柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 昨夜(10月18日)、「狂言体験教室」が開催された。 昨年、息子がこの教室に参加していた。 地震のため、中断していたのだそうだ。 その影響か、どうも声が掛かったのは、主催者が出席者が少ないと危惧した所為だろう。 女房殿が買い物をするというので、私が息子の稽古風景を参観することになった訳だ。 そんな訳で、詳細は判らないのだが、何でも伝統芸能に対する認識を普及するための文化庁の事業なのだそうだ。 講師は、野村万作師のお弟子さん、皆さん周知のことか、その時は名前は聞いていない。 (後で調べてみると、高野和憲という名前だった。)

 案内の電話を受けたのは、偶々私だった。 最近の子は礼儀作法を知らないという思いがある。 狂言は、作法に厳しい。 そんなこともあり、子供には良い経験だと思っている。 漠然とした思いで、参観したが、どうも子供ばかりの教室ではない。 私たちが着いたときには、大人ばかりであった。 どうも参観するという雰囲気ではない。 その内、子供たちもやって来た。 そして、稽古の開始。

 教室の雰囲気は悪い訳ではないのだが、少々気になることがあった。 子供たちは、意外に正座に耐えている。 ところが、大人の方が、長時間の正座ができないのだ。 大人は、男性が一人、後は女性だ。 (子供が5人、大人が、7人くらいか?) 見る限り、正座が様になっていない。 様というのは、武道とか茶道や華道の姿勢という意味だが。 講師の先生も、それを心得ているのか、あるいは、堅苦しい雰囲気を避けるためか、話の時は胡坐なのだ。 内容よりも、そのことが気になる。 狂言も、礼に始まり礼に終わると思うのだが。 (一人だけ、注意を引くほど正座が様になっている若い女性が居られたことを書いておこう。)

 断っておくが、内容が悪いのではない。 最初は、『宇治の晒し(さらし)』の謡いというのだろうか、(正確には、「小謡(こうたい)」というのだそうだ)、それを先生の後に従って唱和する。 何回か繰り返し、内容の説明と狂言の基本的な決まり事を聞き、これもまた先生の後に従って、「型附(かたつけ)」の説明を聞きながら小舞(こまい)を舞うのである。 小一時間の稽古のあと、休憩時間に『姨捨』の物語があった。 子供たちの稽古はここで終わりで(皆見学していた)、大人(中学生は大人である)の稽古が始まる。 『雪山』という小謡の稽古だ。 最後に、TVで見たことのある『口真似』という狂言の読み合わせ(謡い合わせ?)が行われた。 ほぼ2時間の稽古である。 私自身は、メモを取りながら、後ろの方で、拝聴・拝観していた。 要するに、得るものは多かったのである。

 息子について言えば、狂言教室に参加すること自体を嫌がっていた。 ところが、教室に入ると意外に落着いている。 礼儀作法に煩い家庭でもない。 息子を見ると、狂言に関する講話の間は正座している。 休憩中の話の時は、結跏趺坐の姿勢をとる。 (座禅の姿勢である結跏趺坐は、小さい頃から教えていた。) 危惧したこととは、まるで違う。 少々嬉しくなる。

 以前から「素読」の必要性を感じていたが、「狂言教室」は悪くない。 「素読」に通じるものを感じるのだ。 本来、この教室は、文化庁の委嘱事業「伝統文化こども教室」の一環として行われるものだ。 狂言は、能などと異なり、堅苦しさが少ないものだ。 内容にも演目によってはユーモアがあり、言葉も中世後期のものであり、地域によっては難なく通じる言葉である。 謡い回しも、慣れてくれば快い。 むしろ、能や歌舞伎より受け入れ易い。 (歌舞伎の場合、事前に内容を把握しておくか、イヤホンで解説を聞きながら観なければ、舞台の華やかさが先にたち、本質が理解できないという。) 昨夜の参観は、教育としての可能性を教えるものだったのである。 まあ、少々、砕け過ぎているのではないかと感じたのだが。 恐らく、講師の高野和憲先生は、「伝統文化こども教室」を念頭に置かれていたのではないだろうか。

