ
《善根村下組の庄屋・中沢台治氏が維新後の村政を任され、明治4年(1871)8月に庄屋が廃され。第1大区第10小区2番組戸長に改まった時も、中沢氏が継続して村政に当った。戸長が用掛に改称された同6年9月から同8年9月まで、中沢氏が戸長を勤め、また名称が戸長に戻った後も、明治17年7月まで、第五大区第10小区2番組戸長を務めた。》

明治十七年八月善根上下宮平與板南條ト聯合シ組合村ヲ成ス此ノ時ノ事ハ宮平ノ欄ニ記ス
《明治17年(1884)8月、善根村上下組、宮平村、与板村、南條村が連合して組合村を組織した。この時の事は、宮平村の欄に記載する。》

明治二十二年五月組合村ヲ解キ善根村ヲ組織シ字飛岡ニ役場ヲ設ク第一期村長ハ山岸繁作助役田村熊司
《明治22年(1889)5月、組合村を解散し、善根村を組織し、字飛岡に役場を開設した。この時期を第一期として、村長に山岸繁作氏、助役に田村熊司氏が就任した。》

第二期村長二十六年五月ヨリ三十年五月ニ至ル村長田村熊司助役中沢常治
《第二期は、同26年から同30年5月まで、村長に田村熊司氏、助役に中沢常治氏が就任した。》

第三期村長三十年五月ヨリ三十三年五月ニ至ル村長田村熊司助役小林吉次田村氏ハ三十一年十一月辞サルヽニ及ビ中村武平之ニ代ル
《第三期は、同30年5月から同33年5月まで、村長に田村熊司氏、助役に小林吉次氏が就任したが、同31年11月、田村氏が辞任されたのに伴い中村武平氏が村長に就任した。》

明治三十三年又善根村加納村秋津村組合役場ヲ組織ス以後加納欄ニ記ス
《明治33年(1900)、また善根村、加納村、秋津村が連合して組合役場を組織した。これ以降の事は、加納村の欄に記載する。》
【補注】中鯖石村成立までの史料を集めた。参考までに、『柏崎編年史』『柏崎市史』及び『柏崎市史資料集』は除くが、興味ある史料を二点挙げる。
◎『改正官員録』: 明治26年までの官吏の名鑑で、全国の郡長までは記載がある。
◎『新潟県戸長必携』:佐藤敬三郎編・明治17年7月刊、当時の戸長に必要な法律や通達、届出や請願の書式などがまとめられたハンドブック様の書籍だが、518ページもある大書。
この中で、例として戸長の給料に関する通達を挙げる。(91頁・52コマ)

 ○戸長以下給料其他諸費支給法 本県乙第七十三号達 明治十五年八月十日
 戸長以下給料其他諸費支給法、県会ノ議決ヲ認可シ左ノ通、相定、十五年度始ヨリ施行候條、此旨相達候事
  戸長給 戸長一人ニ付年給三十五円宛
  筆生給 二百戸ニ付筆生一人ノ割年給二十円、戸長扱ノ戸数ニ応ジ分配ス
  小使給 年給五円、戸長役場ヘ平均一人宛、尚戸長取扱ノ戸数百戸ニ付三円割ヲ以テ分配ス
 職務取扱諸費
 (以下省略)

第三 宮平村

 

白川風土記ニ曰ク柏崎陣屋ヨリ卯辰方二里十八町ニアリ村長サ東西貮丁許南北八丁許戸数参拾軒向背ヒトシカラズ四至東ハ御料所善根村ヘ八丁西ハ山深クツヾキテ近辺ニ村里ナシ南ハ御料所石曽根村ヘ七丁北ハ與板村ヘ七丁何レモ地境入リ交リ詳ナラズ
《『白川風土記(越後国之部)』に、宮平村は、柏崎陣屋より卯辰方角(東南東と東の間)に2里8町(8700m強)にあり、村の長さは、東西およそ2丁(220m弱)、南北およそ8丁(870m弱)で、戸数は30軒、それぞれの対辺は等しくなく、四方は、東に御料所(天領)の善根村があり、西には深い山が続き周辺に村や里は無く、南は御料所の石曽根村まで7丁(760m強)で、北に7丁で與板村だが、何れの村境も入り組んで明確ではない。》

端村岩野ハ本村ヨリ南ノ方拾五丁許ニアリ村長サ東西貮拾五間南北壱丁許戸数九軒向背ヒトシカラズ
《村はずれの岩野は、本村(宮平)から南へおよそ15丁(1600m強)で、村の長さは、東西25間(45m強)、南北およそ1丁(110m弱)あり、戸数は9軒あるが、それぞれの対辺は等しくない。》

