柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第二項 鯖石庄(佐橋庄)

 

 東鑑文治二年注進状ニ越後国荘園廿三ノ内三島郡ニ属スルモノ佐橋庄六条院領比角庄穀倉院領宮川庄前斉(斎)院領大神庄仝上ノ四トス

〔東鑑文治二年、注進状に越後国荘園二十三の内、三島郡に属するもの佐橋庄(六条院領)比角庄(穀倉院領)宮川庄(前斎院領)大神庄(同上)の四とす。〕
《『東鏡(吾妻鏡)』吉川本の第五巻、文治二年三月十二日の注進状(下記参照)に、越後国の荘園23か所(下記引用部を計算すると、25カ所である)の内、三島郡に属するもの佐橋庄六条院領(『吾妻鏡・吉川本』では刈羽郡)、比角庄穀倉院領(先と同様、刈羽郡)、宮川庄前斎院領『吾妻鏡・吉川本』には見当たらない)、大神庄同上(先と同様、刈羽郡)の四か所としている。因みに、三島郡と記載のあるのは、吉河庄(高松院領)波多岐庄、また古志郡としたものは、大島庄(殿下・近衛基通領)、志度野岐庄(二位大納言家領)がある。》
※「宮川庄」について、先の様に『吾妻鏡』には、「宮川庄」の記載がない。また、国学院大学日本史研究会(文学博士・藤井貞文監修)の『吾妻鏡』地名索引』(『新訂増補国史大系本・吾妻鏡』底本)にも「宮川庄」の記載はない。

 

【註】東鑑: 『吾妻鏡』、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。(ウィキペディア參照)
文治二年: 西暦1186
注進状: 日本中世の古文書の一様式。ある事柄の明細を記して注進(報告)した文書。冒頭を〈注進〉と書き出し、書止めを〈右、注進如件〉などと結び、その一通で完結した文書として機能した。注進状は、しばしば注文と呼称され、書式も共通する部分が多いが、相違点は、注文が手控えのメモや副進文書を意味した点にある。また、請文(うけぶみ)、つまり命令に対する単なる復命の報告書とは異なって、下位者、下位機関の職務上の独自権限や積極的な調査にもとづき、一定の主張をこめて提出される。(平凡社世界大百科事典參照)
 以下、『越佐史料』と『吉川本・吾妻鏡』より引用する。但し、〈〉内は、『越佐史料』が『吾妻鏡』から省略した部分である。尚、この部分、以前に引用系挿しているが、便宜上、再掲する。

『越佐史料』第一巻、文治二年丙午 紀元千八百四十六年(1186年)
二月大盡(中国太陽暦の十二気暦で三十日)己酉(キユウ、つちのととり)
是月、旨ヲ頼朝ニ下シテ、後白河院宮以下諸領ノ幕府分国越後等ニ在ルモノ、乃貢未済ヲ催促シム

『吉川本・吾妻鏡』六 文治二年三月十二日、庚寅(コウイン、かのえとら)、〈(第五巻に記載)小中太光家為使節上洛、是左典厩賢息、二品御外姪、依可令加首題服給、被献御馬三疋長持被納砂金絹等、二棹之故也、又〉関東御知行国々内、乃貢米未済荘々、召下家司等、注文被下之可加催促給之由云々、今日到来。
  注進三箇国庄々事
下総、信濃、越後等国々注文
下総国(省略)
信濃国(省略)
越後国(尚、「荘」は、版本によって「庄」とある。)
 院御領(後白河上皇)              大槻荘(南蒲原郡)
 上西門院御領(結子内親王) 福雄荘(西蒲原郡)
 高松院御領(妹子内親王)   青海荘(西頚城郡)
 鳥羽十一面堂領             大面荘(南蒲原郡)
 新釈迦堂領預所中御門大納言 小泉荘(岩船郡)
 東大寺                            豊田荘(北蒲原郡)
 六條院領(六條天皇)、一條院女房右衛門佐局沙汰
                            
