柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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第二 與板村

 

白川風土記ニ曰ク、與板ハ柏崎陣屋ヨリ卯辰ノ方二里十八町ニアリ、村長サ東西一丁許、南北六丁許、戸数五十七軒、向背等シカラズ、東ハ御料所善根村ヘ七丁許、西ハ久米村ヘ拾丁許、南ハ宮平村ヘ七丁許、北ハ加納ヘ七丁余、地界入リ交リ分明ニ記シ難シ、堰一ケ所、村ノ南十丁五十間、御料所石曽根村ノ地内ニアリ鯖石川ヲ堰グ参拾五間ニ株土俵ヲ以テ造ル、御料所善根村、当領宮平村ノ地内ヲ挽キテ当村ノ田所ニ灌グ
《『白川風土記・越後国之部』に、「与板は柏崎陣屋から卯辰の方角(東と東南東の間)、2里18町(およそ1㎞)にあり、村の長さは、東西およそ1丁(約110m)、南北およそ6丁(約660m)で、戸数は57軒あるが、必ずしも一定ではない。東には7丁ばかりで御料所(天領)の善根村があり、西は10丁ほどで久米村に至り、南は7丁ばかりで宮平村に接し、北の加納村まではおよそ7丁ある。しかし、村境は、入り交じって明確に描くことができない。また堰が一ヶ所ある。村の南、10丁50間(約1200m弱)で、御料所(天領)石曽根村の域内にあり、鯖石川を堰き止める35間にわたる株(杭)と土俵(俵で作る土嚢)で作られたもので、御料所・善根村と当村(与板村)、白河藩領宮平村の域内を通って当村(与板村)の田圃を潤している。」とある。》

以上ハ白川風土記ヲ抜抄シタルモノナルガ其年代ヲ詳ニセザルヲ惜ム。幸ニシテ阪田一弥方所有ニカヽル観音堂土蔵中ヨリ寛政及文化ノ書上明細帳ヲ発見セリ、寛政三年ハ紀元二千四百五十一年ニシテ今ヨリ凡ソ百十年昔ナリ、其ノ重要ノ事項記載ス

《以上は、『白川風土記越後国之部』から抜抄したものだが、書かれた年代を明らかにしていたのが残念である。ただ幸いに、阪田一弥氏方に所有されている観音堂の土蔵から寛政と文化年代の「書上明細帳」を発見した。寛政三年(1791年)は皇紀2451年に当たり、今からおよそ110年昔のことだ。その中で重要と思われる事項を紹介する。》

【補注】白河藩の時代、刈羽五組制度が成立し、五大肝煎が各組に置かれる。柏崎市史(中巻第三章第二項「大肝煎・庄屋と郷(在)会所の変遷」1「大肝煎」)に、「鯖石組坂井・高橋・西巻の三大肝煎は変動することなく幕末を迎えた。これに対し上条組は、明和期(1764年から1772年)の記録で下組は関矢で変わらないが、上組は早くも飯塚弥兵衛に代わって宮川四郎兵衛となり、さらに文化期(1804年から1818年)には上組は山田健介(下山田)、下組は山田甚三郎(山甚・やまじん)が大肝煎となり幕末に至ったが、慶応四年に山甚が瀬下平七に代わっている。上条上組の大橋・飯塚は郷内出身であるが、宮川・山田はともに柏崎町商人である。また、下組の山田も柏崎町商人である。彼等は家業で蓄えた資本を農村に投下し、寄生地主となり、不在村居町の大肝煎に就任するのであるが、その農村進出は宝暦期(1751年から1764年)に増大している。(中略)なぜ上条郷だけが町人支配を受けたのか興味深い問題である。」とある。また、次の2「刈羽郡諸村の庄屋」に、加納村(源十郎・小左衛門)、与板村(平四郎・市郎大夫)、宮平村(権兵衛)の記載がある。
 更に、3「郷会所の変遷」に、鯖石組の内として①坂井三太夫組(慶応四年)に、比角、安田、長浜、両田尻、下田尻、上田尻、南條、加納、善根、与板、森近、宮平、岡田、漆島、萩之嶋、門出、栃ヶ原の各村の記載があるが、一見して地理的な関係が分らない。言い換えると、坂井三太夫組にまとめられた意図が何であるか、知りたいところである。

 

一、当村ヨリ松野山上田妻有魚沼海道筋ニ御座候
(海道ハ街道ノ誤)
〔当村より松之山・上田・妻有・魚沼街道筋にござそうろう〕

一、家数五拾七軒
人数 参百〇八人
 内男百四拾九人
  女百五拾五人
  道心  壱人(出家者。特に一三歳または一五歳で出家となった者。)
  僧   三人

一、農業外 男ハ正月ヨリ農出之節マデ農道具拵仕候
    女者不ト布常用斗存候
〔農業外、男は正月より農出の節まで、農道具こしらえ仕りそうろう〕

一、当村ハ蚕無之候
〔当村は、蚕、これ無くそうろう〕
是ノ個条存スルヨリ推セバ此ノ頃ヨリ近郊ニ養蚕ノ行ハレタルヲ推定セラル
《この条文がある事から推測すると、この頃から柏崎近郊で養蚕がおこなわれていたと思はれる。》
一、鯖石川当村ヨリ東ヲ通申川幅拾九間余こみ川高川幅年々増減御座候
〔鯖石川、当村より東を通り申し、川幅19間余り(35m弱)こみ(を含め)川高・川幅、年々増減に、ござそうろう〕
一、鯖石川通リ川欠横地瀬ガイ等御座候時ハ川除普請目論見張差上候、而御見分之上杭株等ハ御林ヨリ被下置候儀御座候、人足外入用ハ村中割合申儀御座候
〔鯖石川通り、川欠け(河川が決壊して田畑が押し流され、当分復旧する見込みのない農地をいう)・横地(?)・瀬ガイ(崖?)等、ござそうろう時は、川除(川浚)・普請・目論(もくろみ)・見張り、差上げそうろうて、ご検分の上、杭株等は、御林(御用林)より、下し置かれそうろう儀に、ござそうろう、人足外、入用は村中割合申すの儀に、ござそうろう。〕

