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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 アーネスト・サトウの『日本旅行日記』の解説の前編をアップロードして、既に半年が経つ。 その後の対応に対して、実に心苦しい思いがある。

 実は、ご存知の方も多いのだが、『柏崎通信』には、ML形式のメルマガがあり、その内で確認が取れたもの、あるいは、少なくとも資料的に検証したものをブログ版として掲載することを原則としている。 しかしながら、それでも、ご指摘を受けることが多々ある次第だ。

 ブログ版に最後に掲載した記事、すなわち、アーネスト・サトウの『日本旅行日記』の独断的注釈を掲載したのが、昨年の12月23日である。 しかし、この記事を書き始めたのは、ML版『柏崎通信』では、11月16日~29日、すなわち、号数で言えば、964号、965号、968号の三回で、関係各地の図書館・教育委員会などに問合せ、取材、検証をして、アップロードしているだ。 その後、後編をと思いしが、何かと壁に当たり思うような取材ができず、検証にも至らぬのが事実で、頓挫の状況。

 そんな次第もあり、テーマを変更したりして、現在、柏崎の旧家・牧口家などを追い、ML版では995号に到っている。 特に、一時期としてあげることができるのは、長崎海軍練習所に関わるカッテンディーケである。 カッテンディーケに関しては、オランダにおける始祖まで追いかけ、そのことを詳細に渡り何回かML版に掲載した。 因みに、現在のご子孫は、シンガポールの銀行の重役、もしかすると頭取ということになるのかもしれないが、自分のテーマとは別な道に踏み入れたのではないかと、日本的個人情報保護法の観点から掲載を控えた。 寧ろ躊躇したというべきかも知れないが、兎に角、まとめてアップロードすることを控えたのである。 因みに、ご子孫は、LinkInのメンバーであり、一応、先のことを考慮して、私自身、加入した。

 そうした山をまた感じ、先に書いた「牧口家」について、以前書いた記事にコメントが寄せられたこともあり、その追求を始めたのだが、現代史に近くなると、現実的な問題点があり、ブログへの掲載を躊躇せざるを得ない。

 自分は、元々『柏崎通信』を千回書くことを目標にしていた。 それも、後五回、感慨も多い。 そこで、この文章を書くことに決めた。 ブログ版『柏崎通信』を止めた訳ではないのだが、読者諸賢が、もし、原稿あるいはそれ以前の覚書程度だが、稚拙なるML版『柏崎通信』をお望みであれば、限定して配信することも可ではないかと。

 『柏崎通信』は、FreeMLによる非公開のMLで、メンバーが、現在、約70名。 メンバーの年齢も様々、職種も然り、また、外国のメンバーもいる。 加入後、マイページを作れば過去の記事の閲覧も可能。 ブログに掲載するまでの取材・調査も、誤字脱字・誤解釈を含め、その経過をご理解して頂けるかもしれない。

 一世紀、あるいは三世代は前のこととはいえ、公開を憚ることもある。 しかし、今という時代を考える場合、江戸末期から明治・大正・昭和初期は、避けては通れないいというのが、我視点である。

 この五月で65歳になる。 今は平常とはいえ、大病も患い、ブログとはいえ公開する責任に少々疲れも感じる最近。 敢えて、斯くの如きお知らせを書く次第である。 ご理解頂ければ、幸い。 今後とも、ご指導とご鞭撻をお願いし、且つ、拙文・浅学のこと、ご容赦の程を。

Best regards
梶谷恭巨

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 最近、アーネスト・サトウの『日本旅行日記』を入手した。 収録されている記録は、必ずしも年代順ではない。 そこで、先ず、新潟に係わる章から読み始める。 それにしても、驚くのは、サトウの観察眼と勤勉さ(こまめさ)である。 当時、在留外国人の間で流行した植物の観察がある。 また、後に刊行される『中部・北部日本旅行案内』あるいは『明治日本旅行案内』を意識していたのか、旅程の詳細、茶屋・宿所、あるいはその主人・雇い人の評価の記録も、実に面白いものである。

 さて、新潟に旅行に関しては、『日本旅行日記』の第一巻第四章「赤岳登山から新潟開港場へ」明治十三年(1880年)が、それに当る。 そこで先ず、この旅程の内新潟について紹介しよう。

 東京の自宅を立ったのが、5月24日、新潟県の赤倉温泉に宿泊するのが、6月3日である。

6月3日: 赤倉温泉、村越屋に泊まる。

 村越屋は、現在の赤倉ホテルである。

6月4日: 赤倉山-関山-新井(奈良屋に宿泊)

