柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 友人である市川昌平家に伝わった『居合術口伝書』、及び、「生田萬の乱」にも関係する越後における神道無念流から端を発した調査だが、どうも単純に剣術の歴史という訳にはいかないようだ。 因みに、『居合術口伝書』は、市川氏の御尊父・故市川鱗平氏が、昭和五年、神道無念流・第七代宗家・中山博道から神道無念流と大森流・長谷川流の抜刀術に関する免許皆伝を受けた際に書かれた口伝書である。

 神道無念流の系譜を辿ると、第六代が長岡藩の根岸信五郎で、その師が斎藤弥九郎である。 そこで、齋藤弥九郎を調べる為、文献を集めていたのだが、幸い木村紀八郎著『剣客斎藤弥九郎伝』という最良の評伝を得た。 その本が先週、やっと届いた。 そこで読み始めたのだが、これが大変である。 斎藤弥九郎の門弟に、維新の志士、特に桂小五郎を始めとする長州の志士がずらりと並んでいる事は知っていたのだが、斎藤弥九郎その人が、幕末の歴史そのものに深く係わっていることは知らなかった。 勉強不足である。

 斎藤弥九郎は、水戸斉昭、あるいは藤田幽谷・東湖父子との係わり、更に、韮山奉行・江川太郎左衛門父子・英毅(ひでたけ)・英龍と深い係わりを持っていたのである。 しかも、江川家とは、練兵館開設の物心の支援ばかりではなく、あれほど嫌っていた宮仕えまでしているのである。 身分は、韮山代官所・書役(非公式には手付・手代)だが、実質的には、客分・相談役であり、英龍の時代には、探索から連絡役、更には対外折衝までしていると云う。

 斎藤弥九郎は、寛政10年(1798)1月13日、現在の富山県氷見市仏生寺(越中国射水郡仏生寺村字脇谷)の裕福な農家に長男として生れた。 (尚、斉藤弥九郎の生年・没年に関しては、異説がある。) 伝聞・推測の域を出ないのだが、この地に生れたことは、後に大きな意味を持つのではないだろうか。 以下、少々私事を書く。

 私がコンピュータの世界に深く関与する切っ掛けを作った人が居る。 友人であり、師匠でもあるこの人物の出身地が富山県高岡市。 県立高岡高校の出身で、東京工業大学に進んだ。 専攻が何であったか詳しくは知らない。 ただ、私との接点は、ウィットゲンシュタイである。 逸話の多い人だが、それはまた別の機会に。 彼からよく聴かされた話しがある。 「越中富山の薬売り」の話だ。 この元締めが、確か神通川を挟み二家あ
り、その一方と縁続きと聞いた。 「越中富山の薬売り」になる為には、その株(売り掛け台帳、データベース)を買わなければならない。 三十数年前、当時の金で2000万円だったそうだ。 さて、今の金で幾らになるのだろう。 ただ、それ位、富山の人々にとっては価値があり、また、当時でもそれ位、富山県人には深い係わりがあったそうである。 序でに書けば、戦後の日本配電送の解体、黒部の電源開発で疑獄事件があったそうだ。 北陸電力が小なりと言え独立を保てた背景には、彼の父上の働きがあったと聞く。 未だ書けない話である。 もしかすると、吉澤さんはご存知かも。

 余談がだったが、この「越中富山の薬売り」のネットワークが、何らかの形で斎藤弥九郎の背景にあると思えるのである。

 江川太郎左衛門英毅からの人脈もあるのだろうが、英龍の交際範囲は、想像以上で、幕末の漢学者・洋学者・書家・画家など、ほとんど全般を網羅するものだった。 そのクーリエ的存在であった斎藤弥九郎の人脈の広さは、推して知るべし。 単なる人脈の広さではない。 例えば、英龍と鳥居耀蔵との確執、あるいは幕儒・林大学頭家との確執から端を発すると云われる「蛮社の獄」でも重要な役割を果たしているのである。 渡辺崋山
が、捕らえられ入牢した際には、「命のつる」すなわち牢役人や牢名主に渡す賄賂を英龍から預かり、実際に渡しているそうだ。 また、崋山が有罪になる欠の切っ掛けとなた『西洋事情書』を、英龍が幕府へ提出するのに待ったを掛けたのも斎藤弥九郎であったようだ。 尚、有罪の証拠とされた『西洋事情書』は、家宅捜査で発見された草稿の事。 内容に可也激しい幕府批判があった為、修正を依頼し、それに更に修正を加えたものを西洋事情の参考資料として提出する予定だったようだ。 幕臣である江川英龍としては、当然のことであっただろう。

