柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 小金井良精(よしきよ)といっても、今の人は、ほとんど知らないかもしれない。  この人は、日本初の解剖学教授(今の東大医学部)である。 また、比較解剖学(他の動物との比較)、更に、我国における人類学を確立した人物でもある。 この様に書いても、その人物像はイメージされないだろう。 幕末・明治の人脈を追いかけていることは既に書いた。 時代を前後しながら追い求めている。 その過程で、登場したのが小金井良精だ。 (以下、敬称略)

 簡単に、人間関係を紹介しよう。 小金井良精は、幕末、安政5年(1858)、長岡藩士・小金井良達の次男とし生まれている。 戊辰戦争の戦乱に巻き込まれ、一家が仙台に落ち延びた頃、10歳であった。 母親は、「米百表」の病翁・小林虎三郎の妹である。 また、再婚の相手が、森林太郎(鴎外)の妹である。 SF作家の星新一の母方の祖父にあたり、星新一は、『祖父・小金井良精の記』を書いている。

 小金井良精は、筆まめな人であったようで、ほとんど毎日、日記をつけていたそうだ。 その日記に、明治の東京の変遷の模様あるいは風物詩が書かれている。 子煩悩で家庭的、しかもドイツ留学時代に身に着いたのか、頑固なまでに規則的な生活をおくった人であるようだ。 休日や暇な時間が出来ると、子供あるいは家族を伴い、東京の郊外を、と言っても今の感覚で言えば、山手線の環内なのだが、散策している。

 明治15年当時、日本の人口は約3000万人、それが、10年後の25年頃には、4000万人に達している。 明治初期には未だ残っていた江戸名所百景に描かれた風景は、この10年間に大いに様変わりし、小金井良精の散策のコースも、次第に足を延ばすことになった様子が、窺える。 変わったのは、風景ばかりではない。 人情も変化している。 

 小金井良精の終の棲家となる、確か文京区曙町(Googleマップで調べる牛込曙町)の家は、旧旗本土井家の屋敷の借地権を購入し、既にあった旧家屋に増築を重ねたものだそうだが、当初は、敷地の境界が松並木だったそうだが、その後、老松が枯れ、生垣を作ったそうだ。 ところが、時代を追うにして、盗難が相次ぎ、無粋なとたん塀を作ったというから、治安も悪化していったことが伺われる。 もっとも、凶悪犯というのではなく、家人が気付き、騒ぎになると、逃げたそうだから、こそ泥程度ということだろう。 しかし、風物詩が廃れ、人情が希薄になっていく様が、何とも、物悲しい。

 それでも、この小金井良精という人は、善人説の人だろうか、取り立てて苦情など日記に書いていないのだ。 それどころか、人への気遣い、人の世話と、何とも人情家なのである。 戊辰戦争で辛酸をなめた経験が、そうさせたのかもしれない。 その小金井良精が、嘆いていることがある。 学生たちが勉強しなくなったことや、医学生としての使命感を持たなくなったことだ。 何時の世も同じことなのか。

 いずれにしても、小金井良精は、解剖学のみならず、人類学、更に、考古学(当時は人類学の一分野だったのかもしれない)の世界に深く関与していく。 例えば、こんなエピソードがある。 西郷隆盛の従弟であり、日露戦争で偉勲を立てた大山巌(公爵)の長男・柏(かしわ)との出会いである。 大正の11年頃から親交があったようだ。 歳の差は、30歳。 その後、人類学の調査行などに同行している。 大山柏は、当時、陸軍の軍人で比較的閑職に就いていたようだ。 趣味が、人類学・考古学なのである。 少佐に昇級するとき、大山柏は、小金井良精に相談している。 陸軍を辞めて学問の世界に進むべきか否かと。 小金井良精は、学問に進むことを薦めているのである。 大山柏は、その助言に従い、陸軍を辞し、大山考古学研究所を設立、慶応大学で講師にもなっている。 この人脈が、大谷瑞光の探検へも繋がるのである。 また、北京原人問題にも。

