柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 海軍軍医を調べていたら面白いサイトに行き当たった。 海兵71期生のホームページだ。 管理者・佐藤清夫氏は、終戦時、大尉・駆逐艦「野分」の航海長だったそうだ。 その後、海上自衛隊で、護衛艦艦長などを歴任、佐世保警備隊指令で退官、著作も多いようだ。 詳細な記録で、今後の役に立つと考えサイト公開の文章をダウンロードした。 12月8日は、「リメンバー・パールハーバー」の日。 そこで、このテーマを採り上げた。 そのサイトは次の通り。

 http://www005.upp.so-net.ne.jp/doukinosakura/

 表題は? この中に、昭和2年3月11日付の山本五十六元帥の未公開(?)の手紙がある。 その内容が興味深い。 山本元帥は、当時、43歳、海軍大佐・米国駐在武官。 興味を持ったのは、文中に米国の5人の海軍大佐が、1年間の「航空偵察学生教程」で若い学生に混じって、この教程を履修しているとあることだ。 このサイトの管理者も同様の関心を持ったようだ。

 ハルゼーとスプルーアンス、それにニミッツの伝記は読んだことがある。 詳細は省くとして、当時の米国海軍の平時における姿勢に興味を持ったことがあるのだ。 このサイトに、それを裏付ける記載があった。 それが、5人の海軍大佐の航空偵察教程の履修なのだ。 ハルゼー(当時46歳)も、山本元帥の滞米中ではないようだが、矢張り、数年後この教程を履修しているそうだ。 当時の日本では考えられないことであったらしい。
 それが、山本元帥の書簡に見える。

 昭和2年(1927)といえば、先見の明のある人には世界恐慌(1929)の足音が聞こえる時期だ。 この年、日本では、金融恐慌が勃発している。 記憶が正しければ、米国でも農業に翳り(農業恐慌)が見えた時期だ。 世情が騒がしくなり始めた時期、何と米国海軍は、50歳以上の大佐に先端技術を習得させているのだ。 米国では、19世紀発明特許件数が幾何級数的に増加し、20世紀初頭にピークを迎えている。 第一次世界大戦が終わり、丁度、こうした特許が花開くのが「ローリング・トウェンティ」、すなわち20年代に当たる。 しかし、米国海軍は予算的にはどん底の時代ではなかったか。 因みに、ずいぶん昔のことだが、当時米国海軍内に航空母艦の重要性を力説するが、大鑑主義と予算の壁に阻まれて苦労する海軍士官をジェームス・スチュアートが主演した映画を見たことがある。

 要するに、興味を持ったのは、この姿勢なのだ。 この事が、直接、米国の勝因に繋がるとは思わないが、それでも矢張り気になる事実だ。 団塊の世代としては、考えさせられる。 それに組織と言うものに余り縁が無いので良く分からないが、この姿勢は必要ではないだろうか。  

(12月15日)『柏崎通信』420号より転記

 偶々、TVのニュース解説で国保問題を放送していた。 この問題には身に積まされる思いがあるが、また別の機会に書くとして、地域医療の歴史を調べていたら、面白いことに気付いた。

 明治以降、新潟出身の、しかも長岡近隣出身の著名な医学者の多いことに気付いたのだ。 幕末・明治の洋学(医学)には、2人のキーパーソンがいる。 その一人は、以前紹介したことのある森田千庵だが、もう一人のキーパーソン長谷川泰(たい)の存在が大きいことに気付いたのだ。

 長谷川泰は、天保13年(1842)、旧古志郡福井村(現在の長岡市福井町)の漢方医・長谷川宗斎の長男として生まれ、下総佐倉の佐藤泰然の順天堂で蘭方を学んだ。 その後、松本良順の江戸医学所に学ぶのだが、戊辰戦争のとき、松本良順が佐幕軍に投じる為、その医学所の引継役のようなことをしている。 その為か、戊辰戦争では官軍に軍医として従軍している。 この辺りの事情は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に詳しい。 明治になって、東京医学校校長(明治2年)、長崎医学校校長(明治7年)、私立医学校・斉生学舎創立(明治9年)、更に同年東京府病院院長、明治23年には衆議院議員(3回)と華やかな経歴を経て、官僚に転じ内務省衛生局長(明治31年)に就任、どういう訳か(開業医と東大医学部出身のエリート医学者の権力闘争の結果か。 この件、後に触れる。)、明治36年には斉生学舎を廃校している。 没年は、明治45年(1912)3月11日。 因みに、斉生学舎も卒業生には、野口英世もいる。 また、斉生学舎は、日本医科大学の前身である。

