柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第三項 刈羽郡ヲ誤マリテ一時沼垂郡ト称ス

 

 寛文年中郡号復古ノ命アリシ時刈羽郡誤リテ沼垂郡ト為ス其ハ越後古七郡ハ頸城三嶋魚沼古志蒲原沼垂岩船ナリ然ルニ中世ニ至リ刈羽山東アリテ三島沼垂ノ名称見エズ故ニ寛文中郡名復古ノ意ニテ三島ヲ山東ニ沼垂ヲ刈羽ニ擬スサレバ当時代ノ二田神社々領継目状ニ

〔寛文年中、郡号復活の命ありし時、刈羽郡、誤りて沼垂郡と為す。それは越後古七郡は、頸城・三嶋。魚沼。古志・蒲原・沼垂・岩船なり。然るに中世に至り、刈羽・山東ありて、三島・沼垂の名称見えず。故に寛文中、郡名復古の意にて、三島を山東に、沼垂を刈羽に擬す。されば当時代の二田神社社領継目状に〕

 越後国沼垂郡長橋領二田神社領仝所之内五十石事下略寛文五年七月十日
越後国沼垂郡長橋領二田神社領仝村内五十石事下略貞享二年六月十一日
《【註】『刈羽郡旧蹟志』の「二田神社社領継目状二通」を參照。》

 

椎谷観音縁起

  越洲沼垂郡長橋庄大辻山正福寺ノ本尊則之嵯峨天皇弘仁云々寛文五年三月
 《【註】『刈羽郡旧蹟志』の「椎谷観音堂縁起」を參照。》

 

沼垂郡と誤称セルハ寛文ノ初年ナルコト上記ノ如シ刈羽郡ニ復シタル年度ハ詳ニセズト雖モ二田神社領状ヨリ見レバ貞享二年頃迄凡ソ二十年間ナリ然ルニ元禄三四年頃ヨリ又改メテ三島郡ト復古ス之貞享三年稲葉丹後守高田在城ヨリ元禄十四年下総佐倉ニ改封セラルヽ間ニシテ郡名ノ復古ハ稲葉氏ノ意ニ出デタル如シト山田氏旧蹟志ニ論ゼリ或ハ然ラン故ニ戸田能登守忠真高田ニ来ルヤ直ニ刈羽郡ト改メラレタルハ仝年以後ノ検地帳ヲ照ラシテ明ナり

〔沼垂郡と誤称せるは、寛文の初年なること、上記の如し。刈羽郡に復したる年度は詳にせずと雖も、二田神社領状より見れば、貞享二年頃、およそ二十年間なり。然れども、元禄三四年頃より、また改めて三島郡と復古す。これ、貞享三年、稲葉丹後守、高田在城より、元禄十四年、下総佐倉に改封せらるる間にして、郡名の復古は、稲葉氏の意に出でたる如しと、山田氏、旧蹟志に論ぜり。あるいは然らん故に、戸田能登守忠真、高田に来るや、直ちに刈羽郡と改められたるは、同年以後の検地帳を照らして明なり。〕

 

【註】この部分は、ほぼ山田八十八郎著『刈羽郡旧蹟志』からの引用であると考えられる。よって、該当する箇所に関し、同書の全文を挙げ、可能ならば注釈あるいは出典について記す事にしたい。
『刈羽郡旧蹟志』第一篇郡郷部「寛文中誤為沼垂郡」

越後古七郡は、頸城・三島・魚沼・古志・蒲原・沼垂・岩船なり。然るに中世に至り、苅羽・山東ありて三島・沼垂の名称見えざるを以て、寛文中、復古の意にて、三島を山東に、沼垂を苅羽に擬し、其名称を改めたることは、前章、地理志料、地名辞書(吉田東伍著『大日本地名辞書』)に述るが如し。然るに二書は単に其改めたることのみを云うて、例証を挙げざるは頗る不備の感あり、因て、左に二田社領継目状、並に椎谷観音堂縁起を揚げ、寛文の誤を確実にす。

 

二田神社社領継目状二通

 越後国沼垂郡長橋領二田村明神社領、同所之内五十石事、並山林竹木諸役等免除、任慶安元年二月廿四日先般之旨〔慶安元年二月二十四日、先般の旨を任じ〕、永不可有相違者也〔永く相違あるべからずものなり〕
 寛文五年
  (家綱朱印)七月十一日

 越後国沼垂郡長橋領二田村明神社領、同村之内五拾石事、並山林竹木諸役等免除、任慶安元年二月廿四日、寛文五年七月十一日、両先般之旨、永不可有相違者也
  貞享二年
   (綱吉朱印)六月十一日

 

椎谷観音堂縁起

  越州沼垂郡長橋庄大辻山正福寺之本尊則云々、 嵯峨天皇弘仁辛卯云々、
寛文五年
乙巳
            三月■日                    早川市郎左衛門 豊久謹書

 

  沼垂の名称を誤用せしは、寛文の初年に始まりて、苅羽郡に復したる年度を詳にせず。然れども二田社領状に拠れば徳川將軍四代五代に渉り、殆んど二十年を経過せしか如し其間、官民間に種々の扞格齟齬(捍格齟齬、互いの意見を認めず、かみ合わない事)を生じたるなるべし。況んや苅羽が越後の中郡にして沼垂は北郡に偏し、地理に於てニ十里余の距離あるをや。天和検地帳に都(すべ)て苅羽郡を記載しあれば、貞享二年の二田社領朱印状に沼垂郡と記せしは千判の例に沿襲せし誤なりと知るべし。

 

『刈羽郡旧蹟志』第一篇郡郷部「元禄年間の復古」

 後、元禄三四年の頃より、凡十年間、苅羽郡を改め三島郡に復古したるは、当時。村々の新田畑検地帳の表紙並に口書に明記せり。

  本文十年許(ばかり)は貞享三年、稲葉丹後守正通、高田在城より元禄十四年、下総佐倉に改封せらるる間にして、郡名の復古は稲葉氏の意に出でたるか如し、其謂(いい)は、同氏は本姓、越智、祖神を三島の神とす。(大三島・大山祇神社〈おおやまづみじんじゃ〉の祭神・大山積神)想うに、三島郡の根據正しき名前を改め苅羽郡としたるは、同氏の甚だ意に満たさる所なるべし。因て古名に復されたるならん。然るに元禄十四年、戸田能登守忠真が高田に在城するや、又直ちに苅羽郡に改められたり。故に同年以後の検地帳等には一も三島郡を書きたるものなし。
又 醍醐三宝院が柏崎の修験者、不動院に附与したる住持補佐書には、貞享・宝暦より享和年度迄、都(すべ)て三島郡柏崎納屋町と書せり。是は三宝院の原帳を訂正せさるが為なり。是類(このたぐい)尚、他にもあらん。後人惑うなかれ。

 

『刈羽郡旧蹟志』第一篇郡郷部「近古称苅羽氏者〔近古、苅羽氏を称すは〕」

  地理志料に云、苅羽、義経記作苅羽浜〔義経記は苅羽浜と作す〕、今有苅羽村〔今、苅羽村有り〕、北越太平記、北越軍談、長尾実景居此、称苅羽氏、遂呼其領邑、為苅羽郡者、戦国時、此例纂多。

 《『日本地理志料』に、『義経記』には「苅羽浜」という記載があり、今は、苅羽村がある。また『北越太平記』・『北越軍談』には、長尾実景この地に住居して、苅羽氏と称し、最後には、その領有する村を苅羽と呼んだ。苅羽郡が成立したのは戦国時代の事で、こうした例を集めて見ると実に多い。》

地名辞書に云、荒浜に近く苅羽村あり。因て接するに北越太平記、北越軍談等に長尾の一門に彦次郎実景と云ふ人、此苅羽て苅羽彦次郎とも呼び、又所々散居の間、族を分たんが為に、古志の長尾、苅羽の長尾なんと云ひ、天文十年、昭田常陸助、三條俊景と共に長尾晴景に叛きし時、一味の者を所々の城々へ分ち遣はしたるにも、苅羽へは世良田九郎左衛門遣置等の事あれば、一方の渠率

