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柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 ここ半年ばかり、柏崎を例に取り近世・近代における人の繋がりを追いかけてきた。 歴史を単に時系列に従った事実の羅列ではなく、人の繋がりという視点から見ることにより、現在に還元できる何かを見つけようとしたからである。 ところが、この人の繋がりを追えば追うほどに、予想とは全く異なる歴史像が浮かんでくる。 しかも、その絡み合う糸は、思わぬ方向へ思考を導いていく。

 今までは単に表面的な事跡を追っかけていたのだが、石黒忠悳(ただのり)という人物は実に興味深い。 弘化2年(1845)、今の福島県伊達郡梁川(伊達政宗出生の地)に生まれ、昭和16年97歳で没している。 幼名は庸太郎(つねたろう)、号を況翁という。 石黒氏の祖先は、御館の乱(謙信死後のお家騒動)で浪人し、現在の小千谷市片貝で帰農、その後、近隣の池津に住んだと云う。 その何代か後、次男に生れた父親(石黒子之助、後、平野順作・良忠)が、江戸に出て苦学し、幕府代官の手代・平野氏の養子になって、手代職を継いだ。 手代は一台限りだから、その一人子である庸太郎も苦学する。 父親が巻菱湖に書を習ったそうだから、その縁もあったのか菱湖の門人である中澤雪城に書を習っている。 因みに、「幕末の三筆」といわれた巻菱湖は現在の新潟市巻町の出身、中澤雪城は長岡藩士、一時期脱藩して江戸に出て、市河米庵(幕末の三筆の一人)に入門するが、後、巻菱湖の門人となる。 中澤雪城は、大変な奇人であった様で、その事が石黒忠悳の自伝『懐旧九十年』に詳しく書かれている。

 況翁・石黒忠悳は、11歳の時、父親と死別、14歳で母親が没し、16歳で、父親の実家・石黒家を継いで平野姓から石黒姓を名乗る。 この間の事情も興味深い。 例えば、13歳の時、母の実弟・秋山省三の任地・信州中之条に転居していたが、母の死後(15歳の時)、思い立って江戸に出る途中、追分の宿で勤皇の志士・大島誠夫(のぶお)と会う。 意気投合して、同道して京に上る。 早熟の秀才といっても、若干15歳、それが一夜・夕食を共にし意気投合したからといって、京に上ろうと思うだろうか。 しかも、この大島氏が謎の人物。 京では、幕吏や刺客に追われるとして、戦々恐々、一日の在京で、逃れるように京を去る。 庸太郎(恒太郎)は、大島氏と別れ、中之条に帰るのだが、このことが勤皇攘夷思想へ傾倒する原因になるのだろう。 (ただその以前から、その傾向はあったようだ。)

 前置きが長くなったが、石黒忠悳を考える場合、その幼年期・少年期は人格形成上重要である。 要するに、新興下級武士家庭の教育の典型が見えるのである。 当時の新興下級武士の家庭は、譜代の武士の家庭よりも、むしろ武士の家庭なのだ。 『葉隠』に見る古武士の精神を継承しているのではないだろうか。 こんなエピソードが書かれている。 安政3年(1856)8月、江戸は所謂「安政の大風(暴風雨)」に見舞われた。 前
年(父親死去)の安政の大地震に継ぐ大災害だ。 この年、家計の事もあり早目の元服をして、代官所手代見習いに出仕している。 12歳である。 その少年が「暴風雨」の後、紀伊国屋文左衛門の故事を想い、出勤の途中、偶然路上で売っていた屋根釘を購入する。 大風で江戸の民家の屋根が飛び、(母と寄宿する親戚の家も然りなのだが)、屋根釘が不足して急騰すると考えたようだ。 思惑は当たり、親戚や修理に来た屋根職人が、その機転に驚き神童だと賞賛する。 ところが、母親は、「武士のすることではない」と叱責し、勘当するとまで言うのである。 親戚も詫びを入れてくれるのだが、3日間も同室を許さなかった。 身分制度が、むしろ新興下級武士の中で強く意識されていた事例だろう。