 ところで、軍医には新潟出身者が多いことを御存知だろうか。 参考の為に、紹介する。

陸軍(あいうえお順)
◎石黒忠悳(ただのり):弘化2年(1845)生、現小千谷市片貝出身(伯母の縁で石黒家の養子になる)、明治30年、第三代軍医総監、日本赤十字社第四代社長、子爵
◎合田平(ひとし):生年・出身地不詳、軍医総監(昭和4年)
◎佐藤林太郎:明治15年生、関川村、軍医総監(昭和11年)
◎梛野巌(いつき):明治24年生、長岡市、中将(昭和17年)、南方軍軍医長(昭和19年)、昭和16年、北支派遣軍の軍医町の時、北京・協和医学院から紛失した北京原人の化石(頭骨?)の捜査に協力したことで有名。 また、梛野直の子息でもある。 因みに、母親・保子は、解剖学者・人類学者として有名な小金井良精(よしきよ)の妹、また、良精の母・幸(ゆき)は、小林虎三郎(病翁)の妹。
◎西本福太郎:生年・出身地不詳、少将(昭和15年)、第11軍軍医長(昭和14年)
◎水野操:生年・出身地不詳、少将(昭和18年)、第18軍軍医長(昭和17年)、昭
和18年戦死(任中将)
◎村上有(たもつ):出身地不詳、軍医監(大正9年)

海軍(あいうえお順)
◎石黒宇宙治(うちゅうじ):嘉永7年(1854)生、旧西蒲原郡吉田町出身、海軍軍医総監(明治39年)、長谷川泰の内弟子、東大医学部卒、斉生学舎講師
◎石黒芳雄:明治26年生、出身地不詳(新潟医専)、中将(昭和19年)、佐世保病院長(昭和19年)、航空衛生学の権威、著書に『航空衛生学大意』
◎宮尾信治:明治5年生、出身地不詳、少将(大正15年)、佐世保病院第二部長(大正14年)、刀剣の収集家としても有名だったようだが、詳細は不詳。

 以上の様に、詳細に比較したわけではないが、他県出身者に比べ極めて多いのである。 特に、陸軍の幹部軍医(将官あるいは将官相当)に多いのだ。 どうもこの背景には、佐藤泰然の弟子であった長谷川泰の影響があるのではないだろうか。 因みに、初代軍医総監である松本良順は、佐藤泰然の実子であり、長崎医学所・江戸医学所の創設者でもある。

 軍医関係以外、あるいは本来の医学の世界でも活躍した人が多い。

 例えば、梛野直(ただし)がいる。 天保13年(1842)、長谷川泰と同年に、現長岡市堀金で生まれ、長岡藩藩医・梛野恕秀の養子となり、後に江戸・長崎に遊学し、大阪では緒方洪庵の適塾に入塾している。 維新後は、伯父・小林虎三郎(前述参照)や三島億二郎の知遇を得て、長岡病院・長岡医学校(長岡に医学校があったことは興味深い事実である)長、野本恭八郎(山口権三郎の弟)の「ランプ会」にも参加している。 明治10年の西南戦争には、軍医として従軍しているので、矢張り、軍医との関係も深い。

 また、日本医師会のカリスマ・ドンとして勇名を馳せた武見太郎も長岡との縁が深い。 武見太郎の父は、長岡市関原の豪農の四男・可質(かしち)、母親は小千谷市片貝の庄屋・新野家の長女・初である。 因みに、片貝は石黒忠悳の出身地でもある。 また、吉田茂との姻戚関係は有名だが、長谷川家とも姻戚関係にある。 長谷川泰の子息・亀之助の妻・きくは、武見太郎の妹なのだ。

 柏崎についても触れておこう。 長岡藩藩医の子孫・丸山直友(明治42年生)は、東大医学部で助手を務めた後、長岡に開業し、長岡市医師会長、衆議院銀、日本医師会副会長を歴任したが、後に、柏崎に移住開業している。

