柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 月曜日(6月25日)、河井継之助記念館友の会設立準備会の第三回目の会合があった。 場違いな感じがするが、これも何かの縁、今回も出席した。 主要なテーマは、第2条の目的と設立趣旨書の内容に関してである。 そこで、事前に、こうした記念館あるいは博物館などの支援組織の状況を調べてみた。 むしろ、書こうと思うのは、そのことである。

 準備会でも問題になったのが、「支援の範囲」である。 現在、行政改革の一環として、行政の軽量化が進展している。 記念館も、その対象になるようだ。 そうなると、「支援」は、運営にも繋がる。 運営を想定するのであれば、設立当初から、その事を反映した組織作りを行わなければならない。 こうした運営の民間移行の最初のケースが、「NPO・芦屋ミュージアム・マネージメント(AMM)」ではないだろうか。 ただ、ミュージアム・マネージメント学会という学会があるところを見ると、既に、形態の異なる、例えば、企業による運営管理は先行しているのかもしれない。

 少々回りくどい言い方になった。 日本では、参考になるケースが少なかったので、事例を海外に求めた。 私自身、昔から海外の博物館などの支援組織のメンバーになっていたことがあるので、ある程度の状況は解った積りであったのだが、ミュージアム・マネージメントという視点から考えたことがなかった。 ところが、「ミュージアム・マネージメント」という社名のコンサルタント会社が、米国・サンフランシスコにあるのだ。 米国内はもとより、広く海外の美術館や博物館のコンサルタントを勤めている。 最近の事例では、香港の美術館があった。 ホームページから知ることができる範囲は知れているが、コンセプトや基本的戦略については知ることができる。 一部を翻訳してみた。 粗訳だが以下の通り。 少々長いが転記する。

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戦略プランの要件

使命感(ミッション)
 使命感は次のことを明確にする:
(1) 存在の目的(存在意義)
(2) 誰のために在るのか(存在理由)
(3) 在る事による影響(インパクト)
使命感は、組織としての試金石であっリ、展示内容、施設計画や組織に関する重要な決定など、様々な意思決定の全てのガイドラインになるものである。

中心的価値観(コア・ヴァリュー)
 中心的価値観は、組織を動かすための信念にある。 中心的価値観は、日常の運営において最も重要であるものに焦点が置かれていなければならない。

展望(ビジョン)
 ビジョンは、将来、組織が如何にあるべきかを明確にする。 すなわち、野心の表明である。

目標(ゴール)
 ゴールは、「何を達成したいのか」という問いに対する答えである。 役員およびスタッフによって確認されたキーとなる領域に特定された幅広い表明として書かれなければならない。 例えば、継続的運用・維持管理のための財政戦略のような財務に関連した目標など。

l背景(コンテキスト): 背景には、各目標に対する現状評価が明示されなければならない。 背景は、「何故、目標が戦略プラン含まれているのか」と言う理由に対する大枠(フレームワーク)を明確にする。
l目的: 目的は、目標(ゴール)をサポートし、「目的が如何に達成されるか」を明らかにする。 例えば、「年間運営予算の33%をカバーするために、寄付金の額を増加させる」などの目標に関する目的など。
 O実施義務(アカウンタビリティ): 各員に目標達成を監督する義務を課す。
 O時間枠(タイムフレーム): 目標達成の期限を徹底する。
 O資源(リソース) : 表明した目標達成に必要な人員(ボランティアおよび専門家)と資金の必要性を徹底する。
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 とまあ、こんな具合だ。 当然、ノウハウなどは公開されない。 ただ、この内容を管見すると、何だかカルト的組織化戦略を思い浮かべる。

 そこで、最近まで最下位のレベルのメンバーだったNYの「メトロポリタン美術館」の事例を見よう。 ここでは、運営と支援が明確に分離されている。 運営は、まさに企業だ。 特典付き生命保険の販売までしているのだ。 一方、支援組織は、格差の世界だ。 最下位のメンバーシップは、$50から始まる(会報と四季報が配布されるのみ)。 そこから、実に、$2万まで、およそ12のランクがある。 そして、運営には一切関知しないのが原則。 云いかえれば、「金は出すが、口は出さない」と言うことなのである。 更に、この他に、2つのソサエティがある。 メトロポリタンの歴史は、一人のコレクタの絵画コレクションの寄贈に始まる。 最初は、セントラルパークに近い民家の改造だったようだが、当初から独立を意識し運営されたそうだ。

