柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第二項 越後国

 

 人皇四十代天武天皇時代ニ越国ハ古之乃三知乃久知古之乃三知乃奈加古之乃美知乃之利即チ越前越中越後ニ区分セラレ称シテ三越トイフ其越中ト越後トノ境界ハ現今ノモノト大ニ異ニス信濃川ハ両国ノ境界ニシテ以北ノ地ハ越後国タリサレバ現今ノ頸城ハ越中國ニ属シタルナリ而シテ北ハ沼垂磐船ハ勿論出羽ニ延ビタルナリ国郡志

〔人皇四十代・天武天皇時代に越国は古之乃三知乃久知古之乃三知乃奈加古之乃美知乃之利(こしのみちのくち、こしのみちのなか、こしのみちのしり)、即ち今のものと大いに異にす。信濃川は両国の境界にして、以北の地は越後国たりなれば、現今の頸城は越中国に属したるなり。而して北は沼垂・磐船(岩船)は、勿論、出羽に延びたるなり。郡国志に、〕

《神武天皇より40代・天武天皇時代(672-686)に、越国は、古之乃三知乃久知、古之乃三知乃奈加、古之乃美知乃之利(こしのみちの口、こしのみちの中、こしのみちの尻)に分れ、今の区分とは大分異なり、信濃川が二つの国の境になっていて、その以北が越後国になっていた。その為、今の頸城は越中国に属し、その北の沼垂と岩船は、必然的に出羽まで続いていた訳である。そのことは、『国郡誌』に次の様に書かれている。

 

  出羽国古属越後及陸奥蝦夷居住也ト
〔出羽国は、古、越後及び陸奥に属し、蝦夷、居住するなり、と〕
《出羽の国は、昔、越後と陸奥に属し、蝦夷が享受していた、と》

 

又日本書紀ニ

〔また日本書紀に〕

《また日本書紀に》

 

  和銅元年新建出羽郡運兵器於出羽柵奬征蝦夷也五年狄部悉定始建出羽国尋割陸奥置賜最上二郡ト
〔和銅元年、新に出羽郡を建て、兵器を出羽柵に運び、蝦夷を征するを奨めるなり。五年、狄部(テキブ)悉(ことごと)く定まり、始めに出羽国を建て、ついで陸奥を割って置賜(おきたま)、最上(もがみ)二郡を置く、と〕
《和同元年(708)、新に出羽郡を開設し、兵器を出羽柵に運んで、関市征討を進めた。五年(713)、北に異民族を平定して、初めに出羽国を設立し、次に、それを二分して、置賜と最上の二郡とした、と》

 

又続日本紀ニ

〔また続日本紀に〕

《また『続日本紀(ショクニホンキ)』に、(平安初期に編纂された勅撰史書で、菅原道真らにより延暦16年(797)に完成した。文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。)》

 

  和同五年割陸奥及越後置出羽郡ト
〔和銅五年(713)、陸奥及び越後を割り、出羽郡を置く、と〕
《和同5年(713)、陸奥と越後の一部を割き、出羽郡を置いた、と》

 

按ズルニ置賜郡ハ出羽国南方ノ大分域ニシテ最上川ノ上流ナリ最上ハ最上中流ノ称ナリサレバ割陸奥置賜最上二郡ト古書ニ見ユルヨリ推セバ最上川以北ハ陸奥国ニ属シ以南諸郡即チ田川郡出羽郡飽海郡ハ越後ニ属セルモノナランサレバ越後国ハ西南ハ信濃川ニ東北ハ最上川ニ境セシナリ

〔按ずるに、置賜郡は出羽国南方の大分域にして、最上川の上流なり。最上は最上中流の称なりざれば、陸奥を割いて、置賜・最上二郡と、古書に見ゆるより推せば、最上川以北は、陸奥国に属し、以南諸郡、すなわち、田川郡・出羽郡・飽海(あくみ)郡は越後に属せるものならん、されば越後国は西南の信濃川に、東北は最上川に境せしなり。〕

《編者の考えるところでは、置賜郡は出羽国の南の大部分を占め、最上川の上流に当る。最上と云うのは、最上川の中流域の名称だから、「割陸奥置賜最上二郡」と古書に在るのを見ると、最上川以北は陸奥国に属し、以南の諸郡は、すなわち田川郡、出羽郡、飽海郡は、越後に属していたようであり、その事から越後国は、西南は信濃川と、東北は最上川が国境となっていた訳である。》

 出羽国ノ建設ヲ見ザル凡ソ十年前大寶二年三月越中国内四郡ヲ割キテ越後ニ併ス四郡ハ史ニ具註ナシト誰(雖)モ地勢上頸城魚沼三島古志ノ郡ナルコト推定セラル

〔出羽国を見ざる、およそ十年前、大宝二年三月、越中国の内四郡を割きて越後にあわす、四郡は史に具註なしといえども、地勢上、頸城・魚沼・三島・古志の郡なること推定せらる〕

《出羽国が未だ成立していない大体10年前の大宝2年(702)3月、越中国の内の四郡を分離して越後に合併した。四郡の事が歴史書に明確に書かれている訳ではないが、地勢から推測して、頸城・魚沼・三島・古志の四郡であろうと思われる。》

 爾来明治ノ聖代ニ至ル迄一千三百年間越後彊域ニ大変ナシ唯天平十五年佐渡国ヲ越後ニ併セラレシガ天平勝寶四年旧ニ依リ佐渡国分立シタルノ変アリシノミ

〔爾来、明治の聖代に至るまで、一千三百年間、越後疆域(キョウイキ)に大変なし。ただ天平十五年、佐渡国を越後に併せられしが、天平勝宝(テンピョウショウホウ)四年、旧により佐渡国分立したるの変ありしのみ。〕

《それ以来、明治時代に至るまでの1300年間、越後の境域に大きな変化は無かったが、天平15年(743)に佐渡国を越後に合併したが、天平勝宝4年(752)、旧に戻って佐渡国が分立した事だけである。》

  続紀天平十五年以佐渡国併越後国天平勝寶四年十一月復置佐渡国
〔続紀、天平十五年、佐渡国をもって越後国に併す。天平勝宝4年十一月、また佐渡国を置く〕
《『続日本紀』の天平15年の項に佐渡国を越後と合併させたが、天平勝宝4年11月、また佐渡国を基に戻して設置した。》

 


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