柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 どう言う訳か、もし放送されれば見たいと思う番組を偶然見ることがある。 その一つが、NHKの「週刊ブックレビュー」だ。 しかも今日の特集は、『ローマ人の物語』、塩野七生氏だった。 シリーズが始まって15年、年一回の出版で、今回が最終巻、読者としての感慨がある。 この本が出版された時、それまでの女史の作品から、何かを予感していた。 その何かは、冒頭の「読者へ」の文中で明らかになる。

 「知力では、ギリシャ人に劣り、体力では、ケルト(ガリア)やゲルマンの人々に劣り、技術力では、エトルリア人に劣り、経済力では、カルタゴ人に劣るのが、自分たちローマ人であると、少なくない史料が示すように、ローマ人自らが認めていた」と。

 15年前、私自身一つの転機にあった。 才能は、人に及ばず、技術は全力を挙げても追随するのみ、年齢は不惑に達すれど、迷いは尽きず、体力には限界を感じていた。 そういう時期に、この本と出遭ったのである。 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』やトインビーの『歴史の研究』にない近親感、中国の十八青史にはない躍動感、歴史小説とは異なる俯瞰性、そして何よりも、「今現在の自分に問いかける」何ものかが存在した。 巻を重ねるにつれ、その実態が姿を現す。 偶然だが、「週刊ブックレビュー」の初刊時のインタビュー、イタリア政府から勲章を受章したというその時のローマの自宅でのインタビュー、そして、今回のインタビュー、その言葉の端はしに、「ああ、この本は、歴史に残る名著になるだろう」という確信が生れる。

 幾つかの語録を。

 「何故、『ローマ人の物語』を書かれたのか」、「相手の事が全て解っていて、あなた、結婚しますか? ・・・」
 「学者としての歴史と作家としての歴史の相違は」、「学者は事実のみに基いて書くが、作家は、その事実さえ信じない。 ・・・ 学者と作家の勉強の仕方に違いがあるかといえば、そんな事はない。 調べる量も質も変わらない。 ・・・ 作家は、どうしようもないくらい、人に興味を持っている。 (事実の羅列としての)歴史ではなく、そこに登場する人物を書いている」などなどと。 (精確な言葉ではないが、そんな内容だった。)
 更に、興味を持ったのは、
 「最後の巻以外では、遺跡の写真を掲載していない」という発言だ。 短い時間で詳細は語られなかったが、書きながら鮮明に浮かんでくる臨場感を読者にも共有して欲しいということのようだ。 確かに、ポエニ戦役のハンニバルやガリア戦役におけるウェルキンゲトリスク、それに何と言ってもルビコン川のカエサルは、鮮明なイメージと共に記憶にしっかりと残っている。 歴史を学ぶ、あるいは教える上で、重要な用件ではないだろう
か。 受験勉強のための暗記では、結局何も残らない。
 また、
 「文化は個別なものだが、ローマは、多くの民族やその文化を結合した。 それを可能にしたのがローマ法だ。 そして結合した文化が文明だ」という文明論に面白い。 「面白い」というのは僭越かもしれないが、女史が、作中で何度も協調するローマの寛容性を考えれば、納得できる。 初巻『ローマは一日にして成らず』の当に冒頭で、「古のローマには、多いときで三十万にものぼる神々が棲んでいたという。 一神教を奉ずる国々か
ら来た人ならば眉をひそめるかもしれないが、八百万の国から来た私には、苦になるどころかかえって愉しい」という言葉の中に、塩野氏が伝えようとする全てのヒントがあるように思える。

 書評など書ける才能もないが、先にも揚げた、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は堅苦しくて退屈だし、トインビーの『歴史の研究』は膨大過ぎて、なお検証の為の繰り返しが多いから全巻(25巻)など読めるものではない。 社会思想社の『トインビー著作集』でさえ全8巻もある。 最近、ブローデルの『地中海』を試みたが、これも10巻の大著で、この年になると根気がもたない。 そこに来ると、『ローマ人の物語』は、堅苦しさもなければ、押し付けもない。 それどころか、(全巻がそうだとは言わないまでも)、一気呵成に読むことができる大著である。 機会があれば如何だろう。