 「河井継之助記念館友の会」設立準備会の話が、あらぬ方向に向かったようだ。 ただ、将来、運営が民間へ委託されるのであれば、運営か支援かを意識しておく必要があるのではないか。 館長の稲川先生が、こんな事を言われた。 「民間に委託されるのなら、出来ることなら地元の業者である方がよい」と。 無縁の組織に運営されたのでは、継之助も浮かばれないのかもしれない。 あるいは、先見性のあった継之助のこと、全く別の見方をするのであろうか。

 余談だが、昨年の11月オープン以来、現在までの来館者数は、およそ9000人、しかも、リピータが多く、更に県外の人がほとんどだったそうだ。 中には、寄付の申し出をされる人も多々あり、記念館としては、それだけに、受け皿としての友の会の設立を急いでいるとのこと。 第一回の総会は、新暦だが継之助の命日に当たる8月17日に階差の予定、旧暦の命日には、第一回目の記念講演として、司馬遼太郎記念館の館長の講演を予定。 聞くところによれば、司馬遼太郎氏の意向(遺志)でもあったようだ。

Best regards

 司馬遼太郎の『峠』の中に面白いことが書かれている。 継之助は、母親似だと云うのだ。 その母親の趣味が算盤で和算の問題を解く事だとある。 そこで、小千谷の佐藤雪山(虎三郎)の通機堂の門人を調べてみると、長岡縁の門人は次の通りだ(『五十嵐秀太郎著『評伝・佐藤雪山』による)。

 助教・阿倍留吉正明(長岡中島)、学頭・南五兵衛亮方(長岡在寺島)、学頭・吉澤作右衛門義利(長岡千手)、高橋吉太郎知道(長岡藩)、小林常松泰(古志郡長岡)らが見える。 当時(幕末)、雪山の門人は、広く全国に及び、江戸・京都・富山・上州・下野・安芸・長州などに広がっていたようだ。 因みに、佐藤雪山は、関流和算の正統八伝(代と同様の意味)で、六伝・長谷川善左衛門(弘あるいは寛)社中列名に師である越後水原の七伝・山口坎山(倉八・和)と共に、「別伝(免許皆伝)」に名前があるから、その才能が全国に認められていたのである。

 そこで、門人録にある長岡縁の名前を調べるのだが、少なくともインターネットではヒットしない。 当時、和算は学問と言うよりは、趣味と見られていたようだから、研究者が少ないのかも知れない。

 ただ言える事は、当時、小千谷・柏崎・長岡近辺は、日本における和算の中心的存在であったのではないだろうか。 すなわち、佐藤雪山の後継者は、柏崎・茨目の村山雪斎(禎治)であり、その後、関流の正統は継承されていないのだ。 (但し、別説もあるようだが。)

 それではと、雪山の師である山口坎山の足跡を調べてみる。 坎山は、有名な『道中日記』を残している。 都合三回の旅をしているのだが、坎山が故郷水原を始め越後を旅したのは、第三回目だ。 この旅は、文政三年(1820)7月22日から文政五年12月1日までの約2年半に近い旅で、三回の中では最も長い。 この時、神田から信州を回り、直江津から日本海側を通って新潟・新発田まで行き、故郷水原に滞在している。 その後、信濃川沿いに長岡に至り、直江津に出て日本海沿いに関西に向かっている。

 この旅で、長岡に寄ったのは文政四年4月26日で、先ず悠久山の蒼芝(柴)神社に参拝している。 そこで、算額を見、書き写している。 『道中日記』の写真を見ると、詳細は不明だが、描かれた図形などから面積の問題のようだ。 この算額は、文化元年(1804)と寛政十年(1798)のものだから、和算が長岡で盛んであった事の査証ではないだろうか。 因みに、当時、坎山の門人が最も多かったのは、柏崎であるようだ。

 いずれにしても、長岡は信濃川水運の要の土地柄であったことが、和算を盛んにした背景にあるのではないだろうか。 しかし、それが、武家の奥方にまで及んでいた事実が、長岡藩の特異性を示しているように思える。 ただ、継之助の父親・代右衛門が新潟奉行をした時期があるので、その辺りの事情も考える必要があるのかも知れない。

 単なる推測の域を出ないが、継之助の人となり、あるいは、横浜におけるスネルとの交渉のエピソードなどを見ると、案外、母親の和算趣味、あるいは和算の盛んだった土地柄が大いに影響しているのではないだろうか。

