柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第二項 刈羽郡ト改称ス

 

 刈羽ノ名称ノ見ユル最モ古キハ義経記ニ三十三里かりは濱ト之ナリ日本地理志料

  〔刈羽の名称の見ゆる最も古きは、『義経記』に「三十三里かりは浜」と、これなり。『日本地理志料』に〕
《文献上、「刈羽」の名称が出て来るのは、『義経記』の巻第七の四「三の口の関通り給ふ事」に武蔵坊弁慶が先行きの案内をする場面で「(前略)越後国国府に着きて、直江の津より舟に召して、米山をおきがけに、三十三里のかりやはま(刈羽浜の訛)、かつき(勝見の訛)、しらさき(しひやさき、椎谷崎?)を漕(こぎ)過ぎて、寺尾泊に舟をつけ、くりみやいしを拝みて、九十九里の浜にかゝりて、乗足(沼垂)、蒲原、八十里の浜、瀬波、荒川、岩船と云ふ所に着きて、(後略)」とあり、「三十里のかりやはま」とあるのが刈羽の事で最も古い。また、『日本地理志料』には、》

【註】『義経記』は、正宗敦夫編・日本古典全集刊行會・昭和4年刊を参照した。
日本地理志料』(村岡(邨岡)檪斎(良弼)著・東陽堂・明治36年刊)、下記は、巻三十五「越後国・三島郡・P19」からの引用。

 

   越後野志足利氏時私改三島郡称刈羽郡其名始見居多神社應永十八年文書石船神社嘉吉二年金鼓識ト有レド足利氏時ノ時代ハ不詳ニシテ
〔「越後野志、足利の氏時、私して三島郡を改め、刈羽郡と称す。その名、始めて、居多神社、応永十八年の文書、石船神社、嘉吉二年、金鼓の識に見ゆ」と有れど、足利氏時の時代は不詳にして〕
《「『越後野志』に、足利氏時が私領とし三島郡を刈羽郡に改称したとあるが、その名称(三島)は、居多神社(上越市五智の現存)の応永18年(1411)の文書に、また石船神社(村上氏岩船三日市に現存)の嘉吉2年(1442)の金鼓の識(銘文、実際には下記註の通り、「鰐口」である)に見える」とあるが、足利氏時の時代と云うよりも、そもそも氏時なる人物の存在が不明瞭であるので、》
【註】『越後野志』(エチゴヤシ)、[小田島允武著] ; 源川公章校訂、新潟県立図書館・越後佐渡デジタルライブラリーの書誌によれば「『越後名寄』と並んで代表的地誌。『越後野志外集』が原本と思われる。小田島允武は儒者。一名雄彦、通称彦四郎、晩年源左衛門と改め、松翁と号す。水原の人。書肆を生業とす。博覧強記『越後野志』の著者として名高し。文政9年歿。年68。」とある。尚、昭和49年(1974)に上下二巻として歴史図書社より復刻出版されている。因みに、同書(巻之一)「郡」の条「刈羽郡」の項を挙げると以下の通り。尚、便宜上、読下し文とする。
「刈羽郡、中古、三島・古志二郡の地を割き、而して此郡を置く。其の年暦を詳らかとせず。磐船の祠廟金鼓銘に曰く、〈敬白、越後国刈羽郡鵜河荘藤井卒塔婆領八幡宮、檀那・道吉右近五郎、嘉吉二年十一月六日。〉和名抄・拾芥抄二書并(とも)に、刈羽郡を載せず。則ち応永・嘉吉の間、両置するを知るなり。(後略)」