『柏崎通信』430号(2007年1月22日)から転載

 最近は気の重くなるようなニュースばかりだ。 世の中、どうなっているのだ。 どうなるのだ。 何となく、人類の終末観を予感する。  昨日、久しぶりに木島さんと話した。 氏の日本海文学大賞受賞以来か。 「こうりゃあ、キルケゴールの死に至る病ですね」、こんな言葉が口をつく。

 ナショナル・ゲオグラフィックのサイエンス・ライブラリーで、面白い試みをしている。 類人猿・原人の研究結果から、それぞれを人類学的特徴に基いて、俳優をハリウッドの特殊メイクする。 そして、その俳優をLAの街中に突然出現させ、街の人の反応を見る実験だ。 そこで、どの段階で、特殊メイクの類人猿あるいは原人を人類と認めるかというのである。 結論から言えば、ホモエレクトス辺りで、ある程度の時間が経つと、人類と認めるようだ。 実験そのものにも興味があるが、むしろ、関心を引いたのは、先人類が、何故に滅んだのかという事だ。 先人類あるいは原人が、生態系の上位に位置した時代は、ホモサピエンスの時代を遥かに超越するのだ。 詳しくは知らないが、現在の人類は、ジャワ島辺りの超巨大噴火による地球の寒冷化を生き残った僅か2000人から始まったそうだ。 世界規模の遺伝子(DNA)の調査で、それが判明したとか。 そして、その原形をとどめるのが、アフリカのカラハリ砂漠の居住する「サン族」だそうである。 

 食物連鎖のヒエラルヒーが何処かで狂ってくると、その生態そのものが滅びる。 生き残った生物があれば、そこに新たなヒエラルヒーが生れる。 頂点に立つ生物が、基盤になる下層の生物を滅ぼせば、頂点に立った生物の中でヒエラルヒーが構成されることもあるのかも知れない。 それが、今の人類であるということも出来るのではないか。 そんな事が頭をよぎる。

 もう一つの考えからたが、「棲み分け理論」だろう。 種が生き残る為に、自然は一種の「フェール・セーフ・システム」を提供する。 生態系が分散され、種は外的内的要因による種の危機を回避してきた。 人類が民族として分散してきたのも、あるいは文明が同時多発的に生れたのも、一種のフェール・セーフ・システムではないのだろうか。 しかし、文明の発展と共に、あるいはグローバル化と共に、「棲み分け」は困難となった。 そして、ネットワーク社会化は、「棲み分け」そのものを崩壊させる。 飛躍かもしれないが、そんな構図が見えて来る。

 このように考えると、「格差社会」は、一種の新たなる生態系のヒエラルヒー化の生んだ必然的帰結と見ることも出来る。 言い換えれば、人類の「危機が、今、そこにある」と言う事になるのではないか。 地域の崩壊も、その論理に従えば、何となく見えて来る。 国家の基底部を構成した地域が崩壊すれば、次に来るのは何だろうか。 これは、個々人の心の問題についても言える。 アイデンティティという人間存在の基盤を失えば、自我の崩壊を招くだろう。 もしかすると、キルケゴールは、それを「必然性と可能性の絶望」、言い換えれば「死に至る病」と捉えたのではないだろうか。 キルケゴールの時代、ルネッサンス・大航海時代を経て、封建制農村社会が崩壊し、グローバル化が進行し、一部では産業革命が生れている時代だ。 どこか、現在と似ているのではないか。

 それでも、ヨーロッパ社会が崩壊することはなかった。 異種の文明、言い換えれば、新たなるフロンティが常に存在した。 「棲み分け」というフェール・セーフ・システムが機能したのだ。