 余談だが、山口坎山は、先にも書いたように三回の大旅行をしている。 そこで、少々この旅について触れておこう。 最初の旅(文化十四年4月、1817)は、神田から始まり、水戸街道を北上して、取手・上蛇村(水海道市上蛇町)・寺具村(つくば市寺具)・飯田・土浦・玉作(玉造町五町田)・鹿島・香取を巡り、江戸に帰っている。 二回目の旅は、同年十月、江戸を発ち、筑波・会瀬(日立)・岩沼・仙台・石巻から金華山を見、一旦石巻に返って、一ノ関・盛岡・むつ・大畑・恐山を回り、むつから日本海側に抜けて、能代・鳥海山・酒田・湯殿山・月山から、岩沼に還り、日立から笠間・小港・銚子などを巡り、江戸に帰っている。 三回目が今回採り上げた旅だが、これが最も長い旅だ。 直江津から先に進むと、金沢・福井・敦賀・京都・大津、琵琶湖を渡り長浜、南下して伊勢・松坂、鈴鹿越えで、奈良・吉野・和歌山、船で堺に至り、大阪・岡山、瀬戸内海を渡り、丸亀・金比羅・今治・松山、復瀬戸内海を渡り、広島・岩国・防府・小倉・唐津・伊万里・長崎・熊本・久留米(和算の盛んなところ)・宇佐・小倉から本州へ、更に広島から日本海・石見に抜け、出雲・鳥取・宮津、敦賀に還り、江戸に帰っている。 これらの旅を『道中日記』に詳細に記している。 それが、芭蕉の『奥の細道』に匹敵する旅日記と言われる所以である。 因みに、道中、門人あるいは他流の算額道場を訪れ、時には、教授あるいは道場破りのようなことも行っているようだ。 (佐藤健一著『和算家の旅日記』、伊達宗行著『和の日本史』ほか、東北大学和算アーカイヴなどを参照した。)

 和算は、明治以降、西洋数学によって影を潜めるのだが、江戸時代から明治初年における和算の意味は、単に数学史というより、社会あるいは歴史そのものに与えた影響が相当にあると考えるのだが、如何せん、微力、勉強不足で、確証に至らない。 ただ、この分野、数学としての内容よりも、文化として、実に面白い分野だとは思うのだが。

『柏崎通信』422号(2006年12月19日)から転載
 調査依頼をしていた山口県立岩国高校から回答があった。 その結果、岩国中学における羽石重雄校長の様子が、ある程度判明した。

 詳細は依然として不明だが、羽石校長は、九州の学校(校名不詳)から転任して明治42年(1909)4月に岩国中学の校長になった。 問題は、退任の経緯だ。 岩国高校の話によると、羽石校長は、大正1年末頃から校長排斥運動があり、翌大正2年2月依願退職していたのだ。 この経緯が、実に面白い。 何だか、夏目漱石の『ぼっちゃん』を髣髴させるエピソードがあるそうだ。 排斥運動の中心になったのは、8人の5年生。 その理由が、校長の金時計や洋装が気に食わないと言うのだ。 岩国中学は、藩校「養老館」の伝統受け継いで、当時も学生の間には質実剛健を良しとする気風があったようだ。 しかも、この羽石先生、新たに採用する教員を主に九州から求めたそうだ。 詳しい事は、校史にもかかれていないようだが、このエピソードは、後々まで語り継がれたようだ。 ただ、後日談だが、羽石校長は、実は、大変な人だと言うことが判り、関係者は、「慚愧に耐えなかった」と後になって悔やんだそうだ。

 前回、この依願退職の事実が判らなかったので、柏崎中学には、大正2年(1913)に着任かと推測していた。 確認のため、柏崎高校に問い合わせたところ、実は、大正4年2月着任と言う事実が判った。 そうすると、約2年間のブランクがある。 この間、継ぎの任地を探していたか、あるいは、一旦退職しているのだから、校長職の周旋運動(職探し)をしていたのだろうか。

 そこで、思い出したのが、夏目漱石の書簡のことだ。 明治39年、漱石は、畔柳芥舟(一校教授、くろやなぎかいしゅう)に長岡中学の英語教師の周旋を依頼されて、それに対する回答の書簡を出している。 次代が少々遡っているが、羽石重雄も、人脈を介して校長職の周旋を頼んだのではないだろうか。 柏崎中学は、明治33年(1900)高田中学の分校として開校し、翌年、創立記念式典を実施、明治35年新潟県立柏崎中学と改称している。 羽石重雄は、大正4年2月、柏崎中学の校長に就任しているが、この年の4月、設立15周年記念式典が行われていることから推測すると、矢張り強力な人脈があったと言うことだろうか。 改めて当時の教育人事に興味が湧いてくる。

