柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 「歴史とは何ぞや」の自問に、最近の俗物的結論は、「何と金食い虫であることか」と、まさに俗物的な思いを抱く。 なけなしの金をはたいて、本を買えば、その本がまた、別な史料を要求する。 「これりゃとても」と、投げ出したくなる。 それに、確認の為に、各地の教育委員会や郷土資料館などに電話し、あわよくば、「コピーを送って頂けませんか」と尋ねてみたり、郷土史家の紹介をお願いする。 相手の迷惑も考えず、勇気を奮い起こし、連絡を取るのだが、大抵は不機嫌の臭いを感じる回答ばかりだ。 それでも、世の中は捨てたものではない。 有志、またそこに在り、また楽しからずやの心境である。

 さて、本論。 面白い事実を見つけた。 斎藤弥九郎の子息・新太郎の諸国遊歴の修行の旅に関する記述である。 弘化4年(1847)、恐らく父・弥九郎の意向あるいは思惑があったのかもしれないが、長男である新太郎は、門弟4人を連れて諸国修行に旅立っている。 その時の記録『諸州修行英名録』に、対戦相手に関する詳細が列記されている。 この中で、注目すべきは、越後での滞在と長州萩での滞在だ。 簡単に言えば、長
期間なのである。 但し、越後の場合は、事情が異なる。 この事実に、『剣客斎藤弥九郎』の著者も言及している。 因みに、この著者は、木村紀八郎氏、略歴を見ると、昭和15年生まれ、小豆島高校から防衛大学へ進まれた人のようだ。 残念ながら、御本人の詳細は不明。 綿密な検証である。 後進として感謝に堪えない。

 今関心のあるのは、越後における神道無念流だ。 時代を順に追えば、越後における神道無念流が文献上に、(私の知る限りのおいてだが)、登場するのは「生田萬事件」の鷲尾甚介と鈴木城之扶である。 共に、永井軍太郎の門人。 前者は尾張浪人、後者は水戸藩士。 問題は、時間的前後関係である。

 越後における神道無念流の歴史を考える場合、長岡藩士・根岸信五郎を考えなければならない。 しかし、根岸信五郎は、弘化元年(1844)の生まれであり、斎藤新太郎の遊歴の時代に直接の関係が無い。 そこで、根岸信五郎の件は、一旦措く事にする。

 斎藤新太郎が、最初に越後に来訪するのは、庄内・天童・山形の各藩を巡った後、越後・村上藩に始まる。 しかし、この間、特記すべき試合が無かったのか、詳細な記述がないようである。 次に、同年11月10日、新発田藩に入る。 ここには、直心陰流・男谷精一郎の高弟・窪田鐐三郎と溝口周太がいた。 門人を含め新太郎は、26名と試合をしているようだ。 詳細は省く。 その後、11月11日に越後國蒲原郡中村浜村、11月20日に水原で試合をしたとある。 ところが、それ以降の記述では、嘉永元年(1849)三月一日、新潟の鐘馗流・粕谷房之助の門人6名と試合したとあるのだ。 因みに、その間、嘉永元年(1848)、3月20日、下野で同門・家泉枡八方で試合し、同日、館林の直心陰流の飯塚剛一郎の門人13名と試合しているのである。 すなわち、この間、およそ三ヶ月が空白なのである。

 そこで、この年を調べてみると、先ず、越後にも影響を与えたと思われる「善光寺地震」が弘化4年3月に発生していることに気付く。 この地震は、相当なものであったようで、地震学会の史料を見ると、直江津・高田地域でも相当の被害があったようだ。 善光寺の地理的位置関係を考えると、関東から越後への幹線道路・三国峠の状況が想定される。 しかも、冬、通常は、この道は避けるだろう。 その為、新太郎一行が、北国道・北陸道を断念し、一旦、水戸を経由して江戸に帰ったことは想定できる。

 ところで余談だが、この一行の行動と吉田松陰の東北行には関係がある。 吉田松陰の『東北遊記』は、「辛亥の年(嘉永4年、1851)、12月14日、「巳時、櫻田邸を亡命す。 一詩を留めて伝はく。」と題し、「一別胡越の如く、・・・」で始まる五言古詩で始まる。 松蔭は、新太郎が萩に滞在し剣術と兵学を指導した時、何らかの影響を受けていたようで、斎藤弥九郎あるいは新太郎の紹介状を携え、言い換えれば、神道無念流の人脈を頼りに、東北・蝦夷の地を遊歴しているのである。

