柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 地元では「樽にわか」と呼ぶ柏崎祇園祭りのメインイベントの一つである山車の巡
行が開催された。 私のように広島の山間部で育った人間には、何時見ても一種の羨
望がある。 反面、矢張り旅人なのだという何かしら祭りに溶け込めない違和感のよ
うなものを感じるのも、こうした祭りのときだ。 まあ、それは私だけのこと。 子
供や女房殿にとっては、別の感覚があるのだろう。 祭りとなれば、矢張り「面倒く
さい」と言いながらも、出かけるのである。

 そんな私であるが故に感じるのかもしれないが、どうも祭りに盛り上がりが無いよ
うに思えるのだ。 一つには、私の住む町内が「樽にわか」には参加していないこと
があるのかもしれない。 しかし、それだけでもないようだ。 昨年は、祭りの最大
のイベントである会場はなぎ大会が、悪天候を押して実施され市民の不興を買った。
 今年は、前夜祭の民謡流しが雨のため順延の無い中止になった。 最終日の花火大
会も天候に係らず実施するそうだ。 どうも、この辺りに盛り上がりに欠ける原因が
あるのではないか。 企画全体を統括するところがあると思うのだが、言って見れ
ば、フェールセーフの無い企画が実行されたようなものである。

 こうした有様を見ると、柏崎祇園祭そのものが、本来の祭りの意味を失った単なる
イベントに成り下がったのではないかとさえ思われるのである。 「祭り」には、そ
の地のアイデンティティを確認し継承するという機能がある。 言い換えれば、コ
ミュニティのゾレン(当為)、すなわち「あるべきこと」「なすべきこと」言い換え
れば、コミュニティの必然性として、「祭り」は機能すべきものではないだろうか。
  私のような旅の人でも長く住めば、愛着を感じる。 祭りの雑踏を歩いて、知人
に逢えば、日常とは異なる感情で、その人を見ていることに気付くのである。 「祭
り」という状況が、一種の共感を生み、「自分が、この地にある」という事実を再確
認させるのである。 例えば、別の地で「柏崎のことを悪く言われると不快感を感じ
る」、そんな感情を生むのである。

 市町村が合併し新しい市町村が生まれても、直ぐには、その市町村に対する帰属感
あるいはアイデンティティは生まれない。 そこで機能するのが「祭り」ではないだ
ろうか。 明治初期、行政地区が再編された。 現在の町村合併以上のインパクトが
あった。 しかも、明治政府が確立されるまで、行政区画は短期間で二転三転してい
るのだ。 これだけの激変の中、地域がそれ程の混乱も無く、地域としてのアイデン
ティティを保てたのは、「祭り」ではなかったかと考えるのだ。 そうした視点で見
るならば、60年から70年の周期といわれる「ええじゃないか」や「お陰参り」も
「祭り」である。 「祭り」は、社会が持つ調和の為の仕組みであり、一種の社会的
安全弁の機能でもある。 例えば、勝小吉の『夢酔独言』に、こんなエピソードがあ
る。 「江戸の誰それの所縁の者(恐らく、講)といえば、食事から宿泊まで、それ
に多少の旅費まで都合してくれる」と。 「祭り」には、庶民の間で自然発生的に完
成した秩序があり、一種の機構としての統制があったと考えるのだが飛躍だろうか。

 柏崎祇園祭の少し寂しい喧騒を見て、そんなことを考えてしまった。

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梶谷恭巨
 江戸後期における学塾、特に私塾の在り方は実に興味深い。 前回の「久啓舎」の
例を見ると、師匠である古賀謹一郎は、幕臣であり、蕃所調所頭取の職にあり、相当
に多忙であるため、「久啓舎」に顔を出すことは稀であったようだ。 そこで、塾生
の学習は、自習あるいは輪読が中心だった。 ただ、塾生と言っても年齢は少年から
熟年まであり、中にはその分野で一家を成す塾生もいたようで、そうした塾生を中心
にセミナー(ゼミナールと言った方が雰囲気に合うように思えるが)方式で勉強して
いたのではないだろうか。