 

第二項 刈羽郡ト改称ス

 

 刈羽ノ名称ノ見ユル最モ古キハ義経記ニ三十三里かりは濱ト之ナリ日本地理志料

  〔刈羽の名称の見ゆる最も古きは、『義経記』に「三十三里かりは浜」と、これなり。『日本地理志料』に〕
《文献上、「刈羽」の名称が出て来るのは、『義経記』の巻第七の四「三の口の関通り給ふ事」に武蔵坊弁慶が先行きの案内をする場面で「(前略)越後国国府に着きて、直江の津より舟に召して、米山をおきがけに、三十三里のかりやはま(刈羽浜の訛)、かつき(勝見の訛)、しらさき(しひやさき、椎谷崎?)を漕(こぎ)過ぎて、寺尾泊に舟をつけ、くりみやいしを拝みて、九十九里の浜にかゝりて、乗足(沼垂)、蒲原、八十里の浜、瀬波、荒川、岩船と云ふ所に着きて、(後略)」とあり、「三十里のかりやはま」とあるのが刈羽の事で最も古い。また、『日本地理志料』には、》

【註】『義経記』は、正宗敦夫編・日本古典全集刊行會・昭和4年刊を参照した。
日本地理志料』(村岡(邨岡)檪斎(良弼)著・東陽堂・明治36年刊)、下記は、巻三十五「越後国・三島郡・P19」からの引用。

 

   越後野志足利氏時私改三島郡称刈羽郡其名始見居多神社應永十八年文書石船神社嘉吉二年金鼓識ト有レド足利氏時ノ時代ハ不詳ニシテ
〔「越後野志、足利の氏時、私して三島郡を改め、刈羽郡と称す。その名、始めて、居多神社、応永十八年の文書、石船神社、嘉吉二年、金鼓の識に見ゆ」と有れど、足利氏時の時代は不詳にして〕
《「『越後野志』に、足利氏時が私領とし三島郡を刈羽郡に改称したとあるが、その名称(三島)は、居多神社(上越市五智の現存)の応永18年(1411)の文書に、また石船神社(村上氏岩船三日市に現存)の嘉吉2年(1442)の金鼓の識(銘文、実際には下記註の通り、「鰐口」である)に見える」とあるが、足利氏時の時代と云うよりも、そもそも氏時なる人物の存在が不明瞭であるので、》
【註】『越後野志』(エチゴヤシ)、[小田島允武著] ; 源川公章校訂、新潟県立図書館・越後佐渡デジタルライブラリーの書誌によれば「『越後名寄』と並んで代表的地誌。『越後野志外集』が原本と思われる。小田島允武は儒者。一名雄彦、通称彦四郎、晩年源左衛門と改め、松翁と号す。水原の人。書肆を生業とす。博覧強記『越後野志』の著者として名高し。文政9年歿。年68。」とある。尚、昭和49年(1974)に上下二巻として歴史図書社より復刻出版されている。因みに、同書(巻之一)「郡」の条「刈羽郡」の項を挙げると以下の通り。尚、便宜上、読下し文とする。
「刈羽郡、中古、三島・古志二郡の地を割き、而して此郡を置く。其の年暦を詳らかとせず。磐船の祠廟金鼓銘に曰く、〈敬白、越後国刈羽郡鵜河荘藤井卒塔婆領八幡宮、檀那・道吉右近五郎、嘉吉二年十一月六日。〉和名抄・拾芥抄二書并(とも)に、刈羽郡を載せず。則ち応永・嘉吉の間、両置するを知るなり。(後略)」

【補注】『和名抄』前掲。
『拾芥抄』、洞院公賢撰・村上勘兵衛刊・明暦二年(1656
第四巻・第二十三・本朝国郡、「越後国(中遠)七郡、頸城(府)、古志、三嶋、魚沼、蒲原、沼垂、石舩、(田、二万三千卅八町)」とある。
『越佐史料』巻二、後小松天皇・応永十八年辛卯(かのとう)八月十九日戊申(つちのえさる)の条に、「越後居多神社社務花前盛保、頸城・刈羽・魚沼・蒲原・古志、諸郡内ノ社領検注ヲ付与セラル(花押)」とあり、また『花前文書』に刈羽郡内雀守六反・雀守(安丸別給)の記載がある。
同書第二巻、後花園天皇・嘉吉二年壬戌(みずのえいぬ)十一月六日癸亥(みずのとい)の条に、「道吉右近五郎、越後藤井卒塔婆領八幡宮ニ、鰐口ヲ寄進ス」とあり、その刻文が前掲の通り。
*鰐口(仏堂・神殿の前に掛け、つるした綱で打ち鳴らす道具。銅または鉄で作り、平たい円形で中空。下方に横長の口がある。)

 

刈羽郡と云ヘルハ早クモ應永十八年前オヨソ五十年延文二年ニ越後国刈羽郡埴土保之内覚園寺云々ト相模風土記ニ鎌倉郡ノ部ノ見ユル由又寺尾正壽寺々領寄進状ニ越後国刈羽郡原田保内云々康安二年トアリ延文康安應永トモニ足利時代ノ始メノ年号ナリ之ヨリ先弘安五年善根石川中村嘉平治氏家系譜記中ニ

〔刈羽郡と云えるは、早くも応永十八年、前およそ五十年、延文二年に越後国刈羽郡埴都土(生の誤植)保之内園覚寺(カクオンジ)云々と、『相模風土記』に鎌倉郡の部の見ゆる由、また寺尾・正寿寺寺領・寄進状に越後国刈羽郡原田保内云々、康安二年とあり、延文・康安・応永ともに足利時代お始めの年号なり。これより先、弘安五年、善根・石川、中村嘉平治氏家系譜記中に〕

《刈羽郡と云う名称が使われたのは、早い所では応永18年(1411)のおよそ五十年前、『相模風土記』の鎌倉郡の部に、延文2年(南朝・正平12年、2357)に越後国刈羽郡埴生(はぶ)保の内覚園寺云々という記載があるようだ。また寺尾正寿寺の寺領寄進状に、越後国刈羽郡原田保内云々康安二年とあり(この部分、不詳)、延文・康安・応永ともに足利時代の年号である。また、これより前の弘安5年の善根村石川の中村嘉平治氏に伝わる家系譜記に次のような記載がある。》

【註】『相模風土記』、同書は所謂『古風土記』であり、ここに謂う『相模風土記』は、時代背景などから江戸時代に刊行された『新編相模風土記』(江戸時代に編纂された相模国の地誌。大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂に携わる。天保12年(1841年)成立、全126巻)の事と思われる。そこで、『新編相模風土記』によると、該当する部分は、巻百一・村里部・鎌倉郡二十三、二階堂村(下)「覺園寺(カクオンジ)」、延文二年正月の条に、国苅羽郡埴生保、先例に任せ寄附あり、曰「越後國苅羽郡埴生保之内、覺音寺(覺園寺)領事、有任先例、知行不可有相違〔知行、相違あるべからず〕、仍渡状如件〔よって渡状くだんの如し〕延文二年正月二十五日、左衛門尉(花押)」とある。

 【補注】『越佐史料』では、巻二、正平十二年丁酉(ひのととり)後村上天皇(南朝・延文二年、後光厳天皇)正月二十五日庚子(かのえね)、「左衛門尉某(氏名欠く)、舊ニ仍リ〔旧により〕、鎌倉覺園寺ニ、其所領越後埴生保ヲ渡付す『覺園寺文書』」とある。