佐橋荘(刈羽郡)
 殿下御領(近衛基通)              白河荘(北蒲原郡)
 殿下御領                   奥山荘(北蒲原郡)
 穀倉院領                   比角荘(刈羽郡)
 前斎院御領(頒子内親王)、預所前治部卿
                            
宇河荘(刈羽郡)
 殿下御領                   大島荘(古志郡)
 八條院御領(暲子内親王)   白鳥荘(刈羽郡)
 高松院御領                 吉河荘(三島郡)
 金剛院領、堀河大納言家沙汰 加地荘(北蒲原郡)
 賀茂社領                   石河荘(南蒲原郡)
 院御領(後白河上皇)預所備中前司信忠
                            
於田荘(中魚沼郡上田荘)
 鳥羽十一面堂領、預所大宮大納言入道家
                            
佐味荘(中頸城郡)
 六条院領、預所讃岐判官代惟繁
                            
菅名荘(中蒲原郡)
                            波多岐荘(三島郡)
 殿下御領、預所播磨局              紙屋荘(中蒲原郡)
 二位大納言家領(三位源定房か?)
                            
弥彦荘(西蒲原郡)
 二位大納言家領             志度野岐荘(古志郡)
 前斎院御領                 大神荘(刈羽郡)
 上西門院御領、預所木工頭   中宮

右注進如件
                            
文治二年二月 日

 

 

 佐橋庄タルヤ其区域明ナラズト雖モ六条院ノ領地タルコト左古記録ニヨリ一層明確ナリ

 〔佐橋庄たるやその区域、明らかならずといえども、六条院の領地たること、左古記録により、一層明確ナリ。〕

《佐橋庄は、その場所がはっきりと判っているとは言えないが、六条院の領地であった事だけは、前掲の史料からも、更に明確になった。》

 

 東鑑文治二年ノ条ニ六条院領佐橋庄一条院女房右衛門佐局沙汰云々トアリ又萬壽寺記ニモ佐橋庄ハ其寺領タリト

〔東鑑、文治二年の条に六条院佐橋庄一条院女房右衛門佐局沙汰云々とあり、また萬壽寺記にも佐橋庄はその寺領たりと。〕

《『東鑑(吾妻鏡)』の文治二年の条に「一條院女房右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね)沙汰」と云う記載があり、また『萬壽寺記』にも佐橋庄は萬壽寺の寺領であるとある。》

 