 現在の妙高市(旧新井市)に、奈良屋について問い合わせたところ、明治前後の新井宿の古地図に「奈良屋」があったそうだ。 現在の妙高市中町の交差点にある第八十二銀行新井支店北側で、現在は駐車場になっている所に「奈良屋」が在ったそうである。 この道(県道63号線)は、すなわち「北国街道」に当り、中町交差点から高田方面に約200m北上すると、東本願寺新井別院がある。 因みに、「奈良屋」は、旧新井宿の庄屋の分家だったそうだ。 サトウの「奈良屋」に対する評価は好い。 「奈良屋」に関する感想は、「宿の人々は礼儀正しい」という評価である。

 6月4日、サトウは、妙高山に登るのだが、道に迷い、予定を大きく狂わせ、午後四時過ぎに食事をしている。 「夕食にありついたのは九時になってからだ」と云うから、四時の食事というのは、遅い昼食と云うことなのだろう。 そこから関山まで歩き、さすがに疲れたのか、関山からは人力車で移送している。 この間、未だ明るい時期だだから、「辺りでは百姓たちが田植えを始めたばかりである」と、関東から信濃路と辿ってきた気候の違いを感じたのではあるまいか。 ところで、妙高山では道に迷った彼ではあったが、植物の観察だけは忘れていない。 新しい発見に喜んでいる気配さえ感じられる。

 また、「男女とも体を冷やさないように背中に綿入れという綿入れを羽織ているが、実際には、ここでは必要ないだろう。 何しろここの気温は高いのだ」と書いているところから、戸隠から妙高への山岳地帯の気温が余程低かったのだろう、それを踏破した安心感も加わった感想ではないだろうか。
 しかし、そんなサトウだが、道に迷った妙高でも、植物の観察は忘れていない。 寧ろ、新しい発見に喜んでいる気配である。 当に、サトウの人物像を窺わせるエピソードだ。

 余談だが、今回の問合せで、アーネスト・サトウが、余りにも知られていない事が残念に思われた。 今回は紹介しないが、戸隠・妙高を踏破した外国人は、アーネスト・サトウが初めてではないかと思うのだが。

 

6月5日: 今町-鉢崎-鯨波-柏崎(三須屋に宿泊)

 調べてみたが、三須屋の記録は見当たらない。 この旅程は、今町(現・上越市直江津)から鉢崎までは徒歩(8里7町、約33km)、鉢崎から鯨波まで乗船(2里19町、約10km)、鯨波から柏崎まで乗り物(籠か人力車か未記載、3里29町、約15km)だったようだ。 旧国道八号線(現在の8号線は架橋・バイパスなどで大分異なる)とほぼ同じ道筋だったと思われる。

 三須屋に宿泊中ち思われるが、女性が中国のグラスクロスと絹縮緬を売りに来たとある。 それぞれ一反を買い、価格は両方で7円だったそうだ。 柏崎は「越後の縮緬問屋」として有名だから絹縮緬(透綾)を買ったのは判るのだが、グラスクロス(ガラス繊維で織った布で、耐熱性に優れている)を買った理由が良く解らない。 季節は初夏であり、日差しを避けるには早すぎるように思われるので、耐熱性の布を買ったのは、もしかすると、食料の保存の為だろうか。

 また、女性が売りに来たというのも興味深い。 明治11年には、明治天皇が北陸行幸しており、柏崎は往復の行在所であった。 この時、戊辰戦争で官軍方に味方した星野籐兵衛の弟と子息が、旧交のあった侍従の近藤芳樹に戦後の窮状を訴えている。 復路、これが功を奏し、明治天皇から遺族に対し下賜金千円と籐兵衛に対して従四位下が遺贈されている。 このことから推測すると、桑名藩に味方した町衆の多かった、特に柏崎の縮緬問屋には、英国の外交官であるサトウに対して、依然として遠慮があったのかもしれない。 因みに、友人であり同僚であったウィリアム・ウィリスは、戊辰戦争の時、柏崎の官軍病院で傷病兵の治療をしている。 また、彼の日記あるいは報告書では、柏崎の印象がよくない。 好印象を書き始めるの新発田藩以降のことで、敵味方の区別なく治療を行うのは、会津からのことだ。 (詳細は、以前に紹介しているので省略する。)

(注)鯨波は、戊辰戦争の激戦地だった。 しかし後に長岡なども通るのだが、戊辰戦争に関する記載は全く無い。 余談だが、この時、サトウは37歳だった。

 

