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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 お盆である。 もう長いこと、広島に墓参りに行けない状況が続いている。 広島のお盆の風物詩、色とりどりの支柱に四角錘を逆さに乗せたような盆灯篭も久しく見ない。 月性の詩、「男子志を立て、郷関を出ず、学もし成らずんば死すとも帰らず。骨をうずむ豈ただ 墳墓の地のみならんや。人間いたる処青山あり」を懐に、新
潟に来て早四半世紀、学もならず、既に秋声を聞く。

 まあ、そんなことを言ったところで始まらない。 唯、進むのみである。

 ところで、先ほどのニュース(8月13日)で、柏崎の西本町にある真宗大谷派の聞光寺の様子が映っていた。 現在の住職が25代目と云うから、歴史のある名刹と言えるだろう。 しかし、聞光寺には知られざる歴史がある。 維新・明治の歴史に、1つのエピソードを残しているのだ。

 後に明治天皇の和歌の師ともなる近藤芳樹は、戊辰戦争以前、国学の縁を頼って、隠密裏に越後を周遊する。 恐らく、偵察行であったのではなかろうかあろう。 頼ったのは、星野藤兵衛である。 ただ、前後の経緯と考えると、むしろ星野藤兵衛とは親戚に当たる詠帰堂二代目星野鏡里あるいは三代目介堂との接点が在った為ではなかろうか。 鏡里は、古賀謹一郎・茶渓の家臣で水戸学を学んだ国学者でもある藤森弘庵と同門(久敬舎・古賀家の家塾)であり、子・介堂は、藤森弘庵(安政の大獄で中追放)の門人である。 因みに、河井継之助も古賀茶渓の久敬舎で学んでいる。 序に言えば、頼三樹三郎が柏崎を訪ねるのも、この縁ではないかと推測するのだが、定かではない。

 戊辰戦争・北越戦争が始まると、近藤芳樹の周旋が功を奏したのか、星野藤兵衛は官軍方に与し、柏崎を戦火から救ったと云われる。 しかし、この事が影響したのか、明治になり、星野家は没落したと云う。

 聞光寺が登場するのは、明治11年の天皇行幸の時である。 明治天皇は、柏崎を二度訪れている。 行きと還りにである。 因みに、曽地峠は、その時に開削された。 柏崎の行在所は、今の柏崎小学校だったが、侍従として随身していた近藤芳樹は、聞光寺を宿舎とした。 そこに、夜中人目を忍んで訪ねた人たちがいた。 星野藤兵衛の弟と子息であったと記憶する。 星野家の両名は、近藤芳樹に星野家の惨状を訴えに来たのである。 詳細は不明だが、近藤芳樹は、復路、再開を約束した。 恐らく、明治天皇に上奏したのではあるまいか。 再開の時、星野藤兵衛に正(従)四位を追贈され、当時の金額で1000円を下賜されているのだ。

 この時の事は、近藤芳樹が行幸の様子を書いた『陸路廻記(くぬかちの記)』に書かれている。 実は、この辺りの事情を聞光寺に尋ねようと考えていたのだ。 近藤芳樹についても、明治以降の事は、ある程度調べることが出来るのだが、戊辰戦争以前のことが判然としないのである。 また、星野藤兵衛が、この地域では有名な豪商であり、御殿山にあった云う屋敷には、多くの文人墨客を招いたことも知られている。 しかし、藤兵衛自身が、国学との直接的関係があったという史料に当たらない。 そうなると、星野家三代(鵜水・鏡里・介堂)との関係を推測することになる。 星野三代は、代々、古賀家の家塾・久敬舎で学んでいる。 鵜水は古賀精理
に、鏡里は洞庵、そして、介堂は茶渓にである。 古賀家の家学は朱子学ではあるが、必ずしも、それに囚われていない。 藤森弘庵が、古賀家の家臣であったことも、それを物語る。 河井継之助が茶渓に学んだ(?)のも、古賀家に陽明学の伏流があるからである。

 要衝である柏崎が、予想外の速さで陥落する背景には、間違いなく、星野藤兵衛の尽力がある。 更に、憶測すれば、柏崎の国学の歴史は、生田萬に始まると言っても過言ではない。 ここには平田国学の流れがある。 しかし、国学を標榜した学者は、柏崎にはいないのである。 恐らく、生田萬事件の影響であろう。 しかし、近藤芳樹と星野藤兵衛の関係から推測すれば、間違いなく国学が伏流水の如く流れていたのは事実で
はないだろうか。 そのキーが、聞光寺にあったのではないかと考えると、聞光寺全壊の映像は、大きなショックであったのだ。