 また、前回では、横山健堂・羽石重雄・杉の三人は、旧知の仲で、もしかすると、共に山口県出身あるいは旧制山口高校の同窓生ではないかと書いたのだが、横山健堂以外は、今のところ、何れの事実も特定できない。

『柏崎通信』377号(2006年9月1日)から転載
 生田萬を調べる上で参考にした資料の一つが、横山健堂(ペンネーム黒頭巾)が大正9年(1919)政教社刊『日本及び日本人(750号)』に掲載した『大塩平八郎と生田萬』だが、この冒頭に、この評論を書いた経緯が書かれている。

 先ず、その前に、横山健堂について説明する必要があるだろう。 横山健堂(達三)は、明治5年(1872、明治4年12月説もある)萩の生まれで、長門市深川湯本で育ち、旧制山口高校を経て東京帝国大学史学科卒業後、(大学院の時、駒澤大学の講師も務めている)、新聞記者(読売・毎日新聞)や大学教授(駒澤大学)を務めながら、「黒頭巾」と号して評論(特に、幕末前後の人物評伝)を書き、昭和18年に下関で没している。 因みに、父親、横山幾太郎は、松下村塾の出身。 九州大学在学中に川端康成らと詩会を創り、北原白秋や高浜虚子と親交のあった俳人・詩人の横山白虹(健夫)は、子息。

 横山健堂は、大正年間、柏崎を訪ねている。 文中の記述によれば、日本石油の技師・杉卯七の在籍20周年を祝うことと、柏崎中学校長の羽石重雄が、翌年長岡中学への栄転を祝するとあるが、三人は旧知の間柄であり、(推測の域を出ないのだが、供に山口県出身か、旧制山口高校の同級生ではないだろうか)、再会して旧交を温めるためだったのではないだろうか。 因みに、羽石重雄が栄転が翌年とあるから、長岡高校史から、その年が、大正5年と推測される。

 ここで、生田萬が話題と成り、結果として、『大塩平八郎と生田萬』が書かれたようだ。 ところで、今回興味を持ったのは、羽石重雄のことである。 参考にと調べていくと、次のような経歴が判った。

 岩国中学校長(明治42~大正2年、現山口県立岩国高校)→柏崎中学校長(大正2~6年、現新潟県立柏崎高校)→長岡中学校長(大正6~9年、現新潟県立長岡高校)→松本中学校長(大正9~昭和5年、現長野県立深志高校)

 判ったのは、これだけの経歴だが、これは何を意味するのだろうか。 当時の学制について詳しくない。 しかし、この移動の広さは、どうだろう。 岩国から柏崎へ、しかも、三人が会した時、話題に上ったのが生田萬だ。 直ぐに思い浮かんだのは、近藤芳樹である。 否むしろ、戊辰戦争以前で、長州と柏崎を結びつける人物は、星野藤兵衛と近藤芳樹の関係ぐらいしか思いつかないのだ。 そして、明治天皇行幸でも、近藤芳樹は随員として柏崎を訪れているのだ。 単なる推論にしか過ぎないが、近藤芳樹が、萩で家塾を開き、藩校明倫館で助教を勤めていること、更には、明治になり歌道御用掛・文学御用掛を歴任していることを考えると、羽石重雄が、岩国から柏崎へ職を移した要因になったのではないかと考えるのである。

 また、「杉」のいう名前にも興味を覚える。 吉田松陰の旧姓ではないか。 「杉氏」については、今のところ、それらしき資料が見当たらない。 しかし、この「杉氏」が、松陰所縁の人物であるとすれば、当に、ミステリーである。

 また、この履歴には、それ以上の意味があるのかもしれない。 いずれにしても、歴史における人の繋がりは、知的冒険の宝庫である。 身近なところから調べては如何だろう。 もしかすると、皆さんも、その面白さの虜になるのではないだろうか。

