柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 先日、市立図書館(ソフィアセンター)で『海舟日記』(『海舟全集第18巻から21巻)を閲覧、借りてきた。 海舟の人物リストを確認するためである。 ところが、日記には、単にサトウ来訪とあるのみで、詳細が書かれていない。 その時点で、数年前の作成したとサトウに語っているから、文久年間から元治元年辺りに書かれていないかと調べている。 因みに、『海舟日記』は、文久二年の旧暦8月から書かれている。 (以下、旧暦)
 
 まあ、それは措くとして、慶応4年(1868)の3月5日に、山岡鉄太郎(鉄舟)が勝を訪ねた記載がある。 有名な件だから、皆さんご存知かもしれない。 一応、その項を引用する。
 
「旗本・山岡鉄太郎に逢う。 一見、その人となりに感ず。 同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。 我これを良しとし、言上を経て、その事を執せしむ。 西郷氏へ一書を寄す」とある。
 
 ここで謂う一書とは、有名な江戸開城に関するものだ。 ただ、私が、ここで興味を持ったのは二点。 先ず、前後の文脈から、この時が海舟と鉄舟の最初の出会いだったのではないかと云うこと。 また、益満(休之助)のことだ。
 
 海舟は、「逢う」という字を使っている。 「逢う」の字義は、「両方から近づいて一点で出あう。 転じて、ばったりと思いがけなく出あう」とある(学研『緩和大字典』)。 名前あるいは噂は聞いていたが、この時、初めて会ったと解すべきか。 いずれにしても、海舟は、第一印象を「そのひととなりに感ず」と書いているのだ。 海舟の日記に全て眼を通した訳ではないが、ざっと見る限り、人物について書いた部分は少ない。 山岡鉄舟の印象が強烈だったということだろうか。 確かに、体格からして対照的だ、山岡は2mに近い巨漢、方や海舟は小男である。 矢張り巨漢であった西郷に対するには、体格的にも適任と感じたのかもしれない。 しかし、勝海舟が人物を見る慧眼を持っていたことは、これからも確かだろう。
 
 次に気になったのが、益満休之助のことだ。 勝は、三日前の3月2日、薩摩屋敷焼き討ちの首謀者、南部弥八郎・肥後七左衛門、そして益満休之助の預かりを命じられて、受け取っているのだ。 その経緯の部分を引用して見よう。
 
「旧歳、薩州の藩邸焼き討ちのおり、訴え出でし所の家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助等は、頭分なるを以って、その罪遁るべからず、死罪に所(処)せらる。 早々の旨にて、所々へ御預け置かれしが、某(ソレガシ)申す旨ありしを以って、此頃、此事、上聴に達し、御旨叶う。 此日、右三人、某へ預け終る」とあり、別本に、「薩人三人御預り命ぜられ、受け取る」とある。
 
 このことから推測すると、山岡は、当初、江戸開城について薩摩との交渉を模索していたが、既に、薩摩の人々は江戸から引き上げており、官軍との交渉を仲介する人物を見出せなかったはずだ。 事は緊急を要す。 そこで、先の薩摩藩士三人を勝が預かっていることを知り、勝を訪ねたのではないかと云う推測が成り立つのではないか。 もし、この時が勝との初対面であれば、この事実は興味深い。
 
 因みに、益満休之助は、私が子供の頃、日本映画が全盛の頃、『黒頭巾』などの常連で、チャンバラごっこでは、誰もが益満役になりたがったものだ。 歴史上の事跡では脇役的存在だが、もしかすると、団塊の世代には、よく知られた名前かもしれない。
 
 まあ、些事といえば、それまでだが、小説などで、この事が書かれていた記憶が無い。 そんな訳で、些事、紹介まで。
 
Best regards
梶谷恭巨

コメント
弥彦村観音寺の松宮雄次郎の子孫です
弥彦村観音寺の松宮雄次郎の子孫です。

伊能忠敬研究会東北支部長・日本大学工学部講師  松宮輝明
沢辺琢磨と龍馬
土佐藩の身分制度とは
戦国時代、土佐は長宗我部氏に支配されていたが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで西軍に就いたため領地を没収された。代って、東軍の遠江掛川(五万石)領主山内一豊が土佐藩主に任命された。土佐藩の石高は表高二十万二千六百石余だが、幕末には実高は約五十万石となっていた。
 徳川幕府の朱印状には従来のまま石高「二十万二千六百石余」の記録がある。幕府の各藩に対する正式な石高の史料である。土佐藩は外様大名であるが幕府がいかに忠誠を誓う土佐藩を優遇していたかが解かる。
土佐藩政の中枢は山内家家臣(上士・士格)が独占していた。土佐藩は大別すると藩内は、上士と下士(軽格)に分けられる。長宗我部氏旧臣は下士(軽格・郷士)として虐げられた。この上士、下士の身分制度は幕末まで続いた。長曽我部の牢人は郷士という土佐特有の身分で土着し在郷の武士である。土佐藩においては郷士の身分は下士の上位に位置づけられていた。郷士には関ヶ原の戦い以前の旧領主である、長宗我部氏遺臣の『一領具足』の系譜を引く者が多かった。一領具足は、平時には田畑を耕し、農民として生活をしているが、領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて、直ちに召集に応じなければならなかった。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称された。このような半農半兵の兵士であるから、一領具足は通常の武士が行うべき仕事は免除されていた。農作業に従事しているために、身体壮健なものが多く、また集団行動の適性も高かったため、兵士として高い水準にあったと考えられる。慶長十八年(一六一三)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の初めとなった。郷士はその後、新田等の開発を行う度に取り立てられ下士となった。江戸時代中期には商品経済が農村部まで浸透し始める。すると、困窮苦から、生活のために郷士の身分を譲渡するようになった。当初は武士身分の者への譲渡は耕作地の売却が主であったが、次第に、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れてきたのである。なお、多くの郷士が農村や山間部に居住していたが、上士の居住地である郭中以外の上町・下町に居住する者も出てきた。下士の坂本龍馬の家が一例である。十五代藩主は山内容堂公であり実質石高五〇万石の大々名で徳川家と親しく将軍お世継ぎ問題や公武合体を推進する実力者であった。幕末には容堂公の信任が厚く、大目付から執政となった吉田東洋が有名である。東洋の門下より義甥の後藤象二郎、板垣退助、岩崎弥太郎ら明治時代を代表する人物を多く輩出している。また、武市半平太(瑞山)の知己で下士の郷士である坂本龍馬や中岡慎太郎など優れた人材が輩出した。
幕末とは嘉永六年(一八五三)ペリーの黒船来航以来から始まり慶応四年の戊辰戦争までの期間を云うといわれている。
写真 土佐藩高知城(外観三重、内部六階の前期望楼型天守)
土佐勤王党・党首武市半平太誕生す
幕末の傑物に中級武士の武市半平太がいる。半平太は下士と上士の中間に属し白札と呼ばれる身分であった。半平太は文政十二年(一八二九)の生まれである。半平太は文武に優れ人望もあり、下士の若者達の中心的人物であった。半平太(瑞山)は土佐勤王党を文久元年(一八六一)八月を結成した。三十三歳で土佐勤王党の党首となったのである。江戸に遊学していた武市は住谷寅之介(水戸)、樺山三円(薩摩)、久坂玄瑞(長州)ら諸藩の尊攘激派と知り合い、土佐藩でも同志を組織化しようとしたのである。土佐勤王党は旧知の坂本龍馬・平井修次郎を含め、一九〇余名が加盟し、一大勢力となった。土佐勤王党のメンバーは大部分が郷士を中心とする下士と庄屋であった。
黒船来航により日本国は大きな荒波に襲われ、幕府大老井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ずアメリカはじめ五カ国と条約を結んだ。これに反対する勢力の水戸藩を初め攘夷論者を断罪したのが『安政の大獄』であった。これに反発し『桜田門外ノ変』、『坂下門外ノ変』と大きく幕府体制を揺がした。武市半平太はこの時代、安政三年(一八五六)江戸に出て桃井道場で剣術に励み塾頭となった。半平太は普段は寡黙であるが一旦口を開くと理路整然として尊王攘夷の所信を述べると雄弁家でもあった。身体は長身で痩躯であったが、剣客として鍛えた筋骨は隆々としており、顔は長く、角ばり顎が突き出していた。墨絵の龍に似ていたので『墨龍先生』と呼ばれていた。態度は誠実で荘重である。半平太は水戸藩士と交わり長州や薩摩を訪れ尊王攘夷論者になるが、その半平太が土佐に帰り、土佐勤王党を組織して、その党首になったのである。土佐藩内で政局は一時勤王党に有利な時もあったが公武合体論の台頭により不利な状況となった。土佐藩は、十五代藩主・容堂が吉田東洋を起用して改革を断行した。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、安政の大獄で容堂が隠居すると武市半平太を中心とした土佐勤王党により暗殺された。勤王党は尊王攘夷であり、容堂・東洋の開国、公武合体と対立して藩論は二分された。尊王攘夷は薩長の同志との密約であり、半平太は薩長に遅れぬよう藩庁に重ねて進言したが、「東洋は書生論」として退けた。半平太は執政である佐幕開国論の吉田東洋と対決し、翌年東洋を暗殺した。東洋、享年四十七であった。半平太は「八月十八日の政変』により投獄される。半平太は入獄生活三年後、慶応元年(一八六五)閏五月十一日、容堂の藩命により「主君に対する不敬行為」という罪目で半平太は切腹を命ぜられた。岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎の自白組4名は斬首、半平太は腹を三度切り裂く三文字の切腹を遂げ、絶命した。半平太、享年三十七。半平太の辞世の句は、「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり 」