 所謂、「北京原人化石紛失事件」は、日中戦争の激化により、周口店で発見された北京原人の化石を北京の協和医学院からアメリカに輸送する際に起こった。 今もって、その行方はわからない。 この捜索に協力したのが、当時、北支派遣軍の軍医部長であった梛野巌(いつき)だ。 梛野巌は、明治24年(1891)、長岡に生まれ、旧制長岡中学、第四高等学校を経て、東大医学部(東京帝国大学医科大学)を大正5年(1916)に卒業し、陸軍の軍医となるが、その後、大学院で内科学を学び、ドイツ・アメリカ駐在軍医官、更に、スイスのチューリッヒ大学で、脳病理学を研究するなど、軍医としては、異色の経歴の持ち主である。 詳細は不明だが、梛野と言う姓から見て、河井継之助とも縁が深いのではないだろうか。 因みに、継之助と深く変わる梛野嘉兵衛は、継之助の妻・すがの実兄である。 この様に、小金井良精に始まった我が国の解剖学は、その後の人類学や考古学、あるいは民俗学へと発展していく。 (この件に関しては、次回、補足する。)

 余談だが、少々私事を。 昔、人類学や民俗学に興味を持ち、その方面に進もうと考えたいた時期がある。 丸善から可也の書籍や文献を取り寄せた。 言語学にも興味を持った。 ソシュールやウィットゲンシュタインとの出会いも、その頃である。 若い頃、事業に失敗し、当時集めた書籍や文献は、ほとんど手放したのだが、何冊かを持ち続けた。 その中の一つ、「Reallexikon Der Germanischen Altertumskunde」の分冊が2冊ほど残っている。 「ドイツ古代学百科事典」とでも言うのだろうか。 小金井良精のことを知り、その本があることを思い出した。 今では、すっかりドイツ語を忘れてしまい、単語を追う程度のことしか出来ないが、図画を見れば、その当時のことが思い出される。 因みに、何故、こんな本を書くことになったかといえば、当時、欧州中世叙事詩、例えば、『ベイオウルフ』、『エッダ』『オシアン』、下っては、『ニーベルンゲンリート』や『ローランの歌』のロマンティシズムに興味を持ち、読み漁っていた時期だったからだ。 余談だが、『オシアン』はアイルランド、言い駆ればケルトの代表的な叙事詩、それが、『平家物語』の無常観に通じる。 アイルランドは、今も親日的な国だと聞く。 もしかすると、情感的底流の中に通じるものがあるのかもしれない。

 それが、40数年の時を経て、小金井良精によって蘇って来た。 小金井良精は、留学時代、アルザス・ロレーヌのストラスブルグ(当時は普仏戦争に勝利したドイツ領、スタラスブール)大学で学んだ時期があり、フランス語も堪能だったそうだ。 読書も医学書に止まらず、広範囲に及んだと云う。 汽水域のようなストラスブルグが、医学を越えた人間学へと小金井良精を導いたのかもしれない。

 それにしても、歴史を時代人の視点を介して見れば、全く異なった世界が広がるのである。 その視点を通し、様々な人間像を知ることは、否、体験することは、何と楽しいことか。 それに何よりも、多くの教訓を得ることか。 中学一年生の息子の教科書を見る時、殺伐とした教科書的歴史の中に、画一化し、荒廃していく小金井良精が生活した変遷する東京の風物詩が重なって見えるのである。

Best regards
梶谷恭巨

 

 久々に、このシリーズを書く。 ただ題名を変える必要に迫られている。 柏崎発が、中越、否、越後に拡大されたのである。 その最大の理由は、明治以降の教育史を追いかけたことに始まる。 そのキーパーソンの一人が、羽石重雄、旧制柏崎中学の初代校長である。 羽石重雄、杉卯七、そして、その存在を顕した野村健堂の小論を読んだことに発端がある。 すなわち、『大塩平八郎と生田萬』だ。 大正時代に発行された雑誌に寄稿された小論である。