 話が横道に逸れるが、以前、越後とも関係の深い朝川善庵・亀田鵬斎について書いたことがある。 江川太郎左衛門は、内容はさて置き、この両者にも文章の添削などを依頼しているようだ。 片山兼山や井上金峨(父・英毅の時代にはあったかも知れない)などとは、時代的に接点がないのかもしれないが、折衷学派との係わりが見える。 また、古賀洞庵や屋代弘賢との交流があったようだ。 前者は海防問題(『俄羅斯(オロシャ)紀聞』)、後者は平田篤胤の後援者として国学に通じるのである。 また、海防問題では、間宮林蔵や近藤重蔵との交流があり、渡辺崋山ともこの辺りで親交が始まるようだ。

 要するに、余りにも交際範囲が広いのである。 伊豆韮山代官である江川太郎左衛門は、常に江戸に居た訳ではない。 天保の飢饉の頃には、名代官としての業績をかわれ、今の山梨県都留郡などの一揆の後始末の後、預かり領として、施政に多忙であった。 因みに、都留・石和辺りでは、「永代江川様の支配地であって欲しい」と節句に「世直し江川大明神」という幟を立てたというから、その善政ぶりが知れるのである。 加えて、海
防問題があり、大塩の乱や蛮社の獄などがある。 兎に角、八面六臂の活躍なのだ。 この様に多忙な英龍の手足として活躍したのが、斎藤弥九郎なのである。

 越後との係わりを見ると、資料中、生田萬事件に触れるところはないのだが、鷲尾甚介(尾張藩浪人)や鈴木城之扶(水戸藩士、藤田東湖の門人とも伝えられる)らは、弥九郎と同門である尾張藩剣術指南役・永井軍太郎の門人である。 彼らの行動に対する見方も変わる。 すなわち、神道無念流を単なる剣術の一派と考える訳にはいかないのである。
 

 斎藤弥九郎は、明治初年まで生きた。 木戸孝允の日記には、明治4年10月25日、「今日福井(順道)より斎藤篤信斎(弥九郎)昨日死去の事を承知せり。 実に余の恩人七十有余不治の病をしるといえども、また愁傷に堪えざるなり」、また28日には、「齋藤に至り、篤信斎の遺骸に礼す」とある。 その生涯、維新前後の歴史に、どれ程の影響を与えたのだろう。 そして、それが現在にどのように繋がっていくのか。 追々に調べていこうと思うのである。

『柏崎通信』435号(2007年2月6日)より転載

 先週の土曜日、昨年末開館した河井継之助記念館を木島さんに同行して訪ねた。 一月のこの時期、通常なら雪を懸念するのだが、曾地峠辺りで、霙交じりの雨、長岡市内には雪の気配さえない。 大凡の場所の見当は付いていたのだが、念の為に、駒形君を訪ね所在を確認する。 記念館の駐車場で、送ってくれた若井と息子と別れ、木島さんと記念館へ。

 館内に入ると、幕末日本には3台、しかも中2台を継之助が確保したというガトリング砲のレプリカが鎮座している。 受付で案内を請い館長の稲川先生と面会。 入口脇の事務室で面談。 今回の訪問は、木島さんの取材と歴史講座の打合せということだったが、話題は文学から歴史に及び、歴史講座の話は何処へやら。 歴史については多少の知識があるが、文学になると全くの門外漢。 しかし、傍聞しながらも、興味は湧くばかりで
あった。 「矢張り、長岡には華がある」、話に登場する人々が生き生きと色彩を放ってくるのだ。 話が歴史の及び、稲川先生に多少の質問。 細い眼の奥に熱を帯びた視線を感じる。 「こりゃあ、とても敵わん」 勉強不足を痛感する。

 話は尽きないが、木島さんの取材がある。 稲川先生の案内で、展示物を拝見。 各コーナーで説明を聞く。 最高の案内人の最良の解説である。 増えてきた入場者には、「申し訳ない」の一言。 継之助の日記『塵壺』などの展示にも、通り一遍の展示ではない稲川先生の配慮がある。 床は気持ちを和らげるブルーを基調にしたカーペット、展示内容の表題にはサブタイトル、見る者の心理を計算した視線より低く目の展示位置、全文
を展示できない史料は特に厳選して重要な部分を、展示された古文書の解説には徹底してルビをふるといった具合だ。

