柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 8月16日、長岡の会館青膳で、設立総会が開催され、河井継之助記念館友の会が正式に発足した。 最後まで難航した会長人事は、スーパー原信(原信ナルス・ホールディング)社長の原信一氏に決まった。 ただ、当日、既に予定があったとのことで欠席された。 また、顧問には、旧長岡藩第17代当主・牧野忠昌氏が就任された。

 当日まで、果たしてどれほどの人が集まるのだろうかと危惧していたが、100人を超える予想以上の盛況で、準備委員としては、安堵の胸をなでおろした次第である。 講演会・総会に前に、記念館の状況報告があった。 それによると、オープンして、228日目に来館者が1万人を越えたそうである。 その時、8月4日だと記憶するが、記念式典が開催されたそうだ。 前日まで、長岡祭りであったことを考えると、帰省した人たちや大花火大会を訪れた人たちが、大蔵移管されたのではないだろうか。 オープン後4日間は無料公開したそうで、その時の来館者およそ3000人を加えると、14000人の来館者が会ったことになるそうである。 また、来館者のほとんどが、市外・県外の人たちであったようだ。 特に、サラリーマンが多く、しかもリピータが多いとの事。 稲川先生の話では、『峠』にみえる河井継之助の生き様、特に藩政改革に至る継之助の心理的・社会的地位の変遷が、サラリーマンの共感を得たのではないかと。 その継之助の生き方、「義」を重んじ、「義」に生きる生き様について、稲川先生が、続く講演会でエピソードを交えながら講演されたのである。

 設立総会開催の前に、稲川明雄先生(記念館館長)の講演があった。 テーマは、『河井継之助にみる義の心』である。 以前にも書いたことがあるが、稲川先生は、著書『河井継之助-立身は孝の終わりと申し候』で、河井継之助には批判的なことも書かれている。 しかし、視点を変えれば、その事が歴史に長岡を特異なな町として位置づけ明記させることになったの事実である。 しかも、藩政改革や戊辰戦争に至る序曲の段階での継之助の業績と対比すれば、これからも歴史の中に、輝き続けると確信できるのだ。

 友の会の活動が軌道に乗れば、今回の講演録なども、HPに掲載されるだろう。 稲川先生の講演は、およそ40分、前もってレジメが用意されたのだが、話は独走して、メモを纏めるには少々時間が要る。 また、客観的に講演の内容を書くには、私自身の思いが、妨げになる。 とまあ、そんな訳で、講演の内容は省略するが、キーワードとして言えるのは、先に揚げた「義の精神」(儒学的義とは、異なる)、「陽明学」(これも、継之助流の解釈があったのではないか)、「常在戦場」(三河以来の考えとは、明らかに異なる)、などなどが揚げられるだろう。

 講演会の後、19時より、懇親会が開かれた。 福島県只見町塩沢(継之助終焉の地)で、今日、慰霊祭があったそうだ。 長岡からも、市長の代理、稲川先生などが出席されたとか。 その只見町から、町長以下4名の方が出席された(講演会にも出席されたようだ)。 ほか、牧野の殿様、長岡の森市長、多士多彩である。 しかし、どうも、こうした華やかな雰囲気は苦手である。 駒形君と同席したが、かれは流石に社交家、私は壁の花のようなものだ。 隣の人と話すのが精一杯。 その隣人は、新潟からこられたとか。 また、その隣のご夫人は、新発田出身だが現在東京在住、この会のために遠路来長、河井継之助の全国区振りが、この事かも判る。 会の進行は、FMながおかの脇屋氏とマイスキップの渡辺千雅さん、場の雰囲気を盛り上げるのには、打って付の人たちだ。 出席者も多く、私の知らない『長岡城の歌』などでて、盛り上がる。 やはり、どうも苦手である。

 丁度、よい時間が来て中締め、駒形君も帰るというので、これ幸いと引き上げる。 ただ、様子を見て、この会の発展が予測できる。 私自身、幸いだと考える。 今度は、各地の資料集めに大義名分ならぬ、看板が出来たからだ。 これで、古賀三代、山田方谷、更に、広島・我家にも所縁のある頼山陽、菅茶山など、調査の範囲が広がり、何と言っても容易になった。