 誰だったか、ハッチントンだったか、日本を一つの文明圏とし、その特異性、すなわち、異種の価値観が混在することを許す寛容性に着目している。 別な表現を借れば、街角を曲がれば、あるいは、トンネルを抜ければ、全く別の文化が存在するのが日本だと云うのだ。 敢えて言えば、「汽水域文化圏」、私は、そんな表現をしてみた。

 その日本の文化あるいは日本文明が、実は、内部から崩壊し始めているのではないだろうか。 そう危惧すのである。 少子化、犯罪の低年齢化、自殺の増加、企業倫理や指導者倫理の危機、それに、地方の崩壊が進行する。 鶏が先か卵が先か、それは分からない。 しかし、相互作用はあるのである。 昨夜、衛星放送で「クルーシブル(The Crucible、るつぼ、厳しい試練)」という映画を見た。 17世紀末におこった米国マサチューセッツ州セイラムの魔女裁判の話だ。 些細なことから集団ヒステリックが始まる。 200人近い村人が魔女として告発され、19人が処刑された。 マスコミの在り方によっては、その再現もあり得るだろう。 否、既にその観があるのでは。 因みに、この時の判事は、サミュエル・ホーソンの先祖。 作品『緋文字』の見方も変わるだろう。

 まあ、そうは言っても、悲観的にはなりたくはない。 今年は、総選挙の年。 性善説を信じ、人類の未来を信じる者にとって、国・地域のリーダーたる政治家に、僅かでも期待を賭けたいのだが、果たして如何。 「草莽崛起」の言葉が浮かぶ。 

『柏崎通信』429号(2007年1月19日)から転載

 ここ半年ばかり、柏崎を例に取り近世・近代における人の繋がりを追いかけてきた。 歴史を単に時系列に従った事実の羅列ではなく、人の繋がりという視点から見ることにより、現在に還元できる何かを見つけようとしたからである。 ところが、この人の繋がりを追えば追うほどに、予想とは全く異なる歴史像が浮かんでくる。 しかも、その絡み合う糸は、思わぬ方向へ思考を導いていく。

 今までは単に表面的な事跡を追っかけていたのだが、石黒忠悳(ただのり)という人物は実に興味深い。 弘化2年(1845)、今の福島県伊達郡梁川(伊達政宗出生の地)に生まれ、昭和16年97歳で没している。 幼名は庸太郎(つねたろう)、号を況翁という。 石黒氏の祖先は、御館の乱(謙信死後のお家騒動)で浪人し、現在の小千谷市片貝で帰農、その後、近隣の池津に住んだと云う。 その何代か後、次男に生れた父親(石黒子之助、後、平野順作・良忠)が、江戸に出て苦学し、幕府代官の手代・平野氏の養子になって、手代職を継いだ。 手代は一台限りだから、その一人子である庸太郎も苦学する。 父親が巻菱湖に書を習ったそうだから、その縁もあったのか菱湖の門人である中澤雪城に書を習っている。 因みに、「幕末の三筆」といわれた巻菱湖は現在の新潟市巻町の出身、中澤雪城は長岡藩士、一時期脱藩して江戸に出て、市河米庵(幕末の三筆の一人)に入門するが、後、巻菱湖の門人となる。 中澤雪城は、大変な奇人であった様で、その事が石黒忠悳の自伝『懐旧九十年』に詳しく書かれている。

 況翁・石黒忠悳は、11歳の時、父親と死別、14歳で母親が没し、16歳で、父親の実家・石黒家を継いで平野姓から石黒姓を名乗る。 この間の事情も興味深い。 例えば、13歳の時、母の実弟・秋山省三の任地・信州中之条に転居していたが、母の死後(15歳の時)、思い立って江戸に出る途中、追分の宿で勤皇の志士・大島誠夫(のぶお)と会う。 意気投合して、同道して京に上る。 早熟の秀才といっても、若干15歳、それが一夜・夕食を共にし意気投合したからといって、京に上ろうと思うだろうか。 しかも、この大島氏が謎の人物。 京では、幕吏や刺客に追われるとして、戦々恐々、一日の在京で、逃れるように京を去る。 庸太郎(恒太郎)は、大島氏と別れ、中之条に帰るのだが、このことが勤皇攘夷思想へ傾倒する原因になるのだろう。 (ただその以前から、その傾向はあったようだ。)