 以上、『ふるさと長岡の人びと』、『帝国陸軍将官総覧』、『帝国海軍提督総覧』などを参照の他、インターネットを駆使し調べた。 興味ある方は、参照、検索されることをお薦めする。

 大分長くなってしまった。 どうも記憶力が悪い所為か、線が面へ展開しない。 ただ、中越あるいは長岡近隣の出身者あるいは縁故者が、日本の医学界に果たした役割は大きいことが判るのである。 この辺りの人の繋がりが有機的に結合すればと思うのだが、その余裕も無い状態だ。 個人としての限界かもしれない。

 (12月14日)『柏崎通信』419号より転記

 アーネスト・サトウと言えば、幕末・維新の英国外交官として有名だが、サトウ自身のことについて知る人は意外に少ないのではないだろうか。 しかも、歴史が高校の授業で継子扱いされている現状では、尚更のことだろう。

 そのアーネスト・サトウの有名な自伝『一外交官の見た明治維新』には、皮肉にも、冒頭に彼自身の受験(競争試験)観が書かれている。 アーネスト・サトウは、優秀だったようで、16歳でロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに入学を許され、3年で学士の学位を取り、丁度募集のあったシナと日本への通訳生の受験に応募し、合格している。 この試験に応募したのは、18歳のとき、兄が図書館から借りてきたローレンス・オリファント著の『エルギン卿のシナ、日本への使節記』を読み、「絵草紙ふうのこの本が私の空想をかりたてた」からだそうだ。 略歴によれば、彼の成績が優秀だったので、父親は、ケンブリッジかオクスフォードへ入学させるつもりであったようだから、もしこの本を読んでいなければ、全く別な人生を歩んだのかもしれない。

 彼は、『一外交官から見た明治維新』の第一章で、この時の受験観を書いているのだ。 そこで、先ず、少々長いのだが、その部分を引用してみよう。

 「この試験制度の大きな欠点は、人間の徳性(モラル)を考えないところにある。 受験者が紳士の作法を心得ているか、また紳士としての感情をいだいているかどうか、ユーグリッドの低利を書かせたり、ギリシャの学者の書いた文章を翻訳させたりする方法で判定できるものではない。 そんな方法で知能の試験はできはしない。 頭の悪い青年でも適当な受験勉強の指導を受ければ、山を賭ける「秘訣」を知らない誠実な学生を大抵わけなく打ちまかすことができるからだ。 当今、公開試験の受験者はみな受験勉強の先生につくが、この先生は試験目当ての数ヶ月の訓練で、かりそめの不自然な果実をみのらせる。 私に言わせれば、合格した受験生とは取りも直さず、上手に受験の指導を受けた志願者にすぎない。 しかし、大抵の受験者はこうした方法については嫌気をさし、以前は勉強好きだった者でも勉強する気持をなくしてしまう。」 (岩波文庫、坂田精一訳『一外交官から見た明治維新』(上)から)

 およそ150年前のアーネスト・サトウの言葉なのだ。 今も、そのままで通用する。

 ところで、明治維新直後、日本政府も官吏登用に関する議論を行っている。 当時の議会を「公議所」と謂った。 その議事録は、『公議所日誌』として公表された。 明治2年の第8号(1869年4月12日)の『公議所日誌』に、会計官権判事・神田孝平の建白書が掲載されている。 要約すれば、(1)中国の科挙を見習った公開の試験による官吏登用、(2)科挙の弊害であった形式学の排除、実学による試験科目の採用、(3)試用期間(インターン制)、(4)議会による試験官の選出、などの提案だ。 しかし、実際に官吏登用試験が実施されるのは、明治20年(1887)の「文官試験試補及見習規則」からである。 因みに、神田孝平は岐阜県出身の洋学者で、森有礼(ありのり)・福沢諭吉・西周・箕作秋坪・箕作麟祥などと結成した「明六社」のメンバー。

 いずれにしても、維新・明治初年頃に、教育、あるいは、その結果としての人材登用試験において、その在り方が多いに論議されていたのである。 しかも、先の「明六社」のメンバーからも推測されるように、明治維新に最も深く関与した外国人の一人であるアーネスト・サトウらの影響も大いにあったと考えられるのだ。