 余談だが、大学時代、(学習院が特殊なのかもしれないが)、学塾形式の痕跡のよ
うなものが残っていた。 正規の学科ではないのだが、経済研究会では、教官は参加
せず、学生が自主的に輪読とセミナーを実施していた。 時には、セミナーの合宿が
あり、新潟県の妙高高原にあるセミナーハウスで一週間の詰め込みセミナーをした経
験がある。

 要するに、「久啓舎」は塾生の自主運営だったのではないだろうか。 ところが、
河井継之助が江戸遊学で最初に入塾した斉藤拙堂の塾では、少々様相が異なっていた
ようだ。 例えば、こんなエピソードがある。 斉藤拙堂と勝海舟が激論したことが
あるそうだ。 さて、何についてだろう。 この激論を傍で見ていた塾生の中に、小
林虎三郎と吉田松陰が居たそうだ。 両者は斎藤塾の「二虎」と言われたそうだか
ら、もしかすると、彼らだけ陪席許されたのかもしれない。 この様子をイメージす
ると、「久啓舎」とは異なるようだ。 しかし、斉藤拙堂も元は昌平黌の教官であり
幕臣であったが、後には、津の藤堂藩の藩儒として藩校「有造館」督学(教頭に当た
るのだろうか)になった。

 当時の著名な学者には大抵パトロンが居た。 単なるパトロンとの関係(パトロ
ネージ)というより、多くが雄藩の藩儒として出仕している場合が多い。 その上
で、尚かつ私塾も開いている。 すなわち、大抵「二束のわらじ」なのだ。 さて、
こうした状況を考えると、著名な私塾と言うものは、一種の全寮制の大学院と内弟子
制度の融合したものとも思えるのだ。 イメージを飛躍させると、西欧の大学の場面
が浮んでくる。 例えば、ドイツでは、教官の移動と供に学生も移動したというか
ら、もしかすると、教育の在り方を追求していくと、一種の塾のようなものになるの
かもしれない。

 ところで、「セミナー」あるいは「ゼミナール」という教育の形式は、19世紀後
半にドイツで生まれた方式だ。 それが、英国や米国の大学に広がった。 因みに、
「Seminar」の英語の語源は、「Seminary」神学校に由来するのではなく、先に書い
た通り、ドイツの「指導教授の下で特殊研究をする大学の」研究グループ、すなわち
スペルも同じ「ゼミナール」である。

 取りとめもなく書いてきたが、江戸後期の高等教育には、二重構造があるのではな
いかと考えるのだ。 「建前と本音」というか「公式と非公式」が、幕藩体制の公的
最高学府である昌平黌でさえ、不可避な状況に在ったのではないだろうか。 その現
われが、松平定信の「寛政異学の禁」ではないかと思われる。 それを提言したの
が、「寛政の三博士」、すなわち古賀精理・尾藤二洲・柴野栗山だが、それぞれに朱
子学を至上のものとしたにしては、この三博士、柴野栗山を除けば、その後が余りに
も意外である。 古賀精理は佐賀の弘道間を創設し、尾藤二洲は叔父として、頼山陽
に多大な影響を与えるのだ。 この両者を単純に朱子学者ということが出来るだろう
か。 只、いずれにしても、塾による私的学統が継承されて明治維新の背景になっ
た、あるいは原動力になったということが出来るのではないだろうか。

 最近では、塾と言えば所謂「学習塾」のことだ。 その「学習塾」でさえ、子供た
ちいわせれば、学校の教師に対するより、余程親近感を持つという。 まあ、それは
別の次元の事として、過っての「塾」の在り方を見直す必要はないだろうか。 松下
政経塾は措くとして、「塾」の必要性を考える人が居ない訳ではない。 柏崎の創風
システムの石塚氏は、そういう塾が創りたいと過日私に相談された。 それが、「創
風塾」なのだが、様々な事情から頓挫してしまった。 実に残念である。 しかし、
恐らく、同様のことを考える人は多いだろう。 今、新たなる断絶の時代。 今こ
そ、「塾」の在り方を、見直すべきではないだろうか。