 前置きが長くなったが、石黒忠悳を考える場合、その幼年期・少年期は人格形成上重要である。 要するに、新興下級武士家庭の教育の典型が見えるのである。 当時の新興下級武士の家庭は、譜代の武士の家庭よりも、むしろ武士の家庭なのだ。 『葉隠』に見る古武士の精神を継承しているのではないだろうか。 こんなエピソードが書かれている。 安政3年(1856)8月、江戸は所謂「安政の大風(暴風雨)」に見舞われた。 前
年(父親死去)の安政の大地震に継ぐ大災害だ。 この年、家計の事もあり早目の元服をして、代官所手代見習いに出仕している。 12歳である。 その少年が「暴風雨」の後、紀伊国屋文左衛門の故事を想い、出勤の途中、偶然路上で売っていた屋根釘を購入する。 大風で江戸の民家の屋根が飛び、(母と寄宿する親戚の家も然りなのだが)、屋根釘が不足して急騰すると考えたようだ。 思惑は当たり、親戚や修理に来た屋根職人が、その機転に驚き神童だと賞賛する。 ところが、母親は、「武士のすることではない」と叱責し、勘当するとまで言うのである。 親戚も詫びを入れてくれるのだが、3日間も同室を許さなかった。 身分制度が、むしろ新興下級武士の中で強く意識されていた事例だろう。

 そうした家庭に育った恒太郎(庸太郎から一時改名)が、片貝の石黒家を継ぐと、親類縁者や近在の自作農は、16歳の庸太郎を「江戸の紳士が帰ってきた」と持て囃した。 既に、地域の名士である。 村塾の助教などをするのだが、人の出入りが多く、17歳の時、新居を構える。 これがまた凄い。 参考までに紹介すると、玄関4畳、8畳の座敷は2間、6畳が1間、応接の為の茶の間が10畳、他に9畳の寝室、二階があり6畳が2
間、それに台所や土間がある都合約50畳のお屋敷である。 長岡の神主の家を買い取り、それを片貝(池津)に移築しているのだ。 普請の費用が68両で、引越しなどの費用を合わせると98両掛かったそうである。 石黒家自体の財力もあるのであろうが、父親の蓄財が相当にあったようだ。 因みに、父親が残した蓄財の内、500両は、いざと云う時の「軍資金」として手をつけてはならないと遺言していた。 長くなるので省略するが、父親の出世意欲は大変なもので、韮山奉行・江川太郎左衛門や当時の勘定奉行・川路聖謨へ縁を頼って猟官運動をしていたようだから、その「軍資金」の意味もあったのかもしれない。

 更に驚くのは、17歳(1861)の時、私塾を開いていることだ。 門人の中に、東洋大学の創設者・井上円了(1858-19191)がいる。 13歳年下だから井上円了は5歳前後で入門したことになろうか。 授業科目は、一般が、習字・読書・算数を教え、医師・僧侶・農家(自作農のことか)には、習字(書道)・経書(四書五経など)・歴史・算数を教えている。 更に、剣道の型も教えているのだが、これは時勢を考えてのことかもしれない。 参考のまでに、後者(上級者)の教科書を揚げると、『四書五経』の他、『小学』、『朱氏家訓』、『国史略』、『日本外史』、『日本政記』、『十八史略』、『元明史略』、『古文真宝』、『坤輿図誌(識か?)』、『明倫和歌集』とある。 特に、頼山陽の『日本外史』・『日本政記』や水戸列公・徳川斉昭撰による『明倫和歌集』などから、尊王思想が見えて来る。 しかし、先にも書いたが攘夷思想も持っていた事と考えると、世界地理解説書『坤輿図誌』は、佐久間象山を訪ねた後の教科書ではないだろうか。