 尚、今回は、学際ネットワークを書く際に試作した『歴史人脈』を添付するので、御意見などあれば、お聞かせ願いたい。 (これは転載記事なの、『歴史人脈図』は添付されていません。 ご希望の方があれば、コメントにどうぞ。

『柏崎通信』(521号)から転載。

 お盆である。 もう長いこと、広島に墓参りに行けない状況が続いている。 広島のお盆の風物詩、色とりどりの支柱に四角錘を逆さに乗せたような盆灯篭も久しく見ない。 月性の詩、「男子志を立て、郷関を出ず、学もし成らずんば死すとも帰らず。骨をうずむ豈ただ 墳墓の地のみならんや。人間いたる処青山あり」を懐に、新
潟に来て早四半世紀、学もならず、既に秋声を聞く。

 まあ、そんなことを言ったところで始まらない。 唯、進むのみである。

 ところで、先ほどのニュース(8月13日)で、柏崎の西本町にある真宗大谷派の聞光寺の様子が映っていた。 現在の住職が25代目と云うから、歴史のある名刹と言えるだろう。 しかし、聞光寺には知られざる歴史がある。 維新・明治の歴史に、1つのエピソードを残しているのだ。

 後に明治天皇の和歌の師ともなる近藤芳樹は、戊辰戦争以前、国学の縁を頼って、隠密裏に越後を周遊する。 恐らく、偵察行であったのではなかろうかあろう。 頼ったのは、星野藤兵衛である。 ただ、前後の経緯と考えると、むしろ星野藤兵衛とは親戚に当たる詠帰堂二代目星野鏡里あるいは三代目介堂との接点が在った為ではなかろうか。 鏡里は、古賀謹一郎・茶渓の家臣で水戸学を学んだ国学者でもある藤森弘庵と同門(久敬舎・古賀家の家塾)であり、子・介堂は、藤森弘庵(安政の大獄で中追放)の門人である。 因みに、河井継之助も古賀茶渓の久敬舎で学んでいる。 序に言えば、頼三樹三郎が柏崎を訪ねるのも、この縁ではないかと推測するのだが、定かではない。

 戊辰戦争・北越戦争が始まると、近藤芳樹の周旋が功を奏したのか、星野藤兵衛は官軍方に与し、柏崎を戦火から救ったと云われる。 しかし、この事が影響したのか、明治になり、星野家は没落したと云う。

 聞光寺が登場するのは、明治11年の天皇行幸の時である。 明治天皇は、柏崎を二度訪れている。 行きと還りにである。 因みに、曽地峠は、その時に開削された。 柏崎の行在所は、今の柏崎小学校だったが、侍従として随身していた近藤芳樹は、聞光寺を宿舎とした。 そこに、夜中人目を忍んで訪ねた人たちがいた。 星野藤兵衛の弟と子息であったと記憶する。 星野家の両名は、近藤芳樹に星野家の惨状を訴えに来たのである。 詳細は不明だが、近藤芳樹は、復路、再開を約束した。 恐らく、明治天皇に上奏したのではあるまいか。 再開の時、星野藤兵衛に正(従)四位を追贈され、当時の金額で1000円を下賜されているのだ。

 この時の事は、近藤芳樹が行幸の様子を書いた『陸路廻記(くぬかちの記)』に書かれている。 実は、この辺りの事情を聞光寺に尋ねようと考えていたのだ。 近藤芳樹についても、明治以降の事は、ある程度調べることが出来るのだが、戊辰戦争以前のことが判然としないのである。 また、星野藤兵衛が、この地域では有名な豪商であり、御殿山にあった云う屋敷には、多くの文人墨客を招いたことも知られている。 しかし、藤兵衛自身が、国学との直接的関係があったという史料に当たらない。 そうなると、星野家三代(鵜水・鏡里・介堂)との関係を推測することになる。 星野三代は、代々、古賀家の家塾・久敬舎で学んでいる。 鵜水は古賀精理
に、鏡里は洞庵、そして、介堂は茶渓にである。 古賀家の家学は朱子学ではあるが、必ずしも、それに囚われていない。 藤森弘庵が、古賀家の家臣であったことも、それを物語る。 河井継之助が茶渓に学んだ(?)のも、古賀家に陽明学の伏流があるからである。