 この三人は、ともに山口県出身、旧制山口高校が設立される前の山口高校で同級であったようだ。 三人が柏崎に集まるのは、杉卯七が、日本石油勤続25周年を、羽石重雄が、柏崎中学校長に就任したことを祝うために、黒頭巾こと野村健堂が誘って柏崎に会合したことであるようだ。

 注目したいのは、羽石重雄と杉卯七である。先ず羽石重雄から見ていくと、先任地・山口県の旧制岩国中学から、2年間のブランクの後、柏崎中学校長に就任するのである。 その後、長岡中学、最後の任地、松本中学までは辿ることができる。 ところが、岩口中学校長に赴任するまでの経緯が不明なのだ。 現岩国高校に確認したところ、面白い話を聞いた。 岩国は吉川氏、すなわち毛利藩の支藩である。 質実剛健をモットーとした藩校の伝統を持つ。 柏崎の維新史にしばしば登場する近藤芳樹とも縁が深い。 その岩国中学で、羽石重雄は排斥運動にあっているのだ。 聞くところによれば、明治の典型的な紳士の服装、チョッキに納めた金鎖の金時計、そのハイカラな洋装が、質実剛健の校風に合わなかったのか。 最上級生の5年生が反発した。5名だったと云う。校長排斥運動が起り辞任するに至るのである。

 傍線を引く必要がある。友人である杉卯七は、柏崎、日本石油の技術者として来柏する。 その経緯も複雑だが、卯七の父親は、奇兵隊に所属し、戊辰戦争を転戦している。 詳細は不明だが、柏崎・長岡あたりで戦ったことが推測される。 例からみれば、明治政府の高官になる事もできたはずだ。 ところが、隠棲し、趣味である釣りに出て行方不明になっているのだ。 その子息である卯七が柏崎に来るのである。 因みに、卯七の子息・捷夫(としお)は、日本フランス文学会の会長に就任するのだから面白い。

 さて、羽石重雄に話を戻すと、岩国中学辞任後、柏崎を経て、長岡中学の校長に就任してるのである。 興味を持つのは、岩国中学との関係である。 実は、岩国中学から長岡中学に赴任するのは、羽石重雄だけではない。 夏目漱石の『野分』の主人公のモデルといわれる坂牧善辰の後任の校長が、岩国中学から赴任する橋本捨次郎なのである。 これを偶然の一致と見ることができるだろうか。

 中島欣也著の『明治熱血教師伝』という本がある。 そこに描かれているのは、長岡と薩摩の校長人事の交流の経緯だ。 本富安四郎と坂牧善辰が主人公である。 「和同会事件」で、坂牧善辰が長岡中学を去ることになるのだが、この経緯を考えると、あることに想像の羽が伸びる。 漱石の『坊ちゃん』である。 坂牧善辰は、漱石の一級後輩だったようだが、当時のこと、浅からぬ親交があったはずだ。 漱石の書簡集に、それが見える。

 そこで空想の輪を広げると、岩国中学の羽石重雄の金時計事件、それに坂牧善辰の「和同会事件」、これらを足して二で割れば、何かしら『坊ちゃん』の場面が思い浮かぶのである。 しかも、確認は取れていないのだが、羽石重雄の前任地は九州なのだ。

 何ヶ月か前、卒業生である友人の紹介で長岡高校の和同会館を訪ねた。 事前に羽石重雄校長のことを問い合わせしていた。 資料館を見学した後、事務局に立ち寄り、その話をすると、事務の女性が問合せのことを記憶していた。 その為か、友人の存在の為か、歴代校長の写真を拝見することが出来た。 そこには、予想とは少々違うのだが、古武士然とした羽石校長の肖像があった。 人があり歴史がある。 感慨、沸々と湧く思い。 不条理のニュースばかりの世の中に、先人の眼光が目映く思えた。

