柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前

徳川(幕臣): 筒井紀伊守(政憲)、羽倉外記(簡堂)、岩瀬伊賀守(忠震・タダナリ)、鳥居甲斐守(忠耀、耀蔵)、男谷下総守(信友)、川路左衛門尉(聖謨・トシアキラ)、成島図書頭(司直・モトナオ)、堀織部正(利忠)、江川太郎左衛門(英敏)、水野痴雲(筑後守忠徳)、松平内記、大久保一翁、山岡鉄太郎(鉄舟)、中条金之助、松岡萬(ヨロズ)
 
江川太郎左衛門(英敏): 天保10年(1836、生年月日不詳)-文久2年12月16日(1863/2/4)、伊豆・韮山代官・太郎左衛門英龍(坦庵)の長男として生まれた。 安政2年1月16日、父・英龍の死去により家督を継ぎ、第37代当主となる。 父の遺業・農兵育成や反射炉の完成、爆裂弾の作成など精力的に推進するが、家督相続後、7年にして死去。 弟・英武が家督を相続する。 江川生年月日が不明なのは、丁度この年の1月9日に、英龍が鳥居耀蔵と共に、備場巡見(外国船防備の為の砲台用地の調査と測量)に出かけ、同年3月14日に帰府するが、外国事情に関する建白書の草案を渡辺崋山に依頼しするなど、多忙を極めていた所為ではないだろうか。 但し、憶測の域を出ない。
 英龍の死後、英敏を後見したのが、老中(備後福山藩主)阿部正弘の側近・松平近直だった。 近直は、目付から勘定奉行勝手方に抜擢され、13年間、阿部正弘と一心同体の如く、ペリー来航後の財政を運営した。 その当時、川路聖謨が江川英龍を推挙するが、近直が拒む。 しかし、実際にあってみると、英龍の人柄・学識に驚き、以後、英龍の崇拝者となり、一族の子弟や家臣を英龍に入門させた。 英龍の死後、16歳で家督を継いだ英武を、先ず代官見習、矢継ぎ早に、内海台場御用・家督相続・代官就任・鉄砲方・大砲鋳造御用などの役職に就け、相続前に将軍に謁見までさせている。 因みに、浅草本法寺で行われた英龍の争議には、2800人余りが参列したそうだ。 英龍の遺業・遺徳が、如何に大きかったかの査証だろう。 こうした事情を考えると、海舟がリストに上げたのは、もしかすると英龍かもしれない。
 英龍は、何しろ多芸・多才な人で、交友関係も多彩だ。 絵画も良くし、谷文晁とも親しく、剣術は、岡田十松門下で、当時は未だ練兵館を開く前の斉藤弥九郎に指導を受け、四天王と云われるまでの剣客である。 尚歯会にも参加、渡辺崋山とは盟友の関係、砲術の高島秋帆に師事し、伊豆に砲術塾を開設、蘭学・洋学にも通じ、反射炉の建設も行うなど、幕末のレオナルド・ダヴィンチのような人物だ。 余談だが、斉藤弥九郎と甲府近隣の直轄領を商人に変装し、実態調査(大塩平八郎の乱の影響など)したエピソードなど小説にでも書けば大受けするのではないだろうか。 また、ジョン万次郎(中浜)は、英龍の要請で、鉄砲方付手付となり、水戸斉昭の反対で現場には出なかったが、実質的には、日米交渉の通訳・翻訳に当たった。
 付け加えると、韮山代官の職は、幕府天領の中でも特異な存在で、代々江川家が世襲した。 確か、小田原攻めの時、家康がお万の方を見初め、江川家の養女として、入室させたのがことの始まりとか。 お万の方の子が水戸藩の開祖。 これが為か、江川家は、伊豆・相模・武蔵の天領10万石の代官になるのである。 (一時期、失脚する。)
 子息・英敏のことより、英龍のことが長くなったが、もしかしたら、海舟がリストに上げたのは、父・英龍ではないかと言う所以である。
 
水野痴雲(筑後守忠徳): 文化7年(1810)-慶応4年7月9日(1868/8/26)、尚、生年には異説がある。 旗本・諏訪頼篤の子として生まれ、五百石の旗本・水野忠長の養嗣子となる。 天保15年(1844)、老中・阿部正弘に抜擢され、西丸目付・使番・御先手組火付盗賊改方加役・浦賀奉行・長崎奉行・軍艦奉行・京都町奉行・勘定奉行・田安家(御三卿)家老・外国奉行・神奈川奉行(兼任)を歴任。 外国奉行の時、日英修好通商条約、日仏修好通商条約の全権委員として調印した。 『アーネスト・サトウ日記抄』に、交渉の経緯、人物評などが書かれている。
 
