柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
[302] [301] [300] [299] [298] [297] [296] [295] [294] [293] [292]

第二節 刈羽郡

第一項 古ハ三島郡ト称ス

 

 刈羽郡ハ和名抄延喜式ニ見ユル三島郡訓美之未ノ地ナリ

 〔刈羽郡は和名抄・延喜式に見ゆる三島郡、訓じて美之末(原文には「未」とあるが「末」の誤り)の地なり〕

 《刈羽郡は、『和名抄』(『和(倭)名類聚抄』)・『延喜式』では、三島郡とあり、「美之末」と読ませている地域の事である、するが、実際には、『倭名抄』では、三島郡と記し「美之末(みしま)」と読み、延喜式には、「三嶋」と記載され、特にその読みに関しての記載はない。》

【註】三島郡訓美之未:『和名抄』(源順・元和本『倭名類聚集』)の第五巻・第十二国郡部・第五十五北陸国・第六十三北陸郡・「越後国」に「三島郡、美之末(みしま)」とある。更に付け加えると、同書第七巻・第百一越後国・三島郡には、三島(美之萬、みしま、現在の長岡市三島)があり、次いで高家(多加也、たかや)、多岐の地名が見える。
 また『延喜式』では、(第十巻・神祇十・神名式下)の(越後国五十六座〈大一座、少五十五座〉三嶋郡六座(並・小)とあり、以下、御嶋石部神社(みしまいそべ、北條と西山にある)・鵜川神社・三嶋神社・物部神社・多多神社(ただ、曽地)・石井神社(出雲崎)が記載されている。

 

 三島郡ノ起因不詳ナリト雖崇神帝朝ニ久比岐国ヲ置カレ成務帝ノ朝ニ高志国ヲ置カレタルコト古史ニ微見ス現今久比岐国古志三島両郡ノ地高志国タルハ定説ナラバ地勢上美之未ノ地ハ其両国ノ間ニ存セルナリ

〔三島郡の起因、不詳なりといえども、崇神(スジン)帝朝に久比岐(くびき)国を置かれ、成務(セイム)帝の朝に高志国を置かれたること古史に微見(ビケン)す。現今、久比岐国古志・三島両郡の地、高志国たるは定説ならば、地勢上、美之未(末)の地は、その両国の間に存せるなり。〕

《三島郡が設置された理由は良く分っていないが、第10代崇神天皇の在位中に久比岐国が置かれ、第13代成務天皇の時代に高志国が置かれた事が古史(『古事記』『日本書紀』)に僅だが記載されている。現今(明治末頃)、久比岐国の古志と三島の両郡は、高志国だっただろうというのが定説になっているが、地勢の上からも、美之末というのは、久比岐国と古志国の間に在ったと思はれる。》

 吉田博士ハ美之未郡ハ古志郡ノ域内ナリトシ之亦故ナキニアラズ然レドモ吾人ハ其何国ニ属セルカヲ要求スルモノニアラズシテ只其起因ヲ知ラント欲スルモノナリ

〔吉田博士は、美之末郡は古志郡の域内なりとし、これまた故なきにあらず。然れども、吾人はその何国に属せるかを要求するもにあらずして、ただその起因を知らんと欲すものなり。〕

《吉田東伍博士は、『大日本地名辞書』「刈羽郡」の項に、「刈羽郡は古の三島(みしま)郡なり、近世の三島(サントウ)と混乱するなきを要す、和名抄、三島郡、訓美之末、三郷に分つ其初めは高志国の域内なるべし」とするが、著者は、美之末郡は古志郡の域内に在ったと考えるのも間違いではないが、自分(著者)は、美之末郡がどの国に属するかを求めているのではなく、美之末郡がそもそもどのようにして発祥したのかが知りたい訳である。》

 

 柳々郡ハ三韓ヨリ輸入セラレタル名称ナリ今園考ニ論ゼラレタルヲ引用シテ疑者ノ答トス

〔抑々(そもそも、原文には「柳々」とあるが誤植であろう)郡(こほり)は三韓より輸入せられたる名称なり、今園考に論ぜられたるを引用して疑者の答とす。〕

《だいたい「郡(こおり)」というのは、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の時代(1世紀から5世紀頃の朝鮮半島南部の部族国家)に入って来た名称であり、今、園考(恐らく栗田寛、号「栗里」の著『荘園考』と推測される)に開設されている「郡」に関する部分を引用して、疑問を持つ人への答えとする。》