また、先の寺尾正寿寺に関して、年代は違うのだが、『越佐史料』、正平十七年壬寅(みずのえとら)、(南朝・貞治元年・1362)二月九日(乙酉)、「藤原爲顯、父為幸ノ素志に依リテ、越後刈羽郡原田保ノ地ヲ同地正壽寺ニ寄進ス」とあり、『善照寺文書』として、「奉寄進正壽寺〔正寿寺に寄進奉る〕
  越後國刈羽郡原田保、田数事。
  一、参百苅    坪本柳町    一、弐百苅    垣根田
  一、壱百五拾苅 垣根田幷   一、百八十苅  同所
         
並同保内竹町分田事
  一、八十苅   坪本、一堰、御前作
右於彼所者〔右、彼の所における者は〕、爲顯重代相傳所領也〔爲顯、重代相伝の所領なり〕、然而任亡父為幸素志意〔然り而して、亡父・為幸の素志の意に任せ〕、限永代〔永代限り〕、所奉寄進也〔寄進奉る所なり〕、若背此旨〔もしこの旨に背かば〕、於到違亂子孫者〔違乱致す子孫に於いては〕、為不孝之仁〔不孝のひとと為り〕、永不可知行爲顯跡〔永く爲顯の跡を知行すべからず〕。然則申公方〔然らばすなわち公方に申し〕、可令安堵給者〔安堵させ給うべきは〕、仍寄進状如件〔よって寄進状くだんの如し〕
         
康安二年壬寅弐月九日        藤原爲顯(花押)
(上杉憲栄、安堵状)
任此状〔この状を任じ〕、可有全知行之状〔全知行有るべしの状〕、如件〔くだんの如し〕
         
永和二年六月十二日          散位〔上杉憲栄〕(花押)」
とある。
 推測するに、引用は、『善照寺文書』の年号に随ったものと思はれる。尚、善照寺(真言宗豊山派)は、新潟県刈羽郡刈羽村寺尾に現存する。よって、正寿寺については不詳だが、『刈羽村物語』(昭和46年刊・刈羽村物語編さん委員会編・刈羽村)の第二章「各部落の歴史物語」九「寺尾部落」に、「戦国時代の文明三年(1471)に善照寺が苅羽の船丸から、寺尾に移転された」とあることから、また古文書として残っている事から、この頃、何らかの理由で、善照寺が、正寿寺を継承したと考えられる。

 

   中村三郎左エ門父死亡之後有故諸国経廻奉仕越後国三島郡鯖石庄善根八石館主毛利家云々トアリ
〔中村三郎左衛門父死亡之後、有故、諸国経廻し、越後国三島郡鯖石庄、八石館主・毛利家に仕え奉る云々、とあり〕
《中村三郎左衛門は、父の逝去後、事情があり、諸国を巡遊したが、越後国鯖石庄の八石城主である毛利家に仕官した、とある。》

 

 弘安五年ハ延文年間ヨリ凡ソ五十年ノ昔ニシテ後宇多天皇時代有名ノ元寇ノ翌年ナリ又東鑑第六巻文治二年注進状に

 〔弘安五年は、延文年間より、およそ五十年の昔にして、後宇多天皇時代、有名な元寇の翌年なり。また東鑑第六巻、文治二年注進状に〕
《弘安五年は、延文年間より、およそ五十年の昔にして後宇多天皇時代に当たり、有名な元寇のあった翌年である。また東鑑(あずまかがみ)第六巻、文治二年の注進状に次の様に書かれている。》

 

  越後国庄園二十三ノ内三島郡ニアルモノ曰ク佐橋庄六条院領云々
〔越後国庄園二十三の内、三島郡にあるもの曰く、佐橋庄の六条院領、云々〕
《越後国にある二十三の庄園の内、三島郡にあるものを言うと、佐橋庄の六条院領、云々とある》

【註】『東鑑』あるいは『吾妻鏡』第六巻文治二年の注進状について。
この注進状に関する部分が、どの本から引用されたのか不詳だが、吉川本『吾妻鏡』を参照すると、(但し、『越佐史料』では吉川本第六巻とある)文治二年の条は、同書第五巻文治二年三月十日に、

    「十二日、庚寅、小中太光家為使節上洛、是左典厩賢息、(二品御外姪)、依可命加首服給、被獻(献)御馬三疋長持(被納砂金絹等)、二棹之故也、又關東御知行國々内、乃貢未濟庄々、召下家司等注文被下之、可加催促給之由云々、今日到來、
  
注進三箇國庄々事(下総、信濃、越後等國々注文、
         

  
下総國(以下略)
  
信濃國(以下略)
  
越後国 *以下の( )内は、『越佐史料』第一巻の註より。
  
 院御領(後白河上皇)             大槻庄(南蒲原郡)
  
 上西門院御領(結子内親王)       福雄庄(西蒲原郡)
  
 高松院御領(妹子内親王)         青海庄(西頸城郡)
  
 鳥羽十二面堂領                   大面庄(南蒲原郡)
  
 新釈迦堂領[預所]中御門大納言     小泉庄(岩船郡)
  
 東大寺                           豊田庄(北蒲原郡)
  
 六條院領(六條天皇)一條院女房右衛門佐局沙汰)
                                     
佐橋庄(刈羽郡)
  
 殿下御領(近衛基道)             白河庄(北蒲原郡)
  
 殿下御領(近衛基道)             奥山庄(北蒲原郡)
  
 穀倉院領[民部省]                 比角庄(刈羽郡)
  
 前斎院御領(頌子内親王)[預所]治部卿
                                     
宇河庄(刈羽郡)
  
 殿下御領(近衛基道)             大島庄(古志郡)
  
 八條院御領(暲子内親王)         白鳥庄(刈羽郡)
  
 高松院御領                       吉河庄(三島郡)
  
 金剛院領、堀河大納言家沙汰       加地庄(北蒲原郡)
  
 賀茂社領                         石河庄(南蒲原郡)
  
 院御領(後白河上皇)[預所]備中前司信忠
                                     
於田庄(中魚沼郡上田荘)
  
 鳥羽十一面堂領、[預所]大宮大納言入道家
                                     
佐味庄(中頸城郡)
  
 六條院領、[預所]■岐判官代惟繁   菅名庄(中蒲原郡)
  
                                  波多岐庄(三島郡)
  
 殿下御領(近衛基道)[預所]播磨局 紙屋庄(中蒲原郡)
  
 二位(三位?)大納言御家領(源定房?)
                                     
弥彦庄(西蒲原郡)
  
 二位大納言家領                   志度野岐庄(古志郡)
  
 前斎院御領                       大神庄(刈羽郡)
  
 上西門院御領、[預所]木工頭殿     中宮
  
右注進如件
         
文治二年二月■日
とある。
『越佐史料』の該当部分では、文治二年丙午、二月、「是月、旨ヲ頼朝ニ下シテ、後白河院宮以下諸領ノ幕府分國、越後等ニ在ルモノヽ、乃貢未済ヲ催促セシム」とあり、以下、先に挙げた注進状と同じ。但し、上述したように注釈あり。

 

 文治二年ハ弘安五年ヨリ昔八十年ナリ東鑑ノ出来タルハ弘安五年ヨリ十年程以前ノコトナレバ何レヨリ考フルモ三島郡ト称セル弘安五年以前ノコトニシテ其ヨリ凡ソ五十年延文二年ニ至ル迄ノ間ニ刈羽郡ト改称セラレタルハ上記ニヨリテ明確ナリ

〔文治二年は弘安五年より昔八十年なり。東鑑の出来たるは弘安五年より十年ほど以前のことなれば、何れより考うるも、三島郡と称せるは、弘安五年以前の事にして、それよりおよそ五十年、延文二年に至るまでの間に、刈羽郡と改称せられたるは、上記により明確なり。〕
《文治2年(1186)は、弘安5年(1282)より80年昔の事だ。『東鑑(吾妻鏡)』が完成したのが、弘安5年より10年くらい前の事(但し、定説では、鎌倉時代の末期、正安2年頃(1300)とされている)なので、何れにしても、三島郡と云われていたのは弘安5年以前の事で、それよりおよそ50年後の延文2年(1357)までの間に、刈羽郡と改称されたとするのは、先に挙げた史料などより明確である。》