 まあ、推測は所詮推測でしかない。 ただ、既に150年くらい前、洋の東西で同様の論議があった。 そして今、また同様の議論がある。 これをどう解釈すればよいだろう。 歴史は巡ると見るべきか、それとも人の本質は、何ら進歩しないと言うべきか。 アーネスト・サトウの言葉には、考えさせられてしまうのである。

(12月12日)『柏崎通信』418号から転記

 前回、余談として『リーズデイル卿回想録』に触れた。 在日当時は、未だリーズデイル伯爵家あるいは自身が創設した男爵家を相続したわけではないので、アルジャーノン・バートラム・ミットフォードだが、卿のことは、先に上げた回想録やその他の研究書で知ることが出来るので今回は省略する。 興味を持ったのは、その男爵家を相続した次男のことなのだ。 リーズデイル卿には、5男4女があったそうだが、長男が第一次大戦で戦
死した為、次男が相続している。 デイヴィッド・バートラム・オーグルヴィー・ミットフォードだ。

 第二代リーズデイル男爵デイヴィッドは、矢張り第一次世界大戦に出征しているのだが、生き残った。 除隊後、カナダに渡り、「スワスティカ金鉱」を購入している。 先ず、この「スワスティカ」が、その後を暗示しているのだ。 ご存知のように、「スワスティカ」は、ナチスの紋章なのだ。 その後帰国して、結婚し、4女を儲けている。 1920年代、リーズデイル家の財産は、世界恐慌の影響か、相当に傾いたようだ。

 さて、問題はこれからである。 デイヴィッド卿は、極右思想に傾倒していくのだ。 例えば、反ユダヤ主義極右組織{The Link」のメンバーにもなっていたようだ。 その影響か、長女ダイアナは、1936年、英国のファシストのリーダーであるオズワルド・モーズレーと結婚している。 また、4女のユニティ(Unity、変わった名前だ)は、ドイツに渡る。 そこで、ヒトラーを始め、ヒムラー、ゲーリング、ゲッペルスなどナチスの要人と会っているのだ。 しかも、ヒトラーは、新聞記者のインタビューに応え、「ユニティは、完全なアーリア民族の女性だ」と語っている。 確かに、中々の美人なのだ。 第二次世界大戦が勃発すると、ユニティは自殺未遂事件を起こし、帰国、1948年に没している。 因みに、この辺りの事情と彼女の顔は、次のサイトで見ることが出来る。
 http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/WRmitfordU.htm

 話が前後するが、どうも、この家系は美男美女の家系であったようだ。 初代リーズデイル男爵、すなわち幕末の日本と、その明治39年に再来日したアルジャーノン・ミットフォード(以下、単にミットフォードとする)も美男であったと伝えられている。

 しかし、どうも判らないのが、何故に、次男が極左に走ったかである。 回想録に見えるミットフォードは、パークス公使を始めとする他の面々が、叩き上げ的異色の経歴を持つ中で、唯一名門に生まれ、紳士としての資質を持ち、日本に対する態度の中にも、並々ならぬ愛情を示しているのだ。 彼の最初の出版物、『Tales of Old Japan』は、ラフカディオ・ハーンの『怪談』に匹敵する日本昔話の拾遺集なのである。 それに、語学の才
能があったようだ。 両親と共に、ヨーロッパを巡り、その間にフランス語を習得し、中国に派遣されたときには、中国語も堪能だったようだ。 更に、日本に駐在したときには、アーネスト・サトウに日本語を学び、僅か一年足らずで日本語をマスターしているのだ。 こういう人物は、人種的偏見とか宗教的偏狭さを持たないものだ。 事実、帰国後、ディズレーリ内閣の時、建設相に就任もしている。 因みに、ディズレーリ(Disraeli)は、その名前が示す通り、ユダヤ系である。