写真 土佐勤王党・党首武市半平太(瑞山)
幕末土佐藩が輩出した英傑
潮江村(高知市)に沢村惣之丞がいる。惣之丞は、坂本龍馬と一緒に脱藩し、神戸の海軍操練所に入り勝海舟の薫陶を受け龍馬の結成した海援隊に入り隊士となった。その後長崎で割腹した。岡内俊太郎(後、男爵岡内重俊)、田所沸次郎(大和義挙殉難)、箕浦猪之吉(泉州境においてフランス人砲撃を学び後に割腹)、吉村虎太郎、谷干城、岩崎弥太郎、岩崎弥之助、ジョン万次郎、岡田以蔵などを輩出している。いわゆる幕末に志士を生み出す土壌が土佐藩の身分制度に由来していたのである。
土佐勤王党に下士の沢辺琢磨が入っていた。沢辺琢磨は天保六年(一八三五)、土佐郡潮江村に土佐藩の郷士である山本代七の長男として生まれた。潮江村は寒村であったが、今は人家も密集していて、昔の面影も残している。沢辺琢磨は幼名を山本数馬と称した。山本家は代々下士の出であるが裕福な家系であった。山本代七の弟・八平は同じ土佐郷士の坂本家に婿養子として入り坂本平八直足と改名している。
平八は長男權平、次男に龍馬をもうけておる。琢磨と龍馬とは、実質上の従兄弟同士である。また琢磨の母と武市半平太の妻、富子の母は姉妹である。したがって龍馬、琢磨、富子は従兄弟同士ということになる。
琢磨の生まれた家は高知市筆山公園の東端に位置する。少年の頃、彼はそこから十五分位で目の前の鏡川へ魚を取りに行った。途中天神様があり、その前の杜を通るときには少し頭を下げた。琢磨の家は天神様の氏子であった。その鳥居から十歩位のところに鏡川の土手がありそこから天神様の橋が架けられていた。
鏡川は清流で夏には水泳が出来た。猛暑になると沢山の少年や青年が鏡川で水泳する。従兄弟の龍馬少年も城下の本丁筋二丁目から十五分くらいでそこに来ることができた。そこで二人は一緒に水泳をして遊んだのである。そしてお互いに「龍馬」「琢磨」と呼び合った。琢磨と龍馬はこのようにして少年時代を過ごし成長したのである。
天保六年(一八三五)十一月武市半平太は高知城下の新町に道場を開いた。沢辺琢磨は十八歳で塾頭格となり、半平太に代わって、門弟の代稽古をした。また、琢磨は安政二年(一八五五)、武術に優れていたので江戸へ剣術修行に出てきた。その時、半平太が塾頭していたのが桃井道場であった。琢磨は早速心明智流の桃井春蔵道場へ入門した。桃井道場は京橋浅蜊河岸にあり、春蔵の鏡新明智流は江戸三大道場のひとつである。琢磨は土佐藩邸に寝起きし、剣術修行に励みその腕を一層磨き、師範代を務めるまでになった。三大道場の一つといわれた桃井道場で琢磨はたちまち「カラス天狗」の異名を取った。翌年、龍馬も江戸へ留学する。龍馬はこのとき千葉定吉が開いていた京橋桶町の「桶町千葉」へ入門している。鳥取藩師範の千葉定吉は水戸藩師範の千葉周作の実弟にあたる。龍馬は千葉定吉の弟子になった。
写真 土佐勤王党党首 武市半平太の生家

武市半平太の剣術修行
安政二年(一八五五)武市半平太は新築した自宅に妻の叔父で槍術家・島村寿之助と道場を開き、声望が高まっていた。半平太の道場には一二〇人の門弟が集まった。 この道場の門下には中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵等もおり、後の土佐勤王党の母体となった。
当時藩士が江戸にゆくには藩命のほかに武術修行をするということが許可を得る条件であった。江戸の有名道場には各藩の若い武士が入門してくる。そこでの交流があった。武市半平太も坂本龍馬、沢辺琢磨もその許可を土佐藩から得ていったのである。しかし、目的は武術だけではなく心の奥に秘めた大志があつた。それは江戸の情勢や各藩の情勢を知ることであった。徳川二〇〇年の政権が亀裂を生じている時代であり情勢が手に取るようにわかることである。
幕末江戸三大剣術道場と呼ばれたのは玄武館、練兵館 、士学館である。
半平太は安政三年(一八五六年)八月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵・五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流の士学館に入門した。士学館は鏡新明智流で、桃井春蔵が京橋蜊河岸に開設した。半平太の人物を見込んだ桃井春蔵は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。半平太は安政五年(一八五八)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる。琢磨は、半平太が塾頭していたのが桃井道場に早速入門した。琢磨は土佐藩邸に寝起きし、剣術修行に励みその腕を一層磨き、師範代を務めるまでになった。琢磨は三大道場の一つといわれた桃井道場でたちまち「カラス天狗」の異名を取った。
練兵館は 神道無念流で、初代斎藤弥九郎が九段坂下の俎橋付近に開設した。のちに九段坂上(現在の靖国神社境内)に移転した。練兵館は門弟三千人と云われ、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、品川弥次郎などの維新の英傑を輩出している。
いる。
 龍馬はこのとき千葉定吉が開いていた京橋桶町の「桶町千葉」へ入門している。千葉道場 は北辰一刀流で、文政五年(一八二二)、千葉周作が日本橋品川町に開設した。のちに神田於玉ヶ池に移転している。鳥取藩師範の千葉定吉は水戸藩師範の千葉周作の実弟である。定吉は道場を京橋の桶町に開いたので『桶町千葉』とよばれていた。龍馬は千葉定吉の「桶町千葉」の弟子になったのである。
写真 土佐勤王党党首 武市半平太の生家