【註】この部分は、年代等に関する考証が、当時(発刊当時)より進展している事もあり、より正確な検証が必要と思われる。

【註1】三島(三嶋)駅等に関しては、浅井勝利氏の『研究ノート・古代北陸道越後佐渡路に関する諸問題』(新潟県立歴史博物館「研究紀要」第1120103月掲載)に詳しく、それを参照した。尚、佐味の関連遺跡としては「上越市木崎山遺跡」、三嶋(三島)に関しては「柏崎市箕輪遺跡」が関連遺跡として揚げられている。

【註2】荒川に関しては、文脈からも疑問がある。『越後名寄』(第二巻)「川」の条に「荒川」の記載があるが、頸城郡(中頸城郡、現上越市)にあり、次のように書かれている。(便宜上、カタカナは平仮名に直した。また旧仮名遣いは現在仮名遣いに変更し、読み易くする為、句読点を加えた。)

 「上にて関川と云、水上は飛驒堺(境)より出、妙光山(妙高山?)戸隠山の間、渓(たに)、信越の堺を流れ、関川関所の前を過、荒井(新居)の駅より東を周り、さて渋井川・屋代川など流れ入て一つに成。高田郭(城)の後を行、此當(このあた)りより荒川と云えり。末は直江・今町の港なり。高田入口に橋在、今町と春日新田の駅の間は舟渡し也。渋井川は、カンナ山・火ウチ山の間より出る。屋代川は難波山より流れ出。」とある。

 また、吉田東伍の『大日本地名辞書』中巻「越後國・中頸城郡・荒川」の項に、次のように書かれている。

   「荒川 妙高山の西北なる回谷中に発し、焼山の東南を繞(めぐ)り、東に折れ黒姫と妙高の間に至り苗名瀧と為り、関川駅に至り、野尻湖の余水を容(い)れ北に折れこれより中游〈中流〉と為る、新居駅より下游〈下流〉と為り高田町の東を過ぎ、直江津の東に於て保倉川を容れ海にに朝宗(多くの河川がみな海に流れ入ること)す、長凡(およそ)十八里。中游以上は関川とも、下游には北川とも云えり。後略」とある。

 

 

 元明天皇寧楽建都ノ時に勅シテ国郡郷名ハ好字ヲ着セシメ且ツ必ズ二字ヲ用ヒ其郡内ニ生ズル所ノ諸物及土地ノ沃脊等ヲ史籍ニ載セシメテ言上セシム是レ即チ風土記ノ初ナリ時ニ里ヲ改メテ郷トス和名抄ノ編纂セラレタルハ元明帝以後ノコトナレバ三島郡ヲ三郷トセリ即チ三島・多岐・高家是レナリ今三郷ノ区域詳カナラザレドモ山田八十八郎氏ノ論正確ニ近キニ似タレバコヽニ挙グ

〔元明天皇、寧楽(ナラ)建都の時に、勅して国郡郷名は好字を着せしめ、且つ必ず二字を用い、その郡内に生ずる所の諸物及び土地の沃脊(ヨクセキ、瘠あるいは塉の誤植か)等を史籍に載せしめて言上せしむ。これ即ち風土記の初めなり。時に里を改めて郷とす。和名抄の編纂せられたるは、元明帝以後のことなれば、三島郡を三郷とせり。即ち、三島・多岐・高家、これなり。今、三郷の区域詳かならざれども、山田八十八郎氏の論証、確に近きに似たれば、こゝに挙ぐ。〕

《第43代元明天皇(女帝、661年〈斉明天皇7 - 721年〉1229日〈養老5127日〉)が、奈良(平城京)に藤原京から遷都した時(和銅3310日〈710413日〉)、勅令を発して、国郡郷の名称は、縁起の良い文字を当て、更に漢字二文字を用い、その郡内の産物や土地の良し悪しなどを歴史書に掲載せよと命じ、その事を言上させた。即ち、これが『風土記』編纂の初めである。その時に、里を改めて郷とした。和名抄(『倭名類聚抄』)が編纂されたのは、元明天皇以後の事だから、三島郡を三つの郷、すなわち三島・多岐・高家としている。今は、この三郷の区域も明確ではないが、山田八十八郎氏の論証が、かなり近いものだと考えられるので、次に引用する。》

 

【註】『続日本紀』(巻第六)和同六年五月甲子の条に「畿内七道国郡郷名著好字、其郡内所生、銀銅彩色草木禽獣魚虫等物、具録色目、及土地沃塉、山川原野名號所由、又古老相傳舊聞異事、載于史籍言上。〔畿内・七道・国郡郷の名は好き字に著し、その郡内に生ずる所の、銀銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は、具(とも)に色目を録し、及び土地の沃塉(ヨクセキ)、山川・原野の名号・所由(ショユウ、由来)、又古老の相伝・旧聞・異事は、史籍に載せて言上せよ〕」とある。推測すると、原文は、この『続日本紀』からの出典と考えられる。

 

 地勢ト古名称ノ遺ルモノトニ拠リ考フレバ鵜川鯖石川中島川ノ三流域ヲ以テ三島トスベシ鵜川ニ剣野ノ三島神社鯖石長鳥二流域ニ跨リ北條ノ御島石部神社アリ別山川ヨリ東吉井曽地赤田妙法寺阪田二田別山等ノ山巒ヲ繞ラシ今ノ三島郡ノ界ニ至ルヲ多岐郷トスベシ曽地ニ多々神社別山ニ多岐神社アリ別山川ヨリ西海ニ至リ北一大崎石地ニ延ビ南鯖石川ノ流末ニ及ブヲ高家郷トスベシ村名ニ高町瀧谷アリ又武町保瀧谷城アリ
 小国ノ一区域ハ地勢他ノ三郷ト自ラ異ナルヲ以テ別ニ一郷トスベシ此地ニ於ケル中世以後郷庄等ノ名称ヲ交ヘズ単ニ小国保ト称シ来ルハ謂アルニ似タリ
(倭名抄に三島郡を三郷に分つ。三島・高家・多岐、是なり。今三郷の区域詳ならざるも)地勢と古名称の遺(のこ)るものとに拠り考うれば、鵜川・鯖石川・中島川の三流域を以て、三島(みしま)郡(原本には「郷」とある)とすべし。鵜川と剣野の三島神社、鯖石・長鳥二流域に跨(またが)り、北條の御島石部神社あり、別山川より東吉井・曽地・赤田・妙法寺・阪田・二田・別山等の山巒(サンラン)を繞(めぐ)らし、今の三島(サントウ)郡の界(さかい)に至るを多岐(たき)郷とすべし。曽地に多々神社(多々神社名称の説、第七篇に具載す〈註・第七篇之二「東中通部・中通村」寺社の項冒頭〉)、別山に多岐神社あり、別山川より西、海に至り、北一(「一」は誤植か?原本には無い)、大崎・石地に延び、南、鯖石川の流末に及ぶを高家郷とすべし。村名に高町・瀧谷あり、また武町保、瀧谷城あり。小国の一区域は、地勢、他の三郷と自ずから異(原本では「殊」)なるをもって、別に一郷とすべし。この地における(原本では「於て」)中世以後、郷庄等の名称を交えず、単に小国保と称し来る(原本では「来りし」)は謂あるに似たり(第六篇小国部參照)。〕