【註】萬壽寺記: 『萬壽禪寺記』あるいは『京城萬壽禪寺記』
以下、『群書類従』(第15輯「釋家部」第431巻)より全文を引用する。

京城萬壽禪寺記(旧本真書躰)
本寺者郁芳門院追嚴道場、昔六條院也。郁芳諱媞子、白河上皇長女、右大臣顯房第一女、中宮賢子者聖母也。堀河帝者弟也。帝事郁芳以母儀。不以賢婦侍之。嘉保三年丙子(
今年十二月十七日、改元永長。)秋七月下澣(ゲカン、下旬)、郁芳不豫。八月二日大赦。祷平安也。夜有星隕。七日甲子暁登遐(トウカ、崩御)。二十一齢也。九日丙寅、上皇不任哀悼而落餝(ラクショク、落飾)。二十六日葬蓮臺寺側。永長二年丁丑、革郁芳遺宮為佛廬(ブツロ、仏のいおり)。俗称六條御堂。十月十四日供養。上皇出聖躬血書永劫護法願文。其文曰、世漸及澆季(ギョウキ、乱世・末世)雖属末法。不可改我此願。遠可期三會暁。我速證久品者、天眼鑿之。我暫留三有者、以怨念罸之。何世聖君非我後裔。誰家賢臣非我舊僕。一事一言違之背之。国主皇帝殊可加炳誡(ヘイカイ、いましめ)矣。永長二年十月十四日、自留手痕而表信。故曰御手印。藤原國明寄附江州田井郷而仰佛法。王法之庇廕(ヒイン、ひさしのかげ)。康和元年正月四日、六條院火。八月十二日、再造供養。平治元年十月二十六日、因幡堂、河原院、崇親院、祇園離宮同時灾(サイ)。正嘉年中、十地上人、(又曰爾一上人、覺空禪師也。與其徒慈一上人。(賓覺禪師也。修淨土敎。慈一聞東福國師道風。徃扣其室。針芥相投。十地亦見國師遂領玄旨。二師棄教入禪。扁六條御堂曰萬壽禪寺。盖嘉暦三年、相模守平朝臣狀云、萬壽之題額、起最明寺之素意。弘長元年十一月二十四日、實覺禪師旌禪苑開堂之儀。翌日東福有賀狀。其略云、昨日無風雨難開堂。道德之至。随喜無極、於是實覺禪師、覺空禪師、爲兩開山。文永九年壬申十一月二十四日供養。同十年十月十二日火。元德二年庚午九月二十日、内親王崇明門院。(諱祺子。後宇多院皇女。聖母者永嘉門院。)新賜賓地。廣開紺園。此樋口東。高倉西。東洞院爲界也。元弘二年。(今年改元正慶。)前住畊雲原之徒、紹臨奉朝命、就彼地。先建報恩精舎。奉安地藏尊容。修薦永嘉門院仙駕。(永嘉諱瑞子。中務卿宗尊親王女。嵯峨院孫女。後宇多猶子。嘉暦四年八月二十九日升遐(ショウカ、天子や貴人が死ぬる事)。四年者元德改元也。)崇明割尾州味岡本莊。充永嘉香燈。暦應三年庚辰、僧良悦附味岡新莊。六條萬壽與報恩合爲一寺。六條舊地、今號南院。報恩舊基、今曰琴臺。特爲郁芳仙祠。白河後宇多等同嚴追修。自永長上皇願文血書、宸衷(天子の心)之所感。寄田園於此寺者甚夥焉。弘長三年、關白殿下以泉州長瀧包富付與十地上人。建武五年、(卽暦應元年也。)一條殿下以長瀧彌富幷附之。弘安九年、室町院(後堀川皇女。)寄附江州田中莊。正和元年院宣。加州富積保爲祈禱賜之。貞治五年、寶篋(ホウキョウ、宝箱)相君以備前土師郷易越中佐味庄。又大小檀施洛中園地處々有之。明德四年、前住濟翁樹寄五條坊門朱雀窪田。充忌辰之茶湯。西京四段、綾小路室町、七條猪熊、六條高倉、又六條坊門萬里小路六條坊門高倉兩地、爲永觀都聞設浴之薪水、又禪通都聞施入銅錢壹陌緡、出其息爲開浴之設。至徳三年、大内義弘梅窓居士歸附長門厚東郡吉部郷。爲浴僧之資。鹿苑大相國頒下鈞怙。爲季世證。此外有莊産田園被他剽略者、勢州木造庄、日置庄、三賀野庄、(小倭庄内幷八知山兩郷。)三箇庄、(三箇者庄名。)伊賀河合庄、柘植庄、長田庄院田、山田庄院田、越後佐橋庄、信州仁科庄、若州垣拔庄、丹波豊富庄、備前長田庄、江州羽田庄他。又五條堀川、六條坊門油小路、姉小路油小路、左女牛堀川、甲斐河五段、寺門西面楊梅路。此本志都聞冥福之地、一々契券(地券・手形・割符などの総称)、代々官苻(官符、太政官苻の略)、昭々焉。等持仁山相公、大執國柄、深信佛乘。殊興禪叢。令嗣寶篋相君、延文三年戊戌陞位於五山之列。至德初元甲子、鹿苑大相國遵先相君遺命。重降鈞帖(キンジョウ、公帖。禅宗寺院のうちの、五山、十刹、諸山などの官寺およびそれに準ずる寺院の住持任命の辞令)、定兩班位次。大方争議、不欲與之齒。大相國命南禪大淸、天龍德曵、建仁相山、東福天章、各寺西堂諸勤舊(勤旧、禅宗で知事、侍者、蔵主などの退職した者をいう)等。以連署、令定其班。遂無異論。至今受其賚(ライ、たまもの)。永德二年丁丑、大和國以寺産之契券官符雜亂紛冗而不便、點撿(点検)之。故提其綱要、命門・・・