6月6日: 荒浜-椎谷-寺泊-弥彦

 6時20分に出発。 荒浜(現・柏崎市荒浜)と椎谷(柏崎市椎谷、旧椎谷藩堀家一万石)の間で海水浴をし、「とても気持ちがよかった」と書いている。 前日の旅程が、余程きつかったのだろうか。 現在の国道352号線を出雲崎まで北上。 海水浴をしたと云うのは、この辺りに柏崎刈羽原子力発電所があり、宮川まで道は大きく内陸部に迂回しており、昔は砂丘だったと聞いているので、当時と大分様相が変わっているのが、現在の高浜海水浴場辺りだろうか。

 現在の「良寛と夕日の丘公園」付近から、国道402号線を北上し、寺泊へ。 ここでも海水浴をしている。 現在、この辺りで海水浴場といえば、寺泊中央海水浴場がある。

 サトウが、寺泊を通過した当時、「大河津分水」は、工事が中断された状態にあり、現在とは随分違った風景だった。

(注)着工1870年-1875年に中断-竣工1922年、大河津分水の工事が中断する原因は様々だが、ひとつに地元民への負担金(一石当り一両二分)の問題があった。 この時(明治三年)、寺泊で、次いで西蒲原郡一円で起こった騒動の仲裁役を、県から頼まれたのが、観音寺久左衛門(松宮勇次郎)だ。 しかし、会津の殿様に味方した罪人であり、殿様が謹慎中なのに、どうして引き受けることができようか」と、この申し出を断っている。 寺泊から弥彦まで、どうような道を通ったかは、書かれていないが、弥彦神社は、弥彦山の内陸側にあることから、現在の大河津分水の河口付近、寺泊小屋場辺りから内陸部に道を取り、国上山を迂回して、現在の「道の駅国上」辺りを経て、弥彦に到着したのではないだろうか。

 この間、「海岸線はとても楽しかった。 果てしなく続く山とはまた違い、よい気分転換になった。」との感想を書いている。 確かに現在でも、この海岸線は、ドライブコースとしても最適で、特に、皐月の頃が快適である。 ただ、この日の記述は少ない。

 ただ、8里32町(約35km)、歩いたとある。 しかし、「右足の親指のつめ根のふくらみに肉刺をこしらえ.....」、「人力車の車夫も同じ様な状態になった思うとやむを得ないと判断した。」と書いているところを見ると、海水浴がたたったのかも知れない。 そこで、寺泊から弥彦までが約11kmであるから、出雲崎と寺泊の途中から人力車に乗ったのではないかと思われる。 また、この旅の道中、しばしば人力車を雇っているが、自分は歩き、荷物を載せたこともあるので、柏崎出発時から人力車を雇っていたことも考えられる。 因みに、柏崎の中心部から弥彦神社までを推測するルートで測ると、約54kmある。

 弥彦には、5時半に到着。 何処に宿泊したか書かれていない。 これまでの例からすると、本陣あるいは脇本陣を利用しているから、この日も、この何れかに泊まったことが推測される。

 植物観察も忘れていない。 「道中は極めて楽で、峠で二重のウツギを発見した。」と嬉しそうな気配である。 この「ウツギ(卯の花)」は、同じユキノシタ科ウツギ属でも、開花の時期、写真などから、「ヒメウツギ」ではないかと思われる。

 しかし、それにしてもサトウの健脚ぶりには驚いてしまう。 肉刺のことは『日本旅行日記』を通じて、よく出てくるが、ほとんど気にしていない風である。 草履もよく使用したようだが、この時は、何を履いていたのだろう。 自身の服装についても、余り記述が無いが、興味が湧く。

 

 余談だが、恐らく同じ道筋を通ったと思われるウィリアム・ウィリスの日記や報告書の印象と随分異なるいることに興味が湧く。 勿論、ウィリスは、公式な任務として、この道を辿っているのだから、視点が異なるのも仕方が無い。 それに、戊辰戦争の後遺症とおよそ十年の歳月は、この地方の風景や状況を、また、サトウ自身の心象風景も変えただろう。 ただ、概して、ウィリスの文章と、サトウのそれとでは、明るさが違うように思える。 一つには、生まれ育った環境の違いがあるだろう。 また、年齢の差も影響しているのかもしれない。 いずれにしても、当時の模様を知るには、外国人の日本観を比較することが有効に思える。

 

6月7日: 赤塚-内野-新潟

 天気が悪かったようだ。 弥彦から赤塚(現・新潟市西区赤塚)まで、人力車を利用している。 この間、北国街道(現在の県道2号線か)、地図によれば、約18kmの道のりである。