以テ鯖石川ハ今昔ヲ問ハズ灌漑ノ利ヲ与フト共ニ汎濫ヲ極メ人民ヲ害スルノ状、察セラルベシ
《先の様に鯖石川は、時代に関係なく灌漑の利便をもたらすと共に、氾濫することも極めて多く、住民に多大な被害を与えていた様子が、推察される。》

一、糀屋貮軒(こうじ屋二軒)

一、紺屋貮軒 (こん屋二軒)
但シ百姓常用外ト存ジ木綿少々差染申候、年々御役上納仕候
〔ただし、百姓常用の外と存じ、木綿少々さし染め申しそうろう、年々御役上納仕りそうろう〕

 一、鍛冶屋壱軒(鍛冶屋一軒)
但シ鍬鎌許之鍛冶ニ御座候、年々御役上納仕候
〔ただし、鍬(くわ)鎌(かま)ばかりの鍛冶にござそうろう、年々御役上納仕りそうろう〕

與板ハ久野木郷ノ中心地ニシテ街道ニ沿フテ交通ノ便ヲ得コヽニ種々ノ営業職ノ存在スルモ理ナリ
《与板は、久野木郷の中心地にして、街道に沿って交通の利便があり、そのため、様々な業種や職種が存在した訳である。》

 一、地続隣村  西ハ久米村道法壱里山道ニ御座候
〔西は、久米村、道のり一里の山道にござそうろう〕
南ハ宮平村道法八町余
〔南は、宮平村、道のりは八町余り(900m弱)〕
北ハ加納村道法七町余
〔北は、加納村、道のりは七町余り(800m弱)〕
東ハ御領所善根村道法ハ七町余
〔東は、御料所・善根村、道のりは七町余り(800m弱)〕

 一、越後国之御下ニ
当村ヨリ高田ニ道法拾五里余
〔当村より高田に、道のり十五里(59㎞弱)〕
当村ヨリ長岡ニ道法七里半余
〔当村より長岡に、道のり七里半余り(28㎞強)〕

 一、庄屋給米  四石八斗ニ御座候百姓割合而出シ候
〔四石八斗にござそうろう、百姓割合にて出しそうろう〕

 一、組頭給米  七斗但シ百姓割合而出シ申候
〔七斗、ただし百姓割合二て出し申しそうろう〕

 一、仲便給米  壱石六斗但シ百姓割合貮人ニ而相勤メ申候
〔一石六斗、ただし百姓割合二人にて相勤め申しそうろう〕
【補注】仲便は、「中間」と同義語か?古語辞典に記載なし。

此外文化元年書上帳ニハ領主ノ事細シ之ヲ他節ニ譲ル、其ノ他家数ヲ五拾七軒ト記シ寛政ト増減ナシ、他ハ大差ナシ、サレバ略ス
《この他、文化元年(1804)の書上帳には、領主の事が詳しく書かれているが、他の節に改めて記載する。その他、家数を57軒と記載し寛政との増減はなく、他も大差ないので省略する。》

次に、第三節「近世郷村と柏崎町の成立」第一項「近世初頭の郷村」と続くのだが、石高の変遷などに論が進み、加納村等の帰属に関しては重複があるので、ここでは時系列に沿って、領主の変遷を『柏崎市史』の執筆者と同じ、新沢佳大氏の『柏崎編年史』の第五章「高田藩政の展開」の前に添付された表「柏崎刈羽の歴代領主変遷表」から、加納村・与板村・宮平村および善根村を抜抄する。但し、善根村を除く三村は皆同じであるので、一括して記載する。また、和暦には西暦を付け加えた。

加納・与板・宮平村
元和 二年(1616    長峰藩 牧野忠成(ただなり)
元和 五年(1619    高田藩 松平忠昌(ただまさ)
寛永 元年(1624    高田藩 松平光長(みつなが)
天和 元年(1681    幕領
貞享 三年(1686    高田藩 稲葉正通(まさみち)
元禄十四年(1701    高田藩 戸田忠真(ただざね)
宝永 七年(1710    高田藩 松平定重(さだしげ)
寛保 元年(1741    白河藩 松平定賢(さだよし)
文政 六年(1823    桑名藩 松平定永(さだなが)
善根村(貞享三年まで同じ)
貞享 三年(1741    幕領
元禄十四年(1701    幕領
宝永 七年(1710    高田藩 松平定重
                    長岡領 *牧野忠辰(ただとき)
寛保 元年(1741    白河藩 松平定賢
                    幕領
文政 六年(1823    桑名藩 松平定永
                    幕領
【補注】『元禄郷帳』(其二・越後国高田・長岡領)の末尾に「高都合四拾六万六千五百六拾五石四斗七升三合六勺七才・村数貮千貮百八拾九ヶ村・元禄十五壬午年十二月 牧野駿河守」の記載がある。この『元禄郷帳』は、元禄13年から調査が開始されたようだから、先の署名から考えると、一覧表の高田藩戸田家との関わりに疑問が残る。ただ、後の長岡藩牧野忠辰が、松平光長改易の時の高田城受取り役を務めているから、それが関係するのかも知れない。
 先ずこれらの所は措くとして、この郷帳に帰された加納村の石高は、77382升(宮平村3014斗、与板村34986合、因みに下方村329662合)である。
 また、もう一点着目するのが、刈羽郡の石高である。総高というより、その細かさだ。「六勺七才」、「勺」は単位として知っていたが、その下に「才」という単位がある事を知らなかった。調べて見ると、三勺枡は今も販売されている様だが(アマゾンでも販売)、それ以下となると、何に使うのだろうと考えてしまう。憶測はすべきではないが、先に挙げた疑問と関連付ければ、牧野駿河守家が、他領(戸田家)の検地を行なった事に関係するのかも知れない。要するに、「我が藩は、ここまで正確に検知した」と云う面子とか。