 そうした家庭に育った恒太郎(庸太郎から一時改名)が、片貝の石黒家を継ぐと、親類縁者や近在の自作農は、16歳の庸太郎を「江戸の紳士が帰ってきた」と持て囃した。 既に、地域の名士である。 村塾の助教などをするのだが、人の出入りが多く、17歳の時、新居を構える。 これがまた凄い。 参考までに紹介すると、玄関4畳、8畳の座敷は2間、6畳が1間、応接の為の茶の間が10畳、他に9畳の寝室、二階があり6畳が2
間、それに台所や土間がある都合約50畳のお屋敷である。 長岡の神主の家を買い取り、それを片貝(池津)に移築しているのだ。 普請の費用が68両で、引越しなどの費用を合わせると98両掛かったそうである。 石黒家自体の財力もあるのであろうが、父親の蓄財が相当にあったようだ。 因みに、父親が残した蓄財の内、500両は、いざと云う時の「軍資金」として手をつけてはならないと遺言していた。 長くなるので省略するが、父親の出世意欲は大変なもので、韮山奉行・江川太郎左衛門や当時の勘定奉行・川路聖謨へ縁を頼って猟官運動をしていたようだから、その「軍資金」の意味もあったのかもしれない。

 更に驚くのは、17歳(1861)の時、私塾を開いていることだ。 門人の中に、東洋大学の創設者・井上円了(1858-19191)がいる。 13歳年下だから井上円了は5歳前後で入門したことになろうか。 授業科目は、一般が、習字・読書・算数を教え、医師・僧侶・農家(自作農のことか)には、習字(書道)・経書(四書五経など)・歴史・算数を教えている。 更に、剣道の型も教えているのだが、これは時勢を考えてのことかもしれない。 参考のまでに、後者(上級者)の教科書を揚げると、『四書五経』の他、『小学』、『朱氏家訓』、『国史略』、『日本外史』、『日本政記』、『十八史略』、『元明史略』、『古文真宝』、『坤輿図誌(識か?)』、『明倫和歌集』とある。 特に、頼山陽の『日本外史』・『日本政記』や水戸列公・徳川斉昭撰による『明倫和歌集』などから、尊王思想が見えて来る。 しかし、先にも書いたが攘夷思想も持っていた事と考えると、世界地理解説書『坤輿図誌』は、佐久間象山を訪ねた後の教科書ではないだろうか。

 尚、推測だが、「算術や国史(日本史)は、近隣の一般の塾では教えていなかったようだ」と書かれているが、私の調べたところと多少の違いがあり、況翁の記憶違いかもしれない。 また、ここに揚げた『国史略』が巖垣松苗著の『日本国略史』であれば、出版が明治10年10月であるから、これも記憶違いではないだろうか。 更に言えば、『坤輿図誌』は、箕作省吾(箕作阮甫 の養嗣子)の日本初の世界地図『新製輿地全図』の解説
書『坤輿図識』のことであろう。 この『坤輿図識』については、広川晴軒の資料の中に、石黒忠悳が借りに来たという記述があるので、それを写本したものではないだろうか。 因みに、以前書いたが、広川晴軒は箕作阮甫 の門人である(万延元年、1860年入門)。

 いずれにしても、20歳前後で、越後における勤皇攘夷の志士・郷党の中心的人物になっているのである。 長くなりすぎたので、今回はこの辺りで終わりにするが、最後に、石黒忠悳の背景を考える時、その親戚・縁類を考える必要があるだろう。 その一人が、佐藤左平治の存在ではないだろうか。 佐藤左平治は、文政、更に天保の飢饉の折、私財をなげうって救民救済に尽力した片貝の豪農・豪商で、現在、その屋敷跡が片貝ふれ
あい公園として整備されているそうである。 この佐藤左平治の話を何処かで読んだのだが、詳細を思い出せない。 ただ、況翁・石黒忠悳が若くして有名になるのは、左平治の遺徳があったのではないだろうか。

 『柏崎通信』428号(2007年1月18日)から転載

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