Best regards
梶谷恭巨

『柏崎通信』376号(2006年8月31日)から転載

 「歴史とは何ぞや」の自問に、最近の俗物的結論は、「何と金食い虫であることか」と、まさに俗物的な思いを抱く。 なけなしの金をはたいて、本を買えば、その本がまた、別な史料を要求する。 「これりゃとても」と、投げ出したくなる。 それに、確認の為に、各地の教育委員会や郷土資料館などに電話し、あわよくば、「コピーを送って頂けませんか」と尋ねてみたり、郷土史家の紹介をお願いする。 相手の迷惑も考えず、勇気を奮い起こし、連絡を取るのだが、大抵は不機嫌の臭いを感じる回答ばかりだ。 それでも、世の中は捨てたものではない。 有志、またそこに在り、また楽しからずやの心境である。

 さて、本論。 面白い事実を見つけた。 斎藤弥九郎の子息・新太郎の諸国遊歴の修行の旅に関する記述である。 弘化4年(1847)、恐らく父・弥九郎の意向あるいは思惑があったのかもしれないが、長男である新太郎は、門弟4人を連れて諸国修行に旅立っている。 その時の記録『諸州修行英名録』に、対戦相手に関する詳細が列記されている。 この中で、注目すべきは、越後での滞在と長州萩での滞在だ。 簡単に言えば、長
期間なのである。 但し、越後の場合は、事情が異なる。 この事実に、『剣客斎藤弥九郎』の著者も言及している。 因みに、この著者は、木村紀八郎氏、略歴を見ると、昭和15年生まれ、小豆島高校から防衛大学へ進まれた人のようだ。 残念ながら、御本人の詳細は不明。 綿密な検証である。 後進として感謝に堪えない。

 今関心のあるのは、越後における神道無念流だ。 時代を順に追えば、越後における神道無念流が文献上に、(私の知る限りのおいてだが)、登場するのは「生田萬事件」の鷲尾甚介と鈴木城之扶である。 共に、永井軍太郎の門人。 前者は尾張浪人、後者は水戸藩士。 問題は、時間的前後関係である。

 越後における神道無念流の歴史を考える場合、長岡藩士・根岸信五郎を考えなければならない。 しかし、根岸信五郎は、弘化元年(1844)の生まれであり、斎藤新太郎の遊歴の時代に直接の関係が無い。 そこで、根岸信五郎の件は、一旦措く事にする。

 斎藤新太郎が、最初に越後に来訪するのは、庄内・天童・山形の各藩を巡った後、越後・村上藩に始まる。 しかし、この間、特記すべき試合が無かったのか、詳細な記述がないようである。 次に、同年11月10日、新発田藩に入る。 ここには、直心陰流・男谷精一郎の高弟・窪田鐐三郎と溝口周太がいた。 門人を含め新太郎は、26名と試合をしているようだ。 詳細は省く。 その後、11月11日に越後國蒲原郡中村浜村、11月20日に水原で試合をしたとある。 ところが、それ以降の記述では、嘉永元年(1849)三月一日、新潟の鐘馗流・粕谷房之助の門人6名と試合したとあるのだ。 因みに、その間、嘉永元年(1848)、3月20日、下野で同門・家泉枡八方で試合し、同日、館林の直心陰流の飯塚剛一郎の門人13名と試合しているのである。 すなわち、この間、およそ三ヶ月が空白なのである。

 そこで、この年を調べてみると、先ず、越後にも影響を与えたと思われる「善光寺地震」が弘化4年3月に発生していることに気付く。 この地震は、相当なものであったようで、地震学会の史料を見ると、直江津・高田地域でも相当の被害があったようだ。 善光寺の地理的位置関係を考えると、関東から越後への幹線道路・三国峠の状況が想定される。 しかも、冬、通常は、この道は避けるだろう。 その為、新太郎一行が、北国道・北陸道を断念し、一旦、水戸を経由して江戸に帰ったことは想定できる。

 ところで余談だが、この一行の行動と吉田松陰の東北行には関係がある。 吉田松陰の『東北遊記』は、「辛亥の年(嘉永4年、1851)、12月14日、「巳時、櫻田邸を亡命す。 一詩を留めて伝はく。」と題し、「一別胡越の如く、・・・」で始まる五言古詩で始まる。 松蔭は、新太郎が萩に滞在し剣術と兵学を指導した時、何らかの影響を受けていたようで、斎藤弥九郎あるいは新太郎の紹介状を携え、言い換えれば、神道無念流の人脈を頼りに、東北・蝦夷の地を遊歴しているのである。