 いずれにしても、良い経験をした。 この活動は、狂言師・野村万作師を中心に全国に広がっているそうだが、年頃の子供を抱えた親として、短期間ではあれ、教育の場に身をおいたものとして、更なる広がりを期待したい。

Best regards
梶谷恭巨

 江戸後期の教育あるいは学問の系譜あるいは人間関係追及の旅も、現在、明治から大正初期に至っている。 同時に、その関係の広がりから医学・医療、そして戊辰戦争前後の混乱期から明治初期の復興期、更にそこで完成した人間関係の広がりにも踏み込もうとしている。 もっとも、舞台は、柏崎から長岡に移っているのだが、どうも、この辺りの歴史を追いかけていくと、「これは、単なる郷土史あるいは地域史の問題ではない」という感覚を覚える。

 先回、長岡(柏崎)・鹿児島・岩国(山口)・福岡(柳川)という広範囲な旧制中学の校長(教師)の交流について触れた。 その時には触れなかったのだが、福岡の柳川との関係には驚かされた。 安東省菴を書き、その系譜としての福岡県立伝習館高校(柳川)にも触れたのだが、まさか、旧制長岡中学の校長であった仙田楽三郎が、旧制伝習館中学校長として赴任しているとは。 実は、先輩であり友人であり、また私達夫婦の仲人でもある乗富さんの母校なのである。 因みに、高野五十六(山本五十六)は、仙田楽三郎が校長時代に在校していた。

 こうした明治における各界の全国的な人事交流あるいは移動は、上記の例を例外としないのではないだろうか。 当時の校長は、自ら職を求めたようだ。 例えば、先回も書いた坂牧善辰は、夏目漱石に自身の仕事の周旋も頼んでいる。 過渡期におけるトップ人事である。 坂牧善辰は、初代鹿児島県立第二鹿児島中学(現県立甲南高校)の後、川辺・川内の校長を歴任したあと、古巣である長岡には帰れず、大正4年、旧制三条中学校長に就任している。 この時、2人の教師を伴って帰っている。 その一人、小川景重は、新発田高等女学校校長に、もう一人、手塚義明は、旧制六日町中学初代校長に就任している。

 こうした校長あるいは教師の人事の変遷を追いかけるのは、明治の原動力の背景に、過渡期における教育の問題があると考えるからだ。

 ちょっと視点を変えたい。 長岡柏崎近隣の歴史は、単なる地方史ではない。 戊辰戦争、その後の復興期、そして石油産業の勃興、江戸末期から大正初年までの60年間、他の地域では見られない政治・経済・社会、そして文化の変遷を見ることが出来る。 その歴史を考えるとき、米国の近代史を見る思いがするのである。 すなわち、南北戦争、復興期、そして南部における石油の発見、アメリカの文化・思想、それに教育が大きく変わるのも、この時期ではなかったか。

 その長岡と米国には深いつながりがある。 『武士の娘』の著者・杉本鉞子、それと最近知ったことだが、ジョージ・岸氏である。 ジョージ・岸氏については、『北越銀行(百年or百二十年)史』を調べて判ったことだ。 氏は、長岡経済の草創期活躍した岸宇吉氏の孫で、娘さんが、米国で看護婦養成所の教師をしているとか。 その娘さんが、祖父・岸宇吉に関心を持ち、是非、墓参したいとの意向があり、昭和59年5月29日、双従兄妹(従姉弟?)にあたる山口万吉氏の案内で、北越銀行本店を訪問されたのだそうだ。 尚、山口氏は、長岡銀行(現・北越銀行)の初代頭取・山口権三郎氏に繋がる人だと推測する。