   新井氏曰クコホリハ韓語ヨリ出デタリ今ノ朝鮮語ニ郡県ヲコホルトイフト云リト此説サモアルベシ継體ノ巻ニ朝語ノ地名ニ熊備巳富理(コビコホリ)叉ハ背評(ヘニホリ)トモアリ評ハ彼国ノ方言ニシテ郡ヲ云故コホリト訓メリ漢籍染書ニモ新羅俗其邑内日承評トイヘリ
〔新井氏曰く、「コホリ」は韓語より出でたり、今の朝鮮語に郡県を「コホリ」いうと云りと、この説さもあるべし、継体の朝語の地名に熊備巳富理(能備己富里?コビコホリ)または背評(ヘニホリ)ともあり、「評」は彼国の方言にして「郡」を云う故、「コホリ」と訓(よ)めり、漢籍『梁書』にも、新羅の俗、その邑内日承評といえり。〕
《新井白石は、「コホリは朝鮮語(古語)に由来し、今の朝鮮語に郡県をコホリというと伝えられている」と述べている。この説は確かなように思われる。『古事記』の継体天皇(男大迹天皇)24年9月、任那使奏云(任那は、朝鮮半島南部の地名、後に「任那府」が置かれる)の部分に古代朝鮮の地名として、「能備己富里(ノビコオリ)」または「背評(ヘコホリ)」ともあり、「評」は朝鮮の方言で「郡」を意味するので、「コホリ」と読む事が出来る。また漢籍(古代中国の書物)である『梁書』(南朝梁〈502年から557年〉の歴史書)の「新羅伝」にも、新羅俗其邑内日承評とある。

註: 「園考」については、先に述べた様に栗田寛(栗里)の『荘園考』と考えられるのだが、同書巻之二「大化以降国郡郷里 国郡分割 郷里之数/14丁」の「次に郡の分割沿革」の前後に、新井白石に言及した箇所は無く、また、栗田寛のその他の著作に「園考」から類推される書名あるいは内容が無い。ただ、新井白石に言及した引用の部分は、白石著書の『東雅』巻之三「地輿(チヨ、大地の事)第三」の「郡(コホリ)」にある。(原文を旧漢字は当用漢字に、旧假名使いは現代仮名遣いに改めた。)

   「旧事紀に神武天皇即位の初、功臣に国造(くにのみやつこ)県主(あがたぬし)等を寄さし賜いしとしるされ、其後の代々国といい県という事見えたれど、郡という事の見えしは、成務天皇四年二月、国郡立長(国郡、長〈おさ〉を立て)、県邑置首(県邑、首〈おびと〉を置く)と見え、五年九月、隔山河而分国県(山河を隔てて国県を分ち)、随阡陌(千百に随って)以定邑里(もって邑里を定む)など日本紀に見えしぞ。其文の如きは、郡と県とを分ちしるされしなど、其代にかかる文字ありしにはあらず。是はただ国史撰述の時に因りてしるされし所にて、郡といい県といい、其名同じからねど、其実異なるにもあらず。されば国郡県邑などしるされて、又国県邑里ともしるされ、又県の字読みて、アガタといいしかと、又コホリとも読み、郡県の二字引合て、コホリと読し事も見えたり。(孝徳紀に)孝徳天皇大化二年正月、畿内の国司を置かれ、又凡(およそ)郡の大中小、その郡司の大領・少領・主政・主帳等の官を定められしよりして、古の県主等の制、改りて、これより後代の令式、皆此時の詔によられし所なり。後に郡をコホリといいしは、韓国の言に出しなり。即ち今も朝鮮の俗、郡をも県をも幷(ならび)にコホルというは、即コホリの転語なり。
 或説にコホリとは、小割(コハリ)なりと云う。古語にかかる義あるべしとも思われず。」

また、
文中に「熊備巳富理」とあるが、このまま読むと「クビミホリ」と読め、恐らくは、「能備己富里(ノビコホリ)」の「能」と「己」誤植したのではないだろうか。また同様に「評」の読みも、「ヘコホリ」が文脈から妥当と思はれる。
 また
『梁書』「新羅伝」には、

 「其俗、呼城曰健牟羅、其邑、在内曰啄評、在外曰邑勒、亦中国之言、郡県也」
〔その俗、城を呼びて健牟羅と曰う、その邑(村)、城内に在るを啄評と曰い、城外を邑勒と曰う。また中国の言うところの郡県なり〕
とあり、「承評」は「啄評」の誤植、あるいは誤りとおおわれる。因みに、「啄評」は、新羅国畿内の行政単位。また、よくあるのだが、「日」は「曰く」の誤植であろう。

 