 

 

 承保二年白河天皇京都六条ニ造営シテ移御皇后ト為シ禅位ノ後仍仙洞タリト拾芥抄ニ見エ又百練抄中左記ニ永長元年皇女郁芳門院媞子薨ず上皇落飾宮ヲ棄テテ佛宇ト為ス萬壽寺之ナリ永享六年回禄シテ廃ス院ハ上皇ノ御在所ノ称ナリ又転ジテ上皇御身ヲ申シ奉ル語ニモ用イラレ以テ白河上皇ノ御領地タルヲ知シル然ルニ六条内裡(裏)ハ転ジテ寺トナルニ及ビ寺領トナレルナリ

〔承保二年(1075)、白河天皇、京都六条に造営して移御(イギョ、天皇・上皇・皇后などが他所へ移ること)し皇居と為し、禅位の後、よって仙洞(上皇の御所)たりと、『拾芥抄(シュウカイショウ)』に見え、また『百練抄(百錬抄)』中、左記に永長元年、皇女郁芳門院媞子(イクホウモンイン・テイシ)薨ず、上皇落飾、宮を棄てて仏宇となす。萬壽寺、これなり。永享六年、回禄(カイロク、火災)して廃す。院は上皇の御在所の称なり。また転じて上皇御身を申し奉る語にも用いられ、もって佐橋は、白河上皇の御領地たるを知る。然るに六条内裏は転じて寺となるに及び寺領となれるなり。〕

《承保2年(1075)、白河天皇は、京都六条に新に御所を建てて皇居(六條内裏)としたが、応徳3年(1086)、堀河天皇に位を譲り上皇になったので、ここが上皇の御所である仙洞(六條院)となったと、『拾芥抄』に記載がある。また『百練抄』の「永長元年」の項、左記(同年の詳細が左記)に、皇女である郁芳門院媞子の逝去に伴い、上皇は出家して、御所を廃し、改めて萬壽禅寺とした記載があり、永享六年には、上皇の御所が火災で焼失、上皇の御所を意味するとともに、上皇自身を表すのが「院」である事から、佐橋庄が、白河上皇の領地である事が判り、更に六條内裏が焼失して萬壽禅寺になった事から、寺領となったものである。》

 

【註】『拾芥抄』: 中世日本にて出された類書(百科事典)。城中下全3巻。元は『拾芥略要抄』とも呼ばれ、『略要抄』とも略されていた。
 問題の個所は、『拾芥抄』あるいは『略要抄』(洞院公賢撰・吉川弘文館・明治39年刊)の上巻第27「本朝世系年立部」に「72代・白河天皇十四〈在位14年、但し現在の歴史年表では12年間〉(貞仁〈諱、さだひと〉、延久尚一〈1073、後三條天皇の退位後およそ一年〉、承保三〈1074~〉、承暦四〈1077~〉、永保三〈1081~〉、應德三〈10841087〉)とある。また、同書中巻第20「諸名所部」に「六條
内裏 北六條坊門、南六條二町、(西)東洞院、東高倉二町、萬壽禪寺是也。」とある。
 しかしながら、現時点で、本文記載の部分に該当する記載が見当らない。
 『百練抄』: 公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書。鎌倉時代後期の13世紀末頃に成立したとみられる。編著者は不詳。百練抄とも書く。書名は唐の詩人白居易の「百練鏡」に由来すると考えられ、当初は「練」の字が用いられていたが、江戸時代以後に「錬」の字が用いられるようになった。
 引用の個所は、『百錬抄』(国史大系第14巻『百錬抄・愚管抄・元亨釈書』経済雑誌社編・明治34年刊参照)第五巻・堀川院(永長・承徳)の永長元年(10956)(
嘉保三年十二月十七日改元。依天變〈変〉也。)の八月七日に、「郁芳門院崩。(廿二。上皇一女。今上同腹姉。)九日、上皇御出家。依哀傷郁芳門院御事也。〔郁芳門院の御事を哀傷(アイショウ)するによってなり。〕」、また「承徳元年(1097)九月十四日、以郁芳門院御所、改佛閣。今日供養。〔郁芳門院御所をもって、仏閣と改める。〕」更に、「康和元年(1099)正月四日、六條院焼亡。(前郁芳門院居、今爲佛閣。)」とある。