松平内記: 色々と調べてみたが、よく判らない。 インターネット検索すると、勝小吉の『夢酔独言』を解説するサイトがあった。 「鶯谷庵独言」と云う。 以下、それを引用させて頂く。
松平内記は、この時代の前後に3人確認出来る。
・割下水の200坪に住む松平内記(右図、夢酔の借宅から約800m)。1855年頃は小普請、詳細不詳。
・浅草の新堀端で3千石、2千坪強の松平内記勝敬(上図)、寄合。 豊後・国東の杵築藩主(能見)松平
 親明(チカアキラ)の側室の子で分家を継いだ。虎之助(島田)の後援者でもあったので、夢酔が記す内記の可能性が高い。
・下谷七軒町(上右図の松平次郎)で5千石、3千坪強の松平内記。次郎信幹の父・勘助信意が当時の
 主であるが、内記か否かは不明。信意の祖父は内記。
 
大久保一翁: 文化14年11月29日(1818/1/5)-明治21年(1888)7月31日、幼名は三市郎、名は忠寛(タダヒロ)、隠居後の号を一翁。 小姓組番頭格・西丸留守居を歴任した五百石の旗本・大久保忠尚の子に生まれ、十一代将軍家斉の小姓を務めたが、老中・阿部正弘に抜擢され、目付・海防掛・軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取、駿河奉行・京都町奉行を歴任した。 また、勝海舟・山岡鉄舟と共に江戸城無血開城に尽力し、「幕府の三柱」と称された。 明治になって、徳川家が駿府に移封されると、幕臣の救済の為に山岡鉄舟などと図り、牧之原の開拓や平沼兵学校の設立に尽力した。 余談だが、牧之原辺りの農家(幕臣の末裔)は、今でも、戦時を想定した堀や土盛が残っているそうだ。 静岡藩では、家老・中老・幹事役が廃された後、権大参事に就いている。 因みに、当時の大参事は平岡丹波、権大参事は一翁のほか、浅野二郎八・山岡鉄舟らが、小参事には向山黄村・津田真一郎らが、権小参事には小林庄次郎・宮重丹下らが就任した。 廃藩置県後、初代静岡県参事、明治5年に第五代・東京府知事、明治9年に教部少輔、明治10年に元老院議官、明治20年に子爵を叙爵した。 余談だが、、勝海舟は、当初、権大参事筆頭に推挙されたが受けなかった。 
山岡鉄太郎: 天保7年6月20日(1836/7/23)-明治21年(1888)7月19日、名は高歩(タカユキ)、通称は鉄太郎、号を鉄舟。六百石の旗本、父・小野朝右衛門高福(タカトミ)が、蔵奉行の時、三人目の妻・いそ(磯)との間に四男として生まれる。 朝右衛門は、清涼旺盛な人で、生涯、九男三女をもうけ、内最後の二人は70歳を過ぎてからの子供。 母・磯は、鹿島の神官・塚原秀平(石見)の次女。 塚原の先祖は剣豪・塚原朴伝。 小野家の知行地が鹿島に在り、父秀平は、その知行地の管理を任されていたが、計数に明るいことから、請われ用人として在府していた。 お磯が25歳の時、朝右衛門に請われ、後妻に入るのだが、何しろ年の差が33あるいは34歳、秀平は、娘の将来を案じ、念書を入れさせたと云う。 しかし、お磯は才気煥発で、親子ほど違う朝右衛門をコントロールした。 所謂「かかあ天下」だったようだ。 その後、朝右衛門が、飛騨郡代として飛騨高山に赴任。 鉄舟(鉄太郎)は、父が亡くなるまで高山で育った。 幼少時、高山の臨済宗・宗猷寺の住職・俊山和尚について勉学、これが後に、「剣禅一如」の心境地を開く遠因だろう。 山岡鉄舟については、小説や伝記など多数あるので、中略するが、例えば、小説では、南条範夫著『山岡鉄舟』、津本陽著『春風無刀流』、北方謙三著『草莽枯れ行く』・『黒龍の柩』等があり、他に、手塚治虫の『陽だまり樹』などがある。)
 剣は、9歳から直心影流を学び、高山時代、父の招いた剣客・井上清虎から北辰一刀流を学ぶが、江戸に出てからは、講武所に入り千葉周作らに指示した。 また、書は、弘法大師流を岩佐一亭に学んだ。 山岡家を継ぐ契機となったのは、学んでいた槍術・忍心流の師・山岡静山が急死した為、静山の弟・謙三郎に請われ、妹・栄子(フサコ)と結婚し、家督を相続したことによる。 因みに、勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の三人を「三舟」と云い、三人の書を揃えたもは、三舟の三幅」と云い、珍重された。 真筆を大叔父の家で見たことがあるが、三人の内、鉄舟の書の勢いには圧倒されたものだ。 何しろ、身長が六尺二寸(188cm)、体重が二十八貫(105kg)と云うから、書は体を現すのだろう。
 山岡鉄舟の家(高橋泥舟の隣)は、様々な若者の集いの場となっていた。 例えば、清河八郎(虎尾の会を共に結成)などもよく出入りしていたようだ。 因みに、清河八郎は、出羽(山形県)の上山藩士。 浪士隊や新撰組で有名だから省略するが、上山藩の飛び領が、現在の新潟県長岡市小国町で、藩校の分校があり、名前を失念したが、清河八郎の盟友が塾頭をしていたと、何処かで読んだ記憶がある。 (後で確認する。) 
 徳川家静岡移封後は、権大参事。 先にも書いたが、大久保一翁等と共に、幕臣の救済策に尽力した。 また、移封当時、農民一揆が起こるが、この仲裁役を務めたのが鉄舟だ。 農民も、鉄舟の勢いに圧倒されたのであろう。 似たようなエピソードが、茨城県参事、伊万里権令の時にもある。 井上馨は、県や地方に、他の人間では解決できない問題が起こると、「山岡君にお願いする」と、わざわざ自宅まで訪問して要請したそうだ。 しかし、当の本人は、官職に就くことを余り望んでいなかったようだ。 既に、「剣禅一如」の境地にあった故かもしれない。
 明治天皇の侍従になることを要請されたときにも一悶着あり、自分の流儀でよいかと聞き、その流儀を通したそうだ。 侍従時代にも多くの逸話があるが、長くなるので現時点では省略する。
 明治維新の歴史では、脇役的存在を見られがちだが、その果たした役割は、大きい。
 