 尚、推測だが、「算術や国史(日本史)は、近隣の一般の塾では教えていなかったようだ」と書かれているが、私の調べたところと多少の違いがあり、況翁の記憶違いかもしれない。 また、ここに揚げた『国史略』が巖垣松苗著の『日本国略史』であれば、出版が明治10年10月であるから、これも記憶違いではないだろうか。 更に言えば、『坤輿図誌』は、箕作省吾(箕作阮甫 の養嗣子)の日本初の世界地図『新製輿地全図』の解説
書『坤輿図識』のことであろう。 この『坤輿図識』については、広川晴軒の資料の中に、石黒忠悳が借りに来たという記述があるので、それを写本したものではないだろうか。 因みに、以前書いたが、広川晴軒は箕作阮甫 の門人である(万延元年、1860年入門)。

 いずれにしても、20歳前後で、越後における勤皇攘夷の志士・郷党の中心的人物になっているのである。 長くなりすぎたので、今回はこの辺りで終わりにするが、最後に、石黒忠悳の背景を考える時、その親戚・縁類を考える必要があるだろう。 その一人が、佐藤左平治の存在ではないだろうか。 佐藤左平治は、文政、更に天保の飢饉の折、私財をなげうって救民救済に尽力した片貝の豪農・豪商で、現在、その屋敷跡が片貝ふれ
あい公園として整備されているそうである。 この佐藤左平治の話を何処かで読んだのだが、詳細を思い出せない。 ただ、況翁・石黒忠悳が若くして有名になるのは、左平治の遺徳があったのではないだろうか。

 『柏崎通信』428号(2007年1月18日)から転載

 さて、年が改まって何を書くか、そんな事を考えていたら来客があった。 昨年、改めて紹介された昔から知人である。 まあ、その内容は措くとして、改めて確認したのは、現在を生き、そして将来を考える上で重要なのは、人あるいは社会における歴史、言い換えれば「必然性」としての歴史観の必要性だ。

 以前から柏崎について、先ず語ってきたのは、その必然性としての歴史に裏付けられた愛すべき自然と環境だ。 外来の人間から見れば、ここ、あるいはこの地域ほど恵まれた地域はないのではないかと考えている。 ましてや、子が生まれ、その成長を柏崎という環境の中で見つめてきた10余年、その思いは募るのである。

 昨年機会を得て、地域史を私なりに考えてきた。 驚くのは、その広がりである。 発展する地域には、それなりの歴史的背景がある。 それは承知のこと。 しかし、その広がりまでは予想していなかった。 ところが、どうであろう、調べてきた歴史は、今や海外へまで広がろうとしている。 その起点が、私の場合、柏崎であったことは、既に述べたとおりだ。

 現状(今追いかけていること)を言えば、緒方洪庵から始まる、その子弟・師弟の関係だ。 その中で興味ある事実に行き当たった。 明治の医学史上、有名な論争がある。 「脚気」問題。 まさかとは思っていたが、日露戦争の結果さえ左右しかねない問題だ。 その根源に、越後の医学史あるいは洋学史が関連していた。

 少々横道に逸れるが、この問題の背景に関連するので、緒方洪庵の適塾(適々斎塾)について触れる。 緒方洪庵の適塾に学んだ越後人は11人、内、その足跡を追えるのは、現在のところ4人、その内の一人「鈴木玄斎」は、会津の人(後に重要になる)。 参考の為に、適塾の門人録にある越後出身者を列挙する。

(1)鈴木玄斎 : 会津藩、どういう経緯で越後に分類されたのかは不明。 推測だが、小千谷との関連があるかもしれない。 小千谷は天領だが、会津藩の預かり地。 思い出したが、六日町も会津領だった時期がある。
(2)小林誠卿 : 不詳、ご存知の方があれば御教授されたし。
(3)小山良長 : 長岡藩医、良運、河井継之助の最大の親友
(4)吉見雲台 : 長岡藩医、戊辰戦争で戦死、その妻・つぎは、長男・乾海を連れて、会津に亡命。 実は、この家系が興味深い。