 「道は粘土質で湿っている」と書いている。 前編を通じて道路の状態に関する記述が多いが、これは、その地方の状況を知る指標と考えたからではあるまいか。 江戸時代、街道の状態は、その藩の治世・財政状況を表したと云う。 その為、各藩は街道の整備には気を配った。 サトウは、当然、そのことを知っていたと思われるが、寧ろ、この日記は、後の『旅行案内』の為のメモ的な意味で、交通の便も書いたのかもしれない。

(注)明治9年(1876)に内務省は、全国の道路を国道・県道・里道に分類し、且つ、国道を一等(幅員12.9m、7間)、二等(幅員10.8m)、三等(幅員9.0m)に分類した。 しかし、当時は鉄道優先で、国道政策は財政的にも破綻していた。

(注)江戸時代の街道: 五街道は幅員5間(11m)、脇街道は幅員3間(5.5m)で、路面には、砂利や小石を約一寸(3.3cm)くらいの厚さに敷いて、踏み固め、その上に、砂を撒いていたようだ。 杉・松・桜などの並木も整備されていた。

 赤塚から内野までは歩いている。 約8㎞。 ここでも道路の状態を書いている。 「道路は状態は良いが砂質である」と。 海岸が近くなるので、海砂が積もっていたのかもしれない。 いずれにしても、弥彦から新潟までの記述は、道路状態に関するものの外、殆ど書かれていない。 平坦な新潟平野には見るべきものがなかったのだろうか。

 新潟には、午後の二時頃に着いている。 宿泊は、「ミオラ(Miola)ホテル」、現在のイタリア軒である。 「主人は礼儀正しく世話好きな人で、設備は粗末であるが、日本の宿よりはよい」と書いている。

(注)ホテル・イタリア軒の前身である「ミオラ・ホテル」は、明治7年(1874)に来日したフランスの曲馬団のコックだった、イタリア人ピエトロ・ミリオーネが、新潟興行中に病で倒れ取り残された為、当時の県令・楠本・正隆が、これを憐れみ、資金援助して牛肉販売店を開業させたことに始まる。 因みに、ホテル名「ミオラ」は、ミリオーネを新潟人が「ミオラ」と呼んだことに由来する。
 また、ミオラ・ホテルは、この年の新潟大火(1880年8月7日午前1時出火)で消失したが、翌年には、同地に本格的西洋料理店「イタリア軒」として新装開店した。 尚、文中の「礼儀正しい世話好きな主人」とは、ピエトロ・ミリオーネである。 余談だが、新潟大火の翌日、奇しくも柏崎大火が起こっている。

 ここ新潟で、サトウは風邪を引いたようだが、人力車の車軸が折れるほどの風雨を押して、宣教師のファイソン夫妻を訪問している。 「ファイソンは豊かな髭をたくわえた宣教師で、夫人は青白い顔をした面白い人で、二人には四人の子供がいる」とある。 そこに、医療宣教師のセオパルド・パーム博士が訪ねて来て、団欒に加わったようだ。 この旅では、必要に応じて人夫を雇っているが、従者は井上喜久三郎を伴っただけだったので、よほど人恋しかったのかもしれない。 また、新潟開港以前に、公使・パークスと下見に来ているので、新潟の変化に大いに関心があったのかもしれない。

(注)ファイソン(Philip Kemball Fyson)は、1874年生まれの英国人宣教師で、1874年(明治7年)に新潟に赴任し、約7年間にわたり伝道に従事した。 1896年(明治29年)には、長年にわたる伝道と聖書翻訳に功績があったとして主教に任じられた。 1908年(明治41年)帰国。

(注)パーム(Theobald Adrian Palm)は、1848年生まれの英国人で、1874年(明治7年)医療宣教師として来日。 新潟でパーム病院を開設した。 新潟地方の風土病といわれたツツガムシ病を初めてヨーロッパに報告したことで知られている。 1884年(明治17年)帰国。

 

 今回は、新潟までの旅を紹介した。 6月8日、一日新潟に滞在後下記旅程で先に進むのだが、後半は次回で。

 9日: 大野-白根-新飯塚
10日: 栗林-三条-今町(見附)-長岡-片田-十日町-妙見
11日: 小千谷-川口-堀ノ内-栃原峠-浦佐
12日: 五日町-八幡-六日町-塩原-関-湯沢-芝原峠-三俣-中ノ峠-小豆峠-二居
13日: 朝貝-三国峠へと続く。

Best regards

梶谷恭巨

 

 