 圧巻なのは二幅に書かれた「常在戦場」、勿論真筆である。 それに、小千谷談判で受け取って貰えなかった『太政官建白書草稿』 書家に依頼して複製を作られたそうだ。 初見だが、継之助の思想・人となりが明確になる。 『峠』から想像して漢文だと思っていたが、幸いにして書下ろし文調、書体も御家流ではなく行書体(?)、何とか読むことができた。 内容も素晴らしい。 継之助の「民」の思想が明確になる。 稲川先生の解
説も、ここで最も力が入った。

 因みに、書体には意味がある。 確かではないのだが、天皇(皇帝)へは「楷書」、高位の官衙(官庁)あるいは上級者へは「行書」、同位の者あるいは庶民は「草書」を使うと聞いたことがある。 ただ、日本の場合、公文書は「御家流」だった。 漢字かな混じり文・行書体で書かれた事に、「何かの意味があるのでは」と感じた。 但し、全くの憶測。

 いずれにしても、一見、否、一見どころか何回でも訪ねて、熟読したいほどの価値がある。 拙文で紹介するのが申し訳ない。 近くには「山本五十六記念館」もある。 一度、訪ねては如何だろう。 歴史に対する見方が変わるかも知れない。

『柏崎通信』434号(2007年1月30日)より転載

 昔、大叔父の家で、三舟の書、三幅を拝見したことがある。 三舟とは、勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟のことである。 勝海舟は周知の通りだが、高橋・山岡の二舟については少々説明が必要だろう。 高橋泥舟(精一)は、幕末の槍の達人、山岡鉄舟(鉄太郎)は、泥舟の義弟で、北辰一刀流の件の達人である。 また、鉄舟は書家としても有名で、父親・小野朝右衛門高福(たかとみ)が飛騨高山に郡代として赴任していた頃、弘法大師
の書流・入木道(じゅぼくどう)五十一世・岩佐一亭の師事し、15歳で道統を託され、五十二世を継承しているのだから、その天与の才能の程が知れるだろう。 大叔父宅で三舟・三幅の書を見た時、鉄舟の書が、ひと際抜きん出ていたのも当然かもしれない。 以下少々羅列的になるが、話を進める為、三舟について若干触れる。

 三舟には幾つかの共通点がある。


○共に幕府の御家人であった。 ただ、、600石の旗本の三男だった山岡鉄舟が、貧乏御家人の婿養子になったことは、当時の身分社会としては異例であったようだ。
○三者には武術という共通点がある。 海舟の父親・小吉は、旗本・男谷家の出身で、幕末の剣聖といわれた男谷精一郎とは従兄弟の関係。 海舟は、男谷精一郎の高弟・島田虎之助に剣を学んでいる。 また、幕府が講武所を開設した時、男谷精一郎が頭取であり、教授に名を連ねていた義兄・高橋精一(泥舟)や師である井上八郎の奨めで、山岡鉄太郎(鉄舟)も助教になっている。 余談だが、男谷家は、小十人組の御家人(後に1000石の大旗本なる)、その御家人株を買った(養子に入った)のが男谷(米山)検校、男谷検校は、現在の柏崎市長鳥の出身である。

 ただ、今回のテーマは三舟ではない。 実は興味を覚えたのは、山岡鉄舟の少年期の家庭の事情なのだ。 鉄舟の母親は、三人目の後妻である。 しかも、親子ほど歳の離れた結婚をしている。 実家は鹿島神宮の神官の家で、その辺りが小野家の領地だった。 祖父・塚原秀平は、その小野家の領地の管理を任されていたようだが、理財の才能があった様で、朝右衛門が懇請して小野家の用人になった。 その父親の才能を受け継いだのか、母親は賢妻・賢母であったそうだ。 父・朝右衛門が飛騨郡代であった当時、その相談役であったのが母親だと云う。 要するに、かかあ天下なのである。 たで、出しゃばる様な事はなく、役所の部下や領民にも慕われていたと云う。

 実は、石黒忠悳の少青年期に、共通点を見出すのだ。 その一つが家庭の事情にある。 ほぼ同い年で母親を亡くしている。 山岡鉄舟は、後年までその母親を敬慕していた。 磯田道史著『武士の家計簿』によると、武家の主婦の立場は、想像する以上に強かったそうだ。 飛躍かもしれないが、維新後、名を成す人々に共通するのが、母親の存在ではないかという仮説が立つ。 しかも、単に儒教で云う賢妻・賢母ではなく、理財の才能があったように見受けられる。 石黒忠悳の場合は500両の軍資金、山岡鉄舟に到っては3000両の蓄財があったと云う。 確かに、蓄財したのは父親かもしれない(山岡鉄舟の場合は、祖父)。 しかし、維持管理したのは母親なのである。 因みに、『武士の家計簿』に登場する猪山家は、直之の代に理財の才能で出世し、成之の代に大村益次郎に認められ、明治になっては、海軍主計総監になっている。 ただ、大村益次郎が長命であったなら、更に出世し、華族に列せられたのではにかとは、磯田氏の言である。