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梶谷恭巨
 幕末、「お陰参り」、あるいは「ええじゃないか」が、まさに降って湧いたように
発生する。 アルフレッド・T・マハン(Alfred Thayer Mahan)は、日本来航の年
(1867)、兵庫(神戸)でこれを目撃した。 彼は、当時、米艦「イロコイ号」
に副長(少佐、Lieutenant Commander)として乗艦していた。 余程「ええじゃない
か」が印象に残ったのだろう、翌年1月2日付の母親、更に1月13日の妹への手紙
に、このときの模様を、「まるで、本で読んだことのあるラテン・アメリカのカーニ
バルのようだ」と書き送った。 因みに、彼には、「ええじゃないか」が、「You're
a nigger, He's a nigger」と聞こえたようである。 文面からは、むしろ楽しんで
いるように読み取れるのだ。 ところが、これが、アーネスト・サトウになると、全
く見方が変わってくる。 慶応3年(1867)12月に、冷静に観察した客観的記
録を残している。

 ところで、この「お陰参り」とは何なのだろうか。 最初の記録は、元和3年(1
615)とあるが、その後だいたい70年の周期で最後の慶応3・4年までに7回発
生しているだ。 しかし、それぞれに予兆のようなものがあったのではないだろう
か。 例えば、勝小吉(勝海舟の父親)は『夢酔独言』の中で、無断で江戸を出奔し
た模様を書いているが(11歳と21歳の時)、ひしゃく片手に伊勢参りと言えば何
処でも往来できたし、江戸の何某(恐らく、講の主催者だと思うのだが)の名前を挙
げると、旅費まで出してくれたそうだから、お伊勢参りが一種の社会的安全弁として
機能していたのではないだろうか。 また、それが「お陰参り」として爆発するの
は、安全弁の許容範囲を超えた何事かが発生していたからではないだろうか。 例え
ば、慶応3年は、「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)」勃発の年なのである。

 ただ、最後の「お陰参り」には、薩長による謀略説がある。 定かではないが、そ
の首謀者として名前が挙がるのが、薩摩の益満休之助だ。 江戸の御用盗や薩摩屋敷
放火事件も、実は、益満による謀略であるという説まである。 確かに、世情が不安
定で、文政13年の「お陰参り」では、約三ヶ月でおよそ500万人(当時の人口の
約6分の1)が伊勢に殺到したという事実を知っていたとすれば、この対幕府謀略は
極めて有効である。 謂わば、「プロパガンダ戦略」だが、これは決して現代的戦略
ではない。

 余談だが、孫子を始めとする兵学書は、本家である中国では度重なる戦乱で、その
多くが失われていたそうだ。 (明治の廃仏毀釈の時、多くの漢文学関連書籍が放出
されたそうだ。 その時、清朝政府は、それを大量に買い求めたと伝えれている。)
 その為、兵学あるいは軍事学・戦略戦術論の理論的体系化が行われなかった。 し
かし、日本では、兵学が一つの学問的体系として確立した。 その代表的な兵学者
が、山鹿素行だ。 有名になるのは、赤穂浪士の討ち入り事件で、大石内蔵助が山鹿
流兵学に基き陣立てを行い、指揮したことだ。 そして、幕末には吉田松陰が、家学
である山鹿流兵法を継承し、藩主にその講義を行っている。 西欧に比較すれば、山
鹿素行(1622-1685)が兵学を体系化したのが、西欧的戦略論の開祖とも云
われるクラウゼヴィッツ(1780-1831)やジョミニ(1779-1869)
より、150年も前のことだから驚きである。 付言すれば、日本海海戦(日露戦
争)の作戦を立案した秋山真之は、「多くを山鹿流兵学と小笠原家に伝わっていた能
島水軍の兵学書にヒントを得た」と伝えている。