Best regards
梶谷恭巨

 義父宅での食事の時、彗星が異常に明るくなるというニュースがあったことを知った。 確かめてみると、1つではなく2つの彗星が、急激に光量を増大させていることが判った。 6乃至7等星代だったスワン彗星が4等星、17等程度であったホームズ彗星が、約40万倍の2等星代に大バーストしたというのである。 (残念ながら、義父宅からの帰りに空を見上げてみたが、確認は出来なかった。)

 昨年あるいは一昨年読んだエリック・コタニことNASAの近藤陽次博士の『Supernova』という小説を思い出した。 確かシリウスのαだったかが、超新星化し、その宇宙線の嵐が地球を直撃するというストリーだ。 それに、ディスカバリーCHだったか、ヒストリーCHでは、20世紀最大の預言者と云われるエドガー・ケーシーの特集を放送していた。 更に、ハインリッヒの法則を地でいくような不祥事の連続。 その上、株式市場がある。 何だか、全てが終末論を暗示しているのではないかと感じるのである。

 ゴールドラットは、その作品の中で「マーフィーが現れる」という表現をしばしば使っている。 「マーフィーの法則」のマーフィーである。 「起こる可能性があるものは、いつか起こるものだ。」 「巧く行かない可能性があるものは、矢張り巧く行かないものだ」など、言われて見れば、そうかもしれない経験則が、当にマーフィーの法則の如く、世の中に広まった経験則だ。 ゴールドラットのいう「マーフィー」は、ボトルネックの発生とか、システムの中に必然的に生じる問題点あるいは不具合というような意味でだろう。

 今の状況は、社会というシステムで発生した小さな問題点、例えば、小さな倫理的欠如が蓄積され、それがシステム全体に影響を与え始めた結果といえるのではないだろうか。 小さな善意は足が遅い。 反して、小さな悪意は足が速い。 足の速い悪意を先頭にすれば、足の遅い善意との間は益々広がっていく。 弱者の問題を先ず考えなければ、強者との格差は急速に広がっていく。 言い方は様々だが、要は、社会というシステムには、利益を生むための様々なテクニックが適用できないのではなく、適用されていないのである。 例えば、トヨタの工程管理の一つ「看板方式」がある。 先の工程の状況(進捗状況)を後の工程に「看板」に書いて知らせ、 後の工程の進捗を調整する。 何故、こうした方法が社会には適用されないのか。 甚だ疑問である。

 「看板方式」は、多くの事を示唆している。 見方を変えれば、歴史の先頭に立つ現在の人々が、過ぎ去った過去へメッセージを送る、あるいは、将来の人々へメッセージを残すという「フィードフォワード」ではないだろうか。 「過去にメッセージを送る」という考えは、論理的におかしいと思われるかもしれない。 しかし、過去の人々には、将来の人々に託した思いがあったはずだ。 親が子に託すように。 それに応えることが、あるいは、恨み言でもかまわないが、それを伝える、言い換えれば、先人の思いを確認することが必要ではないか。

 歴史は、人の連鎖でもある。 完成品が何か判らない生産工程に似ている。 トヨタには、エマージェンシー・ストップが工程の中に組み込まれていると云う。 それぞれのワークセンターには、その為のボタンがあるそうだ。 そのボタンが押されると、全工程が停止する。 その間に、問題が発生したワークセンターの障害を解決
し、他のそれぞれのワークセンターでも、再開時の調整を行うそうだ。 余談だが、最近では、こうした情報も中々入手できない。 情報公開が優先された時代(そんな昔のことではない)、それを公開した人がいるのだ。 少々仕事に関係することもあり、それをダウンロードしておいた。 その後、ある法律の成立後、探してみたが既に消滅していた。 実に不可解な現象である。 数値的データあるいはFACTは、情報公開という原則の下に公開される。 ところが、その本来の主役である人間的要素は、闇の中に葬られたのである。