 

【省略2】「山川 鯖石川 村ノ南ノ方五丁許(ばか)ニアリ、水源ハ黒姫山鯖石谷ヨリ出流、末、悪田村ニテ海水ニ入」

 

白川風土記抜抄
白川風土記ハ松平家ノ編纂ニカヽルモノニシテ松平越中守定重ノ勢州桑名ヨリ高田ニ移封セラルヽヤ当地ハ其領内ニ属ス而シテ寶永七年八月ヨリ明治ニ至ル迄其封タリ。
《『白河風土記』は、松平家(陸奥白河藩久松系松平定信)の編纂によるもので、松平越中守定重(伊予松山藩久松系松平定頼の三男)は伊勢桑名藩より高田藩へ移封になった時、当地は、高田藩領に属し、宝永7年(1710)8月より明治に至るまで高田藩領であった。》
【注】上記記述は、著者の誤認があったのではないだろうか。先ず、最後の「明治に至るまで高田藩領」とある所だが、加納村は、桑名藩松平家の飛び領であり、柏崎陣屋の支配下にあり、明治に至った。(『柏崎編年史』など、參照)
 高田藩が久松系松平家(11万3千石)の支配下にあったのは、宝永7年(1710年)閏8月15日、初代・越中守定重が(従五位下)桑名藩から移封してから第五代・越中守(従四位下)定賢(さだよし)が寛保元年(1741年)111日、陸奥白河に移封されるまでである。

【註】『白川風土記』は、白河藩第三代藩主・松平定信(楽翁)の命により、藩儒(定信侍講)の広瀬典(蒙斎)によって著された。本編『白河風土記』は、天地二編全14巻の構成であり、『白川風土記越後之部』は巻之15「越後国之部(1)刈羽郡」から巻之32「同(18)蒲原郡奥山庄加地郷」までの全18巻構成である。
【補注】広瀬典: 明和5年(1768年) - 文政12210日(1829314日)、白河・桑名藩の藩士であるとともに、定信の侍講、儒学者。『白河風土記』の著編者。詳細については、他に資料があると思うのだが、取り敢えず、下記『先哲百家伝』參照。
◎現時点で、失念しているのだが、蒙斎は、『白川風土記越後国之部』を編纂するに当たり、柏崎陣屋を起点にして、領内各所を巡検したという記事を読んだ事がある。また、この時、一人で来たのではなく、藩の重役か誰かと来たように記憶している。しかし、資料を捜したのだが、まだ見つけていない。
 干河岸貫一(ひがし・かんいち)著『先哲百家伝(続編)』(青木喬山堂・明治43年)に、(出来るだけ現代語にして)、《広瀬政典(まさのり)は、字は以寧(イネイ)、後に仲謨(チュウボ)と改め、蒙斎(モウサイ)と号し、臺八(だいはち)と称した。世々、白河侯(楽翁・松平定信)に仕え、後に桑名に移封するに及び、従って桑名の人となる。蒙斎は、天性(生まれながら)、質直(質朴、地味でまじめ)で幼くして学問を好む。寛政三年(1791)、侯の命を受け昌平黌(湯島聖堂、幕府の昌平坂学問所)に入学する。この頃、定信侯は、広く全国に当時の著名な学者を募集し、出仕させた。その為、学問が盛んになり、文学(朱子学)の中興と呼ばれた。(盛んになったのは、「朱子学」であり、幕府は朱子学以外を禁じた。寛政2年(1790)の「寛政異学の禁」)蒙斎は、昌平黌在学中の数年、学問に励み、文章の蒙斎と言われるまでになった。そこで蒙斎は、「一章一句を読むものあり、未だ善く一篇を読むものあらず。文、善く一篇を読むに至り、而して後、始めて與に(共に)言うべし」と云ったという。すなわち、その造詣の深さを知ることができる。(寛政)9年、定信侯は、蒙斎を抜擢して、馬廻り役(親衛隊)に取り立て、藩校の学頭を兼任させ、更に短期間の中に教授に進み、その後も藩政の諸職を歴任したが、共に兼務を続けた。ただ人は、蒙斎の文章の才能を知るだけだが、定信侯の政策や施政に参画していた事を知る人は少ない。(同様の繰り返しなので中略)しかし蒙斎の事績として知られるのは、奉行所にあった頃、重臣の発議であったとしても、理非曲直を正し、無暗に従う事はなかった。その一例として、定信侯が老中首座の時、海防の為、房総沿岸を何度も巡察し、幕府の海防策を提起した。(以下、抄略)その後、傍様になど二代にわたり歴任するが、老公(定信)よち先に没し、その才や業績を惜しまれた。》

 

加納村ハ柏崎陣屋ヨリ卯辰ノ方行程二里十八町ニアリ、村長サ東西一町南北二十一町余、戸数百拾壱軒家並向背均シカラズ四至東ハ御領所善根村ヘ八丁許、西ハ南下村一里余、南ハ與板村ヘ七丁余、北ハ安田村ヘ七丁余、イヅレモ地界入リ交リ分明ナラズ、(省略1)、(省略2)、「井堰」、堰三ヶ所(二ヶ所)、一ケ所ハ村ヨリ南方四丁余ニアリ安田村南條村当水ノ養水ナリ。一ケ所ハ南方五丁余ニアリテ御領所善根村当村ノ養水なり、共ニ鯖石川ヲ堰普請ハ養水持合ノ村々ノ預ルトコロナリ。