【補注】『和名抄』前掲。
『拾芥抄』、洞院公賢撰・村上勘兵衛刊・明暦二年(1656
第四巻・第二十三・本朝国郡、「越後国(中遠)七郡、頸城(府)、古志、三嶋、魚沼、蒲原、沼垂、石舩、(田、二万三千卅八町)」とある。
『越佐史料』巻二、後小松天皇・応永十八年辛卯(かのとう)八月十九日戊申(つちのえさる)の条に、「越後居多神社社務花前盛保、頸城・刈羽・魚沼・蒲原・古志、諸郡内ノ社領検注ヲ付与セラル(花押)」とあり、また『花前文書』に刈羽郡内雀守六反・雀守(安丸別給)の記載がある。
同書第二巻、後花園天皇・嘉吉二年壬戌(みずのえいぬ)十一月六日癸亥(みずのとい)の条に、「道吉右近五郎、越後藤井卒塔婆領八幡宮ニ、鰐口ヲ寄進ス」とあり、その刻文が前掲の通り。
*鰐口(仏堂・神殿の前に掛け、つるした綱で打ち鳴らす道具。銅または鉄で作り、平たい円形で中空。下方に横長の口がある。)

 

刈羽郡と云ヘルハ早クモ應永十八年前オヨソ五十年延文二年ニ越後国刈羽郡埴土保之内覚園寺云々ト相模風土記ニ鎌倉郡ノ部ノ見ユル由又寺尾正壽寺々領寄進状ニ越後国刈羽郡原田保内云々康安二年トアリ延文康安應永トモニ足利時代ノ始メノ年号ナリ之ヨリ先弘安五年善根石川中村嘉平治氏家系譜記中ニ

〔刈羽郡と云えるは、早くも応永十八年、前およそ五十年、延文二年に越後国刈羽郡埴都土(生の誤植)保之内園覚寺(カクオンジ)云々と、『相模風土記』に鎌倉郡の部の見ゆる由、また寺尾・正寿寺寺領・寄進状に越後国刈羽郡原田保内云々、康安二年とあり、延文・康安・応永ともに足利時代お始めの年号なり。これより先、弘安五年、善根・石川、中村嘉平治氏家系譜記中に〕

《刈羽郡と云う名称が使われたのは、早い所では応永18年(1411)のおよそ五十年前、『相模風土記』の鎌倉郡の部に、延文2年(南朝・正平12年、2357)に越後国刈羽郡埴生(はぶ)保の内覚園寺云々という記載があるようだ。また寺尾正寿寺の寺領寄進状に、越後国刈羽郡原田保内云々康安二年とあり(この部分、不詳)、延文・康安・応永ともに足利時代の年号である。また、これより前の弘安5年の善根村石川の中村嘉平治氏に伝わる家系譜記に次のような記載がある。》

【註】『相模風土記』、同書は所謂『古風土記』であり、ここに謂う『相模風土記』は、時代背景などから江戸時代に刊行された『新編相模風土記』(江戸時代に編纂された相模国の地誌。大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂に携わる。天保12年(1841年)成立、全126巻)の事と思われる。そこで、『新編相模風土記』によると、該当する部分は、巻百一・村里部・鎌倉郡二十三、二階堂村(下)「覺園寺(カクオンジ)」、延文二年正月の条に、国苅羽郡埴生保、先例に任せ寄附あり、曰「越後國苅羽郡埴生保之内、覺音寺(覺園寺)領事、有任先例、知行不可有相違〔知行、相違あるべからず〕、仍渡状如件〔よって渡状くだんの如し〕延文二年正月二十五日、左衛門尉(花押)」とある。

 【補注】『越佐史料』では、巻二、正平十二年丁酉(ひのととり)後村上天皇(南朝・延文二年、後光厳天皇)正月二十五日庚子(かのえね)、「左衛門尉某(氏名欠く)、舊ニ仍リ〔旧により〕、鎌倉覺園寺ニ、其所領越後埴生保ヲ渡付す『覺園寺文書』」とある。

また、先の寺尾正寿寺に関して、年代は違うのだが、『越佐史料』、正平十七年壬寅(みずのえとら)、(南朝・貞治元年・1362)二月九日(乙酉)、「藤原爲顯、父為幸ノ素志に依リテ、越後刈羽郡原田保ノ地ヲ同地正壽寺ニ寄進ス」とあり、『善照寺文書』として、「奉寄進正壽寺〔正寿寺に寄進奉る〕
  越後國刈羽郡原田保、田数事。
  一、参百苅    坪本柳町    一、弐百苅    垣根田
  一、壱百五拾苅 垣根田幷   一、百八十苅  同所
         