写真 土佐勤王党党首 自画像



龍馬の恋人・千葉道場の鬼小町
北辰一刀流の千葉道場は、文政五年(一八二二)に千葉周作が日本橋品川町に開設した。のちに神田於玉ヶ池に移転している。龍馬は嘉永六年(一八五三)三月、江戸に上り千葉周作の弟の千葉定吉の道場で剣を学んでいた。定吉の道場は京橋の桶町にあり「桶町千葉」と呼ばれていた。定吉には佐邦女、里幾女・幾久女の三人の娘がいて、三人とも男勝りで美しい女剣士であった。特に佐那は美人で名が高く、北辰一刀流小太刀の免許皆伝の使い手であり、「千葉の鬼小町」と呼ばれていた。宇和島藩八代藩主・伊達宗城が残した「稿本藍山公記」には安政三年に十九歳の佐那が伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていたとあり、後に九代藩主となる伊達宗徳(二十七歳)と立ち会って勝ち、また『左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ』(佐那は二つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番の美人である)」と記されている。千葉道場を代表する剣士も、負けん気が強い「鬼小町」にかなうものがなかったと云われている。
龍馬は桶町の千葉道場で頭角を現し、佐那は真摯に剣に向かう龍馬に思いを寄せていった。そして龍馬の許婚となった。結婚していたともいわれている。NHK大河ドラマ『龍馬伝』では貫地谷しおりが佐那役を演じ、魅力的な美貌の女性剣士として描かれている。佐那の回想によると龍馬と知り合い、安政五年頃に婚約したという。 龍馬は姉、乙女宛ての手紙で「佐那は今年二十六歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もでき、力は並の男よりも強く、顔は平井加尾よりもよい」と書き送っている。親の定吉は佐那の結婚のために坂本家の紋付を仕立てたが、龍馬の帰国後は疎遠になってしまった。後に龍馬が醤油商・近江屋において暗殺されると、その後は一生独身を通し、明治十五年、学習院女子部の舎監で北辰一刀流師範として奉職する。のちに職を辞して、千住に灸治院を開業した。龍馬の家紋入りの片袖を形見とした。一生独身で過ごした佐那の心を思うといじらしい思いがする。佐那は山梨県甲府市朝日の清運寺に龍馬を思慕し眠っている。千葉定吉の長男に重太郎がいる。嘉永六年(一八五三)に父・定吉が鳥取藩の剣術師範に就任し、鳥取藩江戸屋敷詰となったため道場は重太郎に任されることとなる。この頃、土佐から江戸に出てきた龍馬が千葉道場に入門しているので、龍馬に剣術指南をしたのは主に重太郎であったと考えられる。さらに万延元年(一八六〇)には重太郎自身も鳥取藩に仕官している。重太郎は鳥取藩士として江戸政界に関わるが勝海舟の開国論に反感を抱くようになる。文久二年(一八六二)、龍馬を伴い勝邸を訪れ、海舟を暗殺しようとしたが出来なかった。斬れなかったのは、龍馬は海舟から世界の情勢や海軍の必要を力説されて心酔し、ただちに海舟の門人になってしまったからである。
重太郎は戊辰戦争では鳥取藩歩兵頭として一隊を率いて出陣し、 維新後は北海道開拓使になり、京都府の官吏としても活躍をした。明治十八年六十二歳で没した。

写真 「千葉の鬼小町」佐那の墓、墓碑の裏面に坂本龍馬正室とある。

沢辺琢磨の時計事件①
二十一歳の沢辺琢磨は従兄弟の龍馬の手紙を読み、江戸の状況を知り血が湧いた。安政二年(一八五五)に龍馬が高知に帰り、翌年安政三年八月二日に江戸に戻った。琢磨は矢も立てもたまらなくなり、後を追い龍馬を頼って剣術修行に江戸に上り、鏡新明智流士学館の桃井春蔵の門を叩いた。武市半平太は安政三年八月に、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵、五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て士学館に入門していた。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。半平太は入門した琢磨の親族の縁で後見人となった。
琢磨は剣の腕は優れていたのでたちまち桃井道場の師範代になり、士学館の「からす天狗」と呼ばれる様になった。
土佐藩士の下士は酒を飲み議論をするのが好きである。琢磨も酒の強い男であった。ふとした出来心から盗人まがいの行為に及んでしまった。安政四年(一八五七)八月四日に『沢辺琢磨時計事件』が起きる。琢磨は同門で板橋藩士の田那村作八に「今夜は呑みに行かないか」と誘われた。誘われるままに外出し飲み屋の暖簾をくぐった。半平太は田那村作八は他藩のものでもあり、日頃から酒癖が悪く、荒々しくなるので交際をしないように常々注意していた。飲んでからすぐに道場に戻ればよかったのであるが、作八は外に出ると酔いが回り足元が悪く、いつもの酒癖が出て通告人に体当たりを始めた。通行人を突いたり、捕らえて投げたりした。その中に古道具商の佐川屋金蔵という者がいた。佐川屋は持っていた風呂敷包みを落としたまま逃げたのである。風呂敷を思わず拾い上げて道場に持ち帰った。そして開いてみると珍しい懐中時計が二個入っていた。一個はオロシャ(ロシア)製の金時計である。二人は同時に不心得にもこれを売って酒代にしょうと相談した。半平太や龍馬のような立派な友を持つ琢磨としては不心得な心になったのであった。琢磨と作八はこれを浅草の時計商へ売りに行った。時計商へ持って行き、現金化しようとするが、すでに手がまわってた。時計商は買う振りして「いただきます」と云った。「いくらで買うか」「一個なら八両(約八十万円)ですが二個ですので十五両にさせていただきます」と云った。商談がまとまると時計商は気の毒そうな顔をした。「実は只今お金が手元にありません。後からお届けしますので、あなた様のご住所とお名前を聞かせてください」と云った。琢磨は「拙者は土佐藩の者で山本格馬だ」と嘘をついた。旧姓の「山本琢磨だ」とは云わなかった。時計商は住所と名前を聞くと「承知しました。お金は本日必ずお届けします」と云ったので二人は道場に帰ってきた。琢磨と作八は首をながくして待ったが、時計商が来るはずも無かった。

写真 坂本龍馬の父尚八の墓標



琢磨の時計事件②
琢磨はそのとき「拙者は土佐藩の山本格馬(沢辺琢磨の旧姓)」と答えた。金時計泥棒は土佐藩の山本ということになってしまう。
半平太はその日、未知の来客を迎えた。客は古道具屋の佐川屋金蔵の代理の河野信太郎といった。「ここに山本格馬という方がおいでになりますか」と、半平太は「格馬というものはいないが、山本と云うものはいる。格馬でなくて琢磨ではないのか、山本琢磨ならいるよ」と答えた。「十三日の夜、佐川屋金蔵が狼藉に遭いました。その時、時計の入った風呂敷包みを落としました。そのひとつはオロシャ(ロシア)製の盗品です。事情があって佐川屋がお預かりしていたものです。もしその時計が無いと佐川屋さんは重い刑罰に処せられます。その様な訳で江戸中の時計商に連絡したわけです」と云った。
早速、半平太は桃井道場で稽古代をしている琢磨を呼んだ。琢磨は「なにか用件ですか」と平気な顔をした。「そこに座れ、用件だ」と半平太は緊張した顔をした。半平太は琢磨に佐川金蔵の代理人として河野某が尋ねて来た話を説明した。
「格馬というのはおしん(君)のことか」と半信半疑の思いで追求した。心の中では人違いであればよいと思いながら訪ねたが、人違いではなかった。「私です。私のことです」と琢磨は素直に答えた。琢磨の顔は青ざめその言葉は震えていた。「それは盗賊追いはぎの行為ではないか、武士の行為ではない」と半平太の声は大きくなった。琢磨は頭を垂れ「すみません。すみません」と云った。「切腹するより他はない」、半平太は平静になり決意を示した後、詳しくその時の事情を聞いた。「おしん(君)も通行人に狼藉したか」「狼藉したのは田那村作八です。わたくしは止めたけれども、彼は酔いがまわって夢中になっていました。この上は仕方がない。武市さんが腹を切れといえば切ります」「おしん(君)の処分については龍馬とも相談の上で決めるので、今日は桃井道場へ帰り、俺から通知するまで今まで通り稽古をしておれ」と云った。
半平太は琢磨を帰しに日、同宿の龍馬、大石弥太郎(土佐勤王党の趣意書を草案した下士)と三人で協議した結果、次の様な解決案を考いた。
○時計は佐川屋に戻す ○目付へは内密にしてもらい佐川屋が目付に依頼する
○佐川屋への交渉は半平太と龍馬が当たる
翌日、半平太、龍馬は浅草の佐川屋へ肴代として金子五両(約五十万円)と時計を持参し訪ねた。二人は夕方まで待ったが佐川屋金蔵は帰らなかった。
次の日、再び二人は佐川屋金蔵を訪ね時計事件の事情を話し目付への対応を話し合った。

