柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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毛利氏第九世代

 

●光房 備中守 右馬頭 入道号淨濟
『尊卑分脈』には、入道号「淨濟」を次代・熈元としている。

    元中三年(1386、北朝、至徳三年)正月二十六年、父が跡・本知自分安堵たるべきむね、今川了俊より証文をうく。これ父戦死のとき光房胎内にありて、譲状なきにより。応永十年、大内新介弘茂が加勢となり、周防国におもむき大内六郎盛見を攻。二十一年五月二十五日、右馬頭に任ず。のち大内介持世、九州にをいて、弓矢難儀にをよぶ。光房これをたすけ、永享八年(1436)、ふたたび九州にいたり、二嶽のたたかひのとき、その地にをいて卒す。年五十一。

 

毛利氏第十世代

 

●熈元 初熈房 少輔太郎 治部少輔 備中守
『尊卑分脈』には、「普光院殿時也、備中守治部少輔、永享年内也、於九州死去 法名淨濟」とある。

    永享二年(1430)二月十日、家を継、八年、熈元病にかかるにより、弟・少輔次郎某を陣代として九州に在陣せしむ。後、勝定院義持の弟・大覚寺大僧正義昭、謀反のきこえあるにより、熈元、洛に上るとき大和国の役あり。ただちに基地におもむき在陣すること三年、所々にをいて忠戦をはげます。嘉吉元年、細川治部少輔持常に属し播磨国を攻。また大内持世にしたがひ少弐嘉頼を討、あるひは細川勝元が手にありて伊予の河野たたかふ。寛正五年(1464)二月五日、卒す。大樹光茂大通院と号す。
寛永系図に、永享年中、九州にをいて死す。法名淨濟といふ。今の呈譜に拠るに、おそらくは光房が伝を混ずるならん。

○某  少輔次郎

○女子 山内上野介熈通が妻。

 

毛利氏第十一世代

 

●豊元 或は熈房 松壽丸 少輔太郎 治部少輔
『尊卑分脈』には、「少輔太郎、治部少輔、熈房と号す。小字松壽丸、普光院殿時也」とある。

    宝徳三年(1451)八月二十八日、家を継。寛正三年(1462)、山名弾正忠是豊が手に属して河内国にむかひ、畠山義就をせむ。応仁元年(1467)、山名宗全(持豊)、細川勝元と矛盾し、京洛、合戦の街となる。ときに豊元は勝元に与力し、所々にをいて忠戦を励す。このとき伊勢兵庫助某おほやけをかすめて、豊元が本領・安芸国中、内部庄豊島郷を押領(オウリョウ)す。文明元年(1469)九月以降、豊元しきりにこれを愁訴すといえども恩裁なし。よりて三年帰国し、閏八月、遂に但馬の山名右衛門督持豊、周防の大内左京大夫政弘に与し西方となる。十九日、慈照院義政より、すみやかに出陣すべき旨書あたへらる。其後、豊元、備後国山内、甲山江田旗返にをいて東方の軍を切崩す。八年五月二十八日、卒す。年三十三。月江常澄廣修寺と号す。

○元家 與二郎

○女子 山内上野介時通が妻。

 

毛利氏第十二世代

 

●弘元 千代壽丸 少輔太郎 備中守 治部少輔

    文明七年(1475)十一月二十四日、父が家督を継、十年二月十二日、大内左京大夫政弘、首服(元服)をくはへ一字をあたふ。これより弘元と名のり、父に次で政弘に属し、軍忠を励す。明応六年(1497)、備後国に在陣して山名俊豊に与力し、永正三年(1506)、卒す。室は福原式部大輔廣俊が女。

 

毛利氏第十三世代

 

●興元 幸千代丸 少輔次郎 母は廣俊が女。

    明応九年(1500)三月二十九日、家を継、永正四年(1507)十一月六日、元服し、大内左京大夫義興が諱字を受て興元と称す。十二年、武田刑部少輔元繁、安芸国山県の有田城を攻、城主己斐某、防戦難儀にをよぶ。興元、後詰となりて武田が猛勢を切崩し、ただちに有田を領す。同国壬生の城主源蔵人大夫元泰もこれを聞て降る。十三年八月二十五日、卒す。年二十四。秀岳常松と号す。室は高橋某が女。

○女子 母は上におなじ。武田某が妻。

○元就 陸奥守 母は上におなじ。姪(甥)幸松丸が遺領を相続す。

○女子 母は某氏、澁川某が妻。

○女子 母は上におなじ、井上右衛門大夫元光が妻。

○元網 四郎 相合を称す、母は上におなじ。逆意を企るにより討果さる。

○女子 母は上に同じ、吉川治部少輔元經が妻。

○女子 母は上に同じ、井原常陸介元師が妻。

○就勝 式部少輔 北を称す、母は有田氏。

 

毛利氏第十四世代

 

○女子 母は高橋某が女。山内次郎四郎豊通が妻となり、豊通死するのち、小早川中務少輔興景に嫁す。興景もまた死して杉原某がもとにゆき、また杉原播磨守盛重に嫁す。

●某  幸松丸 母は上に同じ。

    大永三年(1523)、尼子伊予守經久、大軍を率ゐて安芸国北池田に出張し、亀井能登守秀綱をもって幸松丸をまねき、則、西條鏡山の先鋒を命ず。幸松丸、幼少たるにより叔父元就後見となりて、これにしたがひ、終に鏡山城を攻おとす。七月十五日、卒す。年九。明嚴紹光と号す。

 

毛利氏第十五世代

 

●元就 

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