 問題にするのは、新太郎が「なぜ、中越・上越に来なかった」ということなのだ。 そこで、歴史を遡ること、天保8年(1837)の「大塩平八郎の乱」に深く関与している江川太郎左衛門、あるいは斎藤弥九郎が、同年の「生田萬事件」を知らない訳はないのである。 ましてや、同門・同流である鷲尾甚介、しかも鈴木城之扶は、後期水戸学における同志的存在であったのかもしれないのだ。 普通なら、その因縁を辿り、三条・長岡・柏崎を訪ねるのではないだろうか。

 当時の情勢を考えると、天保の飢饉以降に多発した米価の高騰やそれに伴うとも考えられる農民一揆や打毀しによる政情不安がある。 そこで、自己防衛の為、地方の豪農や富農に剣術を習う者が急増した。 斎藤弥九郎自身、越中富山の富農の出身である。 幕府が、農民層の剣術修練を黙認した背景にも、幕藩体制の中核を成す豪農・富農に対する懐柔策があったはずである。

 この辺りの事情は、天明の飢饉後における幕府・諸藩の対応と異なるようだ。 例えば、天明の飢饉に対しては、厳罰主義で望んでいる。 しかし天保の時には、江川太郎左衛門のように名代官との評判の高い行政官に広範囲な権限を与え、預け地として支配さえるとか、藩政改革に業績を上げた諸藩に支配を委託する傾向があるように思える。 江川の場合は、甲斐国都留郡、後には甲府近隣まで、また、会津藩などには、小千谷などの天領を預け地としている。 更に、交通などの要衝の地では、代官人事、所管の変更、あるいは支配地の変更などが、頻繁にあったようだ。 現在の上越市に隣接する吉川町などでは、所管の代官所あるいは藩が頻繁に変遷しているのである。 余談だが、幕府代官の手付・手代に親戚の多かった石黒忠悳の自伝を見ると、任地の変更が頻繁にあったとある。

 特に、支配地の入組んだ越後の場合、幕府・諸藩の対応が複雑に思える。 しかも、「生田萬の乱」には、その規模以上に神経を尖らせている。 平田篤胤が、屋代弘賢など幕府の中枢に関係を持ちながら、事件への関与を理由に中追放の処分を受けたことでも、越後に対する関心が高かったことが伺えるのである。 因みに、この事件の後、越後における平田国学は衰退していく。 その事は、(以前、紹介した)篤胤の養子・平田銕胤が越後小千谷の門人に出した書簡でも伺えるのである。

 また、「生田事件」の前後、藍澤南城が、中越を中心にして、所謂「大旅行」を行っている。 南城の三余堂には、当時の社会の中核を成した富農・神職・僧侶の子弟が多かった。 代官所・関連諸藩が、情勢把握と安定の為に、藍澤南城を起用したと考えることも出来るのである。 因みに、南城は、この旅行の後、名字帯刀を許されている。

 神道無念流についても同様のことが言えないだろうか。 「生田萬事件」の首謀者の三人までが、永井軍太郎の門人であったことは重要でる。 斎藤新太郎が、表面だって、問題の地域である中越地方を訪ねることには幕府に対する遠慮があったと考えられないだろうか。 また、その地域の門人にしても同様である。 このように考えると、空白の三ヶ月間に意味があるように思えるのである。

 当時、越後は、一般的に辺境の地と思われていたようだ。 領地が入組んでいる為、所謂「無宿人」などが横行し、治安状況も悪かったようだ。 司馬遼太郎の『峠』にも、その辺りの事が記されている。 しかし反面、アウトローが英雄にもなる西部劇的自由があったのではないだろうか。 飛躍すれば、日本には数少ない「フロンティア」ではなかったか。 幕末から明治にかけて、傑出した人物が越後から多く輩出されている。 しかも、路線に乗って出世した人物は少ない。 ある者は、民間で、またある者は、官界で、分野は多岐にわたる。 学者から企業家まで、今まで採り上げただけでも、実に面白い人物が多いのである。 どうも、フロンティアから生れる人物像が見えるのである。

 話が、神道無念流から逸脱していると思われるかもしれない。 しかし、先ず武をもって身を守らなければ為らないフロンティ越後であればこそ、「武術」が、幕末動乱の越後で果たした役割は大きいのではないだろうか。 その「武術」の一流である神道無念流が、「生田萬事件」に深く関与し、その後の越後近代史に大きな影響を与えたのではないかと考えるのだが、斎藤弥九郎の空白の三ヶ月と同様に、鷲尾甚介・鈴木城之扶から根岸信五郎までのミッシング・リングを未だ見出せないのである。

『柏崎通信』438号(2007年2月16日)より転載



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1947/05/18
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