柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
『海舟日記』、文久三年(1863)3月3日の記事に、海軍操練所創設時の屋敷の概要および借用の費用の記載がある。 NHKの大河ドラマで、ある程度のイメージは湧くのだが、具体的にどのようなものだったのか、知りたいと思っていたところだった。 先ずは、その部分を引用してみよう。
◎神戸屋敷、取建入用大凡(とりたてにゅうよう、おおよそ)
○屋敷地八反余並びに樹木代六両共、五十三両。
○建家一ヶ所、右引移り、地ならし共、三十両。
○塾三間幅、十間の長さ。 新規建具畳共、百七十三両。
○ほか台所、雪隠、馬屋、門番所、新規、七十七両。
○屋敷外囲三方、土堤四尺の高さ、堀四尺幅、大凡百間余、芝代、築上ヶ共、十五両
生田往還の方すき下ヶ□、十五両。 ○からたち百三十間、土堤の上へ植付け。 但し一間につき十一本並。 一本二十文宛、五両。
○引家、畳、建具
畳十六畳 十七匁宛四両
唐紙八枚 一両二分
障子十六枚 二両
天井新規
湯殿 二両
(計)十八両
○門、三両
○松の樹植付、二両。
○竈(カマド)、二両。
○仮塀、二両。
○台所向道具、八両。
○庄屋、年寄、御代官手代へ地所借入祝儀、三両。
掛かった経費の合計は、約404両。 当時の物価の計算は難しいが、インフレがかなり進行していた状況を考えると、慶応4年(明治元年)頃の換算レートが、1両=10貫800文位なので、その数年前は、それよりも低く見積もり、1両=10貫から10貫200文辺りだろうか。 面倒なので、一応、1両=10貫とすると、掛かった費用は、4040貫、1貫=1000文で、米1升=100文くらいだから、米にして約40400升になる。 1升=約1.5Kgだから、60600Kg。 これも面倒なので現在の米価を、60Kg=10000円とすると、10,100,000円。
適当な計算で申し訳ない。 興味ある人は調べて欲しい。 ただ、当時は、米本位制だから、物価も米の出来高や地域によって、極端に変動していたようだ。 ウィリスが、越後・会津を旅した時、高田までの米価が、横浜の10分の1あるいは12分の1だが、高田では、横浜の半額、柏崎では半額以下と報告している。
要するに、江戸時代の経済あるいは消費経済は複雑怪奇なのだ。 むしろ、今風に言えば、グローバル経済に似ているのかもしれない。 誰かが、株価市場を勉強するには、酒田豪商の本間光丘を研究するとよいと云った記憶があるが、それも、納得できるというものだ。
今回の海軍操練所の件を知り、改めて、当時の社会状況を考えると、一般的なテキストに見える江戸時代を、もう一度見直す必要がある。 話が戻るが、商品相場というものは、日本が発祥の地なのだそうだ。 シカゴ市場の比ではない、江戸時代のはじめ頃には、既に大阪に米を中心とした市場(問屋制)が形成されている。 今まで余り気を止めなかったのだが、振り返ってみると、大阪の「大塩平八郎の乱」と時期を同じくして起きた柏崎の「生田萬の乱」の背景が見えてくる。 天保の大飢饉の時、柏崎(中越の桑名藩領)では、地元の役人や商人と結託した江戸の仙石屋が米を買占め、米価が異常に高騰し、それが、引き金になっているのだ。
余談だが、米国のハーバード大学が、江戸時代経済の研究に力を入れたことは知られている。 英語で幕府政治を「Shogunate」というが、これは、ハーバードで作られた言葉とか。
2400坪の広さと屋敷の増改築の規模を考えると、掛かった諸経費が予想外に安いように思える。 しかし、ここには、非常に高価だった書籍とか測量・航海の機器器具の記載が無く、土地の地代が、どうなっているのかも書かれていない。 まあ、興味半分で書いてみたが、何かの参考になれば幸いである。
Best regards
梶谷恭巨
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プロフィール
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77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
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歴史研究、読書
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柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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