 

 鯖石川ノ称ハ鵜川(右川)左川と対称セラレタルニ起リタル由ナルガ當地方ニ魚類ノ化石ヲ産シ方俗鯖石ト呼ビタルヨリ其音類スルニヨリ遂ニ左川ヲ鯖石川ニ転称シタルモノカ萬壽寺記ニ寺領越後国佐橋荘下司職毛利経光地出化石俗称鯖石ト而シテ鯖石ヲ産セルハ經光ノ時代ニアラズシテ古キ昔日ノコトナラン吉田博士佐橋ヲ一ニ鯖石ト作リ鯖石川ヨリ来レルヲ述ベタリ或ハさばいしノい略サレさばしト為リ遂ニ佐橋ト當字シタルモノナラン佐橋庄ハ北條南條ヲカケテ当地ヲ併セ称セルコトハ石川中村氏ノ家譜ニ三島郡鯖石庄善根八石云々弘安五年ト明記セラレタルヨリ北條専称寺及安田ニ遺レル古記録ニ照ラシ明確ナリ而シテ北條鹿島神社棟札ニ米山東刈羽郡佐橋庄北條郷云々天正十三年トアリ戦国時代ニ入ルモ猶庄名ヲ附称シタルノミナラズ文化年間ニ於ケル加納村ノ書上状ニモ刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村ト添ヘ加ヘタリ之俗称ト雖モ以テ当地方ハ昔ノ佐橋庄園地タルヲ証スルニ足ル

〔鯖石川の称は、鵜川(右川)、左川と対称せられたるに起りたる由なるが、当地方に魚類の化石を産し、方俗、鯖石と呼びたるより、その音、類するにより、遂に左川を鯖石川に転称したるものか、萬壽寺記に寺領・越後国佐橋莊、下司職(ゲシシキ、平安末期から中世にかけて荘園の現地で荘務をつかさどる地位)毛利経光、地出化石、俗称鯖石と、而して鯖石を産せるは、経光の時代にあらずして、古き昔日のことならん。吉田博士、佐橋を一に鯖石と作り、鯖石川より来れるを述べたり。あるいは「さばいし」の「い」略され「さばし」と為り、遂に佐橋と当て字したるものならん。佐橋庄は北條・南條をかけて当地を併せ称せることは、石川・中村氏の家譜に、三島郡鯖石庄善根八石云々、弘安五年と明記せられたるより、北條・専称寺及び安田に遺れる古記録に照らし明確なり。而して北條・鹿島神社棟札に米山東、刈羽郡佐橋庄北條郷云々、天正十三年とあり、戦国時代に入るも、猶、庄名を附称したるのみならず、文化年間における加納村の書上状にも、刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村と添え加えたり。これ俗称といえども以て当地方は昔の佐橋庄園地たるを証するに足る。〕