写真   坂本龍馬



琢磨の時計事件③
次の日、目付の呼び出しに半平太と龍馬は出頭した。目付はすでに何もかも知っていて「沢辺琢磨は盗賊追いはぎに等しい行為でこのままという訳には行かない。まだ詮議中であるので、琢磨の身柄は当分貴殿らの郷士に預ける」と云った。二人は「やむをえません。お預かりいたします。」といって辞した。帰り道、半平太と龍馬は事件が意外に複雑になり土佐藩の下士の責任問題になる事を心配し対策を相談した。  
「一時江戸を脱出させよう」と龍馬は半平太に云った。「それより他は無いな」「目付へは行方不明になったので探していますと報告をする」「その工作は龍馬にまかせる」「承知しました」。桃井道場の琢磨は一室に閉じこもり謹慎していた。龍馬は琢磨に「困ったことになった。佐川屋に頼んで内密になっていたはずが、すでに目付けに漏れていた。俺と武市さんが目付に呼ばれて身柄をわが土佐藩の郷士として当分預かることになった。いわば入牢となる。処分であるから道場で稽古などは出来ない。このことは早晩わが藩の者にも解かることになる。上士の者に解かると藩の面目をつぶしたといって責任を追求されることは明らかだ。切腹か。切腹を要求するだろう。だが馬鹿馬鹿しい、これ位のことで前途のある青年が切腹する必要はない」琢磨は沈黙した。龍馬は云う「脱出だ。江戸を脱出せよ。時期を見て戻ればよい」「そんな事をすれば、おしん(君)と武市さんに迷惑をかけるじゃないか」「そんな心配はいらん。あとの始末はおれと武市さんが引き受け何とかする」琢磨は切腹すると決めていたが龍馬は賛成しなかった。「脱出するしかないがどこへ行くか。奥州へ行くのがよい。そこには幕府を支持している雄藩があるであろう。仙台藩とか会津藩とかの内情を調べてくれれば、倒幕を念願する同士の参考にもなるし、禍い転じて福とする古言の通りだ」「おしん(君)は金を持っているか」「十両(約百万円)はある」「十両あればどこに行っても心配ない。道場を訪ね試合をすれば友達も出来る。琢磨の腕であればどこでも不覚を取ることはないし歓迎される。病気をしないようにのう」「わかった。禍いを転じて福となすで気持ちで行くことにする。龍馬も元気でのう」「勤王倒幕の目的を達するため、お互いに身体を大切にしょう」。二人はそこにあつた残り酒で、別れの盃を交わした。その夜安政四年(一八五七)八月十六日、二十二歳の琢磨は江戸を脱出した。
 半平太は『時計事件』については沢辺琢磨の父に手紙を書かず、土佐の半平太の妻の富子(琢磨の従兄弟)の父島村源次郎に書簡を送った。最初琢磨を切腹させるしかないと判断したが、龍馬が佐川屋金蔵への訴訟の取り下げを折衝し、江戸から奥州、蝦夷の地に逃亡させた。いくばかりかの路銀を持たせ琢磨をすばやく逃がしたので心配しないように」と書き送ったのである。


写真 慶応時代の沢辺琢磨 

琢磨東北へ放浪の旅へ
沢辺琢磨の長男で日本正ハリスト正教徒司祭の沢辺悌太郎の私記に江戸を脱出してから東北を経過し行く様子が書かれている。「琢磨は江戸浜松の土佐藩邸の水門から脱出し東北の旅に出た。肌寒い。しかし今や我が身は天下の浪人だ。何の束縛もない自由の身だ。七面倒くさい藩の士風や制裁から解放され、身も心も軽々と関東八州の地に武者修行の身である。身に何もたくわえはないが、長年鍛え上げた武術あることが、相応の勝ちを制して侮を受けることは無かった。この間、上州を吹き荒れる長脇差は甲州の無宿とは違い、任侠の風あることを耳にした。特に利根川に臨んだ同夜、千日堂を前に昔、磔茂左衛門が百七十七カ所の人民をとたんの苦しみから救い。己の女房と共に殺された物語を茶を啜りながら、また、上州の高山彦九郎の人柄を聞いて感服した。宇都宮や白河を通り仙台に足を留めた。ここでも道場を訪ね試合をした。試合をすると親しくなり、知人が出来た。宇都宮の蒲生君平(蒲生氏郷の子孫)、仙台の林与平(儒学者で尊王論者、海防論者)の話しも聞いた。共に、「寛政の三奇人」といわれた。
ここでも道場を訪ね試合をした。、仙台の金忠輔(仙台藩の武芸者)の事蹟や遺言に接し感じることが多かった。次に強藩会津に入り。ここでは長く逗留した。龍馬が云ったように仙台は会津藩と共に強い藩であると思った。しかし同じではない。仙台は文に優れているが武においては会津がはるやに優れている。
そのころ会津藩士に、古天流の松本勇(あだ名がお釈迦)という異名を持つ面白い男がおり、江戸にも遊んだことがあるとのことであった。剣術の師範をしている。ある日、藩主松平容保侯の目前で、この男と三本試合をしたが、立会いの際、彼は指を鼻の下にやり、これにかかわるからなと小声で言ったので、勝ちを一本譲ってやった。万事奇智に富んだ男であったが惜しいことに京都でまだ名をなさないうちに何かのことから刃傷に倒れたと聞いた。俺はそれから旅を続けた。奥州諸国を歴訪し、そのうち米沢で始めて敗を取った。各地には侠客がそれぞれ縄張りを張っていた。義侠心に富んだ親分がいた。親分の一言は君侯よりも重い真剣味があった。その筈だ。子分のために尽くす親分の中には水火も恐れない態度があったからである。彼らに剣を教えた。そこで先生、先生と呼ばれた」と記している。琢磨は越後弥彦村観音寺の松宮雄次郎宅に世話になった。筆者の先祖である。昭和五十年筆者宅にロシア正教徒の大寺敬二氏が訪ねて来た。大寺氏はニコライ神父から洗礼を受け、白河ロシア正教徒教会の管理者でもある。そしてニコライ神父、沢辺琢磨神父の熱心な研究者でもある。来訪の趣旨は沢辺琢磨神父が筆者の先祖弥彦村の松宮雄次郎宅で剣道の師範として世話になったとの事であった。琢磨は時計事件を起こし切腹するところを龍馬と半平太に相談した。弥彦に松宮雄次郎がいるので路銀を懐に松宮屋敷を訪ね剣道場の師範として厄介になっていのである。