 それが、このお盆、倒壊した墓石も、可能な限り修復され、倒壊さした本堂から避難した御本尊も、映像に写っていた。 我家は、浄土真宗、石山本願寺攻防戦では、門徒宗として兵も出し、太閤の世には、二度の朝鮮の兵役に参戦し、『さやか伝説』が形を変えて残っている。 浄土真宗でに、「御同行」と言う言葉がある。 戦国時代から、その連携は全国に及び、戦国大名を震撼させた存在である。 江戸期、家康の意向で、東西に分かれたとしても、その根源は、親鸞にあり、蓮如にある。 聞光寺の惨状には、西の者にも、訴える。 因みに、若井は、御東さん。 明治13年、全焼しているのだが、何かが残っていないだろうかと、思い続けたことが、今回の地震で消えてしまうのではないかと危惧するばかりだ。

 最近は、ほとんどゆとりがなく、この歴史的ミステリーを追いかける暇もない。 歴史的背景から、あるいは今の風潮から、柏崎、あるいは奥羽列藩同盟の戦った北越戦争の本来の人心地図はタブー視される。 (私は、そう考えている。) 何とも難しい世界だ。 唯、敢えて言えば、私自身、柏崎とは無縁でない。 余計なことかも
しれないが、我家はの本姓は齋藤氏。 毛利氏に随身して400数十年、天文11年(1542)、尼子氏と戦争に備え、大田川と水内川の合流地点に城砦を構えた。 今の推測を言えば、我が斎藤一族は、毛利氏と行動を共にした越後斎藤氏なのである。 梶屋の屋号を梶谷を姓としたのは、明治の時、廻船を家業とし、砂鉄・薪炭、初期には金を扱った。 北前港に名残がある。 福井・石川に、その名が残る。

 26年前の4月29日、柏崎駅に降り立った時の感覚、「ああ、もしかすると、ここが終の地か」と。 もしかすると、500年の歳月を経て、18代目であるべき私が、この地に来たのは、必然であったのかもしれない。

 聞光寺の話が、何とも思わざる方向に向かってしまったものだ。 しかし、聞光寺の歴史の中に、戊辰戦争・北越戦争の行方に、キーワードとしての何かがあったことは確かなのである。 因みに、明治天皇についての評伝として有名なドナルド・キーンの『明治天皇』には、柏崎行幸に関する記述は、僅か数行しかないのだ。

 今日、中国の人である若き有能な将来を期待される画家、崔君曰く、「柏崎は、今まで大きな地震に見舞われたことはないそうですね?」 災害史の中に、確かに、柏崎が大きな地震に見舞われたことはないのだ。 最も近いところで、「三条大地震」があるが、確かに、歴史に残る震災はないのだ。 さて、これを、どう解釈すればよいのだろう。 課題である。

 結局、先回も書いたと思うが、問題は、心である。 心理である。 心情である。 言い方は別として、常在戦場の心がけが、結局は、後々に影響する。 聞光寺の惨状を見て、その歴史的背景を思った人はいるのだろうか。 聞光寺の現住職は、家でもある庫裏はさて措き、先ず墓石の修復を行ったそうだ。 お盆、先祖は、その心情を異次元から見ているのかもしれない。

 『柏崎通信』(518)から、訂正と修正を加えて転載した。

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コメント
無題
長すぎ
【2010/08/18 20:13】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]
確かに、長過ぎ
 ご指摘の通りです。 それでも、ブログ版『柏崎通信』は、まだよい方ですよ。 非公開の配信版は、現在、800号余、人の迷惑も考えず、長さと云う点においては、こんな調子で書いています。 ブログ版は、その中から、取り敢えず、公開しても良いと思うものを編集したり、訂正したりしながらアップロードしています。 ご容赦。

 ところで、寄せられたコメントは、「聞光寺」に関するもの。 何処が、貴兄の関心を引いたのか、むしろ、その方に興味津々。

 ご意見など、聞かせていただければ幸いです。

Best regards
梶谷恭巨
【2010/08/18 23:39】 NAME[梶谷恭巨] WEBLINK[] EDIT[]


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