柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 昔、大叔父の家で、三舟の書、三幅を拝見したことがある。 三舟とは、勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟のことである。 勝海舟は周知の通りだが、高橋・山岡の二舟については少々説明が必要だろう。 高橋泥舟(精一)は、幕末の槍の達人、山岡鉄舟(鉄太郎)は、泥舟の義弟で、北辰一刀流の件の達人である。 また、鉄舟は書家としても有名で、父親・小野朝右衛門高福(たかとみ)が飛騨高山に郡代として赴任していた頃、弘法大師
の書流・入木道(じゅぼくどう)五十一世・岩佐一亭の師事し、15歳で道統を託され、五十二世を継承しているのだから、その天与の才能の程が知れるだろう。 大叔父宅で三舟・三幅の書を見た時、鉄舟の書が、ひと際抜きん出ていたのも当然かもしれない。 以下少々羅列的になるが、話を進める為、三舟について若干触れる。

 三舟には幾つかの共通点がある。


○共に幕府の御家人であった。 ただ、、600石の旗本の三男だった山岡鉄舟が、貧乏御家人の婿養子になったことは、当時の身分社会としては異例であったようだ。
○三者には武術という共通点がある。 海舟の父親・小吉は、旗本・男谷家の出身で、幕末の剣聖といわれた男谷精一郎とは従兄弟の関係。 海舟は、男谷精一郎の高弟・島田虎之助に剣を学んでいる。 また、幕府が講武所を開設した時、男谷精一郎が頭取であり、教授に名を連ねていた義兄・高橋精一(泥舟)や師である井上八郎の奨めで、山岡鉄太郎(鉄舟)も助教になっている。 余談だが、男谷家は、小十人組の御家人(後に1000石の大旗本なる)、その御家人株を買った(養子に入った)のが男谷(米山)検校、男谷検校は、現在の柏崎市長鳥の出身である。

 ただ、今回のテーマは三舟ではない。 実は興味を覚えたのは、山岡鉄舟の少年期の家庭の事情なのだ。 鉄舟の母親は、三人目の後妻である。 しかも、親子ほど歳の離れた結婚をしている。 実家は鹿島神宮の神官の家で、その辺りが小野家の領地だった。 祖父・塚原秀平は、その小野家の領地の管理を任されていたようだが、理財の才能があった様で、朝右衛門が懇請して小野家の用人になった。 その父親の才能を受け継いだのか、母親は賢妻・賢母であったそうだ。 父・朝右衛門が飛騨郡代であった当時、その相談役であったのが母親だと云う。 要するに、かかあ天下なのである。 たで、出しゃばる様な事はなく、役所の部下や領民にも慕われていたと云う。

 実は、石黒忠悳の少青年期に、共通点を見出すのだ。 その一つが家庭の事情にある。 ほぼ同い年で母親を亡くしている。 山岡鉄舟は、後年までその母親を敬慕していた。 磯田道史著『武士の家計簿』によると、武家の主婦の立場は、想像する以上に強かったそうだ。 飛躍かもしれないが、維新後、名を成す人々に共通するのが、母親の存在ではないかという仮説が立つ。 しかも、単に儒教で云う賢妻・賢母ではなく、理財の才能があったように見受けられる。 石黒忠悳の場合は500両の軍資金、山岡鉄舟に到っては3000両の蓄財があったと云う。 確かに、蓄財したのは父親かもしれない(山岡鉄舟の場合は、祖父)。 しかし、維持管理したのは母親なのである。 因みに、『武士の家計簿』に登場する猪山家は、直之の代に理財の才能で出世し、成之の代に大村益次郎に認められ、明治になっては、海軍主計総監になっている。 ただ、大村益次郎が長命であったなら、更に出世し、華族に列せられたのではにかとは、磯田氏の言である。

 『大学』の経一章に「国を治めんと欲する者は、まずその家を 斉 ( ととの ) う」とある。 (「斉」は、等しい・整える・きちんとする・偏らない・おこたらないなどの意味がある。) 部分を揚げたのでは、本来の意味が損なわれるかも知れないが、敢えて言えば、「家を 斉  う」のは、主婦である言えるのではないか。 幕末、門閥高禄の武家を除けば、ほとんどの武家は破産の危機に瀕していた。 下級武士になると、赤貧洗うが如し状況だったと云う。 鉄舟は、山岡家を継いで驚いたという。 一日三食など法外の事で、時には2日も3日も米の飯を食えなかったそうだ。 (鉄舟は、母の遺産3000両を5人の同腹の弟に各500両割り当て、大きな子には養子縁組に結納金とし、小さな子には養育費として残していた。 しかし、自分の取り分は、小野家を継いだ異母兄に
400両を渡し、自分の100両の大半は遊興に使ってしまい、山岡家に婿入りした時には、2両ばかりしか残っていなかったそうだ。) 尚、山岡鉄舟については、南條範夫著『山岡鉄舟』に詳しい。 参考までに。

 いつもの通りで、どうも纏まりのないことを書いてしまったが、要は、幕末・明治に名を残した人々の少年期・青年期に発達心理学的関心があり、それを調べていくと、当時の女性、特に主婦・母親の存在が予想以上に大きいことを知った訳である。 実は、石黒・山岡には、もう一つの共通点があるのだが、それは、またの機会にしよう。

 『柏崎通信』433号(2007年1月23日)より転載


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