 三島ノ地ハ国トシテ古書ニ見エズシテ郡トシテ存スル以上其設立ハ少クモ應神帝以後ノコトナルコト明白ナリ

〔三島の地は国として古書に見えずして、郡として存する以上、その設立は、少なくとも応神帝以後のことなること明白ナリ。〕

《三島という地域は、国としては古い書籍載っておらず、郡としては在ったようである以上、その設立は、学術的に実在したと云われる第15代応神天皇以後の事であると云うのは明白である。》

 

 我国ノ古代ニ於テ地方行政ニ多大ノ変動ヲ及ボシタルハ孝徳帝ノ御代ナリ帝ノ大化元年詔シテ曰ク

〔我国の古代において、地方行政に多大の変動を及ぼしたるは、孝徳帝の御代なり。帝の大化元年、詔して曰く、〕

《我国の古代史上、地方の行政に大きな影響を与えたのは、第36代孝徳天皇(596 - 654年、在位:645712 - 6541124日、和名は「天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)」)の時代である。孝徳天皇は大化元年に次のよう詔勅したと『日本書紀』に書かれている。》

 

   (省略された部分:「甲申、遣使者於諸國、錄民元數、仍詔曰」)自古以降、毎天皇時置標代民、垂名於後、其臣連等、伴造国造、各置民、恣情駈使、又割国縣山海林野池田、以為財、争戦不己、或者兼数万田、或者全無容(地、及進調賦時、其臣連伴造等、先自収斂、然後分進、修()治宮殿、築造国陵、各率己民、隨事而作、(中略「易曰、損上益下、節以制度、不傷財不害民。方今百姓猶乏、而有勢者分割水陸以爲私地、賣與百姓、年索其價」)従今以後、不得売地、勿妄作主兼拜劣弱、百姓大悦
(省略された部分:「甲申〈きのえさる〉、使いを諸国に遣わして、民〈おおみたから〉の元(おお)数を録(しる)す。仍〈よ〉りて詔〈みことのり〉して曰(にたま)わく」)古(いにしえ)より以降(このかた)、天皇(すめらみこと)の時(みよ)毎に、代(しろ)の民を置き標(あら)わして、名(みな)を後に垂(た)る。それ臣(おみ)連(むらじ)等(たち)、伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)、各(おのおの)己(おの)が民(たみ)を置きて、情(こころ)の恣(ほしいまま)に駈使(つか)う。また国県(くにあがた)の山海、林野、池田(いけた)を割(さきとり)て、以(もっ)て己(おの)が財(たから)と為して、争(あらそい)戦(たたか)うこと已(や)まず。或者(あるひと)は数万項(あまたよろずしろ))の田を兼(か)ね幷(あわ)す。或者(あるひと)は、全(もは)ら容針少地(はりさすばかりのところ)も無し。調賦(みつぎ)を進(たてまつ)る時に、及んでは、その臣連伴の造(みやつこ)たち、先(ま)ず自(みずか)ら収(おさ)め斂(と)りて、然(しこう)して後に分ち進(たてまつ)る。宮殿(おおみや)を脩治(つく)り、園陵(みささぎ)を築造(つく)るに、各(おのおの)己(おの)が民を率いて、事に随(したが)いて作れり。中略(「易(エキ)に曰く、『上(かみ)を損(おと)して下(しも)を益(ま)す。節(したがう)に制度(のり)を以てし、財を傷(やぶ)らざれ。民を害(そこ)わざれ』といえり、方(まさ)に今、百姓(おおみたから)猶(なお)乏(とも)し。而(しか)るを勢い有る者は、水陸(たはたけ)を分け割きて、以て私(わたくし)の地(ところ)と為し、百姓に売り与えて、年(としごと)に其の値を索(こ)う。」)今より以後(のち)、地(ところ)売ること得じ。妄(みだり)に主(あろじ)と作(なり)て、劣(つたな)く弱きを兼ね幷(あわ)すこと勿(なか)れと。百姓、大きに悦(よろこ)ぶ。〕
《大化元年(孝徳天皇2年、645)11月19日(甲申)に始まる所謂「大化の改新」に関する部分である。因みに、「大化」は、我国で初めてつかわれた元号。この部分に関する読下し文しては、国史大系第一巻『日本書紀』(経済雑誌社・明治30年刊)と日本古典分が大系『日本書紀(下巻)』(岩波書店・昭和40年刊)を参照した。
 しかしながら、日本書紀に関しては、多くの研究や文献があり、現代語訳も何冊かあるので、拙訳は憚られるの省略する。》

 