《加納村は柏崎陣屋より卯辰(東と東南東の間)の方角へ2里18丁(約10㎞、正確には9,818.17m)あり、村の長さは東西1町(約110m、正確には109.09m)南北21町余(約2300m)であり、戸数は111軒で家並みは道筋に沿って点在している。四方には、東に御領所(天領)善根村へ8丁(およそ900m)、西の南下村まで1里ほどで(約1㎞)、南に向って与板村までが約7丁(およそ760m)、北の安田村までがおよそ7丁である。ただ、どの村とも境界が入り組んで村境は明確ではない。堰は三ヶ所(二ヶ所の誤り)あり、一ケ所は村の南4丁余りで(約440m)、安田村と南條村の用水に利用されている。また一ケ所は矢張り南に5丁ばかりの所に在り、御領所の善根村を潤している。これらは、共に鯖石川を堰普請(工事)したもので、工事の分担は、その堰による用水の利用割合によるものである。》

【省略1】「往古ノ領主不詳、貞治年間、上杉左近将監憲榮(のりよし)、越後国一統ヲ領セシヨリ代々ノ傳領ナリシカ、景勝、慶長三年、奥州會津ニ封ヲ移サレシ時、越後国ヲ堀秀治ニ賜テ、當村モ春日山ノ直領ナリシト云、慶長十五年ヨリ越後少将忠輝卿領、元和二年ヨリ牧野駿河守領、同六年ヨリ松平伊豫守領、寛永元年ヨリ松平越後守領、天和元年ヨリ御領所、貞享三年ヨリ稲葉丹後守領、元禄十四年ヨリ戸田能登守領、正徳元年ヨリ當領トナル」
《随分昔の領主については詳しい事が判らない。禎治年間(ジョウジ、1362-1368)に、上杉左近将監憲栄が越後国の全域を領有して後、上杉氏が代々領主であったようだが、景勝が、慶長3年(1598)に奥州会津に移封した時、越後国を堀秀治が継承し、当村も春日山の直轄領になったと伝えられる。しかし、慶長13年(1608)、堀直政が死去すると相続を巡って内紛が起こり、慶長15年(1610年)直次(越後三條城主)は改易の上、出羽最上に流刑、直寄(越後坂戸城主)は信濃飯山藩4万石に懲罰的な移封となった。慶長15年(1610)に徳川家康の六男・越後少将(従五位下・上総介、従四位下・左近衛権少将)松平忠輝が領主となったが、元和2年(1616年)に改易となった。元和元年(1615)、牧野駿河守(忠成)の領地なる。(【補注】に記す。また、高田藩については、上野高崎藩10万石の酒井家次が、忠輝改易後の7月、高田城の受け取りを勤め、10月に入部したが、子の忠勝の時、元和5年(1619年)3月に信濃松代藩へ移封されたとある。)、元和6年(1620)から松平伊予守(忠昌、徳川家康の二男・結城秀康の二男)領、寛永元年(1624)より松平越後守(光長、結城秀康の長男・忠直の長男)領、「越後騒動」が原因となり、延宝8年(1680年)に改易(光長は、翌年、伊予松山藩に配流)、天和元年(1681)より御領所(天領)、貞享3年(1686)より稲葉丹後守(正往あるいは正通が小田原藩より移封)領となったが、元禄14年(1701)老中就任に伴い下総佐倉藩に移封、入替りに佐倉藩より戸田能登守(忠真[ただざね])が転封となり、宝永7年(1710)宇都宮藩へ移封となり、翌正徳元年(1711)よりは、当領(久松松平家白河藩)となった。》
【補注】『柏崎市史』(中巻)第一章「幕藩体制社会の支配」第一節「諸藩領の成立と変遷」では、
①慶長三年の堀氏の入国を、一期・春日山藩として統治期間を慶長3年(1598)~同11年(1606)としている。ここに「加納村」は出てこないが、史料として秀吉が堀秀治に与えた『越後国知行方目録』が引用されているので、また『白川風土記越後之国部』について特に言及されていないので、加納村は春日山藩領と考えられる。尚、この知行目録に付いては、関西学院大学『人文論究』17巻5号(1967-03-20p126-138、永島福太郎著「慶長三年豊臣秀吉の堀久太郎宛越後国知行方目録について」に原文(活字)の記載がある。
 また『柏崎市史』の同所に、詳細な記載はないが、堀氏検地に付いて、如宝寺村(西山町妙法寺)、原田村(柏崎市花田)に検地帳が残っているそうだ。
②「福島藩、堀忠俊、慶長11年(1606)~慶長15年(1610)」とある。福島藩は、福島築城による。
③「福島藩、松平忠輝、慶長15年(1610)~慶長19年(1614)」とある。「加納村」の記載はない。
④「高田藩、松平忠輝、慶長19年(1614)~元和元年(1616)」とある。高田藩は、高田築城による。加納村の記載はない。
 以降は、第二項「諸藩の分立」で、「忠輝の改易により、旧高田藩は高田・長峰・藤井・長岡・三条藩に分立した。柏崎・刈羽に関するのは三条を除く諸藩で、いずれも譜代大名である。」とある。
①「高田藩 酒井家次・忠勝、元和二年(1616)~元和四年(1618)」
あり、
 「領地は頸城郡の約半分の他に一三か村、刈羽郡三七か村であったという。(『中頸城郡誌』)県史もこれに追随しているが、いずれの史料に典拠したのか、どの村がそれにあたるのかは明示されていない。一方、『刈羽郡旧蹟志』(山田八十八郎著・明治42年刊)には「其封内に入るもの三十箇村、村名左の如し」」として柏崎町以下記載されているが、「加納村」の記載はない。
②「長峰藩、元和二年(1616)~元和四年(1618)」
 「元和二年七月、牧野駿河守忠成が越後の国頸城郡長峰(吉川町大字長峰)五万石城主に命ぜられた。」とあり、「『天和検地帳』の庄・郷・保にもとづいて整理すると」、鵜川庄、上条郷、別俣郷、鏡郷、鯖石郷(田嶋山室村・大沢村・高柳村)、曽地郷、武町保、野崎保、小国保の13地域が記載されているが、「加納村」の記載はない。しかし、「これに対して、『刈羽郡旧蹟志』(山田八十八郎著)では、牧野氏領ニ八か村として」以下に、『牧野氏知行目録』に記載がない村として、上条郷に「新道村、貝淵村、堀村」、別俣郷に「細越村」、鯖石郷に「加納村、與板村、宮平村、森近村、南条村」、北条郷に「北条村、小島村、山澗村、長島村」を揚げ(小山田村の記載があるが、未だ一村として独立していないとして著者により、小島村と山澗村は鯖石郷へ、小島村は北条郷へ分類)、「これらの村は藤井藩稲垣氏領に属したと推定される(藤井藩の項参照)。」とある。