 要衝である柏崎が、予想外の速さで陥落する背景には、間違いなく、星野藤兵衛の尽力がある。 更に、憶測すれば、柏崎の国学の歴史は、生田萬に始まると言っても過言ではない。 ここには平田国学の流れがある。 しかし、国学を標榜した学者は、柏崎にはいないのである。 恐らく、生田萬事件の影響であろう。 しかし、近藤芳樹と星野藤兵衛の関係から推測すれば、間違いなく国学が伏流水の如く流れていたのは事実で
はないだろうか。 そのキーが、聞光寺にあったのではないかと考えると、聞光寺全壊の映像は、大きなショックであったのだ。

 それが、このお盆、倒壊した墓石も、可能な限り修復され、倒壊さした本堂から避難した御本尊も、映像に写っていた。 我家は、浄土真宗、石山本願寺攻防戦では、門徒宗として兵も出し、太閤の世には、二度の朝鮮の兵役に参戦し、『さやか伝説』が形を変えて残っている。 浄土真宗でに、「御同行」と言う言葉がある。 戦国時代から、その連携は全国に及び、戦国大名を震撼させた存在である。 江戸期、家康の意向で、東西に分かれたとしても、その根源は、親鸞にあり、蓮如にある。 聞光寺の惨状には、西の者にも、訴える。 因みに、若井は、御東さん。 明治13年、全焼しているのだが、何かが残っていないだろうかと、思い続けたことが、今回の地震で消えてしまうのではないかと危惧するばかりだ。

 最近は、ほとんどゆとりがなく、この歴史的ミステリーを追いかける暇もない。 歴史的背景から、あるいは今の風潮から、柏崎、あるいは奥羽列藩同盟の戦った北越戦争の本来の人心地図はタブー視される。 (私は、そう考えている。) 何とも難しい世界だ。 唯、敢えて言えば、私自身、柏崎とは無縁でない。 余計なことかも
しれないが、我家はの本姓は齋藤氏。 毛利氏に随身して400数十年、天文11年(1542)、尼子氏と戦争に備え、大田川と水内川の合流地点に城砦を構えた。 今の推測を言えば、我が斎藤一族は、毛利氏と行動を共にした越後斎藤氏なのである。 梶屋の屋号を梶谷を姓としたのは、明治の時、廻船を家業とし、砂鉄・薪炭、初期には金を扱った。 北前港に名残がある。 福井・石川に、その名が残る。

 26年前の4月29日、柏崎駅に降り立った時の感覚、「ああ、もしかすると、ここが終の地か」と。 もしかすると、500年の歳月を経て、18代目であるべき私が、この地に来たのは、必然であったのかもしれない。

 聞光寺の話が、何とも思わざる方向に向かってしまったものだ。 しかし、聞光寺の歴史の中に、戊辰戦争・北越戦争の行方に、キーワードとしての何かがあったことは確かなのである。 因みに、明治天皇についての評伝として有名なドナルド・キーンの『明治天皇』には、柏崎行幸に関する記述は、僅か数行しかないのだ。

 今日、中国の人である若き有能な将来を期待される画家、崔君曰く、「柏崎は、今まで大きな地震に見舞われたことはないそうですね?」 災害史の中に、確かに、柏崎が大きな地震に見舞われたことはないのだ。 最も近いところで、「三条大地震」があるが、確かに、歴史に残る震災はないのだ。 さて、これを、どう解釈すればよいのだろう。 課題である。

 結局、先回も書いたと思うが、問題は、心である。 心理である。 心情である。 言い方は別として、常在戦場の心がけが、結局は、後々に影響する。 聞光寺の惨状を見て、その歴史的背景を思った人はいるのだろうか。 聞光寺の現住職は、家でもある庫裏はさて措き、先ず墓石の修復を行ったそうだ。 お盆、先祖は、その心情を異次元から見ているのかもしれない。