 このところ、以前は資料として抜粋的に読んでいたカッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々(滞日日記抄)』を読んでいる。 いつもの通りという感覚があるが、この本も、良き古き時代の風景と日本人を活写する。 カッテンディーケ(ヴィレム・ヨハンコルネリス・ホイセン・ファン、但しホセイン以下が姓、1816-1866)は、オランダで建造された後に「咸臨丸」と呼ばれる「ヤパン号」ほか一隻を回航するとともに、第二次オランダ海軍教導団の指揮官として、安政四年(18579月、長崎に着任した。 カッテンディーケは、滞在期間が僅か二年余りの所為か、あるいは、カッテンディーケの指揮下にあり、より長く滞在し、日本の近代医学あるいは科学を教導したポンペが余りにも有名なので、その陰に隠れ、知る人が少ない。 しかし、カッテンディーケなくしては、その後の日本を率いることになる勝海舟や坂本竜馬は、育ったなかったかもしれない。 そのことが、『長崎海軍伝習所の日々』の随所に窺われる。

 カッテンディーケの周到さは、既に、本国において発揮されていたようだ。 日本に関する書籍・資料は言うに及ばず、先人や学者を訪問し、
あるいは書簡にて問い合わせるだけでなく、若干ではあるが日本語の指導も受けているのだ。 日本着任後は、その洞察力を発揮する。 本来の任務から言えば、海軍士官教育にとどまればよいのだろうが、日本の風俗・慣習・制度まで、観察し日記に書いているのだ。 特に、商館長・ドンケル・クルチウスの依頼により単身上海に行き、上海の現状を備に報告した部分は、その冴えたるものだ。 上海租界の成立から税関制度、外交関係、風俗人物誌まで、事細かに報告している。 これは、例えば、アーネスト・サトウなど、他の資料で読んだ内容に比べても遜色がない。 むしろ、オランダ人であることから、国益に囚われず客観的かもしれない。

 こうした人物像からも想像できるが、カッテンディーケは、帰国後、昇進するが、まもなく退役(海軍中佐)して、
政治の世界に転進、海軍大臣に、更に外務大臣に就任し、在任中に病没した。 こうした人物が、来日し、有為の生徒を指導したことは、日本にとって幸いであったのではないだろうか。

 兎に角、オランダと日本の関係は深い。 しかも、オランダの歴史は複雑なので、それが為に、明治維新に拘わる日蘭関係、あるいはオランダの果たした役割は、重要であるにも拘らず、見逃しがちだ。
 それは、西欧への窓口であったというだけでなく、オランダの複雑な歴史故に、日本の開国の在り方を、若干の貿易独占的欲求があったにせよ、公平に判断し、時には列強との仲介役を担ったことにある。 すなわち、外交において赤子の如き日本を、単に科学技術だけではなく、漸進的開国へ導いたと解釈することもできるからである。 言い換えれば、当時の帝国主義の常套手段である「砲艦外交」に唯一批判的であった国でもあるのだ。

 オランダの苦難の歴史、あるいはその隆盛と衰亡の歴史は、それだけに日本人が最も学ばなければならない歴史なのかもしれない。 また、
カッテンディーケやその先人にも見えるように、人として、日本の良き理解者であり、(時には、賞賛者として)、西欧への紹介者であった彼らの系譜を調べることも重要ではないだろうか。

 とまあ、そういう次第で、カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』は、推奨に値する本だと思うのである。

 

Best regards
梶谷恭巨

 

 

 

 