《地勢と昔の名称の残るもから推論すると、鵜川・鯖石川・中島川の三つの流域の周辺を三島郡と考えるのが妥当だろう。また、鵜川と剣野の三島神社、鯖石川と長鳥川の二つの流域に跨り、北條の御島石部神社があり、別山川より東吉井・曽地・赤田・妙法寺・阪田・二田・別山などの山なみに囲まれた、今の三島(サントウ)郡と境界に至るまでを多岐郷と考えるのが妥当だろう。更に、曽地には多々神社があり、別山に多岐神社があるが、別山川から西の方角に海に至るまで、北の方に大崎・石地まで、南に鯖石川の河口までを高家郷と考えるべきだろう。それに由来すると思われる村の名前に高町・瀧谷があり、史跡として、武町保や瀧谷城がある。
 また、小国の一部は、地勢や他の三郷の様子とは異なるので、独立した一郷と考えるべきだろう。この地域における郷庄などの名称は、中世以降、他と重なる所がないので、単に小国保と伝承されるのは、そうした訳があるのではないだろうか。》
【註】この部分は、山田八十八郎の『刈羽郡旧蹟志』第一篇・郡郷部「郷荘保変革」(P76)にある。因みに、この部分は、『柏崎市史』(上巻・第六章・第三節「三嶋郡の分立」・「遺跡の分布と郷の所在」の項・P620)にも引用されている。また、同市史では、『柏崎編年史』(上巻・第一章「越後国の形成と柏崎」概説二「越後国三嶋郡三嶋郷と柏崎の関係」・P4、新沢佳大編著・昭和45年刊)を引用し比定している。また、『小国町史』では、第二章「古代の小国」第一節「国・郡・郷・駅・式内社」の「三島郡(刈羽郡)とその三郷」の項に同様の記載がある。

第二節 刈羽郡

第一項 古ハ三島郡ト称ス

 

 刈羽郡ハ和名抄延喜式ニ見ユル三島郡訓美之未ノ地ナリ

 〔刈羽郡は和名抄・延喜式に見ゆる三島郡、訓じて美之末(原文には「未」とあるが「末」の誤り)の地なり〕

 《刈羽郡は、『和名抄』(『和(倭)名類聚抄』)・『延喜式』では、三島郡とあり、「美之末」と読ませている地域の事である、するが、実際には、『倭名抄』では、三島郡と記し「美之末(みしま)」と読み、延喜式には、「三嶋」と記載され、特にその読みに関しての記載はない。》

【註】三島郡訓美之未:『和名抄』(源順・元和本『倭名類聚集』)の第五巻・第十二国郡部・第五十五北陸国・第六十三北陸郡・「越後国」に「三島郡、美之末(みしま)」とある。更に付け加えると、同書第七巻・第百一越後国・三島郡には、三島(美之萬、みしま、現在の長岡市三島)があり、次いで高家(多加也、たかや)、多岐の地名が見える。
 また『延喜式』では、(第十巻・神祇十・神名式下)の(越後国五十六座〈大一座、少五十五座〉三嶋郡六座(並・小)とあり、以下、御嶋石部神社(みしまいそべ、北條と西山にある)・鵜川神社・三嶋神社・物部神社・多多神社(ただ、曽地)・石井神社(出雲崎)が記載されている。

 

 三島郡ノ起因不詳ナリト雖崇神帝朝ニ久比岐国ヲ置カレ成務帝ノ朝ニ高志国ヲ置カレタルコト古史ニ微見ス現今久比岐国古志三島両郡ノ地高志国タルハ定説ナラバ地勢上美之未ノ地ハ其両国ノ間ニ存セルナリ

〔三島郡の起因、不詳なりといえども、崇神(スジン)帝朝に久比岐(くびき)国を置かれ、成務(セイム)帝の朝に高志国を置かれたること古史に微見(ビケン)す。現今、久比岐国古志・三島両郡の地、高志国たるは定説ならば、地勢上、美之未(末)の地は、その両国の間に存せるなり。〕

《三島郡が設置された理由は良く分っていないが、第10代崇神天皇の在位中に久比岐国が置かれ、第13代成務天皇の時代に高志国が置かれた事が古史(『古事記』『日本書紀』)に僅だが記載されている。現今(明治末頃)、久比岐国の古志と三島の両郡は、高志国だっただろうというのが定説になっているが、地勢の上からも、美之末というのは、久比岐国と古志国の間に在ったと思はれる。》

 吉田博士ハ美之未郡ハ古志郡ノ域内ナリトシ之亦故ナキニアラズ然レドモ吾人ハ其何国ニ属セルカヲ要求スルモノニアラズシテ只其起因ヲ知ラント欲スルモノナリ

〔吉田博士は、美之末郡は古志郡の域内なりとし、これまた故なきにあらず。然れども、吾人はその何国に属せるかを要求するもにあらずして、ただその起因を知らんと欲すものなり。〕

《吉田東伍博士は、『大日本地名辞書』「刈羽郡」の項に、「刈羽郡は古の三島(みしま)郡なり、近世の三島(サントウ)と混乱するなきを要す、和名抄、三島郡、訓美之末、三郷に分つ其初めは高志国の域内なるべし」とするが、著者は、美之末郡は古志郡の域内に在ったと考えるのも間違いではないが、自分(著者)は、美之末郡がどの国に属するかを求めているのではなく、美之末郡がそもそもどのようにして発祥したのかが知りたい訳である。》

 

 柳々郡ハ三韓ヨリ輸入セラレタル名称ナリ今園考ニ論ゼラレタルヲ引用シテ疑者ノ答トス

〔抑々(そもそも、原文には「柳々」とあるが誤植であろう)郡(こほり)は三韓より輸入せられたる名称なり、今園考に論ぜられたるを引用して疑者の答とす。〕

《だいたい「郡(こおり)」というのは、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の時代(1世紀から5世紀頃の朝鮮半島南部の部族国家)に入って来た名称であり、今、園考(恐らく栗田寛、号「栗里」の著『荘園考』と推測される)に開設されている「郡」に関する部分を引用して、疑問を持つ人への答えとする。》

   新井氏曰クコホリハ韓語ヨリ出デタリ今ノ朝鮮語ニ郡県ヲコホルトイフト云リト此説サモアルベシ継體ノ巻ニ朝語ノ地名ニ熊備巳富理(コビコホリ)叉ハ背評(ヘニホリ)トモアリ評ハ彼国ノ方言ニシテ郡ヲ云故コホリト訓メリ漢籍染書ニモ新羅俗其邑内日承評トイヘリ
〔新井氏曰く、「コホリ」は韓語より出でたり、今の朝鮮語に郡県を「コホリ」いうと云りと、この説さもあるべし、継体の朝語の地名に熊備巳富理(能備己富里?コビコホリ)または背評(ヘニホリ)ともあり、「評」は彼国の方言にして「郡」を云う故、「コホリ」と訓(よ)めり、漢籍『梁書』にも、新羅の俗、その邑内日承評といえり。〕
《新井白石は、「コホリは朝鮮語(古語)に由来し、今の朝鮮語に郡県をコホリというと伝えられている」と述べている。この説は確かなように思われる。『古事記』の継体天皇(男大迹天皇)24年9月、任那使奏云(任那は、朝鮮半島南部の地名、後に「任那府」が置かれる)の部分に古代朝鮮の地名として、「能備己富里(ノビコオリ)」または「背評(ヘコホリ)」ともあり、「評」は朝鮮の方言で「郡」を意味するので、「コホリ」と読む事が出来る。また漢籍(古代中国の書物)である『梁書』(南朝梁〈502年から557年〉の歴史書)の「新羅伝」にも、新羅俗其邑内日承評とある。

註: 「園考」については、先に述べた様に栗田寛(栗里)の『荘園考』と考えられるのだが、同書巻之二「大化以降国郡郷里 国郡分割 郷里之数/14丁」の「次に郡の分割沿革」の前後に、新井白石に言及した箇所は無く、また、栗田寛のその他の著作に「園考」から類推される書名あるいは内容が無い。ただ、新井白石に言及した引用の部分は、白石著書の『東雅』巻之三「地輿(チヨ、大地の事)第三」の「郡(コホリ)」にある。(原文を旧漢字は当用漢字に、旧假名使いは現代仮名遣いに改めた。)