 吉見乾海 : 会津亡命後、海軍兵学校12期、明治19年卒業し、その後、兵学校校長など旧海軍の重責を担い大正4年中将のとき予備役、その後、海城中学校校長(理事長)。 そして、その子息・海軍少将・吉見信一は、明治27年、父・乾海が兵学校教官当時、江田島に生まれ、広島中学校(一中・現国泰寺高校)から、祖父の影響か岡山医専を受験合格したが、父の意志を継いだのか海軍兵学校(43期)に入学、二つの大戦を経
て、小児科医として91歳まで活躍している。 機会があれば、追いかけてみたい人物である。

(5)小林準硯 : 不詳、ご存知の方があれば御教授されたし。
(6)梛野謙秀 : 長岡藩医、直(ただし)、初代長岡会社病院院長、この病院は、小林虎三郎・三島億三郎により創設。 弟・巌(いつき)は、以前紹介したことともある
が、北京の協和医学院から紛失した北京原人の化石の捜査に協力した人物。
(7)垣沼関斎 : 不詳、ご存知の方があれば御教授されたし。
(8)八田道硯 : 不詳、ご存知の方があれば御教授されたし。
(9)北條謙輔 : 不詳、ご存知の方があれば御教授されたし。
(10)葛西仲惇 : 不詳、、ご存知の方があれば御教授されたし。
(11)鈴木光之助 : 不詳  、ご存知の方があれば御教授されたし。
 以上、不詳が多いのだが、何しろ当時は幾つもの名前を名乗っている為、特定が難しい。

 さて、この適塾が関連するのが「脚気」問題なのだが、その一方の立役者が、石黒忠悳(ただのり)・森林太郎(鴎外)なのだ。 すなわち、後者、石黒・森(共に陸軍軍医総監)は、「脚気」の原因を細菌説に置き、慈恵会を設立する高木兼寛(海軍軍医総監、熊本出身)や緒方洪庵の子息・惟準(これよし、平三、軍制確立前の軍医監など)の食生活説と対立している。 但し、石黒忠悳は、後に、細菌説を否定するが、森林太郎は、死ぬ
まで細菌説に固執している。 この話、実に広がりが大きく、更に本論から逸脱するので、またの機会に。

 いずれにしても、我々が生活する現在の背景には、膨大な人の繋がり、言い換えれば歴史がある。 今、柏崎あるいは近隣の地域を考える場合、現世の対立の構図を認識する為には、先ず、その原点である歴史に立ち返る必要があると考えるのだ。 その一例が、「脚気」問題ではないだろうか。 しかも、その一方の原点が、越後にあり、蘭学・洋学の歴史に見出されるのだ。 しかも、藍澤南城を始めとする江戸期共通言語である漢学を背景にしているのである。 (藍澤南城が敬愛した片山兼山は、熊本藩で確か6年ほど教えている。)

 余談だが、日露戦争の激戦、黒溝台の戦いで勇名を馳せる第8師団長(弘前)・立見尚文は、戊辰戦争で桑名軍を率いて、官軍を悩ませた「立見鑑三郎」その人である。 そして、その勇将を悩ませたのが兵力の維持、脚気問題なのだ。 因みに、日清戦争後における陸軍の「脚気」罹患者数は4万人強、死亡者は約4千人、日露戦争後における死亡者は約2万8千人、実に、3個師団に近い数字なのである。

 更に余談。 緒方洪庵の適塾を調べていて気付いたことだが、手塚治虫の曽祖父・手塚良庵が適塾の出身者であることは有名だが(福沢諭吉の『福翁自伝』に逸話が残る)、水戸徳川家の藩医であったことを失念していた。 そこで、茨城県の適塾出身者を調べてみると、6名の登録がある。 以下の通り。 松本良介、手塚良庵、金子壽活、飯田良節、田上周道、岡部同直、以上だが、先頭の松本良介が気になる。 松本良順との関係だ。 他の人物も調べて見たが不詳。