写真 弥彦村の松宮雄次郎(久左衛門)屋敷、松宮久左衛門宅は北越農事の看板が建ち昔の面影を残している。
前島密との出会い
松宮雄次郎は江戸に遊学し学問は安積艮斉塾で、剣術は千葉道場で修行し龍馬達と交遊がった。代々松宮久左衛門を名乗る郷士で侠客としても名が売れていた。屋敷は三千坪、剣道場もあった。家周りは石垣で囲まれた大素封家で、十代目久左衛門(本名雄次郎)の時は、三条別院のお取りこしと弥彦の灯籠押しになると、越後中の親分が集まる習わしだったという。国定忠治、大前田英五郎、清水次郎長と交際があり信義を守り人望も厚く学問もあった。弥彦は天領であるが雄次郎は与板藩の用人格の待遇を受け、出雲崎代官所の目明頭も務めていた。越後一帯と長野の善光寺まで縄張りであった。
筆者の四代前の曽祖父である松宮雄次郎は、戊辰戦争に参戦した。いわゆる北越戦争である。松宮屋敷は幕軍の本陣になって参戦し雄次郎は観音寺隊を率い長岡藩、米沢藩、会津藩、庄内藩と共に東軍側で戦ったが西軍の勝利で終わった。雄次郎は、米沢方面に逃れたが捕らえられ、弥彦の屋敷は焼き打ちにあった。明治二年許されて弥彦に戻った。雄次郎は明治六年四十八歳で病没した。
話しを安政四年(一八五七)に戻す。琢磨は松宮雄次郎から京都、大阪地方の雲行きについても話を聞き解かっていた。勤王攘夷の士が縛についていることも聞いた。武市半平太、坂本龍馬の動向も知りたい。しかし、どうすることも出来なかった。弥彦村の松宮雄次郎宅に前島密が出入りしていた。前島密は天保六年(一八三五)越後池部村(上越市大字下池部)に三百年続いた豪農の家に生まれた。若くして両親を亡くし、後に郷士の前島家の養子になった。弘化四年(一八四七)、江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学ぶ。密は安政四年頃に弥彦に滞在する沢辺琢磨に声をかけてきた。密は翌年安政五年、用務があっては箱館(函館)に渡るという。用務とは航海術を学ぶため箱館へ赴くのである。琢磨は越後弥彦村で前島密という男と親しくなったことが新しい運命が開かれる動機となった。密は琢磨に箱館(函館)に行くことを勧めたのである。密は「箱館は文明開化の街です。いま日本国で新しいことを学ぶなら箱館しかない。それに四民平等の街とも聞いています。どうです行きませんか」と誘いを掛けてきたのである。密は岩倉使節団としてヨーロッパで学び日本の郵便事業の開祖となる。前島は日本の近代郵便制度の創設者で「郵便制度の父」と呼ばれた。
琢磨は前島密の誘いを受け入れ新潟港より直航する荷物船に便乗した。冬の季節に向っていたので日本海の航行は困難であり強風を受けて船の動揺が激しく今にも沈没するかと思うことが何回もあった。しかし数日を費やし船は箱館港に着いた。安政五年の暮れである。琢磨は「ともかく凾館まで来たなア」と独り言を云った。
 
 写真  郵政の父と呼ばれた前島密 



琢磨、箱館の船宿主の危機を救う
上陸すると前島は琢磨と別れどこかに行ってしまった。通りがかりの船頭に聞いた船宿に泊まろうと思った。琢磨が旅籠屋丸仙の客になり四、五日目のことである。家族の部屋で異様な物音がした。その声も普通の声ではない。琢磨は足音を立てないようにそっと歩いていった。物音がする部屋に近寄り、そっと襖を少しばかり開けて、そのなかを覗いて驚いた。覆面をした男が三人、丸仙の亭主を取り囲み「金を出せ。出さねば斬る。声を立てても斬る」といって威嚇している。三人の男は覆面をしており容貌わからないがたいした人物ではないらしい。食い詰めて金に困り、あげくの果て、強盗を計画したものに違いないと直感した。琢磨は引き返して三尺ほどの棒を探しだし、それを片手に襖を開け、大声で「こら」と叫びながら飛び込み、間髪を入れず、三人の腕をその棒で叩いた。三人は日本刀をその場に落とした。たぶん腕が折れたと思ったのであろう。刀を落としたまま驚いて逃げるのを背後から追い討ちを掛けたので三人は一目散に逃げ出した。琢磨は引き返し亭主に「怪我はないか」と声を掛けた。物音に妻も子供もまた、泊まり客も顔を出し狭い部屋はいっぱいになった。亭主は「お陰様で命拾いをしました。お武家様がいなければ私は殺されていました」といい、又、「どのようにして、このご恩をお返したらいいのでしょうか」と云い、家内も涙を流して喜んだ。そのあと一同で小宴を開き琢磨も思いがけない一献を受けて喜んだ。この夜の出来事は狭い箱館町の隅から隅まで拡がった。その後丸仙の亭主はその夜のことが忘れられず、妻と毎日のように相談した。そして考えついたのが琢磨のために、凾館のために、武道館を建てることであった。琢磨はその話を聞き喜んで受け入れた。丸仙の亭主はこの計画を日頃尊敬する神明社の宮司に相談をした。宮司は沢辺悌之助といい理解のある人物であった。丸仙は函館湾の岸壁の近いところにあった。背後が凾館山の傾斜であり、その斜面を二〇〇メートルほど登るとうっそうとした森の中に神明社がある。社の前に大きな鳥居がありそれを抜けると、その奥に神殿と宮司の住居があった。丸仙が悌之助に会うと直に賛成し神社の林の樹を寄付してくれることになった。武道館を建てる敷地も貸してくれるところがあり、道場ができたのは二ヵ月ばかり経過してからであった。
琢磨は箱館を拓いた男高田屋嘉兵衛の遺族とも交遊があった。極貧の四面楚歌の状態から身を興し、豪商へと上り詰めていった嘉兵衛を知っていたのである。函館では持ち前の剣術の腕が功をなし、それがきっかけとなって道場を開くと町の名士たちとも親交を持つようになった。そんな中で知り合った箱館神明社の宮司・沢辺悌之助は三十五、六歳で琢磨より十歳位上である。性格が穏当で絵画や書道に通じの文化人である。また、琢磨と囲碁を戦わし、ときには謡曲を共にした。

写真  箱館神明社(現・山上大神宮)


琢磨、箱館に武道館を開設
神明社の沢辺家は一子、左門は七歳で亡くなり、現在残っているのは二人の女子である。沢辺悌之助は切り出した。「琢磨殿、拙者を助けると思い長女の養子になってもらえないだろうか」と言った。「娘さんは何歳ですか」「十四歳になっている。もう養子を迎えてもいい年齢になっている」と、長女は友子といった。琢磨にとっては思いかけない相談である。琢磨は二十四歳、年齢的には不釣合いではない。琢磨は土佐藩士山本家の長男である。山本家の後継であり養子に行ける身分ではない。しかし今のところ土佐に帰るあては無かった。しかも琢磨の願望は半平太、龍馬と同じく「尊王攘夷」であり、倒幕である。宮司になってそれが出来ないのであれば断るより他はない。その点を話すと悌之助は「そんな懸念ない。日本のためになることであれば何をしても良いと思う。神明社の祭神は天照皇神太神である」と力を入れてれ琢磨の決意を求めた。琢磨の土佐の潮江村(高知市)には菅原道真を祭神とする天神様があり、琢磨の家は先祖代々天満宮の氏子である。神明社は天照皇神を祭神としていると共に、菅原道真公を合祀している。琢磨は決意し神明社の神前で友子と結婚式を挙げたのである。琢磨は祝儀が済むと神明社の住居へ移った。道場は希望者に譲り武芸の指南は神明社から通った。琢磨は毎日沢辺悌之助より宮司としての指導を受けいつでも後継者になれる準備をした。悌之助は養子を迎え安心したのか急に身体が衰弱し病床につき一年後に亡くなった。琢磨は悌之助の死後、神明社の発展に努力した。琢磨の名声は凾館の内外に知れ渡った。とくに彼の名が知られたのは安政六年の『安政の大獄』に関連し箱館の物価が急騰し、食糧不足で窮民が続出したときのことである。このとき琢磨は凾館の有志の寄付を仰いだ。続々義援金が集まり、この義援金で窮民を救済した。また、一般人から軽視されていたアイヌ人を待遇したことにある。当時アイヌ人は一般人の住居に入ることは出来なかった。アイヌ部落から出てきても、一般の居住地には立ち寄れないが春秋二回の彼岸には日本人の墓前に供えた赤飯やその他の食料品を貰い、その時には日本人の住居まで出入りが出来た。しかし、座敷へあがることや家の中に入って座敷へ腰をかけることは許されず、彼らは土間に下座して頭を下げて食べ残りのものを貰った。この習慣は凾館における永い歳月に亘って行われてきたものであり、誰もこれを怪しむものは無かった。琢磨が宮司になると、神明社へ来た者には座敷にあげて、自分と同じようなものを食べさせ、酒を飲ませた。冷酒をおおきなドンブリについで飲ませので、酒好きのアイヌ人は涙を流して琢磨の歓待に感激したのである。山本琢磨は函館で神明社宮司沢辺悌之助の女婿となり沢辺啄麿と名前を変えた。養子になってからも宮司の勤めと道場の師範の稽古を両立させることが出来た。
しかし、琢磨の心は宮司の生活に満足していたわけではなかった。彼の尊王攘夷の火は消えていなかった。

