柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 今回は、日本の金融システムに多大な影響を与えた、アレキサンダー・アラン・シャンドについて。
 
シャンド(A. A. Shand):
英、紙幣寮雇、四百五十円(明治五年)。 1884/02/11-1930/04/12、日本に初めて、洋式簿記(複式簿記)を伝える。 両親: 外科医・ジェームス・シャンドとマーガレット・アラン、(ターリフ、アバディーンシャ、スコットランド) 
 
 
 以下、一橋大学の資料から引用、『British & Japan: Biographical Portraits』第二巻第五章、「Alexander Allan Shand, 1844-1930 - a Banker the Japanese Could Trust」(Ian Hill Nish著、Olive Checkland & Norio Tamaki編)から訳出した。 途中で判ったのだが、Googleブックスでは、最も知りたかった部分、すなわち木戸好孝との出会いの部分を読むことが出来ない。 残念。
  • 1884年(天保14) 2月11日 スコットランド・アバディンの良家に生まれる。
  • 1866年(慶應2)  22歳の時にはすでに、Chartered Mercantile of India, London &China の一員として横浜に来ていた。
  • 1872年(明治5) わが国は銀行制度創建のために彼を招聘、7月8日紙幣寮に雇い入れ、10月1日大蔵太輔井上馨と雇入条約書を交わす。 名義は、紙幣寮附属書記官、期間3年、月給初年度450円(以後500円)
  • 1873年(明治6) 銀行簿記脱稿、大蔵官員、第一国立銀行員に講義。 8月に翻訳ができ、12月『銀行簿記精法』として刊行
    • 8月箱根に避暑中男児モンタギュー急死、芦の湖畔万福寺に葬る
    • 10月病気のため、一年英国に帰る
  • 1874年(明治7) 10月28日、米国汽船グレイト・リパブリック号で再渡来。 10月1日、紙幣寮外国書記官兼顧問長として雇い入れ。
  • 1875年(明治8) 10月、得能紙幣頭に従い京阪地方銀行を検査。
  • 1876年(明治9) 10月、国立銀行条例改正意見書を提出
  • 1877年(明治10) 2月7日紙幣寮改革のため解職、褒賞として金700円を送られる。3月帰国。
    • この年、『銀行大意』『日本国立銀行事務取扱方』発行される
  • 1878年(明治11) ロンドンのアライアンス銀行に入る
  • 1918年(大正7) パース銀行取締役を辞任、南英チャドレイに隠退
  • 1930年(昭和5) 4月12日、パークストンで死去。享年86歳
 
(注1)22歳の時にはすでに: British & Japan: Biographical Portraits』では、1864年、20歳の時、チャータード・マーカンタイル銀行が横浜に支店を開設した時、来日したとある。 因みに、日本に支店を開設した銀行としては、2番目で、最初に開設したのは、インド中央銀行だった。 
 
(注2) 『銀行簿記精法』(Detailed Accounts of Bank Bookkeeping): 前掲書『British & Japan』によると、シャンドは、1872年8月頃から就筆を始め、翌年夏に脱稿している。 彼の原稿は、すぐにジョセフ・ヒコ(Joseph Heco、浜田彦蔵)と大蔵省の翻訳班によって翻訳され1873年12月に出版されたとある。 しかし、一橋大学の書誌情報によると、訳者は、海老原済および梅浦精一とあり、ジョセフ・ヒコの名前は出てこない。 官尊民卑の表れだろうか。 因みに、梅浦精一は、長岡の出身、新潟県一等訳官兼新潟英語学校教頭、後に、東京商業会議所書記長、石川島造船所社長を歴任している。 ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)については、別に記す。
 
 最近、視力が低下し、筆写も難しい。 まあ、それはよいとして、今回のシャンドは、不得手な分野なので、正確を期すために筆写を始めたのだが、一読する限り、日本の会計あるいは銀行システムに多大な影響を与えた人物であることがわかった。 特に、木戸好孝(桂小五郎)との関係が深いことに興味が湧く。
 
 それと、日清・日露戦争の時、戦費捻出に苦労した明治政府だが、どうも、この英国における戦費調達に深く関与した人物だったようだ。 そういえば、何処かで読んだ要にも思えるのだが、その何処かが思い出せない。 吉村昭の『ポーツマスの旗』だっただろうか。
 
 前掲書で、もう一つ気づいたのは、「太政官」を「Oligarch(オリガーク」と訳していることだ。 「Oligarchy(オリガーキー)」、すなわち、「寡頭政治」である。 確かに、薩長を中心とする少人数で新政府を運営したのだから「寡頭政治」である。 英訳さえると、なるほどと頷く。 これはよくあることだが、翻訳すると、今回とは逆に、本来の意味と大分かけ離れることもある。 幕末、外国との交渉での通訳の存在が重要だったことが、こうしたことからも判るのだが、その意味では、アーネスト・サトウの存在は大きい。
 
 余談だが、『遠い崖』では、サトウやアストンとシーボルトが比較されるのだが、サトウらが、日本語を研究するに当たり、古文や漢文にまで学習の範囲を広げたのに対し、シーボルトは、ほとんど古典など読まなかった。 結果、会話においては、それほどの差はなかったようだが、文章作成能力では、明らかな差があり、サトウが下賜休暇で日本を離れた1年数ヶ月の間、(アストンは病気がちで、シーボルトは、中学程度の作文能力)、パークスは、非常に困っていたようだ。 他国の場合、後に日本(語)学者になるような人材に恵まれなかったことが、英国優位の原因なった。 例えば、対外貿易の国別比率では、英国が70%以上を占めたという事からも、その事が判る。
 
 いずれにしても、シャンドが、近代銀行経営、あるいは会計システムを日本にもたらした。 渋沢栄一、松方正義、高橋是清などは、シャンドから多大な影響を受けた。 否、彼の弟子と云った方がよいのかもしれない。 
 
 尚、 傷心の一時帰国の途中(アデンの近く、1872)、乗船・ヒンダスタン号上で書かれた、『シャンド・メモ』も興味深いが、いずれ訳出して紹介する。
 
Best regards
梶谷恭巨

コメント
お雇い外国人
アラン・シャンドに就いて書かれたブログを拝見しました。金融システムを日本に定着させた彼は高橋是清や渋沢栄一に銀行の在り方として「貸すも親切、貸さぬも親切」と言う倫理を伝え、渋沢は生涯実業家として「倫理(論語と算盤)」を貫き通したそうですね。日露戦争の戦費調達に功績のあった人として、ユダヤ人でアメリカのクーン・ロープ商会の代表ジャエイコブ・シフが高橋らがロンドンで得た5千万円の公債の残り5千万円の公債をアメリカで調達出来る様働いたそうです。明治天皇はシフを日本に招待し、勲一等旭日大授賞を与えました。1966年、イスラエルのバルトゥール駐日大使が信任状の奉呈式に臨み、昭和天皇から「日本が嘗てシフ氏に大変お世話になり、此の恩を忘れたことは無い」と挨拶され、シフのことを知らなかった大使はどぎまぎしたと言います。
「ポーツマスの旗」は新田次郎では無く、吉村昭です。
【2015/11/06 08:45】 NAME[目黒 俊作] WEBLINK[] EDIT[]


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