柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
偶々、TVのニュース解説で国保問題を放送していた。 この問題には身に積まされる思いがあるが、また別の機会に書くとして、地域医療の歴史を調べていたら、面白いことに気付いた。 明治以降、新潟出身の、しかも長岡近隣出身の著名な医学者の多いことに気付いたのだ。 幕末・明治の洋学(医学)には、2人のキーパーソンがいる。 その一人は、以前紹介したことのある森田千庵だが、もう一人のキーパーソン長谷川泰(たい)の存在が大きいことに気付いたのだ。 長谷川泰は、天保13年(1842)、旧古志郡福井村(現在の長岡市福井町)の漢方医・長谷川宗斎の長男として生まれ、下総佐倉の佐藤泰然の順天堂で蘭方を学んだ。 その後、松本良順の江戸医学所に学ぶのだが、戊辰戦争のとき、松本良順が佐幕軍に投じる為、その医学所の引継役のようなことをしている。 その為か、戊辰戦争では官軍に軍医として従軍している。 この辺りの事情は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に詳しい。 明治になって、東京医学校校長(明治2年)、長崎医学校校長(明治7年)、私立医学校・斉生学舎創立(明治9年)、更に同年東京府病院院長、明治23年には衆議院議員(3回)と華やかな経歴を経て、官僚に転じ内務省衛生局長(明治31年)に就任、どういう訳か(開業医と東大医学部出身のエリート医学者の権力闘争の結果か。 この件、後に触れる。)、明治36年には斉生学舎を廃校している。 没年は、明治45年(1912)3月11日。 因みに、斉生学舎も卒業生には、野口英世もいる。 また、斉生学舎は、日本医科大学の前身である。 ところで、軍医には新潟出身者が多いことを御存知だろうか。 参考の為に、紹介する。 陸軍(あいうえお順) 海軍(あいうえお順) 以上の様に、詳細に比較したわけではないが、他県出身者に比べ極めて多いのである。 特に、陸軍の幹部軍医(将官あるいは将官相当)に多いのだ。 どうもこの背景には、佐藤泰然の弟子であった長谷川泰の影響があるのではないだろうか。 因みに、初代軍医総監である松本良順は、佐藤泰然の実子であり、長崎医学所・江戸医学所の創設者でもある。 軍医関係以外、あるいは本来の医学の世界でも活躍した人が多い。 例えば、梛野直(ただし)がいる。 天保13年(1842)、長谷川泰と同年に、現長岡市堀金で生まれ、長岡藩藩医・梛野恕秀の養子となり、後に江戸・長崎に遊学し、大阪では緒方洪庵の適塾に入塾している。 維新後は、伯父・小林虎三郎(前述参照)や三島億二郎の知遇を得て、長岡病院・長岡医学校(長岡に医学校があったことは興味深い事実である)長、野本恭八郎(山口権三郎の弟)の「ランプ会」にも参加している。 明治10年の西南戦争には、軍医として従軍しているので、矢張り、軍医との関係も深い。 また、日本医師会のカリスマ・ドンとして勇名を馳せた武見太郎も長岡との縁が深い。 武見太郎の父は、長岡市関原の豪農の四男・可質(かしち)、母親は小千谷市片貝の庄屋・新野家の長女・初である。 因みに、片貝は石黒忠悳の出身地でもある。 また、吉田茂との姻戚関係は有名だが、長谷川家とも姻戚関係にある。 長谷川泰の子息・亀之助の妻・きくは、武見太郎の妹なのだ。 柏崎についても触れておこう。 長岡藩藩医の子孫・丸山直友(明治42年生)は、東大医学部で助手を務めた後、長岡に開業し、長岡市医師会長、衆議院銀、日本医師会副会長を歴任したが、後に、柏崎に移住開業している。 以上、『ふるさと長岡の人びと』、『帝国陸軍将官総覧』、『帝国海軍提督総覧』などを参照の他、インターネットを駆使し調べた。 興味ある方は、参照、検索されることをお薦めする。 大分長くなってしまった。 どうも記憶力が悪い所為か、線が面へ展開しない。 ただ、中越あるいは長岡近隣の出身者あるいは縁故者が、日本の医学界に果たした役割は大きいことが判るのである。 この辺りの人の繋がりが有機的に結合すればと思うのだが、その余裕も無い状態だ。 個人としての限界かもしれない。 (12月14日)『柏崎通信』419号より転記 |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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