 この事に関してだが、実は、大きな障壁に阻まれている。 「個人情報保護法」である。 先回も書いたかもしれないが、日本国内のことを調べようとすると、必ずこの法に行き当たる。 企業でさえ情報を開示しない。 企業の歴史は、人間集団の歴史でもある。 特に、草創期、個人の果たした役割は大きい。 社史の本質は、単に企業の年表的歴史ではないはずである。 人間のドラマがあり、企業としてのアイデンティティが、そこにある。 昔、企業の社史編纂室は、窓際族吹き溜まりと言われた。 企業は、法人として人格を持つ。 それは、国家についても言えることだ。 マイネッケは、国家理性「Staatsrasen(rasenのaはウムラウト付き)」と言う言
葉で、国家のアイデンティティあるいは本質を表した。 (F・マイネッケ『近代史における国家理性の理念』みすず書房,1960(Friedrich Meinecke,“Die Idee der Staats in der neueren Geschichte”, R. Oldenbourg,1957) 企業のも同様のことが言えるだろう。

 国・自治体は、それぞれの歴史を編纂している。 しかし、どこか人間味の無いよそよそしさを感じる。 多くの社史を読んだわけではないが、何処か違和感を感じる。 (もっとも、地方の企業では、社史を編纂しているところが少ないのも事実だが。) ただ、先に挙げた『北越銀行史』は、よく出来た社史である。 確か、優良歴史書として表彰されているようだ。

 まとまりの無い話になってきたが、要は、個の存在が時間の中に埋没し、歴史の中で大きな役割を果たしたであろう人々あるいは企業のアイデンティティを、現在の我々は、余りにも軽視し過ぎているのではないだろうか。 今生きる我々には、過ぎ去った人々のアイデンティティを、これから来る人々に伝えるべき義務があると思うのだが。

Best regards
梶谷恭巨

 『ある旧制中学校長の足跡(続)』(377号)を書いて、もう一年が経つ。 中々資料が無く手詰まりの状態だったが、ミッシング・リンクの一つが見つかったように思える。 未だ確信は無い。 しかし、方向が見えてきたのだ。

 先日、一冊の本を見つけた。 中島欣也著『明治熱血教師伝』という。 長岡の互尊文庫の郷土関連図書のコーナーで、特に目的も無く、書名を追いかけていた。 その時、目に止まったのが、この本である。

 ちょっと本題に入る前に、説明したいことがある。 長岡の図書館に行く目的のことだ。 最近は、「個人情報保護法」に阻まれて、インターネットで企業情報を集めるにも苦労する。 そこで、一つの解決策として、過去から現在に向かって調べていくことを思いついた。 その一つの基点になるのが学校である。 しかし、こちらにも「個人情報保護法」の壁がある。 50年目くらいだと、その壁を乗り越えることが出来ない。 少なくとも百年前に遡る必要があるのだ。 そこにキーパーソンを求める。 そして、歴史を下るのである。

 さて、本題に入ろう。 (以下、敬称を略す。) 明治44年(1911)12月、旧制長岡中学の本富安四郎という先生が、長岡市立小学校校長会で講演した時の講演録が市立中央図書館に残っていた。 ガリ版刷りを、後に手書きにしコピーしたものだろう。 題して、『長岡藩史』という。 実は、この本富先生なる人物に興味を覚えていた。 偶然、互尊文庫で目にした『明治熱血教師伝』は、この本富安四郎と、その本富を長岡中学に招聘した坂牧善辰のことを書いた本なのである。 ただし、この中には、羽石重雄の事は出てこない。

 前後の関係を説明する為に、二人の略歴を書く必要がある。 本富安四郎の父・寛之丞(寛居)は、戊辰戦争時代、150石の長岡藩士で、恭順派に属していた。 しかし、一旦、戦になると一隊の隊長として奮戦している。 その三男として今朝白に生まれたのが、安四郎だ。 戦後苦学して、私立東京英語学校夜間部を卒業、そこで知り合った友人の縁で、鹿児島県の宮之城町立盈進小学校の第4代校長に就任している。 当時の回想録が、『薩摩見聞記』だ。 多才な人であったようで、『新案緩和字典』を著すほか、「実用軽便通話器」という実用新案まで取得している。 いずれにしても、旧制長岡中学・現長岡高校史を通じて、最も興味深い人物の一人である。 着目したのは、敵国、薩摩の小学校の校長になっていることだ。 後に、これがキーワードになる。