 以前にも書いたが、現状を知ろうと思えば、少なくとも2世代60年(もっとかも)は遡る必要がある。 そこか一つ一つの足跡、むしろ痕跡というべきかも知れないが、それを辿らなければ今を状況を把握することが出来ない。 (権威ある期間であれば、そんな必要はないのかもしれないが。) すなわち、ヒューマン・ファクターを考える限り、過去に遡り、現在に至り、そこから先のことを推測することになるのである。 当に「フィードフォーワード」ではないか。 予測した訳ではないが、3年前までの5年間、そうした情報を収集した。 可能なものは、必要と思われる個人データも追求した。 記憶と思考の構造も、実は、変更したのである。

 話が、2つの彗星の話から思わぬ方向に展開したが、シューメーカー彗星群の木星への衝突を思い出して欲しい。 ジュピターは、第二の太陽になる可能性を持っているのだ。 影響は広範囲に及び、半年間も続いたといわれる衝突の痕跡は、太陽にも影響を及ぼす。 2つの彗星のバースト、彗星の出現は、中国的革命思想、すなわち循環する自然、昔から天変地異あるいはシステムの大変革をもたらすと云われるのだから。 因みに、ハレー彗星だったか、小学生の時に見た、その姿は、美しさとともに、何かしら不安を感じさせたものである。

Best  regards
梶谷恭巨

 今日、友人が訪ねてきた。 最初、電話で、アップルのパワーポイントのファイルをメモリーチップに落としたいのだが、Windows・アップル共用のメモリーチップが、認識されないと言うのである。 その時点では、ドライバーの問題化と考えた。 そこで、メールに添付して、自分のPCに配信することを薦めた。 来宅したので、アップルにメモリーチップを装着し、実際にどうなるのか確かめてみた。 何のことはない、Windowsに慣れているので、マックの表示形式に気付かなかったのである。 一件落着。

 ところで、この友人は、産業廃棄物関連の会社に勤めている。 偶々、その時読んでいたのが、ゴールドラットの『チェンジ・ザ・ルール』だった。 一件落着後のコーヒーを飲んでいる時、産業廃棄物の処分問題で思いついた。 この処理問題は、一種のスケジューリングの問題ではないかと考えたのだ。 例えば、ある企業で廃棄物が生じる。 その会社が、工程管理をしているのであれば、そこから発生する廃棄物には規則性があるはずだ。 言い換えれば、廃棄物の量を予測することが可能ではないかと。 更に、それを収集し、最終処分場に運ぶ場合にも、廃棄物発生時の規則性が影響を与えるはずだ。 これは、工場ばかりではなく、スーパーなどの大型小売業にも通じる。

 今の状況を考えると、ボトルネックは最終処理の段階にある。 最終処理場で長大な待ち行列が出来る訳だ。 言い換えると、廃棄物の発生段階の処理速度が速い為、その影響が蓄積され、最終段階での待ち行列を形成する。 ならば、初期段階にバッファーを置くことが考えられる。 すなわち、廃棄物の発生場所に、ボトルネックの待ち行列分のバッファーを設ければ良い事になる。 単純には解決できないのは承知の上だが、例えば、日々廃棄物が発生するスーパーが、廃棄物という在庫、言い換えれば、バッファーを持てばよい。 更に、次の輸送の段階にも、バッファーを置くことが出来るのではないか。

 産業廃棄物の処理問題に、PERTやCPMの発想はあるのだろうか。 行き当たりばったり的あるいはどんぶり勘定的処理が行われているのではないだろうか。 工程管理やサプライ・チェーン・マネージメントでは、常識ともいえる手法が、何故、産業廃棄物問題では適用されないのだろうか。 (ただし、実際に適用されているところがあるのかもしれない。 しかし、身近に聞く限りでは、それらしき話題が出てこない。)