   「旧事紀に神武天皇即位の初、功臣に国造(くにのみやつこ)県主(あがたぬし)等を寄さし賜いしとしるされ、其後の代々国といい県という事見えたれど、郡という事の見えしは、成務天皇四年二月、国郡立長(国郡、長〈おさ〉を立て)、県邑置首(県邑、首〈おびと〉を置く)と見え、五年九月、隔山河而分国県(山河を隔てて国県を分ち)、随阡陌(千百に随って)以定邑里(もって邑里を定む)など日本紀に見えしぞ。其文の如きは、郡と県とを分ちしるされしなど、其代にかかる文字ありしにはあらず。是はただ国史撰述の時に因りてしるされし所にて、郡といい県といい、其名同じからねど、其実異なるにもあらず。されば国郡県邑などしるされて、又国県邑里ともしるされ、又県の字読みて、アガタといいしかと、又コホリとも読み、郡県の二字引合て、コホリと読し事も見えたり。(孝徳紀に)孝徳天皇大化二年正月、畿内の国司を置かれ、又凡(およそ)郡の大中小、その郡司の大領・少領・主政・主帳等の官を定められしよりして、古の県主等の制、改りて、これより後代の令式、皆此時の詔によられし所なり。後に郡をコホリといいしは、韓国の言に出しなり。即ち今も朝鮮の俗、郡をも県をも幷(ならび)にコホルというは、即コホリの転語なり。
 或説にコホリとは、小割(コハリ)なりと云う。古語にかかる義あるべしとも思われず。」

また、
文中に「熊備巳富理」とあるが、このまま読むと「クビミホリ」と読め、恐らくは、「能備己富里(ノビコホリ)」の「能」と「己」誤植したのではないだろうか。また同様に「評」の読みも、「ヘコホリ」が文脈から妥当と思はれる。
 また
『梁書』「新羅伝」には、

 「其俗、呼城曰健牟羅、其邑、在内曰啄評、在外曰邑勒、亦中国之言、郡県也」
〔その俗、城を呼びて健牟羅と曰う、その邑(村)、城内に在るを啄評と曰い、城外を邑勒と曰う。また中国の言うところの郡県なり〕
とあり、「承評」は「啄評」の誤植、あるいは誤りとおおわれる。因みに、「啄評」は、新羅国畿内の行政単位。また、よくあるのだが、「日」は「曰く」の誤植であろう。

 

 三島ノ地ハ国トシテ古書ニ見エズシテ郡トシテ存スル以上其設立ハ少クモ應神帝以後ノコトナルコト明白ナリ

〔三島の地は国として古書に見えずして、郡として存する以上、その設立は、少なくとも応神帝以後のことなること明白ナリ。〕

《三島という地域は、国としては古い書籍載っておらず、郡としては在ったようである以上、その設立は、学術的に実在したと云われる第15代応神天皇以後の事であると云うのは明白である。》

 

 我国ノ古代ニ於テ地方行政ニ多大ノ変動ヲ及ボシタルハ孝徳帝ノ御代ナリ帝ノ大化元年詔シテ曰ク

〔我国の古代において、地方行政に多大の変動を及ぼしたるは、孝徳帝の御代なり。帝の大化元年、詔して曰く、〕

《我国の古代史上、地方の行政に大きな影響を与えたのは、第36代孝徳天皇(596 - 654年、在位:645712 - 6541124日、和名は「天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)」)の時代である。孝徳天皇は大化元年に次のよう詔勅したと『日本書紀』に書かれている。》

 

   (省略された部分:「甲申、遣使者於諸國、錄民元數、仍詔曰」)自古以降、毎天皇時置標代民、垂名於後、其臣連等、伴造国造、各置民、恣情駈使、又割国縣山海林野池田、以為財、争戦不己、或者兼数万田、或者全無容(地、及進調賦時、其臣連伴造等、先自収斂、然後分進、修()治宮殿、築造国陵、各率己民、隨事而作、(中略「易曰、損上益下、節以制度、不傷財不害民。方今百姓猶乏、而有勢者分割水陸以爲私地、賣與百姓、年索其價」)従今以後、不得売地、勿妄作主兼拜劣弱、百姓大悦
(省略された部分:「甲申〈きのえさる〉、使いを諸国に遣わして、民〈おおみたから〉の元(おお)数を録(しる)す。仍〈よ〉りて詔〈みことのり〉して曰(にたま)わく」)古(いにしえ)より以降(このかた)、天皇(すめらみこと)の時(みよ)毎に、代(しろ)の民を置き標(あら)わして、名(みな)を後に垂(た)る。それ臣(おみ)連(むらじ)等(たち)、伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)、各(おのおの)己(おの)が民(たみ)を置きて、情(こころ)の恣(ほしいまま)に駈使(つか)う。また国県(くにあがた)の山海、林野、池田(いけた)を割(さきとり)て、以(もっ)て己(おの)が財(たから)と為して、争(あらそい)戦(たたか)うこと已(や)まず。或者(あるひと)は数万項(あまたよろずしろ))の田を兼(か)ね幷(あわ)す。或者(あるひと)は、全(もは)ら容針少地(はりさすばかりのところ)も無し。調賦(みつぎ)を進(たてまつ)る時に、及んでは、その臣連伴の造(みやつこ)たち、先(ま)ず自(みずか)ら収(おさ)め斂(と)りて、然(しこう)して後に分ち進(たてまつ)る。宮殿(おおみや)を脩治(つく)り、園陵(みささぎ)を築造(つく)るに、各(おのおの)己(おの)が民を率いて、事に随(したが)いて作れり。中略(「易(エキ)に曰く、『上(かみ)を損(おと)して下(しも)を益(ま)す。節(したがう)に制度(のり)を以てし、財を傷(やぶ)らざれ。民を害(そこ)わざれ』といえり、方(まさ)に今、百姓(おおみたから)猶(なお)乏(とも)し。而(しか)るを勢い有る者は、水陸(たはたけ)を分け割きて、以て私(わたくし)の地(ところ)と為し、百姓に売り与えて、年(としごと)に其の値を索(こ)う。」)今より以後(のち)、地(ところ)売ること得じ。妄(みだり)に主(あろじ)と作(なり)て、劣(つたな)く弱きを兼ね幷(あわ)すこと勿(なか)れと。百姓、大きに悦(よろこ)ぶ。〕
《大化元年(孝徳天皇2年、645)11月19日(甲申)に始まる所謂「大化の改新」に関する部分である。因みに、「大化」は、我国で初めてつかわれた元号。この部分に関する読下し文しては、国史大系第一巻『日本書紀』(経済雑誌社・明治30年刊)と日本古典分が大系『日本書紀(下巻)』(岩波書店・昭和40年刊)を参照した。
 しかしながら、日本書紀に関しては、多くの研究や文献があり、現代語訳も何冊かあるので、拙訳は憚られるの省略する。》

 

 是レ即チ大化改新ニシテ此際国郡テフ制度ヲ布カレタリ其ハ従前ノ国ヲ併合セル大地域ニシテ郡ハ大略古ノ国ニ当ル

〔これ、すなわち大化の改新にして、この際、国郡ちょう制度を布かれたり、それは従前の国を併合(ヘイゴウ)せる大地域にして、郡は、大略、古の国に当る。〕

《以上、引用の部分は「大化の改新」の事であり、この時、国郡という制度が制定され、それまでの国を合併し大きな地域にした。この当時の昔の国が、大体、郡である。》

  初修京師置畿内国司郡司(省略された部分「關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬」)ト古書ニ見エケルニヨリ
〔「初めて京師(みさと)を修め、畿内国(うちつくに)の司(みこともち)・郡司(こうりのみやつこ)、(調略された部分「関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)」)を置き」と古書(『日本書紀』)に見えるにより〕
《『日本書紀』(孝徳天皇紀の巻之二十五の「二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰《大化二年正月元旦、賀正の礼を終える、即ち新しきに改むるの詔勅を発して述べた》」)に続く、第二条に「其二曰、初修京師、置畿
國司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬(後略)」とある事から》