 坂牧善辰は、本富を長岡中学に招聘した当時の校長である。 この人も面白い。 有名になるのは、夏目漱石が、『野分』の主人公のモデルとしたからである。 漱石とは、同級生であり、往復の書簡が残っている。 クリスチャンである。 余談だが、そこで、関連してくるのが、『武士の娘』の著者・杉本鉞子との関係だ。 杉本
鉞子は、渡米する前の4年間、青山女学校で学んでいる。 クリスチャン系の学校である。 杉本鉞子は、そこで授洗しているのだ。 坂牧善辰は、その後(明治39年9月、詳細は調査中)、鹿児島県立第二鹿児島中学の初代校長として赴任している。 更に、明治42年には、鹿児島県立川辺中学校長、大正2年に、同・川内中学校長、最後に(大正4年9月)、故郷に近い新潟県立三条中学校長に着任した。 その時、経緯は不明だが、二人の教師を鹿児島から伴ってくる。 後に、県立新発田高等女学校校長になる小川景重、県立六日町中学初代校長になる手塚義明である。 矢張り、キーワードになるのが、敵国であった薩摩の教育の重鎮になっていたことだ。 (漱石の書簡集に関しては、私自身に錯誤あるのか、少々検討すべき点がる。 又別の機会に書きたい。)

 中島氏も、キーワードに着目されたのだろう。 ただ、私が着目したのは、坂牧善辰が長岡中学校長を辞任するに至った「和同会事件」の経緯と、その後任として着任した橋本捨次郎のことだ。 実は、前任地が、山口県立岩国中学なのである。

 覚えておられるだろうか、羽石重雄は、岩国中学から、柏崎中学、そして長岡中学の校長に就任しているのだ。 すなわち、冒頭に書いたミッシング・リンクが、橋本捨次郎ではないかと推測するのだ。

 更に、面白い事実を発見した。 筑後柳河の安東省菴について何回か書いたが、その伝統を引き継ぐ福岡県立伝習館中学(現高校)と長岡中学にリンクがあったのだ。 長岡中学が、様々な経緯の後、古志郡立長岡尋常中学として発足したときの初代の校長である仙田楽三郎(長岡藩士)が、伝習館中学の校長として、赴任しているのである。

 この事実は、実の興味深い。 先に書いた如く、登場人物の一人、本富安四郎の姓、「本富」から類推すると、この家系に興味を覚える。 何故なら、「X富」の姓は、九州か、更に遡れば、東北を推測するのである。 柳河(柳川)に友人(先輩、我夫婦の仲人)がいる。 彼の先祖は、伊達家から立花家へ輿入れの際、仙台から付
き従った家系と聞く。

 こうした人のつながりを見ていくと、「スモールワールド」に思い至る。 「6次の隔たり」よりも、もっと近い歴史上の人物のつながりが見えてくる。 人と人とのつながりは、案外、階層構造になっているのかもしれない。 下の階層から上の階層に行くに従い、「隔たり」が広がるのか、あるいは「隔たりの次数」が増えていくのか。 これは、重要なことに思える。 「隔たりの次数」と「格差社会の構造」には、関係があるのではないだろうか。 考えてみる必要がある。

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梶谷恭巨

 『武士の娘』を読むと、一章一章に驚きがある。 その一つが、悠久山の裏の草山で行われたと云う祭りのことだ。 戊辰戦争で長岡城が落城した日、それが5月7日なのだが、明治二年のことだから、幻の祭りが始まったのは、長岡がある程度復興した5、6年後のことだろうか。