 この問題に関しては、発想の段階に過ぎないが、課題として面白い。 「制約の理論(TOC)」など、最適のソリューションだと思えるのだが。

Best regards
梶谷恭巨

 先ず考えるのは、軍事行動と営業活動を比較できるかという問題だ。 中国の兵法七書(孫子、呉子、三略、六韜、李衛公問対、司馬法、尉繚子)、更に加えるなら、張良の「素書」や、その師と云われる「鬼谷子」などが、経営の哲学として採り上げられることがある。 しかし、こうした書籍を採り上げれば、百家争鳴と云うくらいで限がない。 それが、日本に至ると、山鹿素行から吉田松陰に至るまで、様々な解釈の下に変遷する。 しかも、密接な関係にある中国の歴史的変遷に伴い、解釈そのものが変化していく。

 しかし、それが、例えば、日経の書籍広告欄から消えることはないのである。 何故か? 心理的問題が常に先行するためか。 ところが、それではソリューションを得ることが出来ない。 例えば、目を西欧に向けて見ると、先ず、ギリシャ・ローマ時代が目に写る。 ギリシャ時代は、見方もあるのかもしれないが、レトリックのの
時代でもある。 まさに、西欧における百家争鳴の時代でもあるのだ。 例えば、時期を同じくして、「白馬論」の如きレトリックが生まれる。 公孫竜子とソフィストの面々、もし対峙すれば面白い結果が出たのかもしれない。 「白馬論」と「飛ばない矢」、それが、微分積分に通じるのだから、実に面白い。

 さて、本論から外れそうだが、結局は、言い方は悪いかもしれないが、人を如何に「たらしこむか」という技術なのだ。 連衡縦横の策を唱えた、張儀・蘇秦、その張儀のエピソードが、それを物語る。 詐欺師まがいの提案が、行き詰る。 張儀は、窮地立つが、そのとき自分の妻に言った言葉が振るっている。 大口を開けて聞くのである。 「舌は未だあるか。」 舌さえあれば、その三寸の動きで、国を操ることが出来ると。

 こんな話を理論化できるのだろうか。 それを試みた先人がいる。 ゲーム理論。 ただし、納得している訳ではない。 問題は、数学的な解法が必ずしも一般に通じるかということだ。 単純な話、ノイマンにしろナッシュにしろ、それが、理論とはかけ離れたオーディナリーな世界で通用するかということだ。 先ず、無理だろう。 発表された理論を読むより、それを提唱した人々の評伝を読むといい。 そこには、真実というよりも事実がある。

 生死をかけた戦場で発展したのが「兵法」だが、そこには、未だゆとりがある。ところが、例えば、ジョミニにの戦術論は、理論というより、実質的な布陣なのだ。 そこにあるのは、戦場における力学関係の物理学的表現である。 一見、マインドの状況を著しているように思えるマキアベリの『君主論』でさえ、全体像を考えると、矛盾を感じる。 マキアベリの場合、盟友であるダビンチがいなければ、さて、歴史に名を残すことが出来たのだろうか。 何しろ、彼の人生を垣間見れば、必ずしも、平坦とはいえないのである。

 話が右往左往するようだが、この問題は、この半年間、慣れない営業という世界で身を持って知った事実である。 出来上がったのは、NPOも含めて、NLPに従った人脈図なのだ。 姻戚関係、友好関係、公的関係、それぞれの力学関係、更に言えば、それぞれの関係が成立していく歴史的な事情、公開する心算はないが、営業活動というより、図式化された人間関係図は、少々その扱いには苦慮するのである。

 営業活動の経験がない。 しかし、情報収集の技術に対しては、恐らく得意な勘のようなものがあるのかもしれない? 知ることは苦痛でもある。 「ああ、そうだね。 君のところなら四五代前までなら追いかけられるよ」と。 全く困ったもだ。 歴史の勉強の怖さを知るのである。

Best regards
梶谷恭巨

 



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誕生日:
1947/05/18
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よろず相談家業
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歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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