並同保内竹町分田事
  一、八十苅   坪本、一堰、御前作
右於彼所者〔右、彼の所における者は〕、爲顯重代相傳所領也〔爲顯、重代相伝の所領なり〕、然而任亡父為幸素志意〔然り而して、亡父・為幸の素志の意に任せ〕、限永代〔永代限り〕、所奉寄進也〔寄進奉る所なり〕、若背此旨〔もしこの旨に背かば〕、於到違亂子孫者〔違乱致す子孫に於いては〕、為不孝之仁〔不孝のひとと為り〕、永不可知行爲顯跡〔永く爲顯の跡を知行すべからず〕。然則申公方〔然らばすなわち公方に申し〕、可令安堵給者〔安堵させ給うべきは〕、仍寄進状如件〔よって寄進状くだんの如し〕
         
康安二年壬寅弐月九日        藤原爲顯(花押)
(上杉憲栄、安堵状)
任此状〔この状を任じ〕、可有全知行之状〔全知行有るべしの状〕、如件〔くだんの如し〕
         
永和二年六月十二日          散位〔上杉憲栄〕(花押)」
とある。
 推測するに、引用は、『善照寺文書』の年号に随ったものと思はれる。尚、善照寺(真言宗豊山派)は、新潟県刈羽郡刈羽村寺尾に現存する。よって、正寿寺については不詳だが、『刈羽村物語』(昭和46年刊・刈羽村物語編さん委員会編・刈羽村)の第二章「各部落の歴史物語」九「寺尾部落」に、「戦国時代の文明三年(1471)に善照寺が苅羽の船丸から、寺尾に移転された」とあることから、また古文書として残っている事から、この頃、何らかの理由で、善照寺が、正寿寺を継承したと考えられる。

 

   中村三郎左エ門父死亡之後有故諸国経廻奉仕越後国三島郡鯖石庄善根八石館主毛利家云々トアリ
〔中村三郎左衛門父死亡之後、有故、諸国経廻し、越後国三島郡鯖石庄、八石館主・毛利家に仕え奉る云々、とあり〕
《中村三郎左衛門は、父の逝去後、事情があり、諸国を巡遊したが、越後国鯖石庄の八石城主である毛利家に仕官した、とある。》

 

 弘安五年ハ延文年間ヨリ凡ソ五十年ノ昔ニシテ後宇多天皇時代有名ノ元寇ノ翌年ナリ又東鑑第六巻文治二年注進状に

 〔弘安五年は、延文年間より、およそ五十年の昔にして、後宇多天皇時代、有名な元寇の翌年なり。また東鑑第六巻、文治二年注進状に〕
《弘安五年は、延文年間より、およそ五十年の昔にして後宇多天皇時代に当たり、有名な元寇のあった翌年である。また東鑑(あずまかがみ)第六巻、文治二年の注進状に次の様に書かれている。》

 

  越後国庄園二十三ノ内三島郡ニアルモノ曰ク佐橋庄六条院領云々
〔越後国庄園二十三の内、三島郡にあるもの曰く、佐橋庄の六条院領、云々〕
《越後国にある二十三の庄園の内、三島郡にあるものを言うと、佐橋庄の六条院領、云々とある》

【註】『東鑑』あるいは『吾妻鏡』第六巻文治二年の注進状について。
この注進状に関する部分が、どの本から引用されたのか不詳だが、吉川本『吾妻鏡』を参照すると、(但し、『越佐史料』では吉川本第六巻とある)文治二年の条は、同書第五巻文治二年三月十日に、

    「十二日、庚寅、小中太光家為使節上洛、是左典厩賢息、(二品御外姪)、依可命加首服給、被獻(献)御馬三疋長持(被納砂金絹等)、二棹之故也、又關東御知行國々内、乃貢未濟庄々、召下家司等注文被下之、可加催促給之由云々、今日到來、
  