 ただ、それだけで、結論を下すのは早計だが、いずれにしても極右思想とは縁遠いように思われる。 ただ、ドイツとの関係はあったことが推測される。 以前書いた「レッド・バロン」のことを覚えているだろうか。 「レッド・バロン」の叔父に当たるリヒトホーヘンは、幕末プロイセン使節団の一員として来日しているのだ。 当時の日本における外交使節団は、利害関係は対立しても「呉越同舟」の状況にあった。 鳥羽伏見の戦い当時、まだ攘夷論者が横行していた。 戦い後に混乱する大阪を避難して、神戸の居留地に外交団が集結していた頃、備前藩による銃撃事件が起こっているが、その様子が、「呉越同舟」の状況を物語る。 ただ、果たして、リヒトホーヘンと面識があったかどうか、これも想像の域を出ないのだが。

 それに、当時の貴族社会は複雑だ。 ヴィクトリア女王の甥や姪が、ヨーロッパ各国に散在した。 ドイツ皇帝もその一人だ。 貴族社会の同様だ。 リーズデイル伯爵ミットフォード家は、かのシャルマーニュ(シャルル大帝、カール大帝)に発する家系とか。 ブルーブラッド・ネットワークは、今でのそのようだが、もっと結びつきが強かっただろう。 この関係の無視できない。 しかし、それも推測の域だ。

 いずれにしても、家系を辿ると思わぬ発見がある。 現在の政治図式にも通じるのだ。 最近(2002)、「Mitford's Japan: Memories and Recollections, 1866-1906 」という本が出版された。 英国でも、当時の記録が見直されているそうだ。 歴史の研究が脚光を浴びるのは、どうも変革期あるいは転換期であるようだ。 1800年代は、市民革命の時代であり、帝国主義の時代でもある。 相反する二つの思想が拮抗する時代か
もしれない。 歴史は、点から線へ、そして面へ広げ、時空間として展開しなければ、理解すること出来ないのではないか。 それは、個人の、組織の、そして地域に歴史についても言えるのではないだろうか。

 そう、それに平和な時代が続けば、淘汰され生き残った家系は肥大していく。 それだけに、歴史における人の繋がりは、丁度、遺伝子の連鎖の如く、現在社会を形成する重要な因子なのではないだろうか。

 因みに、現在のリーズデイル男爵家の第6代当主は、英国の自由民主党の議員である。
 http://libdems.org.uk/party/people/lord-lord-redesdale.html

(12月7日)『柏崎通信』417号より転記

 ゲーム・フリークだった私も最近ほとんどゲームをしない。 しかし、気になる世界であり、無関係な世界でもない。 しかし、「RMT」という言葉は、今日のNHKの朝の特集で初めて知った。 何と、150億の市場が形成され、更に拡大の傾向にあるというのだ。

 ゲームをしない人には、無縁の世界かもしれないが、「RMTとは、ゲームの中で使用される仮想通貨の現実的売買」のことなのだ。 特に、オンラインのロール・プレーイング・ゲーム(RPG)で使用される仮想通貨が売買の対象であるようだ。 しかし、RMTが生れるであろう背景は既に存在していた。

 社会現象として、ニュースにも採り上げられたオンライン・ゲームで、仮想から現実の付き合いになって生れたカップルや遠距離交際による通信費問題などだ。 特に、韓国では、ある日突然多額の国際通話料金の請求が来て驚いた(それ以上だろう)親の話などがニュースとして報道されたこともあるのだ。 また、ゲーム攻略本の氾濫も、その前兆現象だったのではないだろうか。 時々訪ねる古本屋でも、ゲーム攻略本のコーナーがマンガのコーナーに匹敵する面積を占めているのだ。 因みに、オンラインゲームのランキングを見ると、矢張り、RPGが1位から4位を占めている。 ニュースでは、最大のオンラインゲームで加入者数が約9000人だそうだ。

 ところで、以前紹介した「XXゲーム」を覚えているだろうか。 設立当初から「XXゲーム」には着目していた。 もう2年前になるが、ホール業界の動向を分析していた頃、このサイトに行き当たり、背景を調べた。 メンバーには、ホール業界の人も多いので、「なるほど」と納得する人もいるかもしれない。 まあ、それは措くとして、このゲームサイトの出現は、ちょっと注意を引くものがあった。 満を侍して出現したといえるからだ。