 余談が長くなった。 今回は詳細を省くが、石黒忠悳は、17歳の時、越後片貝(池津)で私塾を開いている。 僅か17歳で郷党の名士になり、勤皇の志士として、各地に遊説し、同志を募っている。 柏崎の原修斎、粟生津の鈴木文台が同調している。 その拠点となった石黒塾は、漢学の塾なのである。 因みに、医学を目指すのは、未だ後のことだ。

 長くなった。 この辺りの話、また改めて書くことにしよう。

『柏崎通信』426号(2007年1月10日)から転載

 さて、前回は、「入澤達吉」から発展したのだが、これが改めて調べてみると、実に面白い人の繋がりがある。 先ず、前回紹介した「杉本東造」が新潟出身。 そこで、この線を更に追ってみた。

 杉本東造の詳しい出身地は不明だが、多少の記録がある。 先ず、東大医学部を明治35年に卒業している。 また修善寺療養時代、しばしば診察を受けている。 漱石の書簡を調べてみると、本人への書簡(はがき)は無いのだが、文章中に2回ほど登場する。 一回目は明治44年3月27日(月)、二回目は大正3年1月14日(木)の長与胃腸病院の医師・森成麟造への書簡にある。 最初の書簡では、どうも文面から察するに杉本医師が長与胃腸病院を退職して、新しい職場へ移ったと取れる。 もしかすると、入澤達吉の関係で満鉄病院へ転職したのかもしれない。 二回目の書簡に、「杉本さんは帰ってきましたね私は音楽会で一遍電車の中で一遍会いました然し患者としては交渉がありません。まあ仕合せなんでしょう(せう)」とあるところから推測するのだが。 余談だが、漱石は相撲が好きだったように見受けられる。 先の続きに「柏戸は本場所を休んでい(ゐ)ますね」とある。

 さて、ここで新しい人の繋がりが伺える。 杉本博士は、漱石の主治医であったようだが、書簡の宛先・森成麟造が、その後を引継いだか、あるいは、入院時の実際の担当医であったように推測できる。 また、森成医師への書簡が多い(本人宛:14通、登場:4通)。 森成医師は、明治40年仙台医専卒業後、長与胃腸病院に勤務している。 ところが、この森成医師も新潟の出身なのだ。 しかも高田であり、後に同地で開業している。

 そこで調べてみると、更に興味ある事実が判った。 森成麟造は、上越地方における考古学の先駆者だった。 その事が、上越市の『市史のひろば』156号に記載されている。 それによると、没後、遺族から「考古資料コレクション」が寄贈さてている。 詳細は省くが、森成医師は、文学青年であったようで、夏目漱石に感化され、自分でも『草履日記』なる小説を書いている。 これもまた不思議な縁というべきか。 書簡の多さが、それを物語っているようだ。 因みに、先に上げた大正3年の書簡は、森成医師が贈った海老と笹飴への礼状である。 尚、笹飴は、上越の名産、現在でもお土産として販売されている。

 以前、漱石と新潟の関係を調べたことがある。 その時は、視点が違っていた。 むしろ、作品の中の登場人物、例えば『こころ』の先生などを追いかけたのだが、今回は、全く別の視点、新潟における幕末・明治の医学史あるいは医師の相互関係の視点から調べた。 それが、図らずも繋がったのである。 勿論、漱石研究者らの諸賢は、既にご存知のこととは思うのだが、素人目から見れば、人の繋がりの不可思議を感じざるを得ないのである。 歴史を単なる時間軸上の事実と捉えれば、まさに無味乾燥、何ら感動を覚えない。 しかし、人の繋がりを追及すれば、歴史が、まさに色付いてくる。 イメージが鮮明になり、登場人物が生き生きと動き出す。 何とも感動的だ。

 思うに学校教育における歴史も、さあるべきではなかろうか。 閑人の戯言と言われれば、ただそれまでのことなのだが。

『柏崎通信』(2006年12月22日)425号より転載



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1947/05/18
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歴史研究、読書
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