③「藤井藩、元和二年(1616)~元和六年(1620)」
 「元和二年、稲垣平右衛門重綱は上野国伊勢崎から越後国刈羽郡藤井二万石に転封になった」とあり、「藤井は鯖石川中流域の平野部で、初めて城郭と城下町建設が試みられたが、その完成をみないうちに、同六年五月、重綱の蒲原郡三条城の移封で廃城となった」とああり、また「『刈羽郡旧蹟志』では、稲垣氏領を藤井村・畔屋村・与三村・矢田村・吉井村の五か村しかあげていない」とある。
以下、便宜上、残りの部分も掲載する。
④「長岡藩、元和二年(1616)~元和四年(1618)」
 「元和二年、信濃国飯山城主堀直奇(なおより)が三万石加増して長岡城主八万石に任ぜられた」とあるが、知行地等の記載はない。
⑤「椎谷藩、元和二年(1616)明治四年(1871)」
 「元和二年七月、堀秀治の藩老監物直政の五男、堀直之が越後国刈羽郡椎谷谷に五千五〇〇石を賜ったに始まる。
⑥「安西領、元和二年(1616)~明治四年(1871)」
 「安西右馬允は松平忠輝の改易後、幕府の旗本として五〇〇石で取り立てられた」とあり、「所領は元和二年一二月、刈羽郡上高町村三六〇石八斗・同下高町村之内一三九石二斗分の長岡藩堀氏領を割いて渡されている。(中略)寛永二年(1625)知行目録では三五〇石の開発地を加え、八五〇石が安西領である。元禄郷帳では大沼村を加えた三村が安西領である。」とある。
 次に、同じく『柏崎市史』から高田藩成立以降の支配の変遷を挙げる。
第三項「高田藩の成立」
①「松平忠昌、元和四年(1618)~寛永元年(1624)」
 「元和四年松平忠昌が、越後国高田藩へ二五万石で入封した。忠昌は家康の子、秀康の次男で、慶長一一年上総の国姉崎領主一万石を与えられ、大阪の陣で戦功をたて、元和元年伊予守に任ぜられ常陸国下妻領主四万石、同二年信濃国川中島一二万石を経て、このたび加増され入封した。」、(中略)、「寛永元年三月一五日、忠昌は越後国[越前国の誤り]北庄城(後に福井と改める)に移されて五〇万石を与えられる。これが越前藩である。」とあるが、知行地に関する記載はない。
②「松平光長、寛永元年(1624)~延宝九年(1681)」
 「寛永元年(1624)三月15日、松平忠昌に代って、越前宰相忠直の嫡子仙千代丸が高田城を与えられた。」、(中略)、「寛永六年一二月七日元服して、従四位下左近衛少将に任じられ、越後守光長と名乗り、慶安四年一二月二五日、従三位右近衛中将に進んだ。延宝九年六月二六日、越後騒動の罪により改易される。」とあるが、ここでは知行地についての記載がない。
 続いて、第二節高田藩の領政機構」
第一項「謎の橋場町陣屋」、第二項「橋場陣屋の前提」と続き、第三項「橋場陣屋の機構」
(1)郡奉行の郷村支配
 「郡奉行の人数は、寛文一二年から延宝三年ころの分限帳には越後領内だけで九人であったが(『松平家越後時代侍帳』)、『越州之士分限帳』をみると、郡奉行は四人あり、苅羽郡奉行を拾うと、松井治兵衛は[苅羽・魚沼並銀山]、石川源兵衛は[同断但、刈羽・三嶋計]とある。共に二〇〇石である。」とあり、何人かの郡奉行を挙げている。
①郡奉行青山瀬兵衛について、後に関連する「藤井堰」の築造、「北条村以南の鯖石川下流域、高一万一千二八七石一斗八升一合の地に恩恵を与えた。工事は正保元年(1644)から承応三年(1654)の一〇年におよぶ難工事であった。」とある。
【補注】「北条村以南の鯖石川下流域」とあるのだが、地理的関係から言えば、現在の鯖石川流域から言えば「以北」ではないだろうか。ただ、鯖石川は時代によって流域を変える暴れ川だったと聞いた事があり、流域に大きな変化があったのかも知れない。
②郡奉行鱸彦左衛門、「万治元年(1658)より延宝七年(1679)まで(後略)」とあるが、中鯖石に関する記載はない。
③郡奉行細井甚五左衛門、「代官として慶安四年(卯、1651)から明暦四年(戌、1658、万治元年と改元)まで(後略)とあるが、中鯖石に関連する記載はない。
④郡奉行大門与兵衛、特記なく省略。
⑤郡奉行石川源兵衛、「延宝二年(1674)から延宝九年の松平光長の改易までその名を残す。」とあるが、省略。
⑥郷手代、と続き、第4表「代官・下代」を挙げているが、中鯖石に関連する記載が無いので省略する。
(2)刈羽郡代官と下代
冒頭に『大橋文書』が挙げられ、この中に「鯖石組」が出て来る。以下、その部分を紹介すると、「(前略)、細矢与四右衛門殿・小泉義兵衛殿
鯖石組と名付籠屋の西方ニ一軒御座候、(後略)」とあり、続いて著者が「この史料で受ける第一印象は、また、代官配下の下代が、嶋組・中組・鯖石組・小国相之原に四分されて支配されている。」と解説している。また、「『越州之士分限帳』によると、代官は柏崎組鳴海九右衛門、宮川組風間角兵衛に二分される。大橋文書よって、この柏崎組(三万一千八〇〇石)が、さらに嶋組・中組・鯖石組・小国組に細分されたことが判明したが、宮川組(二万六千二〇〇石)も同様に細分されていたであろう。」と述べている。
 以上の事から、高田藩分限帳を確認できないので確証はないが、中鯖石の加納村他は、松平光長時代、代官・鳴海九右衛門の下、細矢・小泉の両人の支配下にあったと云えるのではないか。尚、『上越市史叢書5「高田の家臣団」(2000年刊)』の第一章に、松平光長関連の三史料の記載がる。ただ、現在は完売の状況で、「日本の古本屋」など調べて見たが、この巻(5)は無かった。(柏崎市立図書館に一冊ある様である。)