 是レ即チ大化改新ニシテ此際国郡テフ制度ヲ布カレタリ其ハ従前ノ国ヲ併合セル大地域ニシテ郡ハ大略古ノ国ニ当ル

〔これ、すなわち大化の改新にして、この際、国郡ちょう制度を布かれたり、それは従前の国を併合(ヘイゴウ)せる大地域にして、郡は、大略、古の国に当る。〕

《以上、引用の部分は「大化の改新」の事であり、この時、国郡という制度が制定され、それまでの国を合併し大きな地域にした。この当時の昔の国が、大体、郡である。》

  初修京師置畿内国司郡司(省略された部分「關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬」)ト古書ニ見エケルニヨリ
〔「初めて京師(みさと)を修め、畿内国(うちつくに)の司(みこともち)・郡司(こうりのみやつこ)、(調略された部分「関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)」)を置き」と古書(『日本書紀』)に見えるにより〕
《『日本書紀』(孝徳天皇紀の巻之二十五の「二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰《大化二年正月元旦、賀正の礼を終える、即ち新しきに改むるの詔勅を発して述べた》」)に続く、第二条に「其二曰、初修京師、置畿
國司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬(後略)」とある事から》

 推セバ国郡制ヲ近キヨリ遠キニ及ボシ施行セラレタルモノヽ如シ、又記録ニ凡四十里為大郡三十里以下四里以上為中郡三里為小郡、其郡司、(省略の部分「並取国造性識淸廉、堪時務者」)、為大領小領、(省略の部分「■(「朝」の左と夸を合せた字)聰敏、工書算者、爲主政・主帳。凡給驛馬・傳馬、皆依鈴傳符剋數。凡諸國及關、給鈴契。並長官執、無次官執。其三曰、初造戸籍・計帳・班田收授之法。」)、凡五十戸為里毎里置長一人、又国統郡、郡統里、国有守、郡有領、里有長ト以テ国郡里ノ政治上ノ関係及区域ハ想像スルニ難カラズ

〔(以上の事から)推せば、国郡制を近きより遠きに及ぼし、施行せられたるものの如し、また記録に「凡(おおよ)そ四十里(よそさと)を以て大郡(おおきこおり)とせよ。三十里(みそさと)より以下(しも)、四里(よさと)より以上(かみ)を、中郡(なかつこおり)とし、三里(みさと)を、小郡(すくなきこおり)せよ。〈省略された部分〔その郡司(こおりのみやつこ)には、並に国造(くにのみやつこ)の性識清廉(ひととなりたましいいさぎよ)くして、時(とき)の務(まつりごと)に堪うる者を取りて〕〉、大領(おおみやつこ)小領(すけのみやつこ)とし、(省略された部分「強(こわ)く■(いさお)しく聡敏(さと)くして、書算(てかきかずとる)に工(たくみ)なる者を、主政(まつりごとひと)・主帳(ふびと)とせよ。凡(おおよ)そ駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)給うことは、皆、鈴・伝符(つたえのしるし)の剋(きざみ)の数に依れ。凡そ諸国(くにぐに)及び関には、鈴契(すずしるし)給う。並びに長官(かみ)執(と)れ。其の三に曰(のたま)わく、初めて戸籍(へのふみた)・計帳(かずのふみた)・班田(あかちだ)を収受(おさめさずくる)の法(のり)を造れ。」)、凡(すべ)て五十戸(いそへ)を里とす。里毎に長(おさ)一人を置く。また国は郡を統べ、郡は里を統べ、国に守(かみ)有り、郡に領(すけ)有り、里に長(おさ)有りと。もって国郡里の政治上の関係、及び区域は想像するに難(むつかし)からず。〕

《以上の事から推測すると、国郡の制度を畿内のような近隣の地方から越後のような遠い地方まで拡大し、施行されたようである。また記録によると、約四十里以上を「大郡」とし、四里から三十里までを「中郡」とし。三里以下を「小郡」としたとある。以下、前述と同様に省略する。尚、「又国統郡・・・」は、日本書紀にはないので、著者の注釈と考えられる。》

 

 天武天皇ノ時代ニ越国ヲ越後越中越前ノ三越ニ分割セラレタルコトハ前越国記中ニ載セラレタルトコロナリセバ其以前ニ久比岐国ハ久比岐郡ト高志国ハ高志郡ト改称セラレシ仝時ニ其両郡ノ間ニ一郡ヲ新設シ三島郡トセラレタルモノカ大寶二年二月越中国ノ四郡ヲ割キテ越後国ニ併スト此時代ニ於テ三島郡ノ起リタルモノヽ如シ