《鯖石川の呼称は、鵜川すなわち右川と対して左川と呼んだ事に起因していると云われるが、この地方では、魚類の化石が出土し、この辺りでは「鯖石」と呼ぶ事もあり、その発音が「左川」とよく似ている事から、次第に転化して、左川を鯖石川と呼ぶようになったと思はれる。『萬壽寺記(萬壽禅寺記)』(前記參照)に寺領、越後国佐橋莊とあり、後代の地頭である下司職だった毛利経光が、出土した化石、すなわち俗稱である鯖石を地名に用いたと云うが、化石である「鯖石」が出土したのは、経光の時代の時代ではなく、それよりも随分と昔であったようだ。吉田東伍博士は、佐橋を先ず「鯖石」とし、「鯖石川」に由来すると述べているが(【註】參照)、これは「さばいし」の「い」が省略され「さばし」となり、更に転化して「佐橋」と当て字したものだと思われる。佐橋庄は、北條から南條を合せて呼ばれている事は、北條の専称寺や安田に残る古文書などからも明らかであり、またこの事は、北條の鹿島神社の棟札にも、米山の東、刈羽郡佐橋庄北條郷など、天正十三年と書かれており、戦国時代に入ってからも、庄名を付けて呼んでいるばかりか、江戸中期にあたる文化年間の加納村の書上状にも、刈羽郡久野木郷鯖石庄加納村との添え書きが見える。この事は、俗称とは言え、この地域が佐橋庄園であった事を証明しているという事が出来るだろう。》

 

 【註】吉田博士、云々: 吉田博士、すなわち吉田東伍博士の事。続く文章は、『大日本地名辞書』中巻「越後国・刈羽郡」の「佐橋(サバシ)」の項(中巻・2025頁中段)を参照したと思はれる。以下、原文。

 旧庄名にて、又鯖石に作る。北條・南條などを本とし、近地を籠めたる私田の号なりしを知る。水名に起ると雖(いえども)、本来此辺に出る魚類化石を方俗鯖石と呼ぶに因る。東鑑、文治二年の條に「六條院領佐橋庄、一條院女房右衛門佐局沙汰」とあり、又萬壽寺記(群書類従本)にも佐橋庄は其寺領たりしこと見ゆ。其下司職は大江廣元の孫毛利経光の家へ伝え、謂ゆる毛利氏、北條氏、石田氏、安田氏など皆其佐橋庄地頭の裔孫に出ず。当国にて名高き旧家とす。

【補注】『荘園志料』(清水正健編・昭和8年・帝都出版社刊)は、上下二巻、全国の荘園を網羅した上下2300頁を越える大著であり、荘園研究の重要な資料である。当然のことながら、この大著が参照された訳ではないが、参考の為に、当該部分を紹介する。出典部分は、下巻・第十七篇「遠国三」越後国(1916P)三島郡の佐橋荘(1919P)。以下、引用。
佐橋荘(サハシ)文治二年の記に見えて、六條院領なりしが、後には萬壽寺領となれり、今刈羽郡に鯖石荘存す。
徴證 東鑑曰、文治二年三月十二日、云々。(
下文大槻荘條)〇毛利家文書曰、云々、文永七年七月十五日。(安芸吉田莊條)〇龜山院凶事記曰、云々、嘉元三年七月廿六日。(備前長田荘條)〇毛利家文書曰、云々、応安四年三月廿一日。(安芸吉田莊條)〇萬壽禅寺記曰、有荘産田園、被剽略者、越後国佐橋荘。
 因みに、この三島郡に挙げられた荘園は、石井荘(北野社領、出雲崎石井町)、比角荘(穀倉院領)、宮河荘(前斎院領、宮川)、鵜河荘(「興国二年、上杉朝定、荘内安田條上方を、丹波国安国寺に寄進す」とある。枇杷島諸村)、小国保(長岡市小国)、赤田保(刈羽村赤田)、埴生保(「保内に鎌倉覚音寺領有り、今其の所在明ならず」とある。余談だが、息子が通う大学(旧鍼灸大学)のある京都府南丹市を通る京都縦貫自動車道に綾部・安国寺ICがある。

 

佐橋庄下司職

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