『居合術口伝書(二)』 
 
(裏書) 
範士 中山博道先生 口伝
大森流之形 十一本
昭和五年八月
於有信館本部 鱗平之書綴
 
「大森流居合の形」
 
一 初発刀
 
意義
 互に三四尺の間隔を置きて対座せる時、急に敵の目の附近を横薙に切り付け、倒るゝ処を直に上段より切る動作なり。
動作
 正面に向い正座す(正座は両足の拇趾のみを僅かに重ね、両手は殊更に肘を張ることなく、股の上に置く)。 以下之に準ず。
抜刀法
 徐々に両足先を爪立てつゝ、左手を以って鯉口を握り、僅かに外方に傾け、右手を以って鍔に近く握る。 次に、右足踵が膝頭附近に来る如く踏み、着くると同時に刀を抜く。 抜き放ちたる刀の高さは右肩の高さにして、刀刃は水平よりも稍(ヤヤ)下方に引く如くすれば、刀勢に一層活気を生ずるものとす、又実施者は敵を「ブッツリ」切る気分を持すべきものとす。
 古語の「ふつのみたま」と云う刀先を左肩の方向より頭上に振り被り、左手を以って柄頭を握る。 此の間、左膝を右踵の位置まで進め、右足を前方に踏み着くると同時に、刀を切り下す。 刀先の位置は臍附近とす。 次に左手を放ちて左腰に当てると同時に、右拳を其の位置に於いて、拇指の爪が上に向く如く外転し、右臂(ヒジ)を体のの右方迄開きて、肘を屈げ、右拳が概ね顳顬(ショウジュ、こめかみ)部附近に来る如くし、立ち上がりつゝ、右臂が概ね体と四十五度位になる様に、右前方に向い右肘を伸ばす。 これを血振いを謂う(以下、之に準ず)。
 続て左足を右足に引付けると同時に、右足を後方に引き、踏替えをなし、左手を以て鞘口を握る(左手以て鞘口を握る時機は此例に依る)。 而して左手は稍(ヤヤ)鞘口より前方に出すを可とす。
納め方
 次に右手を曲げて、鍔元附近の刀背が左手附近に至る如くし、刀背が左手の拇指と食指との最凹部を準溝として、刀先が鞘口に至る如く、右手を前方に出し、且又、腰を左に捻りて、此の動作を容易ならしめ、以て徐々に刀を納む。 而して刀を納め終る時、左膝は床に着く(納刀の要領は以下、之に準ず)。
 
二 左刀
 
意義
 左側面に対座せる敵に対し、初発刀と同意義に於て行う動作なり。
動作
 正面に対し右向に正座す。
 右膝を軸として九十度左に旋回すると同時に左足を右膝頭附近に踏み付けて初発刀の如く動作す。
 
三 右刀
 
意義
 右側面に対座せる敵に対し初発刀と同意義に於て行う。
動作
 正面に対し左向に正座す。
 左膝を軸として九十度右に旋回すると同時に、初発刀の如く動作す。
 
四 当刀
 
意義
 後方に対座せる敵に対し初発刀と同意義に於て行う動作なり。
動作
 正面に対し後向に正座す。
 右膝を軸として左へ百八十度旋回す(右足の旋回不足に特に留意し、右膝よりも僅かに外方に開く如くするを可とす)。 旋回の終り左足を約一歩前方に踏み着け、初発刀の如く動作す。
 
五 陰陽進退
 
意義
 互に対座せる時、急に初発刀の如き切り付けたるも、敵逃れしを以て直ちに追い掛け、之を切り倒し、刀を納めんとせし時、再び他の敵より切り付けられたるを以て、直ちに之に応じて敵の腰を切る動作なり。
動作
 正面に向い正座す。
 初発刀と同要領にて抜刀し、刀を頭上に振り被りつゝ、左足を右足に引付け、更に之を約一歩前方に踏み着けると同時に、正面に向い切り下ろす。 次に、左手を放ち、腰に当てつゝ、右拳を右に開き、刀刃を斜右下方に向わしむ(血振いの一種)。
 此の間、右膝を屈げて床に着く。 此の姿勢にて刀を納めつゝ、左膝に屈げたる侭、徐(オモムロ)に後ろに引き、左踵が臀部に接する頃、急に約一歩後方に引き、中腰の侭にて、再び抜刀し敵の腰を切り、刀を頭上に振り被る間に、左膝を屈げて切り下ろす。 以下、初発刀に同じ。
替手
 正面に向い正座したる後、血振いをなし、刀を納むる迄の動作は、全く同一なり。 次に柄を上より握りたる迄、左足を約一歩後方に引くと同時に、刀を成る可く低く抜き、刀刃を上にする如く、右足の側方に致し、刀先が僅かに外方に出ずる如く、刀を下く。 以下、全く陰陽進退に同じ。
 