 推セバ国郡制ヲ近キヨリ遠キニ及ボシ施行セラレタルモノヽ如シ、又記録ニ凡四十里為大郡三十里以下四里以上為中郡三里為小郡、其郡司、(省略の部分「並取国造性識淸廉、堪時務者」)、為大領小領、(省略の部分「■(「朝」の左と夸を合せた字)聰敏、工書算者、爲主政・主帳。凡給驛馬・傳馬、皆依鈴傳符剋數。凡諸國及關、給鈴契。並長官執、無次官執。其三曰、初造戸籍・計帳・班田收授之法。」)、凡五十戸為里毎里置長一人、又国統郡、郡統里、国有守、郡有領、里有長ト以テ国郡里ノ政治上ノ関係及区域ハ想像スルニ難カラズ

〔(以上の事から)推せば、国郡制を近きより遠きに及ぼし、施行せられたるものの如し、また記録に「凡(おおよ)そ四十里(よそさと)を以て大郡(おおきこおり)とせよ。三十里(みそさと)より以下(しも)、四里(よさと)より以上(かみ)を、中郡(なかつこおり)とし、三里(みさと)を、小郡(すくなきこおり)せよ。〈省略された部分〔その郡司(こおりのみやつこ)には、並に国造(くにのみやつこ)の性識清廉(ひととなりたましいいさぎよ)くして、時(とき)の務(まつりごと)に堪うる者を取りて〕〉、大領(おおみやつこ)小領(すけのみやつこ)とし、(省略された部分「強(こわ)く■(いさお)しく聡敏(さと)くして、書算(てかきかずとる)に工(たくみ)なる者を、主政(まつりごとひと)・主帳(ふびと)とせよ。凡(おおよ)そ駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)給うことは、皆、鈴・伝符(つたえのしるし)の剋(きざみ)の数に依れ。凡そ諸国(くにぐに)及び関には、鈴契(すずしるし)給う。並びに長官(かみ)執(と)れ。其の三に曰(のたま)わく、初めて戸籍(へのふみた)・計帳(かずのふみた)・班田(あかちだ)を収受(おさめさずくる)の法(のり)を造れ。」)、凡(すべ)て五十戸(いそへ)を里とす。里毎に長(おさ)一人を置く。また国は郡を統べ、郡は里を統べ、国に守(かみ)有り、郡に領(すけ)有り、里に長(おさ)有りと。もって国郡里の政治上の関係、及び区域は想像するに難(むつかし)からず。〕

《以上の事から推測すると、国郡の制度を畿内のような近隣の地方から越後のような遠い地方まで拡大し、施行されたようである。また記録によると、約四十里以上を「大郡」とし、四里から三十里までを「中郡」とし。三里以下を「小郡」としたとある。以下、前述と同様に省略する。尚、「又国統郡・・・」は、日本書紀にはないので、著者の注釈と考えられる。》

 

 天武天皇ノ時代ニ越国ヲ越後越中越前ノ三越ニ分割セラレタルコトハ前越国記中ニ載セラレタルトコロナリセバ其以前ニ久比岐国ハ久比岐郡ト高志国ハ高志郡ト改称セラレシ仝時ニ其両郡ノ間ニ一郡ヲ新設シ三島郡トセラレタルモノカ大寶二年二月越中国ノ四郡ヲ割キテ越後国ニ併スト此時代ニ於テ三島郡ノ起リタルモノヽ如シ

〔天武天皇の時代に越国を越後・越中・越前の三越に分割せられたることは、前越国記中に載せられたるところなりせば、その以前に、久比岐国は久比岐郡と高志国は高志郡と改称せられし。同時に、その両郡の間に一郡を新設し、三島(みしま)郡とせられたるものか、大宝二年二月、越中国の四郡を割きて、越後国に併すと、この時代に於て三島郡の起りたるものの如し。〕

《天武天皇の時代に、越国を越後・越中・越前の三越に分割された事が、『前越国記』という本の中に書かれている事からすれば、それ以前に、久比岐国は久比岐郡と、高志国は高志郡に改称されたという事になるだろう。同時に、その両郡の間に、一つの郡を新しく加えて、三島郡としたのでは無ないだろうか。『続日本紀』(文武天皇第二巻)大宝二年三月甲申(原文では、「二月」としているが、これは三月の誤り。また「甲申〈きのえさる〉」は17日)の条に、「甲申。令大倭國繕治二槻離宮。分越中國四郡属越後國。〔大倭(やまと)の国に二槻(ふたつき)の離宮を繕い治めしむ。越中の国四郡を分ち越後国に属す。〕」とある。越中国を四郡に分割して、越後国と帰属させたとある。この時代に、三島(みしま)郡が設置されたようである。》

【註】この部分は、出典を含め疑問が多い。先ず、出典である『前越国記』が分らない。それを、「前」を「先」と同様に考え、『越後国』と解釈するか、『前越国記』と考えるか、例へば、『日本書記』の一部として捉えるか。ところが、『日本書紀』には、こうした記述は無い。そこで、年代的に探したのだが、例へば『越佐史料』(第一巻)など、それらしきものがない。尚、『越佐史料』について言えば、大宝年間の記事は二件で、二件とも全くの別件だった。

 

 延喜式ニ三島駅見ユ三島駅ハ久比岐ノ佐味三島ノ多岐ノ間ニアリテ米山ノ北ナルヲ想ヘバ正シク上図ノ如クシテ実ニ刈羽郡ノ中心点タリ荒川ノ流域一平野ヲ為シ巒ラスニ山脈ヲ以テス之ヲ一郡トナス信濃川ノ流域ヲ山脈ヲ以テカコム之ヲ高志郡トナス鵜川鯖石川別山川ハ其名ヲ異ニスルト雖モ其実ハ仝一流域ニ属ス其流域ヲカコムニ連山ヲ以テシ自然的区劃ヲナス三島郡ヲ設ケラルヽモ自然ノ勢ナリ郡名ハ駅名ヲ因トシテ取リタルモノカ其例少シトセズ頸城ノ如キモ其一例ナリ

 〔延喜式に三島駅見ゆ。三島駅は久比岐の佐味、三島の多岐の間にありて、米山の北なるを想えば、正しく上図の如くして、実に刈羽郡の中心点たり。荒川の流域一平野を為し、巒(やまなみ、みね)なすに(「ラ」とあるのは「ナ」の誤植?)山脈をもってす、これを一郡となす信濃川の流域を山脈をもって、かこむ、これを高志郡となす。鵜川・鯖石川・別山川は、その名を異にすといえども、その実は同一流域に属す。その流域をかこむに連山をもってし、自然的区画をなす。三島郡を設けらるるも、自然の勢いなり。郡名は駅名を因として取りたるものか、その例、少しとせず、頸城の如きも、その一例なり。〕

《『延喜式』第二十八巻「兵部式」の「諸国駅伝馬・北陸道・越後国駅馬」の条に「蒼海八疋。鶉石、名立、水門、佐味、三嶋、多太、大家各五疋。伊神二疋。渡戸船二隻。」とあり、三嶋(三島)駅に駅馬五匹が常備されていた事が判る。またこの条から、三島駅は、頸城郡の佐味(旧柿崎町周辺)と三島郡の多太(多岐、現柏崎・刈羽村周辺)の間で、米山の北側と推測すれば、確かに上図(不明、昭和54年に復刻版が発刊された時に添付しなかったのか、あるいはに紛失していたのではないだろうか。)のように、確かに刈羽郡の中心であったようだ。荒川(現上越市の関川か?)の流域は、一つの平野を形成し、連なる峰は山脈を成している、これを一つの郡として、信濃川の流域を山脈によって囲む地域を高志郡とする。鵜川・鯖石川・別山川は、それぞれ名称が異なるが、実際には同じ流域に属している。その流域を囲む連山によって、自然の区画を形成している。その為、三島郡が設置されたのも当然の事だろう。郡名は駅名に由来するものと考えられるので、その例も少なくなく、頸城郡もその一例と言えるだろう。》