 それは、その年、米国の上院に議員法案として「オンライン・ギャンブル規制法案」が提出され否決廃案になった経緯があったからだ。 当時、日本では、今お騒がせの野田聖子議員を会長とする「国際観光産業としてのカジノを考える議員連盟」や石原東京都知事の公営カジノの問題が騒がれていた時期でもあった。 当然、ホール業界は、この動きに敏感であった。 大手ホールの中には、それを見越して、破綻第酸セクターのテーマパークを買収したところもある。 一例は、安倍総理のお膝元に近い旧豊浦町のテーマパークだ。 そして、もう一つの動きが、オンラインゲームへの参入だ。

 オンラインゲームへの参入の背景は、必ずしも単純ではない。 先ず、有能な技術者の囲い込みが推測される。 大手ホール業界は、既に、OLAP(オンライン分析処理)を導入していたし、そのヴィジュアル化を推進していた。 この為の要員確保もあったのだが、システムが完成すれば、その人員を別な分野に向けることにな。 その一つがオンラインゲームだ。 当時、ゲームセンターが転換期を迎えていた。 目玉商品を欠いていたの
だ。 そこで、彼らも、公営カジノに着目していた。 そこで、近似する二つの業界が接近し、リンクした訳だ。 「XXゲーム」の背景を調べて、大手ホールの経営戦略の深さと広がりを感じた。 「こりゃあ、二極化どころか、寡占状態になるのではないか」と。

 次に出現したのが、「生活・アミューズメント複合」だ。 公共における社会的地位の確立だ。 スタジアムのという言葉が、ホール業かに出現したもの、この頃である。 それを裏付けるように、ホール関連業界の大手が、財団法人の設立を目立ってきた(可也以前から、メーカー側にはあったのだが)。

 さて、そこでRMTが浮上する。 現在は、RPG以外の仮想通貨の問題は無いようだが、何時でもシステムを他の分野にも広げることが出来るシステムだ。 例えば、「XXゲーム」の場合、丁度ゲームセンターで遊ぶのと同じように、コインをクレジットカードで購入する。 (初回は、無料。) そのコインの範囲内で、例えば、仮想パチンコやパチスロで遊べる。 以前書いたように、仮想のホールが全国にあり、そのホール内ではチャットも可能なのだ。 そこで、コミュニティが形成され、仮想キャラクタ間の仮想通過の交換や売買が可能なのだ。 勿論、現在は違法である。 しかし、システムとしては、可能ということであり、法環境の変化によっては、莫大な市場になるということである。

 そこで、冒頭のニュースを考えると、推定150億円の市場規模が、果たして妥当なのかと考えるのだ。 しかも、潜在市場規模は、膨大なのだ。 野田聖子議員が復党して、一時期沈静化していたカジノ問題、さて、どのような展開になるのだろう。

 ところで余談だが、新しいネットビジネスを見つけたので紹介する。 先日、『リーズデイル卿回想録』を読んでいて、幕末日本の英国公使館の護衛の任に当たっていたのが、第9ノーフォーク連隊であることが判った。 そこで、ロイアル・ノーフォーク連隊のホームページを調べた。 実際に日本に駐屯したのは、「9th Regiment of Foot(第9歩兵連隊)」の第二大隊(Battakion)で、一時期解体し、グレート・ヨーマスで1857年再編、イオニア諸島、ジブラルタルを経て、香港駐屯、1866年横浜に駐屯している。 その後、横浜大火の後、泉岳寺に近くの仮公使館に進駐している。 実は、この関連のサイトを追いかけていたら、ある軍事系本屋のサイトに行き当たった。 そこで、何と、999,999番目のヴィジターになったのだ。  「Congratulation!!!」 ところが、よく読んでみると、フリーLottoなのである。

 本屋がサービスの一環として、登録メンバー数のLottoを買うのだ。 そこで、当たった場合、それを登録メンバーや購読者に還元するシステムなのだ。 但し、登録メンバー(購入者ではない)の場合、サイト内で抽選して配当を分配する。 そこで、節目の前後、例えば、999,999の場合は、特別配当と言う事になる。 更に調べていくと、このLottoは、このシステムを売り物に、多数のサイトで同じ事をしていることが判った。 一時期問題になった共同購入が、変化して成長したということだろう。 このシステム、遠からず日本でも流行するのではないだろうか。 因みに、本屋は英国、Lottoのサイトは米国であるようだ。

(12月6日)『柏崎通信』416号より転記

 



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