第三項 久野木郷

久野木郷ハ王朝時代ノ呼称ニシテ善根村久野木ヨリ出デタルナラン。善根・加納・與板・宮平及現今ノ南鯖石村ヲ含ム。元明天皇、寧楽建都ノ時、勅シテ風土記ヲ編纂シタルヲ始トシテ後年折々其企アリ、徳川時代ニ入リ各地ニ明細書ノ記載要項ヲ示シ書上セシム。若シ村中ニ注意深キノ士アリテ其ヲ書写シ現今ニ伝フルアラバ、昔日ノ状態ヲ語ル唯一ノ材料タリ。然レドモ当郷ニ存スルモノ少ク、偶々見受クルモ、皆二百年代ノモノニシテ、鎌倉時代ハ愚カ戦国時代、徳川時代ノ初年時代ニ於ケル当村ヲモ知ルノ途ナシ。加納村ニ天和元年ノ村鏡貞享元年書上写及文化元年ノ明細帳写、與板ニハ寛政及文化ノ明細帳写及善根明和八年ノ明細帳写存セリ。是レ等併ニ白川風土記ヲ参考トシテ各村沿革ヲ述ブ。

《久野木郷は、王朝時代(奈良・平安時代)の呼名で、善根村久野木由来だと考えられ、善根・加納・与板・宮平と今の南鯖石村を含む地域である。
 元明天皇(661[斉明天皇7] - 7211229[養老5127]、第43代天皇[在位:707818日(慶雲4717日) - 715103日(和銅892日)])が寧楽(なら、奈良)に建都(都の建設)した時、勅令を下し『風土記』を編纂した。その後、何度か地誌編纂の機会があり、徳川時代になると、各地に地誌の詳細を記載した書上(下から上に出す報告書)を提出させた。こうした場合も、将来を考える志を持った人も居るもので、書上等を書き写し後世に伝えた。こうした書写・写本が現在では、郷土の歴史を知る為の唯一の史料になっている。
 しかしながら、この地域に伝わり残っている史料は少く、偶然に発見されたものも、大抵は大体200年位前のものまでで、鎌倉時代どころか戦国時代、徳川時代の初期のものさえ現存せず、南鯖石村の歴史を知る方法が無い。ただ加納村に、天和元年(1681、霊元天皇、将軍綱吉)の村鏡(村の歴史書)、貞享元年(1684)の書上の写本と文化元年(1804、光格天皇、将軍家斉)の明細帳の写があり、与板には、寛政(1789-1801)と文化(1804-1818)の明細帳写、また善根には、明和8年(1771、後桃園天皇、将軍家治)の明細帳写が残っている。これらの古文書と『白川風土記』(同書、刈羽郡の部)を参照しながら、各村の沿革を述べて行きたい。》

 

第一 加納村

 

加納ハ王朝時代ニ於ケル新開地ノ特称ナルコト古史ニ見ユ。其例少シトセズ。或ハ加納ハ久野木村ノ新田地タルカ古記録ノ證スベキナケレバ断定シ、今長谷川儀一氏ノ写サレタル貞享元書上ヲ抜摘ス。
《嘉納は王朝時代(奈良・平安時代)に新に開墾された土地に対する特別な呼び方で、古い歴史書にその事が書かれており、その事例は少なくない。もしかすると、嘉納は久野木村で開墾した新田かも知れないが、古い記録に記載がなく、検証する事が出来ないので、独断ではあるが、今(当時)の長谷川儀一が写された貞享元年(1684)の書上から抜粋して紹介する。》

 

貞享元年ハ紀元二千三百四十四年、徳川綱吉将軍時代ナリ。大正元年ヲ去ル二百二十八年ナリ。
《貞享元年は紀元(皇紀)2344年(1684)で、徳川綱吉の将軍時代に当り、大正元年から数えて228年の昔である。》

 

 越後国刈羽郡加納村高辻小物成諸色明細

【註1】小物成: 江戸時代の日本で高外地に賦課された租税の総称である。いわゆる雑税であり、地域により多様な内容を持つ。(ウィキペディア參照)
【註2】諸色: 江戸時代において物価を指した言葉。一般的には米を除いた日常品の価格を指す場合が多い。(ウィキペディア參照)
【補注】加納村高辻とある「高辻」は加納村の字と考えられるが、調べても「高辻」という地名が見付からない。また、文脈から(「併」は「あわせ」だが、他の文脈から「幷」とも読める)、「高辻」に物の意味があるとも考えられ、こちらも調べて見たが、歴史的に名字・地名以外の「高辻」は発見できなかった。
 また後に揚げる『天保国絵図越後国高田長岡』(天保9年[1838])に記載された加納村に属する村は、五か村あり、①加納村内・町加納村②同内・ためと村③同内・小黒村④同内・日新(日影?)村⑤同内・青木(春木?)村とあるが、字を調べても、該当する地名がないか、先の様に判読できない(推測される名前を捜すが該当する地名がない)。