岩野ハ明治十八年宮平村を分離シ現今ハ南鯖石村大字石曽根ニ属ス
《岩野は、明治18年(1885年)に宮平村から分離し、今現在は、南鯖石村大字石曽根に属している。》

明治二十三年宮平與板両村ヲ合シテ秋津村ト称セシガ明治三十四年中鯖石村創立ニ際シ秋津村ノ名称ヲ廃シ旧ニ依リテ大字宮平ノ名称ニ復ス
《明治23年(1890年)、宮平と与板の両村が合併して秋津村となったが、明治34年(1901年)、中鯖石村が新に創立された際に、秋津村の名称を廃止し、旧名称を基に大字宮平の名称に戻った。》

宮平村鑑明細帳(古書ニシテ表紙破損シ年代詳ラカナラザレドモ今ヨリ百四五十年前ノモノナラン)ニ挙グル所ノ戸数人口ハ左ノ如シ
《宮平村鑑の明細書(古い冊子なので、表紙が破損し、年代が明らかではないが、今から140あるいは150年前のものの様だ)に、記載された戸数と人口は次の通りである。》

一、戸数参十九軒
人口 貮百廿三人(223人)
  内 男  百二十人(120人)
    女  百人(100人)
    座頭 壱人(1人)
    僧  貮人(2人)

 

第四 善根村

 

善根ハ足利時代ノ新称ニシテ坂野下、久野木、飛岡、佐之久、太野田、石川、久木太ノ七ケ村合併セルモノナリ善根ハ古軍記ニ往々善言ニ作リ善根トスルナシト刈羽郡旧蹟志ニ見ユ石川中村嘉平治氏ノ保存ニ係ハル明和八年卯十二月ト明記セル越後国刈羽郡善根村明細帳ヨリ抜抄ス
《善根は、足利時代の新しい名称で、坂野下、久野木、飛岡、佐之久、太野田、石川、久木太の七ヶ村が合併したもので、古軍記ではしばしば「善言」と記すことがあると、『刈羽郡旧蹟志』に書かれている。また、石川の中村嘉平治氏所蔵の明和八年(卯)十二月と明記された『越後国刈羽郡善根村明細帳』を抜抄して紹介する。》
【補注】古軍記について、山田八十八郎著『刈羽郡旧蹟志』には、軍記に関して「考証書目」に、『北越軍記』(越後・佐渡デジタルライブラリー収蔵)、『越後軍記』『北越太平記』(共に近代デジタルライブラリー収蔵)などを挙げているが、何れの軍記か特定していない。後に、これら軍記を検証する予定である。
 また、『越後国刈羽郡善根村明細書』については、『柏崎市史資料集・近代編2の下』に関係文献が記載されているが、該当する明細書はなく、『柏崎市史』の編纂時に、十分な調査がなされなかったか、既に失われていたことが考えられる。今も現存するのであれば、図書館あるいは大学などの関係機関に登録するのが望ましい。

 

一、家数 貮百弐拾九軒
人口 千貮拾五人
 内 男  四百八拾七人
   女  五百 拾六人
   出家     八人
   山伏     一人
   道心    十一人
   座頭     二人

一、女馬 参拾壱匹

一、當村祭礼
七月廿七日 八月十五日 八月十六日 九月九日 九月廿九日
是ハ毎年右月日祭礼ト名付氏子共宮参候他村ヨリ男女寄合申儀御座候
〔これは、毎年、右月日を祭礼と名付け、氏子ども宮参りそうろう他、男女寄り合い申す儀にござそうろう。〕

明和八年ハ紀元二千四百参拾壱年ニ当リ大正元年ヨリ百四十年前ナリ

《明和八年(1771年)ハ皇紀2431年に当り、大正元年(1912年)より140年前になる。》

 

  中鯖石村旧家数及人口

 

 

加納

與板

宮平

善根

年号

紀元

家数

男女人口

家数

男女人口

家数

男女人口

家数

男女人口

貞享元年

 

 

282

 

 

 

223

 

 

259

延享

 

89

 

54

 

 

123

 

 

100

明和八年

 

 

 

 

 

 

 

229

509

516

寛政三年

 

 

 

57

153

 

 

 

 

155

文化元年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三 宮平村

 

白川風土記ニ曰ク柏崎陣屋ヨリ卯辰方二里十八町ニアリ村長サ東西貮丁許南北八丁許戸数参拾軒向背ヒトシカラズ四至東ハ御料所善根村ヘ八丁西ハ山深クツヾキテ近辺ニ村里ナシ南ハ御料所石曽根村ヘ七丁北ハ與板村ヘ七丁何レモ地境入リ交リ詳ナラズ
《『白川風土記(越後国之部)』に、宮平村は、柏崎陣屋より卯辰方角(東南東と東の間)に2里8町(8700m強)にあり、村の長さは、東西およそ2丁(220m弱)、南北およそ8丁(870m弱)で、戸数は30軒、それぞれの対辺は等しくなく、四方は、東に御料所(天領)の善根村があり、西には深い山が続き周辺に村や里は無く、南は御料所の石曽根村まで7丁(760m強)で、北に7丁で與板村だが、何れの村境も入り組んで明確ではない。》