写真  琢磨が庇護したアイヌの人たち

外国人殺害計画
琢磨の視線は常に凾館に建てられた外国領事館に注目していた。箱館に住む領事館員を一人残らず殺すという計画が同士間で進められていた。
箱館に初めて領事館が建てられたのは安政六年(一八六〇)琢磨が凾館に来た翌年からであった。何時、外国と幕府との間に契約が結ばれたかは知らない。しかも尊王攘夷の思想からすると、外国人の建物が日本の国土に建てられ、その上、貿易まで約束したことは幕府の弱腰であり、許せないと判断した。
琢磨の考えはこうだ。『外国人は貿易によって粗悪品を日本に売り、日本から貴重な物資を安価に買い取る。日本人というのは正直で純真であるから利欲に鋭い彼らにだまされるのは明白である。その結果日本はしだいに欠損し日本が疲弊し属国となり奴隷とされるのに違いない。この恐ろしい野望を打破しなければ破滅だ。打破するには建物を焼き払い、箱館に来ている外国人を一人残らず殺してしまうことだ』と考えた。
建物中最も不快を感じたのがロシアの建物である。ロシアの建物は巴の港(凾館港)を見下ろすところに建っていた。建物は四棟で広大な敷地を独占し、そこに領事館、病院、博物館、聖堂があった。その上建物は優美な外観であって、何となく日本人を威圧するようでもあった。琢磨をこの建物を見るにつけ腹が立ち、激怒する心を抑えることが出来なかった。焼き討ちとともに外国人の大殺をする他はないと思いつめたのである。そして同士を募集した。やがて決死の同士が五人となった。文久二年(一八六一)のことで琢磨が箱館にきて四年目の年である。
彼らは毎夜のように神明社に集まり密議を交わした。神明社は大鳥居を過ぎると神殿までは数分かかり密に侵入する者がいれば容易に発見することができ、長く協議してもこれが洩れることは無いと信じていた。ある日、箱館奉行所から呼び出しの通知が来た。琢磨が出頭してみると、同士四人はもう呼び出されて取調べを受けていた。事件は未遂であるが、奉行所は五人と思わず、このほかにも多数の同士がいるものと推定し、一同は留置場に入れられ毎日のように審問を受けた。琢磨だけは数日の後、許されて帰宅したが、他の四人は帰ってこなかった。四人のなかの一人は留置場で自殺した。琢磨が許されたのは著名な神明神社の宮司であり、宮司を罰することは神を罰するに等しいという信仰から一人だけ許されたものであった。   
琢磨は函館領事館焼打ちの失敗後も、なおこの計画をあきらめてはいなかった。なんとしても目的を達したいと心を砕いていた。



写真 復元された箱館(函館)奉行所


         
【2011/01/30 08:51】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]
弥彦村観音寺の松宮雄次郎の子孫です
弥彦村観音寺の松宮雄次郎の子孫です。

伊能忠敬研究会東北支部長・日本大学工学部講師  松宮輝明
沢辺琢磨と龍馬
琢磨と新島襄との出会い
ある日、ロシア領事館から琢磨の元に使いの者が来て、「剣術の指南をお願いしたい」と伝えた。琢磨は外国の事情を知りたいと思っていたので即座に承知した。そこでロシア領事館の菅沼清一郎(長岡藩士)から江戸から来た青年、新島襄を紹介された。新島はニコライ神父に日本語を教えているのだと云った。琢磨は「貴殿は何を目的に箱館に来たのか」と尋ねた。新島は箱館に来た目的を、数回会った後に、米国への密航を打ち明けたのである。この時代、外国に行くことは許されていない。国禁を犯しての密航は重罪である。判れば吉田松陰の様に死罪となる。
新島襄は天保一四年(一八四三)江戸神田町の上州板倉藩の屋敷のある神田一つ橋の藩邸内で生まれた。兄弟六人で女四人、男二人の長男である。父の新島民治は板倉藩の祐筆(書記官)であり、襄を跡継ぎとするため幼少時、父から襄は六歳より習字を習い、七歳で藩の学舎で素読の講義をした。十一歳のとき史書五経などの漢書を学んだ。襄は乗馬や剣道があまり得意でなく興味は学問に向けられた。十四歳のときその才能を認められ、学問好の藩主、板倉勝明より抜擢され蘭学を学ぶ様命ぜられた。藩の儒学者添川廉齋は進歩的な学者で『一国の富強は外国の学問をとり得れ、開国し、貿易をすることにある。そのためには航海術を学ぶことにある」と諭した。また、藩主自らが蘭学者の杉田玄白の講義をした。襄にとっては異国の学問との出会いであった。それ以後、封建社会に対する矛盾を抱くようにもなった。十六歳になって祐筆職に就いても、その職務に満足できなかった。平身低頭して藩主を送迎し、藩の記録を保管する仕事に退屈を感じ、同僚と茶を飲みながら世間話で過ごす毎日を、ばかばかしいと思えてならなかったという。藩主勝明が四十九歳で亡くなり、弟勝段が藩主となった。勝段は蘭学を学ぶことを禁止した。襄が友人から借りたプリッグマン著『アメリカ合衆国誌』を繰返し読んだのは、その頃である。米国はキリスト教を信仰し、大統領制であり、合衆国の民主政治と幕藩政治を較べ、そのちがいに呆然とした。『自由』にあこがれるようになり、米国の事情を知りたいと考えるようになった。だがその方法はない。当時、欧米を知ろうと思えば蘭学による外なかった。新島は師を求めて蘭学に熱中するようになった。外国の書物を手に入れ 、物理学や天文学書まで読めるほどオランダ語を修得すると、やがて数学を基礎から学ぶ必要を感じ、築地の公武所に幕府海軍伝習所(海軍大学の前身)に入った。伝習所は旗本や御家人の子弟の教育機関である。そこで数学、測量観測術、航海術、機関術、オランダ語などを学んだ。板倉藩本家も米国から買った快風丸(一五五トン)を持ち襄も操作したが、江戸湾に浮かぶオランダ軍艦を見た。巨大な軍艦は海を圧し、周囲の伝馬船や蒸気船は卑小にさえ見えた。
写真 同志社大学の創立者 新島襄
新島襄アメリカに密航計画
板倉藩士新島襄は江戸湾のオランダ軍艦を見聞し、外国人はこのような巨大な軍艦を造ることができる。その科学の知識はとうてい日本はおよばないと驚嘆した。海国日本は、まず海軍を充実して国を守らなければならない。そして外国との貿易を盛んにするために商船も建造しなければならない。そのために自分は航海術を学ぼうと考え幕府海軍伝習所に入り学んだ。龍馬は神戸の幕府海軍操練所で学んだ。
新島襄は武市半平太や坂本龍馬が唱える『尊王攘夷』の思想にはならなかった。
勉学が進むにつれ、外国にゆき西洋文明に直かに触れたいという思いが募って行く。だが国禁を犯しでの渡航は、板倉藩主や藩士の父に背くことになる。襄は漢書を読んで育ち、その学才は藩主も認めるほどであった。それゆえに儒教の教えから脱することができない。そのしがらみに縛られ何日も悩みつづけた。襄が海外渡航を胸に秘め、品川沖に停泊する備中板倉藩の快風丸(長さ三十一.五メートル・幅六.八メートル・一五五トン)に乗船したのは元治元年(一八六四)十二月十二日だった。四月二十一日箱館に着いてほどなく、生活費を得るため、ロシア領事館付の司祭ニコライ神父の日本語教師となり、密航の機会を待った。譲はニコライの館に寄宿し、二人の英国人から英語を学ぶようになった。二十日後ニコライ神父に海外渡航の決意を打明け、助力をもとめている。ニコライはそのとき、自分の館にとどまり英語を学び、聖書を研究するよう延べ、襄に密航は辞めるように話した。ニコライは領事館付という公の地位にあった。しかも彼の真のねらいは、キリスト教の伝道にあっただろう。それゆえに、国禁を犯しての密航に助力することは立場上できなかったのである。
琢磨は文久二年(一八六二)三月従兄弟の龍馬が脱藩したのを知るよしもなかった。琢磨がロシアの領事館から帰宅すると途中友達の菅沼清一郎に出合った。
蓮沼は琢磨が剣術の試合道具を持っているので不思議に思い「そんなものを持ってどこへいったのか」と云った。「貴殿にはまだ話してないが実は最近ロシアの領事館に剣術を教えに行っているのだ」と云った。「それは良かった。貴殿に紹介したい青年がおる。彼は江戸から来た。江戸の情勢に通じている。ぜひとも貴殿を紹介したい」「その青年はどこにおる」「ロシア領事館の教会でニコライという神父に日本語を教えている」と、琢磨は蓮沼に別れ領事館にその青年を訪ねた。「米国に渡り何を研究するのか」「米国でキリスト教を学び、米国の国情や社会の仕組みを研究し日本に輸入するのです」と琢磨に胸のうちを明かした。琢磨は宮司なのでキリスト教には賛成しなかったが、出来るだけの援助をすると約束し、友達の福士成豊(卯之助)を紹介した。福士は英国人アレキサンダーボーター商会の通訳をしていた。 
ポーター商会の支配人でもある福士は、新島襄の計画に賛同し、停泊する米国商船の船長に交渉し、密航を快諾させた。襄は二十二歳であった。
 写真   箱館のロシア正教徒教会