 『大学』の経一章に「国を治めんと欲する者は、まずその家を 斉 ( ととの ) う」とある。 (「斉」は、等しい・整える・きちんとする・偏らない・おこたらないなどの意味がある。) 部分を揚げたのでは、本来の意味が損なわれるかも知れないが、敢えて言えば、「家を 斉  う」のは、主婦である言えるのではないか。 幕末、門閥高禄の武家を除けば、ほとんどの武家は破産の危機に瀕していた。 下級武士になると、赤貧洗うが如し状況だったと云う。 鉄舟は、山岡家を継いで驚いたという。 一日三食など法外の事で、時には2日も3日も米の飯を食えなかったそうだ。 (鉄舟は、母の遺産3000両を5人の同腹の弟に各500両割り当て、大きな子には養子縁組に結納金とし、小さな子には養育費として残していた。 しかし、自分の取り分は、小野家を継いだ異母兄に
400両を渡し、自分の100両の大半は遊興に使ってしまい、山岡家に婿入りした時には、2両ばかりしか残っていなかったそうだ。) 尚、山岡鉄舟については、南條範夫著『山岡鉄舟』に詳しい。 参考までに。

 いつもの通りで、どうも纏まりのないことを書いてしまったが、要は、幕末・明治に名を残した人々の少年期・青年期に発達心理学的関心があり、それを調べていくと、当時の女性、特に主婦・母親の存在が予想以上に大きいことを知った訳である。 実は、石黒・山岡には、もう一つの共通点があるのだが、それは、またの機会にしよう。

 『柏崎通信』433号(2007年1月23日)より転載

 『柏崎発、学際ネットワーク』や『柏崎通信』で、何故に歴史を書くのか、あるいは、その言わんとするテーマは何かと聞かれた。 そこで、今回は、引用など交えず、自分の言葉として「歴史」について書いてみたい。

 私は、歴史というものを年表的事実の羅列ではなく、人間社会という場が、安定を求めた運動の軌跡であり、その帰結としての現在を起点とした未来への軌道であると考えてきた。 

 社会は、人と人の繋がりによって構成される。 そして、人と人との繋がりは、刹那的コミュニケーションの積み重ねによって形成される。 しかし、コミュニケーションは、単なる人と人とを繋ぐメディアや機能ではありえない。 相互に交わされる事実、あるいは発信者が事実と確信する事実は、口から発せられた瞬間に全く別の存在となる。 受取手の知覚を経て、その頭脳に至れば、発せられた事実とは全く異なる受取手の事実へと変貌する。 それ故、事実あるいは事象のみで社会を語ることは出来ない。 同様に、「歴史的事実」は単なる無機質的記録としての事実ではなく、「ある時代の人と人の繋がりから生じる事実とそれに付帯する事象の総体」であると考える故に、「歴史」とは、その集合あるいは総体の連続した軌跡と継続される軌道であると考える。 そして、過去の記録の中に埋没した事実を発見し、その中から、人と人との繋がりを解明して、現在への道程を追及し、更に、未来への最適経路を発見するのが「歴史学」だと考えるのである。

 言い換えれば、先ず、人と人の繋がりがあり、そこに「思惑と思惑のせめぎ合い」が生まれ、その個々の「せめぎ合い」が集まって「社会現象」が生じ、それが時間の経過によって「歴史的事実」として認識され、更に累積されて「歴史」が成立すると考える。 そして、記録を頼りに、その「せめぎ合い」を解読し、現在への繋がりを究明して、未来への方向性を「今」探求するのが「歴史学」と考えるのである。

 このように考えると、歴史を明確な図式として捉えることができる。 ところが、記録に完全性を求めることは出来ない。 ましてや人の書き残したものである。 そこで、時間を越えた「せめぎ合い」が生れる。 これが問題を複雑にする。 解決の方法の一つとして、記録者・作者の背景や周辺の人間関係を求め、生活感覚をイメージし、場合によっては感情移入して、追体験をする方法がある。 敢えて言えば、「誰それなら、どう考えるだろう」と。 こうすれば、少なくとも、記録者・作者との「せめぎ合い」を軽減し、彼らの視点から周辺を見渡すことを容易にする。 勿論、仮想の上に仮想を積上げるのだから、事実とは程遠いものになるかも知れない。 しかし、「今」の視点で追体験するも可能なのだ。

