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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 さて、前回は、「入澤達吉」から発展したのだが、これが改めて調べてみると、実に面白い人の繋がりがある。 先ず、前回紹介した「杉本東造」が新潟出身。 そこで、この線を更に追ってみた。

 杉本東造の詳しい出身地は不明だが、多少の記録がある。 先ず、東大医学部を明治35年に卒業している。 また修善寺療養時代、しばしば診察を受けている。 漱石の書簡を調べてみると、本人への書簡(はがき)は無いのだが、文章中に2回ほど登場する。 一回目は明治44年3月27日(月)、二回目は大正3年1月14日(木)の長与胃腸病院の医師・森成麟造への書簡にある。 最初の書簡では、どうも文面から察するに杉本医師が長与胃腸病院を退職して、新しい職場へ移ったと取れる。 もしかすると、入澤達吉の関係で満鉄病院へ転職したのかもしれない。 二回目の書簡に、「杉本さんは帰ってきましたね私は音楽会で一遍電車の中で一遍会いました然し患者としては交渉がありません。まあ仕合せなんでしょう(せう)」とあるところから推測するのだが。 余談だが、漱石は相撲が好きだったように見受けられる。 先の続きに「柏戸は本場所を休んでい(ゐ)ますね」とある。

 さて、ここで新しい人の繋がりが伺える。 杉本博士は、漱石の主治医であったようだが、書簡の宛先・森成麟造が、その後を引継いだか、あるいは、入院時の実際の担当医であったように推測できる。 また、森成医師への書簡が多い(本人宛:14通、登場:4通)。 森成医師は、明治40年仙台医専卒業後、長与胃腸病院に勤務している。 ところが、この森成医師も新潟の出身なのだ。 しかも高田であり、後に同地で開業している。

 そこで調べてみると、更に興味ある事実が判った。 森成麟造は、上越地方における考古学の先駆者だった。 その事が、上越市の『市史のひろば』156号に記載されている。 それによると、没後、遺族から「考古資料コレクション」が寄贈さてている。 詳細は省くが、森成医師は、文学青年であったようで、夏目漱石に感化され、自分でも『草履日記』なる小説を書いている。 これもまた不思議な縁というべきか。 書簡の多さが、それを物語っているようだ。 因みに、先に上げた大正3年の書簡は、森成医師が贈った海老と笹飴への礼状である。 尚、笹飴は、上越の名産、現在でもお土産として販売されている。

 以前、漱石と新潟の関係を調べたことがある。 その時は、視点が違っていた。 むしろ、作品の中の登場人物、例えば『こころ』の先生などを追いかけたのだが、今回は、全く別の視点、新潟における幕末・明治の医学史あるいは医師の相互関係の視点から調べた。 それが、図らずも繋がったのである。 勿論、漱石研究者らの諸賢は、既にご存知のこととは思うのだが、素人目から見れば、人の繋がりの不可思議を感じざるを得ないのである。 歴史を単なる時間軸上の事実と捉えれば、まさに無味乾燥、何ら感動を覚えない。 しかし、人の繋がりを追及すれば、歴史が、まさに色付いてくる。 イメージが鮮明になり、登場人物が生き生きと動き出す。 何とも感動的だ。

 思うに学校教育における歴史も、さあるべきではなかろうか。 閑人の戯言と言われれば、ただそれまでのことなのだが。

『柏崎通信』(2006年12月22日)425号より転載

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