〔天武天皇の時代に越国を越後・越中・越前の三越に分割せられたることは、前越国記中に載せられたるところなりせば、その以前に、久比岐国は久比岐郡と高志国は高志郡と改称せられし。同時に、その両郡の間に一郡を新設し、三島(みしま)郡とせられたるものか、大宝二年二月、越中国の四郡を割きて、越後国に併すと、この時代に於て三島郡の起りたるものの如し。〕

《天武天皇の時代に、越国を越後・越中・越前の三越に分割された事が、『前越国記』という本の中に書かれている事からすれば、それ以前に、久比岐国は久比岐郡と、高志国は高志郡に改称されたという事になるだろう。同時に、その両郡の間に、一つの郡を新しく加えて、三島郡としたのでは無ないだろうか。『続日本紀』(文武天皇第二巻)大宝二年三月甲申(原文では、「二月」としているが、これは三月の誤り。また「甲申〈きのえさる〉」は17日)の条に、「甲申。令大倭國繕治二槻離宮。分越中國四郡属越後國。〔大倭(やまと)の国に二槻(ふたつき)の離宮を繕い治めしむ。越中の国四郡を分ち越後国に属す。〕」とある。越中国を四郡に分割して、越後国と帰属させたとある。この時代に、三島(みしま)郡が設置されたようである。》

【註】この部分は、出典を含め疑問が多い。先ず、出典である『前越国記』が分らない。それを、「前」を「先」と同様に考え、『越後国』と解釈するか、『前越国記』と考えるか、例へば、『日本書記』の一部として捉えるか。ところが、『日本書紀』には、こうした記述は無い。そこで、年代的に探したのだが、例へば『越佐史料』(第一巻)など、それらしきものがない。尚、『越佐史料』について言えば、大宝年間の記事は二件で、二件とも全くの別件だった。

 

 延喜式ニ三島駅見ユ三島駅ハ久比岐ノ佐味三島ノ多岐ノ間ニアリテ米山ノ北ナルヲ想ヘバ正シク上図ノ如クシテ実ニ刈羽郡ノ中心点タリ荒川ノ流域一平野ヲ為シ巒ラスニ山脈ヲ以テス之ヲ一郡トナス信濃川ノ流域ヲ山脈ヲ以テカコム之ヲ高志郡トナス鵜川鯖石川別山川ハ其名ヲ異ニスルト雖モ其実ハ仝一流域ニ属ス其流域ヲカコムニ連山ヲ以テシ自然的区劃ヲナス三島郡ヲ設ケラルヽモ自然ノ勢ナリ郡名ハ駅名ヲ因トシテ取リタルモノカ其例少シトセズ頸城ノ如キモ其一例ナリ

 〔延喜式に三島駅見ゆ。三島駅は久比岐の佐味、三島の多岐の間にありて、米山の北なるを想えば、正しく上図の如くして、実に刈羽郡の中心点たり。荒川の流域一平野を為し、巒(やまなみ、みね)なすに(「ラ」とあるのは「ナ」の誤植?)山脈をもってす、これを一郡となす信濃川の流域を山脈をもって、かこむ、これを高志郡となす。鵜川・鯖石川・別山川は、その名を異にすといえども、その実は同一流域に属す。その流域をかこむに連山をもってし、自然的区画をなす。三島郡を設けらるるも、自然の勢いなり。郡名は駅名を因として取りたるものか、その例、少しとせず、頸城の如きも、その一例なり。〕

《『延喜式』第二十八巻「兵部式」の「諸国駅伝馬・北陸道・越後国駅馬」の条に「蒼海八疋。鶉石、名立、水門、佐味、三嶋、多太、大家各五疋。伊神二疋。渡戸船二隻。」とあり、三嶋(三島)駅に駅馬五匹が常備されていた事が判る。またこの条から、三島駅は、頸城郡の佐味(旧柿崎町周辺)と三島郡の多太(多岐、現柏崎・刈羽村周辺)の間で、米山の北側と推測すれば、確かに上図(不明、昭和54年に復刻版が発刊された時に添付しなかったのか、あるいはに紛失していたのではないだろうか。)のように、確かに刈羽郡の中心であったようだ。荒川(現上越市の関川か?)の流域は、一つの平野を形成し、連なる峰は山脈を成している、これを一つの郡として、信濃川の流域を山脈によって囲む地域を高志郡とする。鵜川・鯖石川・別山川は、それぞれ名称が異なるが、実際には同じ流域に属している。その流域を囲む連山によって、自然の区画を形成している。その為、三島郡が設置されたのも当然の事だろう。郡名は駅名に由来するものと考えられるので、その例も少なくなく、頸城郡もその一例と言えるだろう。》

 


コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


カウンター
プロフィール
年齢:
76
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新トラックバック
バーコード
ブログ内検索