柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 前回、余談として『リーズデイル卿回想録』に触れた。 在日当時は、未だリーズデイル伯爵家あるいは自身が創設した男爵家を相続したわけではないので、アルジャーノン・バートラム・ミットフォードだが、卿のことは、先に上げた回想録やその他の研究書で知ることが出来るので今回は省略する。 興味を持ったのは、その男爵家を相続した次男のことなのだ。 リーズデイル卿には、5男4女があったそうだが、長男が第一次大戦で戦
死した為、次男が相続している。 デイヴィッド・バートラム・オーグルヴィー・ミットフォードだ。

 第二代リーズデイル男爵デイヴィッドは、矢張り第一次世界大戦に出征しているのだが、生き残った。 除隊後、カナダに渡り、「スワスティカ金鉱」を購入している。 先ず、この「スワスティカ」が、その後を暗示しているのだ。 ご存知のように、「スワスティカ」は、ナチスの紋章なのだ。 その後帰国して、結婚し、4女を儲けている。 1920年代、リーズデイル家の財産は、世界恐慌の影響か、相当に傾いたようだ。

 さて、問題はこれからである。 デイヴィッド卿は、極右思想に傾倒していくのだ。 例えば、反ユダヤ主義極右組織{The Link」のメンバーにもなっていたようだ。 その影響か、長女ダイアナは、1936年、英国のファシストのリーダーであるオズワルド・モーズレーと結婚している。 また、4女のユニティ(Unity、変わった名前だ)は、ドイツに渡る。 そこで、ヒトラーを始め、ヒムラー、ゲーリング、ゲッペルスなどナチスの要人と会っているのだ。 しかも、ヒトラーは、新聞記者のインタビューに応え、「ユニティは、完全なアーリア民族の女性だ」と語っている。 確かに、中々の美人なのだ。 第二次世界大戦が勃発すると、ユニティは自殺未遂事件を起こし、帰国、1948年に没している。 因みに、この辺りの事情と彼女の顔は、次のサイトで見ることが出来る。
 http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/WRmitfordU.htm

 話が前後するが、どうも、この家系は美男美女の家系であったようだ。 初代リーズデイル男爵、すなわち幕末の日本と、その明治39年に再来日したアルジャーノン・ミットフォード(以下、単にミットフォードとする)も美男であったと伝えられている。

 しかし、どうも判らないのが、何故に、次男が極左に走ったかである。 回想録に見えるミットフォードは、パークス公使を始めとする他の面々が、叩き上げ的異色の経歴を持つ中で、唯一名門に生まれ、紳士としての資質を持ち、日本に対する態度の中にも、並々ならぬ愛情を示しているのだ。 彼の最初の出版物、『Tales of Old Japan』は、ラフカディオ・ハーンの『怪談』に匹敵する日本昔話の拾遺集なのである。 それに、語学の才
能があったようだ。 両親と共に、ヨーロッパを巡り、その間にフランス語を習得し、中国に派遣されたときには、中国語も堪能だったようだ。 更に、日本に駐在したときには、アーネスト・サトウに日本語を学び、僅か一年足らずで日本語をマスターしているのだ。 こういう人物は、人種的偏見とか宗教的偏狭さを持たないものだ。 事実、帰国後、ディズレーリ内閣の時、建設相に就任もしている。 因みに、ディズレーリ(Disraeli)は、その名前が示す通り、ユダヤ系である。

 ただ、それだけで、結論を下すのは早計だが、いずれにしても極右思想とは縁遠いように思われる。 ただ、ドイツとの関係はあったことが推測される。 以前書いた「レッド・バロン」のことを覚えているだろうか。 「レッド・バロン」の叔父に当たるリヒトホーヘンは、幕末プロイセン使節団の一員として来日しているのだ。 当時の日本における外交使節団は、利害関係は対立しても「呉越同舟」の状況にあった。 鳥羽伏見の戦い当時、まだ攘夷論者が横行していた。 戦い後に混乱する大阪を避難して、神戸の居留地に外交団が集結していた頃、備前藩による銃撃事件が起こっているが、その様子が、「呉越同舟」の状況を物語る。 ただ、果たして、リヒトホーヘンと面識があったかどうか、これも想像の域を出ないのだが。

 それに、当時の貴族社会は複雑だ。 ヴィクトリア女王の甥や姪が、ヨーロッパ各国に散在した。 ドイツ皇帝もその一人だ。 貴族社会の同様だ。 リーズデイル伯爵ミットフォード家は、かのシャルマーニュ(シャルル大帝、カール大帝)に発する家系とか。 ブルーブラッド・ネットワークは、今でのそのようだが、もっと結びつきが強かっただろう。 この関係の無視できない。 しかし、それも推測の域だ。

 いずれにしても、家系を辿ると思わぬ発見がある。 現在の政治図式にも通じるのだ。 最近(2002)、「Mitford's Japan: Memories and Recollections, 1866-1906 」という本が出版された。 英国でも、当時の記録が見直されているそうだ。 歴史の研究が脚光を浴びるのは、どうも変革期あるいは転換期であるようだ。 1800年代は、市民革命の時代であり、帝国主義の時代でもある。 相反する二つの思想が拮抗する時代か
もしれない。 歴史は、点から線へ、そして面へ広げ、時空間として展開しなければ、理解すること出来ないのではないか。 それは、個人の、組織の、そして地域に歴史についても言えるのではないだろうか。

 そう、それに平和な時代が続けば、淘汰され生き残った家系は肥大していく。 それだけに、歴史における人の繋がりは、丁度、遺伝子の連鎖の如く、現在社会を形成する重要な因子なのではないだろうか。

 因みに、現在のリーズデイル男爵家の第6代当主は、英国の自由民主党の議員である。
 http://libdems.org.uk/party/people/lord-lord-redesdale.html

(12月7日)『柏崎通信』417号より転記


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