 杉本鉞子(えつこ)の父親、稲垣茂光が、その祭りの主催者の一人だったそうだ。 稲垣茂光は、長岡藩牧野氏の門閥・城代家老(2000石)だったが、戊辰戦争では、河井継之助の敵役として描かれ、概して評判がよくない。 稲垣氏については、後で書くとして、この祭りは、相馬のの野馬追いのようなものだったようだ。 その日(落城の日)、戦陣の隊列を組み、先ず、蒼芝神社に詣で、会場となる東山公園に向かう。 そこで、模擬戦が行われ、後に、剣術・弓術・鎗術の試合が行われた。 稲垣家では、女たちが、祝宴の支度で忙しく立ち働き、男たちの帰りを待つ。 既に武士階級は零落し甲冑・装備も貧弱だったが、出陣から帰陣まで、長岡の町の老若男女が付き従い、この祭りというか儀式を楽しんだそうだ。 双方とも複雑な心境があったと思われるのだが、「落城の日」を儀式として記念したことには、何かしら重要な意味を感じる。

 余談だが、『武士の娘』は、元々英語で書かれている。 未だ確認は取れないが、『武士の娘』の翻訳は、余りにも日本的過ぎるのだ。 多分、原書と比較すると、大きな差異があるように思える。 杉本鉞子は、コロンビア大学で講師もしている。 しかも、時代的背景を考えると、米国における英語(米語)が確立する前の
時代である。 (これは、単なる私見である。 英語の文章には読み易い英語(米語)と読み難い英語・米語がある。 何冊読んだか覚えていないが、ネイティヴでない英語の文章には特色があり、概して、読み易い。 ただ、語彙の問題ではなく、むしろ、意味と意味とを繋ぐ、動詞の使い方とか、助詞に対する感覚的相違が、違和感を生んでいるように思えるのだが、さて、どうなのだろう。

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梶谷恭巨

 陽明学に付いて、朱舜水・安東省菴 → 中江藤樹・熊沢蕃山 → 山田方谷・河井継之助の流れを追いかけている。 始めは、継之助・方谷から遡っていたのだが、今は、先の通りだ。 というのも、どうも繋がりが見つからないのだ。 ミシングリングである。

 兎に角、安東省菴の史料・関連文書を読んでいる。 その中に、鬼重忠恕著『小説・安東省菴』がある。 面白い事が書かれていた。 筑後柳川藩立花家の城代家老に小野という家がある。 安東省菴と小野家の二代目・伊織は、幼馴染だ。 (後に、省菴の妹が伊織に嫁いでいる。) その小野家の流れを汲むのが、安田財閥とも縁の深い「ヨーコ・オノ」なのだそうだ。 だからどうだと言うのではないが、連綿と続く人の繋がりが、こんな所にもある、と一人ほくそ笑むのである。

 安東省菴は、明の亡命学者(果たして、学者とのみ位置づけるべきか?)朱舜水を援助した人物として知られている。 安東省菴の家、すなわち安東家は、柳川藩開祖・立花宗茂と縁戚に当たる。 省菴は、分家して一家を立て200石の知行を受けていた。 実質的には、80石くらいといわれるようだが不詳。 その半知分を朱舜水に送り続けたのである。 その結果か、省菴の生活は相当に苦しかったようだ。 立花家は、宗茂がそうであるように、むしろ武門の家である。 藩風も、自ずから武を奨励した。 省菴自身も、武を第一と考えていたようだが、それが、痔疾の治療のため長崎に滞在した際、その医師(矢張り、亡命・帰化中国人)を介して、朱舜水と出会うのだ。 (立花宗茂という人物も興味深い。 一度改易になり、また先祖伝来の故地に返り咲いたの大名は、他にいないのではないだろうか。)

 『先哲叢談』第三巻に記載がある。 (同巻には、熊沢蕃山も掲載。) これを読むと、義の人であると同時に、端々に武人あるいは武士を感じるのだ。 例えば、その末文に次のようは評がある。