一、人数五百四十一人
 内二百八十二人男 内六十一人十歳以下 内一人下男
  二百五十五人女 内五十五人十歳以下

一、六社一堂 是レヲ略ス

一、御年貢蔵 四棟柏崎ニ有 但シ下シ御蔵
是ハ前ニヨリ鯖石組ノ内加納、山潤(やまだに)、長濱、両田尻、下田尻、上田尻、善根、與板、宮平、石曽根、森近、山室、大澤、岡田、岡之町、高尾、漆島、萩之島、門出、朽原、山中、此ニ十一ケ村入用ヲ以テ四十五年以前卯年建申候。
《・・・建申候、申し建てそうろう》

一、川除五ケ所 惣長二百間余
《川除が五ヶ所で、総延長200間あまり(約364m)》
【註】川除: かわよけ、堤防や川浚(かわざらい)による氾濫対策
 内鯖石川筋
   山王川原 こしまい

一、延寶七年ヨリ天和三年迄、人足二千七百五十五人、但シ一ケ年平均人足五百五十一人ニ当ル。人足ハ所ニ堰川除等御普請所ヘ遣申候。
《延宝七年(1679)未(己未、つちのとひつじ)より天和三年(1683)亥(癸亥、みずのとい)まで、・・・・・・・人足(労役、労働者)は所(加納)に堰(せき)川除など、普請所へ申し遣わしそうろう。》
鯖石川ハ現今ハ凡ソ鯖石平野ノ中央ヲ流レ善根加納ノ耕地ヲ等分スト雖モ昔ハ余程西部ニ偏シ巒山ノ麓ヲ洗エタルモノナラン。其ハ加納旧家ハ皆連山ノ麓ニアリテ旧道ト称スルモノ漆山ヨリ加納ノ各字ヲ縫フテ向安田ニ出ツルヨリ推シテ知ルベシ。殊ニ鯖石川ノ汎濫ニ村民ノ苦シミハ前記ニヨリ知ラル。又為メニ多額ノ失費ヲ要シタリト見エ仝書上ニ延寶七年未ヨリ天和三亥迄五ヶ年村中入用銀一貫百拾八匁七分五厘、但シ一ケ年平均二百二十三匁七分五厘ニ当ルト。
《鯖石川は、現在(当時)、およそ鯖石平野の中央を流れ、善根・加納の耕地を二分するのだが、昔は、大分西の方へ偏り、巒山(ランザン、連山、やまなみ)の麓(ふもと)を流れていた様である。何故なら、嘉納の旧家が皆連山の麓にあり、「旧道」いわれている道が漆山から嘉納の各字(あざ)を縫うようにして、安田に出ていることからも推測される。とりわけ、鯖石川の氾濫に村民が苦しんだ事は、先の様に良く知られている。またこの為、多額の出費が必要になったと、前掲の書上に延宝7年(1679)未の年から天和三年(1683)の亥の年までの5年間に要した村の出費は、銀一貫八匁七分五厘(銀一貫=1,000匁=10,000分=100,000厘=1,000,000毛、一般的な計算をするとおよそ130万円)、ただし、1年平均で、銀二百二十三匁七分五厘(およそ26万円)に当る。》
【補注】銀貨の換算に付いては、時代と共に変遷がある。そこで、当時(延宝~天和間)の三貨(金銀銭)相場を『地方史研究必携』(岩波書店・昭和60年版)掲載の表4.12「三貨(金・銀・銭)相場一覧」(P221)、天和元年~元禄3年を見ると、「一両=銀60匁(大阪・京都)」とあり、前後するが、同書の表4.9「米価変動表」(P213)によると、延宝7年が一石=銀54匁2分5厘、天和3年が米百俵=銀1貫680匁である(但し、前年は米百俵=銀2貫580匁、翌年・貞享元年は米一石=銀40匁)。これからも分る様に、単純に現在の金額に換算する事が出来ない。

一、馬三十二匹

一、延寶七ヨリ天和三迄五ヶ年、御役駄賃馬八十五疋、馬ノ儀ハ当国併近国御大名様方高田或ハ大阪御在番御上下之筋宿場斗ニ不足ニ付在々ヘ介馬仰付ノ如此。
《延宝7年(1679)未(己未、つちのとひつじ)より天和三年(1683)亥(癸亥、みずのとい)までの五年間、御役駄賃馬(役目に駄賃が支払われる馬)85疋、馬の事は、当国(越後)並に近隣の国の大名など、高田あるいは大阪在番の街道上下に当る宿場で不足しているので、その在所ごとに、馬の世話を先の様に申し付ける。》
【補注】御役駄賃馬: 幕府や藩などの公用に使う馬で、荷物の重量等で駄賃を払う馬。
桑原孝氏(当時、長岡市史編纂委員)の論文『脇街道に於ける人馬賃銭~越後の街道の場合』(交通史研究第9巻、1983P1-21[小野家文書・山岸家文書・宮家文書より作成)第1表「前期北国・三国街道人馬賃銭増減貞享(本馬1駄)」、延宝9年に高田領(天和元年より天領)石地宿の項に増減(寛文2年御定を基準に対前回改訂年比)2割贈(延宝3年)、椎谷2里=86文、出雲崎1里=43文の記載がある。

一、庄屋給米 六石六斗壱升参合
村中合力、但高百石ニ付米一石ツヽ出シ申シ
役高参拾七石四斗、前ニヨリ郡縣ク物傳馬人足百姓内証ニテ引来申候。
《庄屋の役給は、米6石6斗1升3合(延宝8年大阪相場で、米1石=銀67匁=1.34両)、銀貨に換算すると約443匁となる。
 これらの費用は、村の各戸割り当ての合計で、石高100石に対し米1石の割合で供出した。

 役高37石4斗は、銀約2512.5匁(2512500分)に当り、前例から郡に掛る物、伝馬、人足分については、百姓が内々で算出した。》

一、組頭二人分給米 壱石参斗貮升貮合
一人ニツキ六斗六升壱合、但シ高百石ニツキ米貮斗ツヽ遣申候。
《組頭二人分の役給は、1石3斗2升2合は、約銀89匁弱。
 一人当り6斗6升1合、即ち約銀44匁となる。》
【補注】時代は下るが、国立公文書館デジタルアーカイブに『天保国絵図越後国高田長岡』(天保9年[1838])がある。これによると、加納村の石高は、827石(判読が難しい所があり、読める範囲で)とある。因みに、善根村は、およそ1200石(読める範囲で)。
 尚、この絵図作成の前年、即ち天保8年は、天保の飢饉後の救済を求め生田萬が、桑名藩陣屋に打ち入りした年でり、大阪の「大塩平八郎の乱」の起った年である。