端村岩野ハ本村ヨリ南ノ方拾五丁許ニアリ村長サ東西貮拾五間南北壱丁許戸数九軒向背ヒトシカラズ
《村はずれの岩野は、本村(宮平)から南へおよそ15丁(1600m強)で、村の長さは、東西25間(45m強)、南北およそ1丁(110m弱)あり、戸数は9軒あるが、それぞれの対辺は等しくない。》

岩野ハ明治十八年宮平村を分離シ現今ハ南鯖石村大字石曽根ニ属ス
《岩野は、明治18年(1885年)に宮平村から分離し、今現在は、南鯖石村大字石曽根に属している。》

明治二十三年宮平與板両村ヲ合シテ秋津村ト称セシガ明治三十四年中鯖石村創立ニ際シ秋津村ノ名称ヲ廃シ旧ニ依リテ大字宮平ノ名称ニ復ス
《明治23年(1890年)、宮平と与板の両村が合併して秋津村となったが、明治34年(1901年)、中鯖石村が新に創立された際に、秋津村の名称を廃止し、旧名称を基に大字宮平の名称に戻った。》

宮平村鑑明細帳(古書ニシテ表紙破損シ年代詳ラカナラザレドモ今ヨリ百四五十年前ノモノナラン)ニ挙グル所ノ戸数人口ハ左ノ如シ
《宮平村鑑の明細書(古い冊子なので、表紙が破損し、年代が明らかではないが、今から140あるいは150年前のものの様だ)に、記載された戸数と人口は次の通りである。》

一、戸数参十九軒
人口 貮百廿三人(223人)
  内 男  百二十人(120人)
    女  百人(100人)
    座頭 壱人(1人)
    僧  貮人(2人)

 

第四 善根村

 

善根ハ足利時代ノ新称ニシテ坂野下、久野木、飛岡、佐之久、太野田、石川、久木太ノ七ケ村合併セルモノナリ善根ハ古軍記ニ往々善言ニ作リ善根トスルナシト刈羽郡旧蹟志ニ見ユ石川中村嘉平治氏ノ保存ニ係ハル明和八年卯十二月ト明記セル越後国刈羽郡善根村明細帳ヨリ抜抄ス
《善根は、足利時代の新しい名称で、坂野下、久野木、飛岡、佐之久、太野田、石川、久木太の七ヶ村が合併したもので、古軍記ではしばしば「善言」と記すことがあると、『刈羽郡旧蹟志』に書かれている。また、石川の中村嘉平治氏所蔵の明和八年(卯)十二月と明記された『越後国刈羽郡善根村明細帳』を抜抄して紹介する。》
【補注】古軍記について、山田八十八郎著『刈羽郡旧蹟志』には、軍記に関して「考証書目」に、『北越軍記』(越後・佐渡デジタルライブラリー収蔵)、『越後軍記』『北越太平記』(共に近代デジタルライブラリー収蔵)などを挙げているが、何れの軍記か特定していない。後に、これら軍記を検証する予定である。
 また、『越後国刈羽郡善根村明細書』については、『柏崎市史資料集・近代編2の下』に関係文献が記載されているが、該当する明細書はなく、『柏崎市史』の編纂時に、十分な調査がなされなかったか、既に失われていたことが考えられる。今も現存するのであれば、図書館あるいは大学などの関係機関に登録するのが望ましい。

 

一、家数 貮百弐拾九軒
人口 千貮拾五人
 内 男  四百八拾七人
   女  五百 拾六人
   出家     八人
   山伏     一人
   道心    十一人
   座頭     二人

一、女馬 参拾壱匹

一、當村祭礼
七月廿七日 八月十五日 八月十六日 九月九日 九月廿九日
是ハ毎年右月日祭礼ト名付氏子共宮参候他村ヨリ男女寄合申儀御座候
〔これは、毎年、右月日を祭礼と名付け、氏子ども宮参りそうろう他、男女寄り合い申す儀にござそうろう。〕

明和八年ハ紀元二千四百参拾壱年ニ当リ大正元年ヨリ百四十年前ナリ

《明和八年(1771年)ハ皇紀2431年に当り、大正元年(1912年)より140年前になる。》

 

  中鯖石村旧家数及人口

 

 

加納

與板

宮平

善根

年号

紀元

家数

男女人口

家数

男女人口

家数

男女人口

家数

男女人口

貞享元年

 

 

282

 

 

 

223

 

 

259

延享

 

89

 

54

 

 

123

 

 

100

明和八年

 

 

 

 

 

 

 

229

509

516

寛政三年

 

 

 

57

153

 

 

 

 

155

文化元年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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年齢:
76
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
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よろず相談家業
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