新島襄アメリカに密航す
新島襄は、新しい知識を海外に求め、元治元年(一八六四)に江戸から自由の地、箱館へ到着し、海外渡航の機会を伺っていた。襄はハリストス正教会のニコライ神父に日本語を教えるなどをしていたが、福士成豊(日本で最初の函館測候所の開設者)と沢辺琢磨との助力により、同年六月十四日の夜半、国禁をおかして、米国船ベルリン号に乗り込み密航をしたのである。襄はニコライ神父に米国脱出の手助けを願い出ていたが、ロシア人のニコライはロシアへの渡航には賛同したが米国人に知人も無く、立場上も賛成しなかった。襄は密航の計画が具体化するとニコライに「神父さん、私は近く米国に行くことが出来るかも知れません」と云った。ニコライに福士との交渉の経過を説明すると「それは神の恵みです。そんな親切な人がいれば、実現するかも知れません。途中危険もありますから、直ぐに自分の写真を撮って、両親に送りなさい」と云った。ロシアの領事館内に写真を撮る専門家がいて、翌日写真を撮影した。数日後、福士から襄に「すぐに来てくれ」と連絡があった。「新島君、いよいよ密航の計画が実現する。今、停泊しているベルリン丸に乗れるよう船長と交渉した。船長のセーブォリーは米国人だ。商館関係で私と知り合いだ。しかし、船は上海までしか行かない。そこで米国行きの船に乗り換えれば良い。出航は明日、十五日だ。前日の夜に小舟に乗って乗り込め」と云った。襄は大粒の涙を流し喜び、琢磨にいち早く知らせるために飛ぶように神明社の坂を駆け上がって行った。港の船乗場から二〇〇メートル位の所に神社があり二十分くらいの所に琢磨の神明社があった。琢磨は我が事のように喜び「明晩であれば我輩のところに泊れ、今夜は送別会をしょう。明日の早朝から神明社の夏の大祭が始まる。祭りではどんな格好でも役人はとがめない」と云った。襄はロシア領事館に戻り両親宛に手紙を書いた。手紙には自分の写真を同封した。襄の送別会は沢辺琢磨、ロシア領事館の菅沼清一郎(長岡藩士)の三人でさびしい集いであったが、心の底に秘めた覇気は天を呑む気概であった。三人の若者は無事を祈願し盃を交わした。襄は感極まって『武士の思いは立田の山紅葉 錦着ずしてなどかえるべき」と謡った。琢磨が「忘れるな 忘れるな この言葉の葉の錦なりしを」と返歌した。
襄は漢詩で『池に中の蛙のような生活をしていた往時を追想して感慨無量である。俺はこれから鵬の翼を借りて全世界を飛べるのだ』と詠んだ。外で福士の使いの塩田寅男が待っていた。祭りの混雑する坂道を下り港に向った。福士が待っていた。小舟に乗る処を役人に呼び止められた。「誰だ」「ボーダー商会の福士だ。急用があって米船に行くところだ」。役人は福士を知っていたので「ああそうか」といい、別に怪しまずに去っていった。襄と福士が乗った小舟はまもなく湾内に停泊中の米国商船ベルリン丸に着き梯子を昇り乗り込んだ。そこで福士から船長を紹介された。二十二歳の新島襄は大志を胸に箱館港を出航した。
慶応元年(一八六五)七月九日、上海でアメリカ船ワイルド・ローヴァー号に乗り替え、七月二〇日にボストンに入港した。
写真  箱館港より密航する新島襄
琢磨ニコライ神父殺害を決意①
三十一歳の琢磨は函館に来て八年目を迎えた。慶応二年(一八六六)である。当時の箱館は正月になると、町をあげてお祭り騒ぎの行事があった。総じて住民は陽気で正月になると、一切の儀礼を廃して、飲めや唄いの光景が町中に展開された。中でも蝦夷第一の豪商福嶋屋の宴会は盛大で近在の神官まで招待し、毎年琢磨もその一人として招かれていた。しかし、今年の正月は楽しんでいられなかった。江戸の状勢は仙台藩、秋田藩から流れてくる浪人を通して若干のことはわかったが、しかし武市半平太が藩命により慶応元年(一八六五)切腹したことなど知るよしもなかった。再会を約した龍馬の消息も分からない。いつまでも箱館のようなところにいてもつまらない。「いまの俺は不甲斐ない生活をしておる」と自問自答した。それには理由がった。琢磨はロシア領事館の館員のために週一回武術の指南をしていた。館員の中には「自分はともかく、子供に日本の武術を学ばせたい」という依頼があり応じていた。外国人のために続けることは馬鹿馬鹿しくなってきた。それに領事館に出入りする中で不可解に感じるのはニコライ神父の正体である。ニコライは天保七年(一八三六)ロシアのスモレスク県ぺリヨザ村で生まれた。琢磨より一歳年下である。二十五歳のニコライ神父は万延元年(一八六〇)に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任した。そして、新島襄から昨年まで日本語を教わっていた。新島はニコライに日本語教師として雇われていたが、同時にニコライに「古事記」を読んで講義していた。琢磨はそのことが頭から離れなかった。なぜニコライは「古事記」のような日本の古典を研究するのか。キリシタンの僧侶が日本の歴史を研究する必要がどこにあるのか。三百年前秀吉や徳川幕府がキリシタンを禁止したのは、当時スペインが布教を表に日本を属国にする意図があることが解かったからである。いまのロシアはそれと同じ行為をしているのに違いない。幕府は蝦夷地を調査し松前藩にまかせては置けないと箱館奉行に支配させた。しかし奉行所の力でも、抗しきれず、久保田藩(秋田)、勝山藩(千葉)、南部藩(盛岡)、津軽藩、仙台藩などから藩兵を出させた。そして、各地に魚場を開き漁夫を送り込んだ。ニコライの真意は分かった。琢磨は日本の安泰を続行するためにはニコライを殺害することを決意した。突然ニコライは琢磨の来訪を受けた。ニコライは琢磨に「どうぞ、どうぞ」云って愛想よく椅子を進めに日本の茶を出した。琢磨が部屋に入って注目したのは部屋いっぱいの書物があることであった。しかも洋書は数冊で、他は漢語、日本文学、歴史のようなものばかりである。古事記、大日本史など、その他の仏教の書物も沢山ある。合計すると数百冊に及び日本人でもこんなに沢山持っている人はいない。これを見て琢磨は一種の戦慄を覚えた。この事実は日本を内偵するものだと直感した。ニコライは日本にきて三ヵ年を経過したばかりである。それでいて日本語の会話には不自由しない。上達している。早晩疑う余地はない。ニコライは日本の内情を偵察するために来たのだ。何よりこの書物が証拠ではないか。琢磨は怒りがこみ上げてきた。写真 ロシア正教徒の司祭ニコライ神父

