柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 震災後、初めて本町通にあるスーパーに行った。 本町通から見れば地下に当たる、このスーパーも営業しているのだが、完全に復旧しているようには見えなかった。 よく見ると、床や壁面に亀裂が走っている。 駐車場は更にひどい。 本町通でも、この地域は再開発された近代的町並みに思えたのだが、被害を免れることはできなかったようだ。 余談だが、この再開発には、私が過って席を置いた旧社会調査研究所が関与しているのだから、複雑な心境である。

  柏崎の本町通は、地形的には小高い丘の峰に沿って開けた街だ。 江戸後期の地図(天保国絵図)を見ると、柏崎そのもの石高は、確か三百数十石だったと記憶するので、周辺の村と比べても、それ程石高が高いほうではない。 要するに、柏崎は、本町通を中心とする商業によって成り立っていた町なのである。 因みに、正確に調べてみると、柏崎の石高(370石)、隣接する中浜村(30石)、枇杷島村(2449石)、私の住む下方村(340石)、植木君の住む上・下田尻が合わせて1100石である。

  以前に書いたことがあるが、柏崎は伊勢・桑名藩の飛び領である。 しかし、単なる飛び領ではない。 桑名藩が支配する領域は越後一円に広く、11万余石の石高があり、長岡藩が7万余石であったことを考えれば、その石高の大きさが分かる。 それが柏崎に集積されたのである。 更に、越後の縮緬問屋が、柏崎に集中していたのだ。 このことからも、当時の柏崎の殷賑ぶりが伺えよう。 そして、その中心が本町通なのだ。

  桑名藩の支配地では、文政年間、所謂「文政三条地震」といわれる今回の地震を上回る直下型の地震が起こっている。 先ず、その時のデータがインターネットに公開されているので紹介しよう。  http://www.saigaidensho.soumu.go.jp/saigai/import.2006-12-27.190840/ 

 以下、本文: *************** 
【災害名】文政三条大地震【発生日時】文政11(1828)年11月12日【被災地】新潟県三条市周辺【災害の概要】地震の規模マグニチュード6.9の直下型地震。震源地は北緯37度6分、東経138度9分で、栄町芹山付近とみられる。被害地域は、信濃川に沿った長さ25㎞に及ぶ楕円形の地域で、三条・燕・見附・今町・与板などの家屋はほとんど全壊した。被災地域全般で全壊1万2859軒、半壊8275軒、焼失1204軒、死者1559人、怪我人2666人、堤防の欠壊4万1913間という大きな被害であった。【教訓等】三条市八幡町にある真言宗泉薬寺境内に地震供養塔、東裏館の真言宗宝塔院境内には地震亡霊塔(市指定文化財)がある。また、地震から4年後の天保3(1832)年8月には、地震による多数の物故者を菩提のため、浄土真宗本願寺派の三条別院が建立された。年々、地震の日の11月12日を宗祖の報恩講の初日として、震災物故者の追悼供養が営まれてきた。さらに地震の翌年には、震災の惨状を詠み込んだ「ごぜくどき」が広く流布した。三条大地震にまつわるごぜくどきには、『ごぜ口説地震の身の上』と『越後地震口説』の2冊の版本が現存する。
 ************** 
 三条の一部は、桑名藩領だった。 ここの庄屋だった、(記憶が定かでないのだが)、柏崎・荒浜出の宮嶋氏(?)が、その時の様子を日記に残している。 確か、所用で外出中に地震が発生し、急ぎ帰宅しようとするのだが、侭ならない。 絵心が合ったのだろう。 その時の心境と被災の様子を絵日記に書いているのだ。 

 前置きが長くなったのだが、越後には、「百年に一度大地震があり、しかも連続して起こる」という伝承があるそうだ。 それが教訓として語り継がれていたはずなのである。 地震の後、六日町の遠藤さんから、そのようは話も伺った。 恐らく、遠藤さんの話に出る大地震とは、弘化4年(1847)の善光寺地震によるものではないかと推測するが定かではない。 この時は、上越地方も可也の被害が出た云う。要するに、先人は、こうした震災に対して、多くの教訓を残しているのだ。

  こうした災害史を追う中で、「防災」ではなく「備災」というコンセプトが必要だと考えた。 しかし、どうも、それでは足りないと感じるのだ。 すなわち、「知災」というコンセプトが浮かぶのである。 百年も経てば、人々は、被災の記憶、教訓の伝承は失われるのであろうか。 しかし、先の遠藤さんの話もある。 記憶は伝承されるが、意識の奥に埋没されてしまうのではないか。

  余談だが、昨日のTVで、三陸津波の特集を放送していた。 この時のことが、ナショナル・グラフィックに掲載されたそうだ。 確か、NGに日本のことが掲載された最初の記事だったと云う。 4枚の写真が掲載されたそうだ。 この時、外国人2名が犠牲になっている。 確かフランス人宣教師ではなかったか。

  いずれにしても様々な形で、被災の惨状と、それに対する教訓が継承されていることは事実なのである。 しかし、その事実は埋没しているのだ。 歴史を考える場合、常に、その当時の時代背景を考える。 しかし、同時に災害史も関連付ける事にしている。 災害が歴史に与える影響が不可避的に重要だと考えるからだ。 自然災害のみではない。 しかし、それが、その後に起こる人災に多大な影響を与えていると考えるのだ。 江戸後期には、多くの自然災害が記録されている。 地震、洪水、飢饉、様々な災害が、その後の世情、例えば、「ええじゃないか」の大流行、更に人災でもある戊辰戦争へと繋がる。 私が、歴史における感情の継承というのは、こうした災害の心理の影響が、初めは顕著に、時間の経過とともに潜在化するが、決して、消滅するものではないと考えるからだ。 そして、その事が、何かを引き金として、改めて確認されると想定するのだ。

  話が横道にそれそうだが、災害を考える時、技術的な危機管理の問題では、災害時に対応できないのではないかと危惧するのだ。 すなわち、「知災」というコンセプトを言うのは、「備災」の前提に、孫子ではないが、先ず「彼を知り、己を知る」ことが必要だと考えるからだ。

  余談だが、「文政三条地震」について、最も研究していたのが東電の研究所なのだ。 調べてみると、東電の研究者の発表した論文が多いのである。 何と言う皮肉であろうか。 記憶している論文では、地質学的研究論文もあるのである。

  いずれにしても、既に起きた災害である。 私自身、大した物理的被害を受けた訳ではないのだが、しかし、心理的影響を未だに拭い去ることができない。 「備災」と提唱し、幾つかの企画を書き、また、その為ばかりではないが、救命員の講習も受け、FEMAを始め各国の体制・状況を調べ、必要なものは翻訳し、必要と考える資料は収集した。 しかし、何だったのかと空しさを覚えるのだ。  NPOも何処へやら。 「備災」は、個人的レベルでは或る程度実現した。 しかし、今、それをとやかく言う立場には無い。 ただ、「知災」となれば、個人レベルでも可能な分野だ。 今まで歴史追及を継続すればよいのである。 もっとも、酔狂老人の閑言にしか過ぎないのだが。

『柏崎通信』、514号から転機 

 尚、『柏崎通信』、配信の御希望があれば、コメントに一言。

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