 概して、人は、自分自身が歴史を創り、死に至るまで創り続けている事を意識しないものである。 自分自身がそうであれば、三代も前の事になると、もう闇の中に違いない。 先人の余慶に生きながら、その苦楽甘酸の歴史は忘れ去る。 現実の生活の中では、中央の歴史は何程の意味も持たないかも知れない。 地域の歴史にしても、「我家」に無関係であれば、興味も湧かないだろう。 しかし、その時代を生きた人々は、その時代を
創っているのだ。 面識のない人でも、知人を辿れば、7人目には行き着くという。 五代も遡れば、地方都市なら皆縁に繋がり、係累に到っては全国に広がる。 地縁や職縁、師弟関係が加わわれば、人の繋がりは更に広がる。 そう、国史であれ、地方史であれ、その時代の記録を辿れば、人の繋がりを追う事は可能なのだ。

 無縁だった歴史上の人物でさえ数代前の縁者であり、今身近に居る他人さえも何代か前に分かれた縁者であるかも知れないのだ。 このように考えれば、歴史ほど身近なものはない。 その歴史を「人の繋がり」として「今」に追体験することが出来なら、これ程楽しい事はないのである。 人の心は豊かになり、地域社会にはゆとりが生れる。 「歴史」とは、そういうものであるべきではないか。 そんな事を考えるのである。
 
『柏崎通信』432号(2007年1月23日)より転載

 先の回で石黒忠悳について、幕末の新興下級武士の方が、むしろ門閥の武士よりも武士らしいと書いた。 しかし、これは一面的見方だったようだ。 しばらく前に、『武士の家計簿』という本が話題になったことがある。 加賀前田藩の御算用者・猪山家の幕末期二代に亘る家計簿や書簡を基にして、茨城大学の磯田助教授(当時)が幕末明治の武士の生活史である。

 御算用者というのは、前田家の主計官(経理課員)というところだろう。 多少ニュアンスは異なるが、幕府代官の手代であった平野家(石黒)と似たところがある。 石黒忠悳の『懐旧九十年』には、それらしき記述はないのだが、和算の学習も何処かでしていたのではないだろうか。 あるいは、父親が指導したのかも知れない。 それを裏付けるのではないかと思われるのが、17歳で開塾した時の授業内容ではないだろうか。 経書や習字はさて置くとして、算術を教えている。 余談だが、習字については苦労している。 当時の公用書体は「御家流」で、石黒忠悳が習った書道とは異なっていた。 その為、「御家流」を改めて習っているのだ。

 先回書いた屋根釘のエピソードも、考えなければならない。 平野順作(忠悳の父)は、一代で手代になり、亡くなる時には、500両の蓄財があった。 文中にも、貸金の利息が数十両あったと書いている。 前田家では、庶民への金貸しは禁止されていたとあるから、平野家の貸金も同輩へ貸したものか。 いずれにしても、経理の才能がなければ、500両という大金を蓄財することは出来ない。 因みに、磯田氏によると、1両は現在の約5万5千円だが、生活感覚で言えば30万円になるそうだ。 500両は、前者で2千7百50万円、後者であれば、何と1億5千万円ということになる。 もっとも、江戸と金沢では、感覚に相違があるのかもしれない。 それに、関西圏に属する金沢は銀本位制だが、江戸は金本位制で、通常使う銭との換金率がかなり違っていることも考慮しなければならないだろう。 それにしても、大金である。 石黒忠悳が、父の死後、母と共に親戚を転々とし、母の死後も、悠々自適の生活を送れたことにも納得がいく。

 それでは、屋根釘のエピソードは何を物語るのか。 成り上がり者故に、それだけ儀礼・格式を意識したのか。 母親の実家も、一代者とは異なるが、小録の御家人であることに変わりはない。 概して、自伝というものは虚飾が伴う。 その辺りの事を考慮しても、疑問が残る。 先回、家を購入・移築したことを書いた。 その広大さに驚いて、『武士の家計簿』を思い出し(NHKで放送した)、改めて読んでみると、先に書いたような次第である。 全く、当時の社会における金銭感覚が狂ってしまった。

 単純には行かないと思ってはいたのだが、これは少々ショックである。 視点を変えて見直してみたい。

『柏崎通信』431号(2007年1月22日)より転載



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