 

第三項 新潟縣

 

 徳川末代ニ於ケル越後国ハ高田新発田長岡村上村松與板清崎黒川椎谷三日市峯岡ノ十一藩ノ提封ト幕府ノ支管下ニ依リ佐渡国ハ幕府ノ直轄ニ係ル今明治ニ入リ現今ノ新潟縣ニ至ルマデノ変異ヲ記ス

〔徳川末代にける越後国は高田・新発田・長岡・村上・村松・与板・清崎・黒川・椎谷・三日市・峰岡の十一藩の提封と幕府の支管下により、佐渡国は幕府の直轄に係る。今明治に入り現今の新潟県に至るまでの変異を記す。〕

《幕末の頃の越後国は、高田(譜代、酒井家15万石)・新発田(外様、溝口家、約10万石)・長岡(譜代、牧野家、約14万石)・村上(譜代、内藤家、5万石)・村松(外様、堀家、3万石)・与板(譜代、井伊家、2万石)・清崎(糸魚川、親藩、松平家、1万石)・黒川(譜代、柳沢家、1万石)・椎谷(譜代、堀家、1万石)・三日市(譜代、柳沢家、1万石)・峰岡(三根山、譜代、1万1千石)の11藩が領内の総てと、幕府の支配地(例へば、小千谷)があり、また佐渡国は、幕府の直轄領であった。ここで、明治以降、今の新潟県に至るまでの変遷を記載する。》

 

官廳設置年月              官廳

明治元年 四月 十九日      越後国ニ新潟裁判所ヲ置ク

仝      二十四日      佐渡国ニ佐渡裁判所ヲ置ク

仝    六月  三日      新潟裁判所ヲ改メテ越後府ト為ス

仝    七月二十七日      越後国ニ柏崎県ヲ置ク

仝    九月  二日      佐渡裁判所ヲ改メテ佐渡県ト為ス

仝    九月に十一日      越後府ヲ改メテ新潟府ト為ス

明治二年 二月  八日      再ビ越後府ヲ置ク

仝      二十二日      新潟府ヲ改メテ新潟県トス

                          柏崎佐渡二県ヲ廃シテ越後府ニ合ス

仝    七月 二十日      再ビ佐渡県ヲ置ク

仝      二十七日      越後府ヲ改メテ水原県トナシ新潟県ヲ廃シ之ニ合ス

仝    八月二十五日      水原県ヲ割キテ復タ柏崎県ヲ置ク

明治三年 三月  七日      水原県ヲ廃シテ再ビ新潟県ヲ置ク

仝    十月ニ十二日      長岡藩ヲ廃シテ柏崎県ニ併ス

明治四年 七月 十四日      十藩ヲ廃シテ県ト為ス是ニ於テ二国分レテ十三県ト為ス

仝   十一月 二十日      十三県ヲ廃シテ更ニ新潟県柏崎県ヲ越後国ニ相川県ヲ佐渡ニ置ク

明治六年 六月  十日      柏崎県ヲ廃シテ新潟県ニ併ス

仝 九年 四月 十八日      相川県ヲ廃シテ新潟県ニ併ス以テ現今ニ至ル

 

置県以来ノ長官及旧藩主ヲ左ニ挙グ

旧藩主 新潟県勢概覧ニヨル

        姓名         備考

村上  子爵 内藤信正       維新後の村上藩知事は、第九代藩主(最後の藩主)信美(のぶとみ)であり、信正と云う名前は、維新前後には見当たらず、何らかの誤認ではないかと思われる。

新発田 子爵 溝口直正       第十二代藩主、「子爵」とあるが、「伯爵」の誤り。因みに、直正の長女・久美子は、大倉財閥・男爵・大倉喜八郎嫡子・喜七郎夫人である。また余談だが、子息・直亮(なおよし)夫人・須美子は、御三卿・田安家・徳川達孝(さとたか)の長女で、德川宗家・第十六代家達(いえさと、家達は田安家の出)の姪である。

長岡  子爵 牧野忠篤       長岡藩牧野家第十五代当主、初代長岡市長

椎谷  子爵 奥田直紹       村松藩第十一代藩主・堀直賀(なおよし)の長男・直紹(なおつぐ)、第十三代椎谷藩主・之美(ゆきよし、最後の藩主)の養子となり家督を相続した。姓が「奥田」であるのは、堀家の旧姓で、廃藩置県の時、奥田系堀氏三家(須坂・椎谷・村松)が奥田姓に復姓した為。

三日市 子爵   柳澤徳忠      三日市藩柳沢家第八代藩主、夫人は奥田直紹の祖父・直休(なおやす)の長女(大伯母)。

清崎  子爵   松平直静      糸魚川清崎藩第八代藩主・直静(なおやす)、越前福井藩松平家の分家。明石藩第七代藩主・松平斉韶(なりつぐ)七男

黒川  子爵   柳澤光邦      第八代藩主。高家旗本・武田信之の六男。黒川藩七代・光昭(みつてる)とは従兄弟。

村松  子爵   奥田直暢      第十二代藩主・直弘の嫡子・直暢(なおのぶ)、奥田直紹(なおつぐ)は叔父。

高田   子爵   榊原政敬      第六代藩主、実は、第三代藩主・政令(まさのり)三男。

峯岡  子爵  牧野忠良      長岡藩牧野家分家(三根山藩)。宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(むねなり、幕末の四賢君)七男。因みに、この家は代々養子が多く、次代健之助は、三井総本家(北家)第八代高福(たかよし)の次男・三井八郎次郎の六男である。

與板  子爵   井伊直安      彦根藩井伊家第十三代藩主・井伊直弼(大老)の次男。

 

長官

任官年月                  姓名          備考

明治  四年十一月   県令   平松時厚     公卿・子爵。

明治  五年 五月  県令   楠本正隆     肥前大村藩士、男爵、大久保利光の腹心と言われた。後、東京府知事。

明治 十八年 四月  県令   永山盛輝     薩摩藩士、男爵。

明治 十九年 七月   知事  

明治二十二年十二月   知事   仙田貞暁     (せんだ・さだあき)、薩摩藩士、男爵、広島県の県令、同県知事後、新潟県・和歌山県・愛知県・京都府・宮崎県知事を歴任。

明治二十四年 四月  知事   籠手田安定   (こてだ・やすさだ)、平戸藩士、剣術家(心形刀流と一刀正伝無刀流の免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた)、滋賀・島根県知事の後、新潟県知事。

明治二十九年 二月  知事   浅田徳則     京都出身、地方官吏から官僚、外交官、政治家。神奈川・長野県知事を経て新潟県知事、広島県知事。

明治三十 年 四月  知事   勝間田稔     長州藩士、内務官僚。愛知県令、同知事、愛媛・宮城県知事を経て新潟県知事。

明治三十三年 一月   知事   千頭清臣     (ちかみ・きよおみ)土佐出身、教育者、内務官僚。栃木・宮城県知事を経て新潟県知事、鹿児島県知事。

明治三十三年 九月   知事   柏田盛文     薩摩出身、慶応義塾卒、政治家、官僚。第四高等学校長、千葉・茨城県知事を経て、新潟県知事。

明治三十六年 二月   知事   阿部 浩     南部出身(原敬と幼馴染)、内務官僚、政治家。群馬・千葉・富山県知事を経て、新潟県知事、東京府知事。

明治四十 年 一月  知事   伯爵清棲家教 (きよす・いえのり)、伏見宮第十五皇子。山梨・茨城・和歌山県知事を経て、新潟県知事。

明治四十五年 三月   知事   森 正隆     米沢出身、内務官僚、政治家。茨城・秋田県知事を経て、新潟県知事、宮城・滋賀県知事。

 



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