琢磨ニコライ神父殺害を決意②
語気を強めてニコライに『本日我輩が訪ねたのは聞きたいことがあるからである。質問するので答えてもらいたい。間違っていたならば承知しない。そのつもりで答えてもらいたい」「分かりました。そのつもりで何でもお答えします」「貴殿はキリシタンの僧侶か」「はい、私はハリスト正教会の司祭です。ハリストはギリシャ語でキリストということです。私たちの教会ではギリシャ語を用いています」「貴殿の仕事は何か」「私の仕事は週に何回かの祈りの会を司会いたします。日曜日は館員一同この聖堂に集まって礼拝式がありますから、その司式を行います。また、私は館員に不幸があったときに葬義を致します。私はそのために、この領事館の司祭として来た者です」「しからば、そのハリストというものを日本に広めるためか」「広めたいと思っております。でも今は幕府によって禁じられております。それが許されるようになってから、広めたいと思います。」「しかし、本当の腹はキリシタン宗を布教しておいて、その上、日本を属国にする計画ではないか」「そんなことはございません。絶対にございませ」「それは嘘だろう。三〇〇年前日本に来たキリシタンはそれを白状したのではないか。そのために秀吉公は布教を禁じた。その後幕府も布教を禁じ今日に及んでいる。本当のことを云え」「それは本当のことでございます。私は偽りを申しません」「それが偽りであったら許さん。日本の武士は約束を破ると切腹する。切腹が出来なければ殺される。それは承知か」「殺されても結構でございます。約束をいたします」「分った。その点はよい。ほかに聞きたいことがある。色々ある。質問する。それにも本当のことを答えてもらいた」「その外どんなことでございますか」「貴殿は日本の古事記などを研究しているはずだ。古事記は日本の古典だ。日本の歴史だ。日本が生まれた時から書いたものだ。そんなものを何故研究せねばならないのだ」「私がそのようなものを研究していることをどうしてご存知ですか」「我輩に友達で新島襄という者がいた。その者を雇っていたのではないか。日本語を習うためではないか。しかし、実際は古事記を読ませたではないか。古事記は日本人にも難解な書物だが、まして外国人には難しい。そんな難しいものを何故研究する。その目的は何か」「私は日本を知りたいからでございます」「そんなことまで知る必要はない。他に目的があるのであろう」
「目的はございません」「それは日本を属国にするための研究ではないか」「それは違います。私はハリストの布教が許されるようになれば、その教えを日本人に伝えれたいと思います」「許されるときが来ると思うか」「許されるのは遠くないと思います」「どうしてそれがわかる」「私は神様のお示めしを受けておりません」「そんなことがわかってたまるか」二人の間に沈黙が続き、琢磨は角度を代えて言った。「日本には日本の神がある。日本は神国だ。日本人はそれでよい。この日本においてそんな邪教を布教されては困る」「邪教ではございません」「邪教だ。邪教だ」と叫んだ。

写真 龍馬の従兄弟である沢辺琢磨(六十八歳・明治三十四年撮影)
琢磨ニコライ神父の弟子になる
ニコライに対し琢磨の声は荒々しく繰り返し『日本は神の国だ』と言い放った。
ニコライはしばらく黙っていたが口を開き「沢辺様に質問致します。私の質問にお答え下さるようお願い申し上げます。よろしいでしょうか」「わからんことをいうたら、答えんが、道理のあることなら答えよう」「沢辺様は私の信ずるハリスト正教は邪教といわれるが、それはこの聖書をお読みになってのことでしょか。それとも想像しての事でしょうか」「読んだことは無い」「読まずに邪教というのは道理にあわないのではないですか」「それもその通りだ」。理路整然としたニコライの説明に接して打ち込む隙間がない、最初に来たときの反抗心は希薄となり、ニコライの説明に耳を傾けるようになった。それは琢磨の心が和らいで、ニコライの崇高な品格に触れたからである。さすがの剣術の達人も打ち込めない。理論ではニコライ神父のどこからも打ち込めなかったのである。その日はその程度の押し問答をし、再会を約束し別れた。翌日も、その翌日も訪問して、ハリスト正教に対する質問を続けた。大主教ニコライ師事蹟によると『沢辺琢磨は次の日も訪ねてきた。そして、ハリスト教に抱く疑問を質問し続けた。琢磨は三日目の正午頃になる、懐中より白紙を取り出し、腰より僕汁と筆を抜いて、聴くところを筆記するようになった。それ以降追随し耳を傾けるようになった』とある。
また大主教ニコライ師事蹟には「琢磨のハリスト正教を信ずるや、その熱烈なる性情から之に熱中し、知人は外教を礼賛するのを見て発狂したのであろうといった。また、他人に勧めてやまなかった。琢磨は憂国の士、尊王攘夷の提唱者である。琢磨は神明社の宮司である。外人の進めでがハリスト教を礼賛するのをみて、その説に耳に傾ける者が殆んど無かった」と記している。
琢磨は箱館で格式の高い神明社の宮司で七代目を継ぎ婿である。家庭内では云うに及ばず、神明社の氏子の中から異論が唱えられ波乱を生じたのである。
琢磨の苦悩はひととおりではなかった。特に義母と妻の友子の苦しみが一番大きかった。琢磨はニコライ神父の弟子になったがしばらくの間、神明社宮司の座に留まっていた。祭祀の時には祝詞を漢語訳し、ハリスト教の聖書を聖句に置き換えてカムフラージュをしたりもしていたが、やがてハリストス正教に改宗したことを公言し神明社を去った。キリシタン禁教下において神道の祭司職が邪教へ改宗したということもあって、琢磨一家に対する迫害は非常に厳しく生活は困窮を極めた。琢磨が神明社を捨てて戻らないので、神明社の下僕の『爺』が幼少の長男悌太郎を宮司として神事を教えた。したがって悌太郎が神明社の八代目の宮司となる。
さらには精神的に参ってしまった妻が自宅に放火をするという事件も起きた。その後、琢磨は妻子を残して函館を一時脱出し布教しながら東北地方を南下するが途中で捕縛・投獄され、後に釈放されて箱館に戻った。

写真 琢磨が度々訪れた函館ハリスト正教徒教会
         
【2011/01/30 08:57】 NAME[松宮輝明] WEBLINK[] EDIT[]


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