 『柏崎通信』(518)から、訂正と修正を加えて転載した。

 先週の日曜日、町内の草刈があった。 恒例の行事で、町内の神社である若宮神社周辺と鵜川沿いの草刈をする。 朝、8時に若宮神社に集合。 地震後、初めて若宮神社を見る。 石の鳥居は、海に対してほぼ直角に立っている所為か、特に損傷も見当たらなかった。 大きな石碑もあるのだが、こちらも損傷なし。 しかし、石段を登り、境内に入ると、先ず二基の狛犬が被害を受けているのが目に入った。 阿の一基は、狛犬が落ち、吽の一基は狛犬が大きくずれていた。 驚いたのは、大きく開いた台座の間に蜂の巣があったことだ。 蜜蜂だそうである。  その他に、何基かある石の祠と石碑が、軒並み倒れていた。 幸い神社の建物そのものには、特に損傷が認められなかった。

 これらの石碑の中に「六百年祭」を記念した石碑がある。 昭和30年代に600年だ。 南北朝時代だろうか。 地形から見ると、山城であった可能性がある。 鵜川の蛇行は、時代とともに変化したと聞くので、若宮神社は鵜川に面した時代もあったのであろう。 いずれにしても、地形的に要衝の地であることに違いはあるまい。

 NHKの大河ドラマ『風林火山』は、先週、上杉謙信(長尾景虎)を中心にしたテーマだった。 そこに、枇杷島城主・宇佐美定満が登場する。 緒方研が演じていた。 昔、『天と地と』の映画では、渡瀬恒彦が、この役を演じたように記憶する。 柏崎には、今でも、枇杷島の名が残る。 大字枇杷島。 また、枇杷島を冠した小学校もある。 川を右あるいは前に見、山を背にするのは、兵法における布陣の定石である。 以前、過って枇杷島城があったと思われる周辺を歩いたことがある。 枇杷島あるいは剣野方面から山(高い山ではない、丘陵ともいる山だが、奥行きはありそうだ)、 そこに入ると、想像したのとは異なる風景が広がる。 小川沿いに畑が広が
り、池があり、更に上っていくと昔は明らかに棚田であったと思われる景観に出会う。 その辺りから別の谷津が始まり、今はほとんど使われていないと思われる山道を下ると若宮神社へ至る。  この地形を改めて地図の上に展開してみると、面白いことに気付く。 鵜川の上越側が防衛ライン、柏崎の市街側に、農耕地が広がる訳だ。 天保の国絵図によれば、枇杷島の石高はおよそ2500石、1つの村としては、最大級の石高である。 すなわち、過っては、枇杷島周辺が、この地域の中心的存在であったことが判る。 またこの一連の山並みは、海のほうに向かうと、戊辰戦争の戦場になった鯨波・赤坂山へと続き、番神堂の切り通しに至る。 上越方向からは、極めて攻め難い地形である。 桑名藩を初めとする奥羽列藩同盟の諸藩が、ここに防衛線を引いたことに納得するのだ。

 詳細は不明だが、今回の地震で、この地域の被害は然程でも無かったように思えるのだ。 確かに、若宮神社の狛犬像は倒れていた。 石段にも多少の歪が認められる。 しかし、大きな被害があったとは聞かないのである。 先人の知恵だろうか。

 これも詳細は不明なのだが、現在の中心街である本町通の被害とは別に、大きな被害が出たと聞く地域が、春日という地域だ。 柏崎地域は、江戸後期、領地が入り組んでいた。 桑名藩のほかに、旗本・安藤氏の所領があった。 五千石とか八千石だったと云う。 それが、春日を中心として地域だ。 報道でも知られる「リケン」の所在地も、ここである。 江戸後期、この地域では、一揆が起こっている。 大規模な一揆ではないが、領主の代官と地役人との結託による苛斂誅求の年貢徴収や借り上げが、騒動の原因だったようだ。 柏崎には、こんな諺があるそうだ。 「春日には嫁にやるな」と言うものである。 他藩領と比べ、そんな諺ができるほど、貧困であったと云う。 ただ、幕末には改善されている。 和算の関流八伝・佐藤雪山と広川晴軒(共に小千谷)が、安藤領・春日周辺を測量したのも、この頃である。 余談が長くなったが、この春日辺りは、旨まで浸かる深田が多かったそうだ。 要するに地盤が脆弱なのである。

