柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 司馬遼太郎の『峠』の中に面白いことが書かれている。 継之助は、母親似だと云うのだ。 その母親の趣味が算盤で和算の問題を解く事だとある。 そこで、小千谷の佐藤雪山(虎三郎)の通機堂の門人を調べてみると、長岡縁の門人は次の通りだ(『五十嵐秀太郎著『評伝・佐藤雪山』による)。

 助教・阿倍留吉正明(長岡中島)、学頭・南五兵衛亮方(長岡在寺島)、学頭・吉澤作右衛門義利(長岡千手)、高橋吉太郎知道(長岡藩)、小林常松泰(古志郡長岡)らが見える。 当時(幕末)、雪山の門人は、広く全国に及び、江戸・京都・富山・上州・下野・安芸・長州などに広がっていたようだ。 因みに、佐藤雪山は、関流和算の正統八伝(代と同様の意味)で、六伝・長谷川善左衛門(弘あるいは寛)社中列名に師である越後水原の七伝・山口坎山(倉八・和)と共に、「別伝(免許皆伝)」に名前があるから、その才能が全国に認められていたのである。

 そこで、門人録にある長岡縁の名前を調べるのだが、少なくともインターネットではヒットしない。 当時、和算は学問と言うよりは、趣味と見られていたようだから、研究者が少ないのかも知れない。

 ただ言える事は、当時、小千谷・柏崎・長岡近辺は、日本における和算の中心的存在であったのではないだろうか。 すなわち、佐藤雪山の後継者は、柏崎・茨目の村山雪斎(禎治)であり、その後、関流の正統は継承されていないのだ。 (但し、別説もあるようだが。)

 それではと、雪山の師である山口坎山の足跡を調べてみる。 坎山は、有名な『道中日記』を残している。 都合三回の旅をしているのだが、坎山が故郷水原を始め越後を旅したのは、第三回目だ。 この旅は、文政三年(1820)7月22日から文政五年12月1日までの約2年半に近い旅で、三回の中では最も長い。 この時、神田から信州を回り、直江津から日本海側を通って新潟・新発田まで行き、故郷水原に滞在している。 その後、信濃川沿いに長岡に至り、直江津に出て日本海沿いに関西に向かっている。

 この旅で、長岡に寄ったのは文政四年4月26日で、先ず悠久山の蒼芝(柴)神社に参拝している。 そこで、算額を見、書き写している。 『道中日記』の写真を見ると、詳細は不明だが、描かれた図形などから面積の問題のようだ。 この算額は、文化元年(1804)と寛政十年(1798)のものだから、和算が長岡で盛んであった事の査証ではないだろうか。 因みに、当時、坎山の門人が最も多かったのは、柏崎であるようだ。

 いずれにしても、長岡は信濃川水運の要の土地柄であったことが、和算を盛んにした背景にあるのではないだろうか。 しかし、それが、武家の奥方にまで及んでいた事実が、長岡藩の特異性を示しているように思える。 ただ、継之助の父親・代右衛門が新潟奉行をした時期があるので、その辺りの事情も考える必要があるのかも知れない。

 単なる推測の域を出ないが、継之助の人となり、あるいは、横浜におけるスネルとの交渉のエピソードなどを見ると、案外、母親の和算趣味、あるいは和算の盛んだった土地柄が大いに影響しているのではないだろうか。

 余談だが、山口坎山は、先にも書いたように三回の大旅行をしている。 そこで、少々この旅について触れておこう。 最初の旅(文化十四年4月、1817)は、神田から始まり、水戸街道を北上して、取手・上蛇村(水海道市上蛇町)・寺具村(つくば市寺具)・飯田・土浦・玉作(玉造町五町田)・鹿島・香取を巡り、江戸に帰っている。 二回目の旅は、同年十月、江戸を発ち、筑波・会瀬(日立)・岩沼・仙台・石巻から金華山を見、一旦石巻に返って、一ノ関・盛岡・むつ・大畑・恐山を回り、むつから日本海側に抜けて、能代・鳥海山・酒田・湯殿山・月山から、岩沼に還り、日立から笠間・小港・銚子などを巡り、江戸に帰っている。 三回目が今回採り上げた旅だが、これが最も長い旅だ。 直江津から先に進むと、金沢・福井・敦賀・京都・大津、琵琶湖を渡り長浜、南下して伊勢・松坂、鈴鹿越えで、奈良・吉野・和歌山、船で堺に至り、大阪・岡山、瀬戸内海を渡り、丸亀・金比羅・今治・松山、復瀬戸内海を渡り、広島・岩国・防府・小倉・唐津・伊万里・長崎・熊本・久留米(和算の盛んなところ)・宇佐・小倉から本州へ、更に広島から日本海・石見に抜け、出雲・鳥取・宮津、敦賀に還り、江戸に帰っている。 これらの旅を『道中日記』に詳細に記している。 それが、芭蕉の『奥の細道』に匹敵する旅日記と言われる所以である。 因みに、道中、門人あるいは他流の算額道場を訪れ、時には、教授あるいは道場破りのようなことも行っているようだ。 (佐藤健一著『和算家の旅日記』、伊達宗行著『和の日本史』ほか、東北大学和算アーカイヴなどを参照した。)

 和算は、明治以降、西洋数学によって影を潜めるのだが、江戸時代から明治初年における和算の意味は、単に数学史というより、社会あるいは歴史そのものに与えた影響が相当にあると考えるのだが、如何せん、微力、勉強不足で、確証に至らない。 ただ、この分野、数学としての内容よりも、文化として、実に面白い分野だとは思うのだが。

(12月19日)『柏崎通信』422号より転載


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