毛利氏第九世代

 

●光房 備中守 右馬頭 入道号淨濟
『尊卑分脈』には、入道号「淨濟」を次代・熈元としている。

    元中三年(1386、北朝、至徳三年)正月二十六年、父が跡・本知自分安堵たるべきむね、今川了俊より証文をうく。これ父戦死のとき光房胎内にありて、譲状なきにより。応永十年、大内新介弘茂が加勢となり、周防国におもむき大内六郎盛見を攻。二十一年五月二十五日、右馬頭に任ず。のち大内介持世、九州にをいて、弓矢難儀にをよぶ。光房これをたすけ、永享八年(1436)、ふたたび九州にいたり、二嶽のたたかひのとき、その地にをいて卒す。年五十一。

 

毛利氏第十世代

 

●熈元 初熈房 少輔太郎 治部少輔 備中守
『尊卑分脈』には、「普光院殿時也、備中守治部少輔、永享年内也、於九州死去 法名淨濟」とある。

    永享二年(1430)二月十日、家を継、八年、熈元病にかかるにより、弟・少輔次郎某を陣代として九州に在陣せしむ。後、勝定院義持の弟・大覚寺大僧正義昭、謀反のきこえあるにより、熈元、洛に上るとき大和国の役あり。ただちに基地におもむき在陣すること三年、所々にをいて忠戦をはげます。嘉吉元年、細川治部少輔持常に属し播磨国を攻。また大内持世にしたがひ少弐嘉頼を討、あるひは細川勝元が手にありて伊予の河野たたかふ。寛正五年(1464)二月五日、卒す。大樹光茂大通院と号す。
寛永系図に、永享年中、九州にをいて死す。法名淨濟といふ。今の呈譜に拠るに、おそらくは光房が伝を混ずるならん。

○某  少輔次郎

○女子 山内上野介熈通が妻。

 

毛利氏第十一世代

 

●豊元 或は熈房 松壽丸 少輔太郎 治部少輔
『尊卑分脈』には、「少輔太郎、治部少輔、熈房と号す。小字松壽丸、普光院殿時也」とある。

    宝徳三年(1451)八月二十八日、家を継。寛正三年(1462)、山名弾正忠是豊が手に属して河内国にむかひ、畠山義就をせむ。応仁元年(1467)、山名宗全(持豊)、細川勝元と矛盾し、京洛、合戦の街となる。ときに豊元は勝元に与力し、所々にをいて忠戦を励す。このとき伊勢兵庫助某おほやけをかすめて、豊元が本領・安芸国中、内部庄豊島郷を押領(オウリョウ)す。文明元年(1469)九月以降、豊元しきりにこれを愁訴すといえども恩裁なし。よりて三年帰国し、閏八月、遂に但馬の山名右衛門督持豊、周防の大内左京大夫政弘に与し西方となる。十九日、慈照院義政より、すみやかに出陣すべき旨書あたへらる。其後、豊元、備後国山内、甲山江田旗返にをいて東方の軍を切崩す。八年五月二十八日、卒す。年三十三。月江常澄廣修寺と号す。

○元家 與二郎

○女子 山内上野介時通が妻。

 

毛利氏第十二世代

 

●弘元 千代壽丸 少輔太郎 備中守 治部少輔

    文明七年(1475)十一月二十四日、父が家督を継、十年二月十二日、大内左京大夫政弘、首服(元服)をくはへ一字をあたふ。これより弘元と名のり、父に次で政弘に属し、軍忠を励す。明応六年(1497)、備後国に在陣して山名俊豊に与力し、永正三年(1506)、卒す。室は福原式部大輔廣俊が女。

 

毛利氏第十三世代

 

●興元 幸千代丸 少輔次郎 母は廣俊が女。

    明応九年(1500)三月二十九日、家を継、永正四年(1507)十一月六日、元服し、大内左京大夫義興が諱字を受て興元と称す。十二年、武田刑部少輔元繁、安芸国山県の有田城を攻、城主己斐某、防戦難儀にをよぶ。興元、後詰となりて武田が猛勢を切崩し、ただちに有田を領す。同国壬生の城主源蔵人大夫元泰もこれを聞て降る。十三年八月二十五日、卒す。年二十四。秀岳常松と号す。室は高橋某が女。

○女子 母は上におなじ。武田某が妻。

○元就 陸奥守 母は上におなじ。姪(甥)幸松丸が遺領を相続す。

○女子 母は某氏、澁川某が妻。

○女子 母は上におなじ、井上右衛門大夫元光が妻。

○元網 四郎 相合を称す、母は上におなじ。逆意を企るにより討果さる。

○女子 母は上に同じ、吉川治部少輔元經が妻。

○女子 母は上に同じ、井原常陸介元師が妻。

○就勝 式部少輔 北を称す、母は有田氏。

 

毛利氏第十四世代

 

○女子 母は高橋某が女。山内次郎四郎豊通が妻となり、豊通死するのち、小早川中務少輔興景に嫁す。興景もまた死して杉原某がもとにゆき、また杉原播磨守盛重に嫁す。

●某  幸松丸 母は上に同じ。

    大永三年(1523)、尼子伊予守經久、大軍を率ゐて安芸国北池田に出張し、亀井能登守秀綱をもって幸松丸をまねき、則、西條鏡山の先鋒を命ず。幸松丸、幼少たるにより叔父元就後見となりて、これにしたがひ、終に鏡山城を攻おとす。七月十五日、卒す。年九。明嚴紹光と号す。

 

毛利氏第十五世代

 

●元就 


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