 「省菴、文事を以って一世に表見す、今此編(省菴の回顧録『扇銘』、この前文にある。)を読めば、其の少年の勇猛、豈(あ)に毅然たる大丈夫にあらずや、即(も)し省菴をして、戎馬(じゅうば、戦時)の際に生れしめば、其の為す所、亦(まt)迥(はるか)に群を出でん。 古云(いにしえにいわ)く、文事ある者は必ず武備ありと、省菴あり、省菴の高義、世に絶えて無し、其の学も亦世に多く有らざる所なり、而して性謙譲なり、男(息子)守直に告ぐる遺訓に曰く、我、才なく徳なし、汝、諸生と共に、年譜、行状、行実、碑銘、墓銘、及び文集の序等を撰すること勿れと」

 安東省菴は、不思議な人物である。 文献も少なく(私が知らないだけかもしれない)多くを知る訳でもないのだが、何かしら近親感を感じるのだ。 柳川藩の開祖・宗茂の波乱に飛んだ生き様が、省菴に反映されているのかも知れない。 事実、宗茂は、少年時代の省菴(助四郎)に、人に無い何かを見ていたようだ。 推して16歳で島原の乱・原城攻めに従軍した時、その身を気遣った書簡を送っている。 (先に書いた舜水との出会いの因縁にもなる持病・痔疾は、既に此の頃から患っていた様だ。) この中で、次男である助四郎(省菴)に分家して知行を与えることを約束している。 単に、縁戚の次男坊に対する気遣いではない。

 一言で言えば、省菴は「義」の人である。 省菴がいなければ、朱舜水と水戸家・光圀との関わりは出来なかっただろう。 その舜水がいなければ、果たして水戸学が成立しただろうか。 朱舜水もまた、「義」の人である。 国姓爺・鄭成功を支援したのも舜水である。 亡国・明に殉じて、生涯日本語を話さなかったと言う。

 余談。 日本で始めてラーメンを作り食したのは、水戸光圀公だと言われている。 しかし、黄門様にラーメンの作り方を教えたのは、朱舜水だと言われている。

 「義」と言う意味では、河井継之助も「義の人」いわれる。 古賀茶渓の久敬舎に入門したのは、当時希少だったと言われる王陽明全集があったからだと云う。 もしかすると、継之助は省菴と舜水の逸話を知っていたのではないだろうか。

 余談。 数年前だろうか。 柳川で、「殿様サミット」が開催された。 そこに招かれた旧大名家の当主の一人が、牧野氏だった。 ここで大いに語られたのが、「素読」を見直そうと言うものだったそうだ。 柳川に近い佐賀、山田方谷所縁の高梁、吉田松陰の山口、こうした地域では、幼稚園あるいは小学校で、実際に素読が実施されているそうだ。 「素読」については以前書いたことがあるが、予想以上の効用があるそうだ。 内容の問題ではない。 「素読」という行為そのものに、学習効果があるそうだ。 最初は、意味が解らぬまま読むわけだから、子供にとっては、大変な負担になるのかもしれない。 しかし、解らぬ字面を追う内に、何が書いてあるか知りたいと言う好奇心が生まれるのではないだろうか。 まあ、この話は別の機会に。

 余談の序に。 柳川に福岡県立伝習館高等学校がある。 旧藩校が始まりと云う。 県下屈指の進学校でもあるそうだ。 先輩の出身校なので、何となく知っているの。 伝習館の「伝習」は、恐らく、王陽明の『伝習録』に由来するのであろう。 ここにも、安東省菴と朱舜水、更に陽明学との繋がりが見える。

 だらだらと書き繋いできたが、長くなってしまった。 昨日は、会社に泊まりこみで仕事をした。 先ほど帰り、書いていたのだが少々疲れが出てきたようだ。 改めて書くことにしよう。

『柏崎通信』(522号、8月24日)から転載


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1947/05/18
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