 柏崎は、日本石油・帝国石油の発祥の地である為、昔、かなり詳細な地質調査が行われている。 地元の人も知らないようだが、現在の新潟産業大学の近くから、海岸に向けて油田開発のための地質調査の試験坑が掘られている。 うる覚えだが、沖合い3キロという長いものだと云う。 以前、旧石油資源開発公社の仕事をしたことがある。 その時、そんな話を聞いたことがあるのだ。 因みに、この時の仕事は、地質図をプロッターで描くと言うものだった。 当時は、大型のフラットベッドのプロッタが国産には無く、確かカルコンプのプロッタだったように記憶する。 何処まで関与していたのかは記憶が定かではない。 ただ、相当細密な地質図を見た記憶がある。 恐らく、目的は違うが、これだけ綿密な調査が、明治の昔から継続的に行われていた地域はないだろう。 皮肉なことである。 憶測に過ぎないが、縦割りの機構が、こうしたところにも出たのではないだろうか。

 余談だが、明治から大正にかけて、日本石油の陣頭に立って、地質調査・採掘調査を行っていたのが、山口出身の杉卯七(初代研究所長)である。 序に言えば、卯七の長男が、フランス文学者、フランス語フランス文学会の名誉会長(第3代)・会長(5・6代)の杉 捷夫氏である。 因みに、6代会長の時の副会長が、桑原武夫
で、7・8代の会長を勤めている。

 これも余談だが、杉卯七の勤続25周年を記念して、友人が柏崎に会した。 野村健堂と羽石重雄である。 共に山口県出身、羽石重雄は、当時、旧制長岡中学校(前・旧制柏崎中学校長)、野村健堂は、ペンネーム
黒頭巾と称して、多くのエッセーや評論を書いている。 この時、話題になったのが、生田萬であり、健堂は、『大塩平八郎と生田萬』に、その経緯を書いている。 これらの事は、以前、『柏崎通信』に詳しく書いた。 参照されたい。 更に余談になるが、杉卯七の父親は、奇兵隊で戊辰戦争を戦っている。 もし、卯七の父親が、
北越戦争に参加していたとすれば、何と言う皮肉であろうか。 こんな所にも、歴史の不思議を感じるのである。

 地震の後遺症は、むしろこれから現れてくるだろう。 しかも、時間と共に深刻になるのではないだろうか。 思いついたまま、だらだらと書いてしまった。 昨日、竹田君が訪ねて来た。 彼とも話したのだが、何となく疲れを感じる、そんな気分が尾を引いている。 今も、杉捷夫のエッセーを探したのだが、地震後未整理の書架
に、それを見つけることが出来ない。 ちょっとしたことに、どっと疲れる。 深刻な被害を受けた人々は、それどころではあるまい。 このお盆は家の中の整理だと、草刈の時、そんな話が耳に入る。 私も、その積りだが、さてどうなることやら。 推敲もしていない文章だが、今回はこの辺りで。

『柏崎通信』、516号から転記。

Best regards
梶谷恭巨

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 皆さんへ

 河井継之助記念館が、昨年、長岡に完成しておよそ10ヶ月、この間の入場者がおよそ9000人に達したそうです。 河井継之助に関しては、地元である長岡においても賛否両論の評価があり、記念館設立には、紆余曲折があったと聞いています。 ただ、司馬遼太郎が『峠』を著し、継之助の評価は、一変したと聞きます。 特に、長岡あるいは新潟県外の人々の関心が高く、来館者も県外の人が多いそうです。

 来館者の中には、米国在住の方もおられたとか。 しかも、20万円を寄付されたそうです。 ところが、現在、記念館は長岡市の商工部観光課の管轄下にあり、現金での寄付は、手続き上記念館に反映されないようです。 そこで、書籍を買い、それを寄贈する形式をとったと聞きます。 同様のケースのほか、来館者から記念品のようなものはないのかとか、土産物があってもよいのではないかと言う意見があったそうです。

