柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 『ある旧制中学校長の足跡(続)』(377号)を書いて、もう一年が経つ。 中々資料が無く手詰まりの状態だったが、ミッシング・リンクの一つが見つかったように思える。 未だ確信は無い。 しかし、方向が見えてきたのだ。

 先日、一冊の本を見つけた。 中島欣也著『明治熱血教師伝』という。 長岡の互尊文庫の郷土関連図書のコーナーで、特に目的も無く、書名を追いかけていた。 その時、目に止まったのが、この本である。

 ちょっと本題に入る前に、説明したいことがある。 長岡の図書館に行く目的のことだ。 最近は、「個人情報保護法」に阻まれて、インターネットで企業情報を集めるにも苦労する。 そこで、一つの解決策として、過去から現在に向かって調べていくことを思いついた。 その一つの基点になるのが学校である。 しかし、こちらにも「個人情報保護法」の壁がある。 50年目くらいだと、その壁を乗り越えることが出来ない。 少なくとも百年前に遡る必要があるのだ。 そこにキーパーソンを求める。 そして、歴史を下るのである。

 さて、本題に入ろう。 (以下、敬称を略す。) 明治44年(1911)12月、旧制長岡中学の本富安四郎という先生が、長岡市立小学校校長会で講演した時の講演録が市立中央図書館に残っていた。 ガリ版刷りを、後に手書きにしコピーしたものだろう。 題して、『長岡藩史』という。 実は、この本富先生なる人物に興味を覚えていた。 偶然、互尊文庫で目にした『明治熱血教師伝』は、この本富安四郎と、その本富を長岡中学に招聘した坂牧善辰のことを書いた本なのである。 ただし、この中には、羽石重雄の事は出てこない。

 前後の関係を説明する為に、二人の略歴を書く必要がある。 本富安四郎の父・寛之丞(寛居)は、戊辰戦争時代、150石の長岡藩士で、恭順派に属していた。 しかし、一旦、戦になると一隊の隊長として奮戦している。 その三男として今朝白に生まれたのが、安四郎だ。 戦後苦学して、私立東京英語学校夜間部を卒業、そこで知り合った友人の縁で、鹿児島県の宮之城町立盈進小学校の第4代校長に就任している。 当時の回想録が、『薩摩見聞記』だ。 多才な人であったようで、『新案緩和字典』を著すほか、「実用軽便通話器」という実用新案まで取得している。 いずれにしても、旧制長岡中学・現長岡高校史を通じて、最も興味深い人物の一人である。 着目したのは、敵国、薩摩の小学校の校長になっていることだ。 後に、これがキーワードになる。

 坂牧善辰は、本富を長岡中学に招聘した当時の校長である。 この人も面白い。 有名になるのは、夏目漱石が、『野分』の主人公のモデルとしたからである。 漱石とは、同級生であり、往復の書簡が残っている。 クリスチャンである。 余談だが、そこで、関連してくるのが、『武士の娘』の著者・杉本鉞子との関係だ。 杉本
鉞子は、渡米する前の4年間、青山女学校で学んでいる。 クリスチャン系の学校である。 杉本鉞子は、そこで授洗しているのだ。 坂牧善辰は、その後(明治39年9月、詳細は調査中)、鹿児島県立第二鹿児島中学の初代校長として赴任している。 更に、明治42年には、鹿児島県立川辺中学校長、大正2年に、同・川内中学校長、最後に(大正4年9月)、故郷に近い新潟県立三条中学校長に着任した。 その時、経緯は不明だが、二人の教師を鹿児島から伴ってくる。 後に、県立新発田高等女学校校長になる小川景重、県立六日町中学初代校長になる手塚義明である。 矢張り、キーワードになるのが、敵国であった薩摩の教育の重鎮になっていたことだ。 (漱石の書簡集に関しては、私自身に錯誤あるのか、少々検討すべき点がる。 又別の機会に書きたい。)

 中島氏も、キーワードに着目されたのだろう。 ただ、私が着目したのは、坂牧善辰が長岡中学校長を辞任するに至った「和同会事件」の経緯と、その後任として着任した橋本捨次郎のことだ。 実は、前任地が、山口県立岩国中学なのである。

 覚えておられるだろうか、羽石重雄は、岩国中学から、柏崎中学、そして長岡中学の校長に就任しているのだ。 すなわち、冒頭に書いたミッシング・リンクが、橋本捨次郎ではないかと推測するのだ。

 更に、面白い事実を発見した。 筑後柳河の安東省菴について何回か書いたが、その伝統を引き継ぐ福岡県立伝習館中学(現高校)と長岡中学にリンクがあったのだ。 長岡中学が、様々な経緯の後、古志郡立長岡尋常中学として発足したときの初代の校長である仙田楽三郎(長岡藩士)が、伝習館中学の校長として、赴任しているのである。

 この事実は、実の興味深い。 先に書いた如く、登場人物の一人、本富安四郎の姓、「本富」から類推すると、この家系に興味を覚える。 何故なら、「X富」の姓は、九州か、更に遡れば、東北を推測するのである。 柳河(柳川)に友人(先輩、我夫婦の仲人)がいる。 彼の先祖は、伊達家から立花家へ輿入れの際、仙台から付
き従った家系と聞く。

 こうした人のつながりを見ていくと、「スモールワールド」に思い至る。 「6次の隔たり」よりも、もっと近い歴史上の人物のつながりが見えてくる。 人と人とのつながりは、案外、階層構造になっているのかもしれない。 下の階層から上の階層に行くに従い、「隔たり」が広がるのか、あるいは「隔たりの次数」が増えていくのか。 これは、重要なことに思える。 「隔たりの次数」と「格差社会の構造」には、関係があるのではないだろうか。 考えてみる必要がある。

Best regards
梶谷恭巨


コメント
鹿児島から新潟へ
小生、手塚義明の出身地山梨県高根町の手塚一族に所縁のあるものです。手元に氏の自伝がありまして、鹿児島から新潟に来た経緯を記しています。

それによりますと、小川氏とは「お互いに骨は拾ってやる」という同郷の盟友だったそうです。手塚が福島師範学校教諭時代に鹿児島にいた小川氏から勧誘を受け川内中学校に行ったようです。

その後、坂牧校長が川辺中より赴任され同じ中学で勤務するが、橋本という教務主任との折り合いが悪く、県も介入して三条中の校長と交換ということになったようです。

その時、坂牧校長は手塚を呼んで「自分はここを去って新潟の三条中学校に帰ることとなった。君を国語漢文科主任とし採用したいのだが承知してくれ。そしてなお小川君を教務主任として採用したいのだが、小川君は橋本君のことを気にしていると思うが、君から小川君の心をよく聞いてみてくれないか。」との話があって、手塚が小川氏を説いて、3人ともに川内から三条に転任した。

以上が、3人が三条中に来た経緯です。突然の書き込みで失礼いたしました。
【2007/11/29 09:25】 NAME[道村一彦] WEBLINK[] EDIT[]


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