六 流刀
 
意義
 敵が不意に左側面より斬撃し来りしを以て、取り敢えず抜き連れて、之を受け流し、敵が前に「のめる」所に乗じ、其の腰を切る動作なり。
動作
 正面に対し左向に正座す。 
 頭を左に向け左足を一歩前に踏み着くる間に、右手を以て柄を上方より握りて抜刀し、頭上を目懸けて斬撃したる敵の刀を左肩の後方に受け流す心持にて動作す。 此際に於ける抜刀は前記の諸場合と異なり、左手を以て刀を抜刀に容易なる如く、外方に旋転する遑(イトマ)なく急據(遽)抜刀する意なるを以て、之を上方より握るものにして、抜き連れて受けたる時の刀刃の方向は、之が為、僅かに右方に向うものとす。 而して右拳の位置は前額の右前上方にして、右肘は軽く屈ぐ。 次に立ち上がりつゝ、右足を左足の右後方約一歩半の所に開き、刀は右肘を屈げて肩に担う如くす。 次に左足の蹠骨(足に裏の骨、セキコツ)部を軸として約九十度左に向けつゝ、右足を左足に引付け、殆ど足を揃うる如くし、両膝は軽く、之を外方に屈げ、上体は正しく腰の上に落ち着くかしむ。 而して刀は両足、将に揃わんとする時、左手を添えて左前下方に向い切り下ろす(此際、刀先は稍(ヤヤ)下り、刀刃は斜左下方に向い、恰も前に「のめり」たる敵の浮腰部を斬撃する如く動作す)。 然る後、左足を約一歩後方に引き、上体を起し、刀先部を右膝(右膝は伸び易きを以て特に注意するを要す)の上部に托する如く、両手を少しく左方に移す。 此際、左肘は概ね伸びあるものとす。
納め刀
 次に右手を放ち掌の半面を以て鍔を被う如く、刀柄を上より握り、左手を放ちて、鞘口を握り、右手を以て刀先を左肩の方向に向わしむる如く、刀を反転して、之を納む。 此の際、左膝は床に着く。
 
七 順刀
 
意義
 切腹者の左側方に於て、切腹者に面して坐し、介錯する動作にして極めて静粛に実施するを特徴とす。
動作
 正面に向い正座す。
 頭を正面にしたる侭、左膝を軸として九十度右に旋回し、右足を僅かに前方に出すと同時に、半ば刀を抜き、次に立ち上りつゝ抜き放ち、左足を正面に向けつゝ、右足を左足に引付けて直立す。 此の間に刀を右拳の位置が肩の右前下方、概ね乳の高さ位にして、刀背が右上膊(ハク、肩から手首までの部分)の中央附近に来る如くす。 次に気合を図り、右足を約一歩前方に踏み出しつゝ、刀を頭上に降り被り、足が地に着くと同時に、稍左前下方に向い切り下ろす後、僅かに上体を起す。 以下全て流刀に於ける納め方の要領に同じ。
 
八 逆刀
 
意義
 正面より斬撃し来る敵の刀を脱しつゝ、上段より敵の胸元迄切り下げ、敵が後退するを追撃して、再び切り付け、敵が倒れたるに対し、尚残心を示し、最後に止めを刺す動作なり。
動作
 正面に向かい正座す。 
 右足を約一歩長前方に踏み出すと同時に半刀を抜き、左足を僅かに広報に引きつゝ立ち上がり、同時に右足を左足に引付け、刀を頭上に振り被る。 次に右足を約一歩踏み出し、刀先を胸の高さ位迄切り下げ、続いて左足より二歩前進し、刀を再び頭上に振り被り、、右足の地に着くと同時に切り下ろす。 此時に於ける着眼点は、一間くらい前方の床上とし、刀先は膝の附近迄切り下げ、左足を右足に引付け、直ちに右足を約一歩後方に引くと同時に、刀を頭上に振り被り、残心を示し、然る後、徐かに右膝を地に着けつゝ、刀を下ろし右手を逆手になる如く握り換え、左手を放ち、刀を逆手に持ち左手を刀先に近き部位の刀背に添え、止めを刺す心持にて刀を僅かに上方に引き、以下流刀に於ける納刀の要領により納む。
 
九 勢中刀
 
意義
 右側面より斬撃し来る敵の前肘を斬撃し、続いて之を追撃する動作なり。 
 
動作
 正面に対し右向きに正座す。 
 左膝を軸として九十度右に旋回し、右足を約一歩踏み出すと同時に中腰にて抜刀し、刀先を稍々左にし、刀刃僅かに斜め右に向う如くし、敵の前臂を切る心持にて握り締む。 次に左足を右足に添うると同時に右足を踏み出して、刀を頭上に振り被り、右足の地に着くと同時に切り下ろし初発刀に於ける血振を為し、刀を納む。
 
十 虎乱刀
 
意義
 敵が逃れ去らんとするを追い掛けて斬撃する動作にして、終始立姿にて行うを特徴とす。
動作
 正面に向い直立す。 
 左足を約一歩(一足長)前方に出す(抜刀を容易にする目的)と同時に、右手を以て鍔に近く握り、右足を約一歩前方に踏み出し、初発刀の要領にて抜刀し、次に左足より二歩前進しつゝ、刀を頭上に振り被り、右足が地に着くと同時に切り下ろす。 以上の動作は成る可く神速に実施するを理想とす。 次に立ちたるまゝにて初発刀に於ける血振いをなし、刀を納む。
 