 そこで、今年の6月、寄付金の受皿や市としては難しい記念品・土産物を扱う組織が必要ではないかという話が出たそうです。 その組織が「友の会」です。 設立の趣旨等に付きましては、添付の入会募集のチラシに掲載されています。

 尚、私は、駒形さんのお誘いで、設立の準備会に参加させて頂きました。 河井継之助に関しては、以前、何度か書いていますが、実際のところ、何冊かの関連書籍や小説を読んでいますが、むしろ学際ネットワークの中の一人として、追いかけていたのが事実です。 ただ、現在の社会情勢などを考えると、河井継之助の生き様の中に、何かしら感じるものがあり、皆さんに入会の御案内をお送りする次第です。 添付のチラシ、御一読頂ければ、幸いです。

Best regards
梶谷恭巨

 案内、御要望の方は、コメントに一言。

 震災後、初めて本町通にあるスーパーに行った。 本町通から見れば地下に当たる、このスーパーも営業しているのだが、完全に復旧しているようには見えなかった。 よく見ると、床や壁面に亀裂が走っている。 駐車場は更にひどい。 本町通でも、この地域は再開発された近代的町並みに思えたのだが、被害を免れることはできなかったようだ。 余談だが、この再開発には、私が過って席を置いた旧社会調査研究所が関与しているのだから、複雑な心境である。

  柏崎の本町通は、地形的には小高い丘の峰に沿って開けた街だ。 江戸後期の地図(天保国絵図)を見ると、柏崎そのもの石高は、確か三百数十石だったと記憶するので、周辺の村と比べても、それ程石高が高いほうではない。 要するに、柏崎は、本町通を中心とする商業によって成り立っていた町なのである。 因みに、正確に調べてみると、柏崎の石高(370石)、隣接する中浜村(30石)、枇杷島村(2449石)、私の住む下方村(340石)、植木君の住む上・下田尻が合わせて1100石である。

  以前に書いたことがあるが、柏崎は伊勢・桑名藩の飛び領である。 しかし、単なる飛び領ではない。 桑名藩が支配する領域は越後一円に広く、11万余石の石高があり、長岡藩が7万余石であったことを考えれば、その石高の大きさが分かる。 それが柏崎に集積されたのである。 更に、越後の縮緬問屋が、柏崎に集中していたのだ。 このことからも、当時の柏崎の殷賑ぶりが伺えよう。 そして、その中心が本町通なのだ。

  桑名藩の支配地では、文政年間、所謂「文政三条地震」といわれる今回の地震を上回る直下型の地震が起こっている。 先ず、その時のデータがインターネットに公開されているので紹介しよう。  http://www.saigaidensho.soumu.go.jp/saigai/import.2006-12-27.190840/ 

 以下、本文: *************** 
【災害名】文政三条大地震【発生日時】文政11(1828)年11月12日【被災地】新潟県三条市周辺【災害の概要】地震の規模マグニチュード6.9の直下型地震。震源地は北緯37度6分、東経138度9分で、栄町芹山付近とみられる。被害地域は、信濃川に沿った長さ25㎞に及ぶ楕円形の地域で、三条・燕・見附・今町・与板などの家屋はほとんど全壊した。被災地域全般で全壊1万2859軒、半壊8275軒、焼失1204軒、死者1559人、怪我人2666人、堤防の欠壊4万1913間という大きな被害であった。【教訓等】三条市八幡町にある真言宗泉薬寺境内に地震供養塔、東裏館の真言宗宝塔院境内には地震亡霊塔(市指定文化財)がある。また、地震から4年後の天保3(1832)年8月には、地震による多数の物故者を菩提のため、浄土真宗本願寺派の三条別院が建立された。年々、地震の日の11月12日を宗祖の報恩講の初日として、震災物故者の追悼供養が営まれてきた。さらに地震の翌年には、震災の惨状を詠み込んだ「ごぜくどき」が広く流布した。三条大地震にまつわるごぜくどきには、『ごぜ口説地震の身の上』と『越後地震口説』の2冊の版本が現存する。
 ************** 
 三条の一部は、桑名藩領だった。 ここの庄屋だった、(記憶が定かでないのだが)、柏崎・荒浜出の宮嶋氏(?)が、その時の様子を日記に残している。 確か、所用で外出中に地震が発生し、急ぎ帰宅しようとするのだが、侭ならない。 絵心が合ったのだろう。 その時の心境と被災の様子を絵日記に書いているのだ。 

