柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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毛利家第三世代

 

〇廣光 右兵衛大夫 從五位上
寛永系圖、蔵人、兵部丞、兵衛丞、從五位上、昇殿に作る。
父生害のとき、弟次郎蔵人入道某、三郎蔵人康光とおなじく自殺す。
《父・季光が、宝治元年(1247)の三浦泰村の乱(「宝治合戦」あるいは「三浦氏の乱」)で、三浦一族と共に自殺した時、弟・次郎蔵人入道某と三郎蔵人康光と共に自殺した。》
【註】三浦泰村は、平氏良文流三浦氏(家祖・為通)の七代当主、本書によれば、父・義村の次男、通称・二郎、式部丞、若狭守、正五位下、「鎌倉右府につかへ、宝治元年謀反し、六月五日一族すべて五百餘人(『尊卑分脈』一家二百七十六人)とともに法華堂にをいて自害す。年四十四。」とある《鎌倉右府・源頼朝に仕え、宝治元年(1247)に謀反し、6月5日、一族五百余人と共に法華堂(鎌倉、頼朝の持仏を祀った所であり、頼朝の死後、その廟所)で自害した。享年44歳。》


【補注】三浦氏に就いては、現柏崎市荒浜辺りに、その末裔が落ち延びたとの伝承があるそうだ。そこで、三浦泰村に係る系譜の詳細を挙げる。以下、本書および『尊卑分脈』等を参照して記載する。

●為通(三浦氏家祖) 平太夫 長門守 鎮守府将軍・忠道が長男
康平六年、先に伊予守頼義、陸奥國の兇徒征伐のとき軍功あるによりて、相模國三浦郷を宛行はれ、城を衣笠山に築く。このときはじめて三浦を稱す。永保三年三月十四日死す。法名圓覺。三浦郷矢部村の青雲寺に墳墓あり。のち義繼にいたるまでおなじ。
《康平6年(1063)、前九年の役(「奥州十二年合戦」あるいは「前九年合戦」)が、源頼義(河内源氏第二代、八幡太郎義家の父)によって前年の衣川・鳥海・厨川柵で安倍貞任(さだとう)が破れ、貞任を殺し
宗任が降伏した事で終り、その功によって、頼義が伊豆守に就任した際、為通も賞されて、相模国三浦郷を拝領し、衣笠山に築城した。この時、初めて三浦氏を称した。永保3年(1083)3月14日死去。法名を円覚、三浦郷矢部村の青雲寺に墓があり、孫の義継の代まで、菩提寺だった。》
【余話】「年を経し糸の乱れのくるしさに衣の館(たて)はほころびにけり」という衣の舘にまつわる義家と貞任の逸話が有名。

●為継(義家に仕える)→義継

●義明(太郎、三浦介)
【補注】頼朝挙兵に失敗、石橋山で敗れ安房に落ち延びた際、味方して衣笠山で討ち死にした。この時、一族の多くが討ち死にしている。
〇義行(次郎、寛永系図に、津久井氏の祖とある)
〇爲清(三郎、寛永系図に、蘆名氏の祖とある)
〇義実(四郎、岡部を称す)→義忠(真田を称す)、義清(土屋を称す)

●義澄(荒二郎、三浦介)
〇義宗(太郎、杉本を称す)
〇義久(三郎、大多和を称す)
〇義春(五郎、四郎ともある。寛永系図に多々良氏も祖とある。)
〇義秀(五郎、長井氏の祖、長井と称す)
〇重行(不祥)
〇義連(三浦佐原正木等の祖、佐原を称す)
〇女子(畠山庄司重能に嫁す)

●義村(平六、右兵衛尉、駿河守、従五位下)
《頼朝に仕え、建久元年(1190)12月11日に右兵衛尉、建仁三年(1203)8月4日に土佐の守護職、嘉禎4年(1238)に評定衆に加わる。延応元年(1239)12月5日頓死する。》
〇有綱(次郎、山口を称す)
〇重澄(大川戸を称す)
《宝治元年(1247)「宝治合戦」で泰村と共に法華堂で自殺する。》
〇胤義(平九郎、承久三年(1221)「承久の乱」で自害)
〇友澄(十郎、承久の乱で討ち死に)
〇女子(大川戸太郎広行の妻)