注進三箇國庄々事(下総、信濃、越後等國々注文、
         

  
下総國(以下略)
  
信濃國(以下略)
  
越後国 *以下の( )内は、『越佐史料』第一巻の註より。
  
 院御領(後白河上皇)             大槻庄(南蒲原郡)
  
 上西門院御領(結子内親王)       福雄庄(西蒲原郡)
  
 高松院御領(妹子内親王)         青海庄(西頸城郡)
  
 鳥羽十二面堂領                   大面庄(南蒲原郡)
  
 新釈迦堂領[預所]中御門大納言     小泉庄(岩船郡)
  
 東大寺                           豊田庄(北蒲原郡)
  
 六條院領(六條天皇)一條院女房右衛門佐局沙汰)
                                     
佐橋庄(刈羽郡)
  
 殿下御領(近衛基道)             白河庄(北蒲原郡)
  
 殿下御領(近衛基道)             奥山庄(北蒲原郡)
  
 穀倉院領[民部省]                 比角庄(刈羽郡)
  
 前斎院御領(頌子内親王)[預所]治部卿
                                     
宇河庄(刈羽郡)
  
 殿下御領(近衛基道)             大島庄(古志郡)
  
 八條院御領(暲子内親王)         白鳥庄(刈羽郡)
  
 高松院御領                       吉河庄(三島郡)
  
 金剛院領、堀河大納言家沙汰       加地庄(北蒲原郡)
  
 賀茂社領                         石河庄(南蒲原郡)
  
 院御領(後白河上皇)[預所]備中前司信忠
                                     
於田庄(中魚沼郡上田荘)
  
 鳥羽十一面堂領、[預所]大宮大納言入道家
                                     
佐味庄(中頸城郡)
  
 六條院領、[預所]■岐判官代惟繁   菅名庄(中蒲原郡)
  
                                  波多岐庄(三島郡)
  
 殿下御領(近衛基道)[預所]播磨局 紙屋庄(中蒲原郡)
  
 二位(三位?)大納言御家領(源定房?)
                                     
弥彦庄(西蒲原郡)
  
 二位大納言家領                   志度野岐庄(古志郡)
  
 前斎院御領                       大神庄(刈羽郡)
  
 上西門院御領、[預所]木工頭殿     中宮
  
右注進如件
         
文治二年二月■日
とある。
『越佐史料』の該当部分では、文治二年丙午、二月、「是月、旨ヲ頼朝ニ下シテ、後白河院宮以下諸領ノ幕府分國、越後等ニ在ルモノヽ、乃貢未済ヲ催促セシム」とあり、以下、先に挙げた注進状と同じ。但し、上述したように注釈あり。

 

 文治二年ハ弘安五年ヨリ昔八十年ナリ東鑑ノ出来タルハ弘安五年ヨリ十年程以前ノコトナレバ何レヨリ考フルモ三島郡ト称セル弘安五年以前ノコトニシテ其ヨリ凡ソ五十年延文二年ニ至ル迄ノ間ニ刈羽郡ト改称セラレタルハ上記ニヨリテ明確ナリ

〔文治二年は弘安五年より昔八十年なり。東鑑の出来たるは弘安五年より十年ほど以前のことなれば、何れより考うるも、三島郡と称せるは、弘安五年以前の事にして、それよりおよそ五十年、延文二年に至るまでの間に、刈羽郡と改称せられたるは、上記により明確なり。〕
《文治2年(1186)は、弘安5年(1282)より80年昔の事だ。『東鑑(吾妻鏡)』が完成したのが、弘安5年より10年くらい前の事(但し、定説では、鎌倉時代の末期、正安2年頃(1300)とされている)なので、何れにしても、三島郡と云われていたのは弘安5年以前の事で、それよりおよそ50年後の延文2年(1357)までの間に、刈羽郡と改称されたとするのは、先に挙げた史料などより明確である。》

【註】この部分は、年代等に関する考証が、当時(発刊当時)より進展している事もあり、より正確な検証が必要と思われる。


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