 前置きが長くなったのだが、越後には、「百年に一度大地震があり、しかも連続して起こる」という伝承があるそうだ。 それが教訓として語り継がれていたはずなのである。 地震の後、六日町の遠藤さんから、そのようは話も伺った。 恐らく、遠藤さんの話に出る大地震とは、弘化4年(1847)の善光寺地震によるものではないかと推測するが定かではない。 この時は、上越地方も可也の被害が出た云う。要するに、先人は、こうした震災に対して、多くの教訓を残しているのだ。

  こうした災害史を追う中で、「防災」ではなく「備災」というコンセプトが必要だと考えた。 しかし、どうも、それでは足りないと感じるのだ。 すなわち、「知災」というコンセプトが浮かぶのである。 百年も経てば、人々は、被災の記憶、教訓の伝承は失われるのであろうか。 しかし、先の遠藤さんの話もある。 記憶は伝承されるが、意識の奥に埋没されてしまうのではないか。

  余談だが、昨日のTVで、三陸津波の特集を放送していた。 この時のことが、ナショナル・グラフィックに掲載されたそうだ。 確か、NGに日本のことが掲載された最初の記事だったと云う。 4枚の写真が掲載されたそうだ。 この時、外国人2名が犠牲になっている。 確かフランス人宣教師ではなかったか。

  いずれにしても様々な形で、被災の惨状と、それに対する教訓が継承されていることは事実なのである。 しかし、その事実は埋没しているのだ。 歴史を考える場合、常に、その当時の時代背景を考える。 しかし、同時に災害史も関連付ける事にしている。 災害が歴史に与える影響が不可避的に重要だと考えるからだ。 自然災害のみではない。 しかし、それが、その後に起こる人災に多大な影響を与えていると考えるのだ。 江戸後期には、多くの自然災害が記録されている。 地震、洪水、飢饉、様々な災害が、その後の世情、例えば、「ええじゃないか」の大流行、更に人災でもある戊辰戦争へと繋がる。 私が、歴史における感情の継承というのは、こうした災害の心理の影響が、初めは顕著に、時間の経過とともに潜在化するが、決して、消滅するものではないと考えるからだ。 そして、その事が、何かを引き金として、改めて確認されると想定するのだ。

  話が横道にそれそうだが、災害を考える時、技術的な危機管理の問題では、災害時に対応できないのではないかと危惧するのだ。 すなわち、「知災」というコンセプトを言うのは、「備災」の前提に、孫子ではないが、先ず「彼を知り、己を知る」ことが必要だと考えるからだ。

  余談だが、「文政三条地震」について、最も研究していたのが東電の研究所なのだ。 調べてみると、東電の研究者の発表した論文が多いのである。 何と言う皮肉であろうか。 記憶している論文では、地質学的研究論文もあるのである。

  いずれにしても、既に起きた災害である。 私自身、大した物理的被害を受けた訳ではないのだが、しかし、心理的影響を未だに拭い去ることができない。 「備災」と提唱し、幾つかの企画を書き、また、その為ばかりではないが、救命員の講習も受け、FEMAを始め各国の体制・状況を調べ、必要なものは翻訳し、必要と考える資料は収集した。 しかし、何だったのかと空しさを覚えるのだ。  NPOも何処へやら。 「備災」は、個人的レベルでは或る程度実現した。 しかし、今、それをとやかく言う立場には無い。 ただ、「知災」となれば、個人レベルでも可能な分野だ。 今まで歴史追及を継続すればよいのである。 もっとも、酔狂老人の閑言にしか過ぎないのだが。

『柏崎通信』、514号から転機 

 尚、『柏崎通信』、配信の御希望があれば、コメントに一言。


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プロフィール
年齢:
76
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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