 問題にするのは、新太郎が「なぜ、中越・上越に来なかった」ということなのだ。 そこで、歴史を遡ること、天保8年(1837)の「大塩平八郎の乱」に深く関与している江川太郎左衛門、あるいは斎藤弥九郎が、同年の「生田萬事件」を知らない訳はないのである。 ましてや、同門・同流である鷲尾甚介、しかも鈴木城之扶は、後期水戸学における同志的存在であったのかもしれないのだ。 普通なら、その因縁を辿り、三条・長岡・柏崎を訪ねるのではないだろうか。

 当時の情勢を考えると、天保の飢饉以降に多発した米価の高騰やそれに伴うとも考えられる農民一揆や打毀しによる政情不安がある。 そこで、自己防衛の為、地方の豪農や富農に剣術を習う者が急増した。 斎藤弥九郎自身、越中富山の富農の出身である。 幕府が、農民層の剣術修練を黙認した背景にも、幕藩体制の中核を成す豪農・富農に対する懐柔策があったはずである。

 この辺りの事情は、天明の飢饉後における幕府・諸藩の対応と異なるようだ。 例えば、天明の飢饉に対しては、厳罰主義で望んでいる。 しかし天保の時には、江川太郎左衛門のように名代官との評判の高い行政官に広範囲な権限を与え、預け地として支配さえるとか、藩政改革に業績を上げた諸藩に支配を委託する傾向があるように思える。 江川の場合は、甲斐国都留郡、後には甲府近隣まで、また、会津藩などには、小千谷などの天領を預け地としている。 更に、交通などの要衝の地では、代官人事、所管の変更、あるいは支配地の変更などが、頻繁にあったようだ。 現在の上越市に隣接する吉川町などでは、所管の代官所あるいは藩が頻繁に変遷しているのである。 余談だが、幕府代官の手付・手代に親戚の多かった石黒忠悳の自伝を見ると、任地の変更が頻繁にあったとある。

 特に、支配地の入組んだ越後の場合、幕府・諸藩の対応が複雑に思える。 しかも、「生田萬の乱」には、その規模以上に神経を尖らせている。 平田篤胤が、屋代弘賢など幕府の中枢に関係を持ちながら、事件への関与を理由に中追放の処分を受けたことでも、越後に対する関心が高かったことが伺えるのである。 因みに、この事件の後、越後における平田国学は衰退していく。 その事は、(以前、紹介した)篤胤の養子・平田銕胤が越後小千谷の門人に出した書簡でも伺えるのである。

 また、「生田事件」の前後、藍澤南城が、中越を中心にして、所謂「大旅行」を行っている。 南城の三余堂には、当時の社会の中核を成した富農・神職・僧侶の子弟が多かった。 代官所・関連諸藩が、情勢把握と安定の為に、藍澤南城を起用したと考えることも出来るのである。 因みに、南城は、この旅行の後、名字帯刀を許されている。

 神道無念流についても同様のことが言えないだろうか。 「生田萬事件」の首謀者の三人までが、永井軍太郎の門人であったことは重要でる。 斎藤新太郎が、表面だって、問題の地域である中越地方を訪ねることには幕府に対する遠慮があったと考えられないだろうか。 また、その地域の門人にしても同様である。 このように考えると、空白の三ヶ月間に意味があるように思えるのである。

 当時、越後は、一般的に辺境の地と思われていたようだ。 領地が入組んでいる為、所謂「無宿人」などが横行し、治安状況も悪かったようだ。 司馬遼太郎の『峠』にも、その辺りの事が記されている。 しかし反面、アウトローが英雄にもなる西部劇的自由があったのではないだろうか。 飛躍すれば、日本には数少ない「フロンティア」ではなかったか。 幕末から明治にかけて、傑出した人物が越後から多く輩出されている。 しかも、路線に乗って出世した人物は少ない。 ある者は、民間で、またある者は、官界で、分野は多岐にわたる。 学者から企業家まで、今まで採り上げただけでも、実に面白い人物が多いのである。 どうも、フロンティアから生れる人物像が見えるのである。

 話が、神道無念流から逸脱していると思われるかもしれない。 しかし、先ず武をもって身を守らなければ為らないフロンティ越後であればこそ、「武術」が、幕末動乱の越後で果たした役割は大きいのではないだろうか。 その「武術」の一流である神道無念流が、「生田萬事件」に深く関与し、その後の越後近代史に大きな影響を与えたのではないかと考えるのだが、斎藤弥九郎の空白の三ヶ月と同様に、鷲尾甚介・鈴木城之扶から根岸信五郎までのミッシング・リングを未だ見出せないのである。

『柏崎通信』438号(2007年2月16日)より転載


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