十一 抜打
 
意義
 彼我互に接近して対立せる時、不意に正面に向い切り付くる動作なり。
動作
 正面に向い正座す。 
 彼我極めて接近しある場合を顧慮せるものなるを以て抜刀に際して成る可く体に近く抜く為、右拳の前上方に向って動かしつゝ、概ね前額の前方に至らしめ、刀先を左上腰の外側に近く移動せしめつゝ、刀を頭上に振り被る。
(此の際、両膝を密接す。) 
 次に、直ちに両膝を開き、刀先を概ね床より二十糎位の所に至る位に切り下ろす。 次に左手を放ち、右拳を右に開き、血振いをなすこと陰陽進退に於ける第一段の血振いと同様に動作し後納む。
 
 以上、「大森流之形十一本」、了。 
 
Best regards
梶谷恭巨
 

 今回で、『居合術口伝書(一)』は終了。 

「居合実施上の注意」

一 敬禮

 右手ノ拇指を鍔に掛け、刀刃を上にして進み来り、正面に向ひ右手ヲ以って、下より鍔に近く鞘を握り、左手を以って鐺(こじり)に近き部を上より握り、右(みぎ)臂(ひじ)を伸し(右肘が右膝頭ニ接スル迄右ひじを伸バス)左臂は僅か屈げて膝の前方に刀を置く。次に両手の指先を揃えて之を着け、膝の稍々(やや)前方に置き両肘を張ることなく寧(おもむ)ろ体に接する如くして之を屈げ頭を概(おおむ)ね手に接する位迄下げて敬礼す。

二 佩刀
 敬禮したる後、再び刀を置く時の要領にて刀を執り之を腰に佩ぶ。この際刀刃を上にす。

三 呼吸
 精神を鎮静ならしむる目的を以って各動作開始前、腹式概(おおむ)ね三回を実施したる後、行ふ可とす。

四 足の踏み着け方
 左右何れか、小の足と雖(いえども)、之を踏み着くる時は、膝より下が床に概(おおむ)ね直角なる如く踏むを要す。而して両足を前後に踏み開きたる場合の両足幅概(おおむ)ね二足長半乃至三尺長とし、後足の膝を比較的強く屈ぐ(但し、膝を床に着けず)。

五 着眼点
 特に記する場合の他概(おおむ)ね三間位前方の床(若し、詰合の時は対手を見ることを床といふ)を見る如くし、其動作にありては直前の床上を見るが如きことあり。

「抜刀術心得」

 抜刀の用あるものは治世のみの事と思う人多し。 全く左にあらず。 戦場にて手近く入りたる時、早々抜き付る事、居合の肝要なり。 既に徂徠の鈴録に、昔の武士は剣術より居合を専ら修行せし事の古事を引出せり。 抜刀を学ぶ者、此意不可忘事なり。 先ず業を那すには、居合刀を着座して、指体容を直に腹のぬけざる様にして、両手を膝の上に置き、打向ふ適を見定める心持にて向ひ、突息につれて、左右の手を刀にかけ、猶豫なく抜き出す事なり。 右の手を柄の平より何となく和らかにかけ、糸を繰り出す如く、少しも滞りなく抜出し、離れ際にて鞘をかへす時は、柄の握り自然と心知よき所に入り来るものなり。 抜き出す心持は立板に水をたらし、初め緩々、中頃漸く急、終り脱兎の如き心得なり。

 居合兵法の歌に
    居合とは、心を静め抜刀
     抜けば頓(トドメ)て勝をとるなり
    如何に人腹を立てつつ怒るとも
     拳を見込み心ゆるすな
    寒き夜に霜を聞くべき心こそ
     敵に逢ふても勝を取るなり

(注)居合兵法の歌に: この歌について調べたのだが、一般的にこうした歌を「道歌」というそうだ。 また、この歌の中で、最後の句は、間宮流居合に同じものがある。 『口伝書(一)』には、特に流派に関する記述が無いので、これ(一)を間宮流と考えうるべきかどうか不明で、後に続く『口伝書(二)』が大森流、『口伝書(三)』が長谷川流、『口伝書(四)』が無念流であることから、『口伝書(一)』は、まとめとも考えられるが、中山博道が開いた夢想神伝流とも考えられる。

 尚、『口伝書(二)』以降は、具体的な形などが言及されているので、本文のみを紹介したい。

 
Best regards
梶谷恭巨 
 



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