●泰村(二郎、式部丞、若狭守、正五位下)
《「宝治合戦」の首謀者、宝治元年6月5日、法華堂で一族五百人余と自害す。》
〇朝村(小太郎)→氏村(又太郎)《「宝治合戦」で泰村と共に自害す。》
〇光村(駿河三郎、新判官、壱岐守、河内守、能登守)
《「宝治合戦」で兄・泰村、子・某(駒王丸)と共に自害す。》
〇女子
北条武蔵守泰時の妻、後、佐原遠江守盛連に嫁し、その後、「矢部の尼」と称した。》
〇女子(小笠原太郎某の妻)
〇女子(毛利安芸介季光の妻)
《「宝治合戦」で季光が泰村と共に自害する因縁》
〇女子(中納言親秀の妻)
《『尊卑分脈』によって、中納言親秀の候補として揚げられるのは、大江広元の系譜に繋がる中原親秀(掃部頭、従五位上、評定衆)、清和源氏系、近藤・大友・武藤系親季(別名・親秀、従五位下、鎮西奉行、大炊助)の三名だが、いずれも大納言の記載が無く、強いて考えられるのが中原親秀だが、不祥。》
〇女子(「律の尼」と称す)
〇家村(三浦志摩守前次の祖、四郎、左衛門尉、式部大夫)
《三浦前次(ちかつぐ)は、美作勝山藩三万二千石の藩祖(現・岡山県真庭市勝山)、家系を残す為、泰村に命じられて、その場を遁れ、諸国を遍歴した後、三河国に住し、後に徳川氏に仕える。》
〇資村(五郎左衛門)
《「宝治合戦」で、兄・泰村と共に自害。》
〇長村(六郎左衛門)他不祥。
〇重村(七郎左衛門)
《「宝治合戦」で、兄・泰村と共に自害。》
〇胤村(八郎左衛門)
《「宝治合戦」で捕虜となるが、家系は残ったようだ。》
〇良賢(大律師)他不祥。
〇重時(九郎)他不祥。

 

〇某  次郎蔵人入道(他不祥)

〇泰光 三郎蔵人
寛永系圖泰元に作る。
【補注】『尊卑分脈』には、「泰元」とあり、「昇殿」の注がある。また『吾妻鏡』に登場する「泰光」を列挙すると、
嘉禎2年(1236)11月23日、「廿三日、丙子、将軍家還御、蔵人大夫入道献御引出物、役人、御劔左衛門大夫泰秀、砂金駿河次郎泰村、御馬
置鞍、毛利新蔵人泰光、岩崎左衛門尉等引之」
《23日丙子(ひのえね)、将軍家が還御され、蔵人大夫入道が引出物を献上した。負担したのは、剣を(長井あるいは大江)左衛門大夫泰秀、砂金を(三浦)駿河次郎泰村、鞍を置いた馬を毛利新蔵人泰光、岩崎左衛門尉らであった。》
延応元年(1239)7月20日、「廿日、丁亥、及深更(風)夜靜月明、将軍家俄渡御于佐渡前司基綱宅、被用御車、御共人々折節祇候分計(八九人)也、所謂周防右馬助、陸奥掃部助、毛利蔵人、河内守、兵庫頭、織部正、駿河四郎左衛門尉、同五郎左衛門尉、上野判官等也、於彼所召勝長壽院児童等、有管弦舞曲等興遊
云々
《20日丁亥(ひのとい)、風が深夜まで吹き、月明かりで静かだったが、将軍家が、牛車に乗られ、御供人々を数人祗候させ(伺候、従えて)俄に前佐渡守基綱邸を訪問された。御供としては、周防右馬助(北条光時)、毛利蔵人(毛利泰光)、河内守(三浦光村)、兵庫頭(藤原定員)、織部正(伊賀、藤原光重)、駿河四郎左衛門尉(三浦家村)、同五郎左衛門尉(三浦資村)、上野判官(結城、小山朝広)等で、勝長寿院の稚児らを招かれ、管弦舞曲などで遊ばれたそうだ。》
仁治2年(1241)6月17日、「十七日、癸酉、若君御前御生髪也、前武州着布衣被令參仕給、毛利蔵人泰光、左衛門大夫定範以下、父母兼備諸大夫候侍(侍候)、所役師員朝臣、基綱等奉行之、毎事不被召付雜掌、為将軍家御沙汰、殊及結構之儀云々」
〔十七日、癸酉(キユウ)、若君御前の御生髪也、前武州、布衣を着し参仕を令せられたまい、毛利蔵人泰光、左衛門大夫定範以下、父母兼備の諸大夫さぶらう。所役は、師員朝臣、基綱など、これを奉行し、事毎に雑掌を召し付けられず、将軍家の御沙汰を為し、殊に結構の儀に及ぶ云々〕
《17日癸酉(みずのととり)、若君御前(四代将軍・藤原頼経の子・頼嗣?)の髪置の儀式が行われた。前武州(北条泰時は、嘉禎4年に武蔵守を辞任している)は布衣を着て、参仕(参上して仕える)するよう命じられ、毛利蔵人泰光、左衛門大夫定範(藤原定範)以下、両親を伴った諸大夫が参上した。諸務は、師員朝臣(中原師員、評定衆・前摂津守)、基綱(後藤基綱、前佐渡守)などが、奉行した(取り仕切った)。事ごとに雑掌(訴訟や年貢・公事を行なう職務)を命じられたのではないが、将軍家の命令を実施し、特に政策や計画の事までも任された等々。》
仁治2年(1241)11月4日、
寛元元年(1243)7月17日、
宝治元年(1247)6月22日、

 

●經光 蔵人 右近将監 從五位下 入道號寂佛
寛永系圖廣元が兄とす。三浦泰村が亂に經光所領越後國にありて謀反のことにあづからず。よりてかの與黨の沙汰にをよばれずみづからの領知越後國佐橋庄南條安藝國吉田庄等を安堵す。

〇師雄 大外記 從五位下

〇女子 花山院内大臣師継が室。

〇女子 北條相模守時頼が室。

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