柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 先の回で石黒忠悳について、幕末の新興下級武士の方が、むしろ門閥の武士よりも武士らしいと書いた。 しかし、これは一面的見方だったようだ。 しばらく前に、『武士の家計簿』という本が話題になったことがある。 加賀前田藩の御算用者・猪山家の幕末期二代に亘る家計簿や書簡を基にして、茨城大学の磯田助教授(当時)が幕末明治の武士の生活史である。

 御算用者というのは、前田家の主計官(経理課員)というところだろう。 多少ニュアンスは異なるが、幕府代官の手代であった平野家(石黒)と似たところがある。 石黒忠悳の『懐旧九十年』には、それらしき記述はないのだが、和算の学習も何処かでしていたのではないだろうか。 あるいは、父親が指導したのかも知れない。 それを裏付けるのではないかと思われるのが、17歳で開塾した時の授業内容ではないだろうか。 経書や習字はさて置くとして、算術を教えている。 余談だが、習字については苦労している。 当時の公用書体は「御家流」で、石黒忠悳が習った書道とは異なっていた。 その為、「御家流」を改めて習っているのだ。

 先回書いた屋根釘のエピソードも、考えなければならない。 平野順作(忠悳の父)は、一代で手代になり、亡くなる時には、500両の蓄財があった。 文中にも、貸金の利息が数十両あったと書いている。 前田家では、庶民への金貸しは禁止されていたとあるから、平野家の貸金も同輩へ貸したものか。 いずれにしても、経理の才能がなければ、500両という大金を蓄財することは出来ない。 因みに、磯田氏によると、1両は現在の約5万5千円だが、生活感覚で言えば30万円になるそうだ。 500両は、前者で2千7百50万円、後者であれば、何と1億5千万円ということになる。 もっとも、江戸と金沢では、感覚に相違があるのかもしれない。 それに、関西圏に属する金沢は銀本位制だが、江戸は金本位制で、通常使う銭との換金率がかなり違っていることも考慮しなければならないだろう。 それにしても、大金である。 石黒忠悳が、父の死後、母と共に親戚を転々とし、母の死後も、悠々自適の生活を送れたことにも納得がいく。

 それでは、屋根釘のエピソードは何を物語るのか。 成り上がり者故に、それだけ儀礼・格式を意識したのか。 母親の実家も、一代者とは異なるが、小録の御家人であることに変わりはない。 概して、自伝というものは虚飾が伴う。 その辺りの事を考慮しても、疑問が残る。 先回、家を購入・移築したことを書いた。 その広大さに驚いて、『武士の家計簿』を思い出し(NHKで放送した)、改めて読んでみると、先に書いたような次第である。 全く、当時の社会における金銭感覚が狂ってしまった。

 単純には行かないと思ってはいたのだが、これは少々ショックである。 視点を変えて見直してみたい。

『柏崎通信』431号(2007年1月22日)より転載


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