 本題に戻る。 「お陰参り」は、閉塞した社会環境の中で庶民のストレスが爆発し
た現象と言えないだろうか。 そこで、比較するのが、米国の「大覚醒運動(The
Great Awaking)」、あるいは「信仰復興(Revival)」だ。 有名なのは「ノーサン
プトン・リヴァイヴァル」と呼ばれるコネチカットに発生した「大覚醒」(173
0・40年頃)で、ジョナサン・エドワーズの説教が切っ掛けとなったと云われてい
る。 また、南北戦争の前年頃に、テネシー・ケンタッキー辺りでも大規模な「大覚
醒」が発生している。 「お陰参り」とに似ているのは、老若男女、人種を問わず、
ある日突然に大群衆が形成され、平和的な大熱狂が生まれるのだ。

 「お陰参り」と「大覚醒」には、以前から興味があり文献を探してきた。 イン
ターネットが使えるようになって、資料も入手し易くなったのだが、未だ確信を得て
いない。 一時期は、「進化生物学」や「スウォーム・アルゴリズム」に解答を求め
たが、結論を得ない。 ただ、1つ気になることがある。 安定した社会的場に、新
しい価値観のような文化的特異点が生まれる、あるいは移入されると、「場」は安定
を求めて、急激な回帰現象を生むことがある。 例えば、宗教的原理主義運動が、そ
うではないかと考える。 過っての学生運動も、そうではなかったのではないだろう
か。 そこで、昨今の様々な事件、何かの予兆と考えるのだが、杞憂だろうか。  

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梶谷恭巨
 既に10年、挨拶程度の付き合いはあるとしても、町内会の公的な会合以外では、お隣と中々話す機会もないのが日常だ。 ところが、最近、家の裏に温室とは程遠いが、それなりの作業小屋が完成し、昨日は、周壁の補強と防水の為の土盛りをした。 義父が、その土盛りの土の搬入をお願いしたのが、向かいの家だ。 そこで、労をねぎらう小宴会が開かれた。

 最近はご近所と言っても中々交流の機会が無い。 「隣は何をする人ぞ」の世界なのである。 しかし、こうした機会があると、近所であるだけに急接近する。 聞けば、隣の奥さんは保母なのだそうだ。 そこで、少し前になるが、防災に関連して米国FEMAのホームページに掲載された児童向けの防災読本・絵本の一部を翻訳したことを話した。 「まあ、座興程度」と思っていたが、意外に関心があるように見えた。 そこで、お節介かと思いながらも、プリントアウトを見せた次第。 地震・洪水と災害が続いたこともあるのか、子供たちに見せて反応を見てもらえることになった。

 ところで、NHKの番組に『ご近所の底力』をいうのがある(あった?)。 バラエティの延長で見ても、それなりに楽しめる番組だが、事例研究の視点で見ると意外に参考になる。 1つのテーマによって、ご近所が協力していく過程が望見できるからだ。 この番組では、似た様な問題を解決した3つの事例が紹介される。 そのプレゼンテーションを評価し、賛否を投票する。 投票の結果が、問題を提起したご近所の問題を絞り込む。 今までお付き合いの無かったご近所の才能やら能力が認識される。 「へー、あのお宅は、そんな仕事をしていたの!」、「あら、貴方もご同業」とか。 結果として、ご近所が問題解決に対して機能的に融合し、底力が引き出される。

 アルフレッド・T・マハンは、日露戦争の研究に当たり、「目標を単一にする」というナポレオンの戦略には「折衷と調整」の問題があると指摘する。 目標達成には、対立と妥協が付き物だ。 対立は力の分散を招く。 妥協も中途半端な力の分配になる。 「マハンは、《目標の単一性》とは、何よりも《対立は対立》であることを認識することであり、両方を得ようとして譲歩しようが一部を断念しようが、両方を有効に保有する事を理解すべきであると強調する(山内敏秀『マハン戦略の現代的意義を問う』)。 要するに、米国の緊急展開軍の発想が、ここにある。 因みに、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公の一人でもある秋山真之が、米国留学中に師事したのが、当時既に退役していたマハンなのだ。

 若井には、ユンボーやダンプなどがある。 お隣には、土木の現場とノウハウがある。 小宴会では、折衷と調整で、ご近所の互助システムが出来たのかもしれない。

『柏崎通信』249号から転載


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1947/05/18
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