柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
萩原延壽著『遠い崖』に、ウィリスが、大病院(東大医学部の前身)の指導の為に出向した時の俸給に関する記述がある。 矢張り、著者も当時の外国人の俸給が、当時の日本事情を語る上で、一つの指標になると考えられたのかもしれない。 先ずは、その部分を引用してみよう。 (『遠い崖』第8巻「帰郷」)
「明治新政府がウィリスに支払った給料は、月額八百ドル(年俸九千六百ドル)である(1869年6月28日付のウィリスの受領書より推定)」とあり、更に続いて「この給料がいかに高額なものであったかは、のちにふれるが、ウィリスの前職の東京副領事の年俸が六百ポンド(二千六百四十ドル)、月額にして五十ポンド(二百二十ドル)であったことを考えると、ウィリスの収入は、いっっきょに約三・六倍にはね上がったわけである(一ポンドを四・四ドルとして計算する)」とある。
(注)先回は、ポンド-ドル換金率を、ウィリスの計算から「1ポンド-4.5ドル」とした。
先回、ウィリスの俸給について書いたが、著者は、当時の公使館員の給与に付いても触れてあるので、その部分も引用する。
「当時のイギリス公使館員と領事館員の主要な年俸を紹介しておくと、公使パークスが四千ポンド(一万七千六百ドル)、横浜と神戸の領事が六千ポンド(四千四百ドル)、長崎領事が九百ポンド(三千九百六十ドル)、公使館書記官と、函館と新潟の領事が八百ポンド(三千五百二十ドル)、日本語書記官サトウが七百ポンド(三千八十ドル)である(『イギリス外務省年鑑』1869年版)」とある。
ここに上げられた当時の英国外交官の俸給とドルとの交換率は、明治政府の官吏の俸給を知る上で非常に参考になる。
萩原延壽氏は、『遠い崖』の中で、明治十年代中葉までのお雇い外国人の俸給も調べている。 敬服。 その部分を紹介しよう。
「キンダー(William Kinder)、英国、造幣寮支配人、千四十五円(明治三年)。 ダイアー(Henry Dyer)、英、工部大学校教頭、六百六十円(明治六年)。 フルベッキ(ヴァーベック)、米、大学南校教頭、六百円(明治二年)。 ジブスケ(A. C. du Bousquet)、仏、左院雇、六百円(明治四年)。 マレー(David Murray)、米、文部省顧問、六百円(明治六年)。 レスラー(Hermann Roesler)、独、外務省顧問、六百円(明治十一年)。 エアトン(W. E. Ayrton)、英、工部大学校教師、五百円(明治六年)。 シャンド(A. A. Shand)、英、紙幣寮雇、四百五十円(明治五年)。 デニソン(H. W. Denison)、米、外務省顧問、四百五十円(明治十三年)。 ダグラス(A. L. Douglas)、英、海軍兵学寮教頭、四百円(明治六年)。 コンドル(コンダー、J. J. Conder)、英、工部美術学校教頭、三百五十円(明治十年)。 モース(E. S. Morse)、米、東京大学教師、三百五十円(明治十年)。 フェノロサ(E. F. Fenollosa)、米、東京大学教師、三百円(明治十一年)。
ウィリスの後任としてドイツから招かれ、明治四年(1871)に来日する二人のドイツ人医師、ミューラー(L. B. C. Muller)とホフマン(T. E. Hoffmann)の月給は、それぞれ六百円と三百円である。 ・・・中略・・・・
太政大臣(三条実美)、八百円。 右大臣(岩倉具視)、六百円。 参議(大久保利通など)、卿、長官、大将、議長、五百円。 公使、中将、副議長、四百円。」 (1ドルは一円の計算との事。)
これを見ても、お雇い外国人第一号のウィリスの俸給が如何に高いかが判る。 取り敢えず、このことは置くとして、注目を引くのは、英国人と米国人が多いことだ。 要するに英語圏の人々なのである。
英国系の医学が日本に定着しなかった背景には、ウィリス自身も語っているように、公使館の医官として来日したウィリスは、自分の最新医学に対する知識が不足していたことと、臨床医としては優れていたが、医学者あるいは医学の教師として実力に不安を感じている。 この事が、蘭方系の多い日本の医師に受け入れなかったのも事実だろう。 (公使館医官は、社会的地位としては低かったようだ。 ウィリスは、医官でありながら公使館の事務も担当し、後には、医師の道をあきらめ、領事になることを目標としたくらいだ。 因みに、ウィリスは、仕送りをしなければならないという家庭の事情や勤務先の病院のナースに子供を生ませことなどから、彼の後任であるシドルもまた、勤務先のナースとの関係がこじれ英国に居られなくなったという事情で、当時としては僻地勤務の日本公使館の医官に応募したようだ。)
しかし、先の俸給リストからも判るように、英国の、あるいは英米の明治政府に対する影響力は大きい。 幕末、蘭学を学んだ人々も、これからは洋学と英語に鞍替えしている。 こうした背景を考えると、英国が、その影響力を使って、最新の英国系医学の人材を紹介することも可能だったはずだ。 しかも、ウィリスの一番弟子ともいえる石神良策がいるのである。 石神良策の妻は、シーボルトの娘・楠本イネ(オランダおイネ)である。 この点からも、ウィリスに心酔する石神良策の存在は大きい。
こうした事情から推測すれば、英国系医学が日本の主流になった可能性は大きいのだ。 しかし、これは単に医学の問題だけではないように思える。 明治維新で、医学を志した、あるいは医学塾で学んだ人々の影響は大きい。 例えば、陸軍における大村益次郎にして然りである。 言い換えると、明治という時代、医師の影響力が想像以上に大きかったのではないないだろうか。
実は、石黒忠悳を追いかけたのも、彼が単に陸軍軍医総監としてだけではなく、何かしら陸軍そのものにも影響力を持っていたのではないかと推測したからだ。 例えば、石黒は、第二代社長かもしれないが、日本赤十字の実質的設立者の一人でもあるのだ。 また、文化面においても、出版王といわれた博文館の大橋佐平を援助し、言論の世界にも一石を投じている。 日本における本格的な図書館・大橋図書館(現三康図書館)の初代館長になるのは、必然的結果なのだ。 また、森林太郎(鴎外)の上司として(石黒は、森鴎外を松本良純から続く学統の後継者と考えていたきらいがある)、小金井良精の妹を後妻に入れたのも、同郷(長岡)の縁からだろう。
後に起こる「脚気論争」は、ウィリスと石神良策の弟子である高木兼寛と石黒忠悳・森林太郎、すなわち海軍と陸軍の論争であり、英国医学系とドイツ系医学の拮抗ではなかったか。いずれにしても、この辺りから歴史を追って行けば、その後の歴史が何かしら明らかになるのではないかと、蟷螂の斧を振り上げる次第である。 Best regards
梶谷恭巨
石神良策と楠本イネの関係について
私は、石神良策の子孫ですが、
「石神良策の妻は、シーボルトの娘・楠本イネ(オランダおイネ)である。」というのは、どこから得た情報なのでしょうか。いろいろ調べているのですが、アーネスト・サトウの「一外交官が見た明治維新」以外には、見当たりません。詳しいことがお分かりでしたら、お教えいただけるとありがたいです。 |
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1947/05/18
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