中条金之助: 文政10年(1827)6月19日-明治29年(1896)1月19日、旗本・中条氏右衛門の長男として生まれる。 名は影昭。 心形刀流、北辰一刀流を学び、34歳で、幕府講武所の剣術教授を務める。 「虎尾の会」に参加、浪士隊の結成にも参加した。 維新後、静岡の牧之原開拓を実質的に指導、2000人余の幕臣を率いて、3000町歩の茶園の基礎を築いた。 静岡茶の元祖的存在。 また、鉄舟の無刀流の道場を開き、1000人余を教え、静岡県の剣道の基礎を作った。 因みに、葬儀委員長は勝海舟が務めている。
 
松岡萬: 天保9年(1838)-明治24年(1891)3月17日、名「萬」は、「ツモル」あるいは「ムツミ」とも読む。 号を古道。 代々旗本・鷹匠組頭の家に生まれる。 講武所で、中村敬宇に師事。 幕臣には珍しく、熱烈な勤皇家で、頼三樹三郎が、安政の大獄で処刑された時、小塚原の刑場から片腕を盗み、神棚に祀ったというエピソードがある。 山岡鉄舟らと「虎尾の会」を結成、清河八郎により浪士隊取締役に抜擢された。 また、新撰組の隊員を集めたのも松岡萬である。
 維新後は、中条金之助らと共に牧之原開拓に尽力し、また、新門辰五郎の協力得て、製塩事業にも力を注いだ。 現在、磐田市に松岡神社があるくらいだから、その功績の大きさが判る。
 清水次郎長との関係も深く、次郎長が、禁止されたいた官軍の戦死者の埋葬を行った時、黙認したと戸言うエピソードがある。 また、次郎長との逸話は多くあるようだ。
 
 以上、何とか幕臣についてまとめてみた。 ただ、人によっては、略歴程度、また、詳しい資料が探せない人物もあり、満足のいくものではない。 ブログ版では、訂正があれば訂正し、新たに判ったことや加筆すべきことがあれば、随時加筆する予定である。
 
 ところで、こうして海舟の人物リストを見ていくと、異例の出世をした能吏や剣客が多いことに気づく。 幕末維新の人物関係史を追っていくと、矢張り、三つの関係、すなわち、学問・武術・姻戚関係が、重要なファクターである考えるのだ。 コンピュータは、こうしたネットワーク解析には最適だ。 日本にも似たサイトはあるのだが、欧米の系図学(あるいは系譜学、Genealogy)のネットワークと比べると比較にならない。 
 
 実は、こうした問題点のネットワーク化は、様々な問題の解決の手段として、ビジネスの世界では日常茶飯事に使われている。 例えば、スコープ・プランニングとか、あるいはブレイン・ストーミング時の概念のまとめ、あるいはPERT/CPMなど、開発された手法は当に多様多彩である。 私は、システム工学を講義した時も、またビジネスとしてシステムを構築した時も、先ず、システム(広義のシステムを含めて)の分析に、常に、それぞれの関係図を作り、且つ、それを多層化した視点で見る為に、良く使ったものである。 習慣なのか、今も、何か考える時は、無意識の内に図式を描いている。
 
 それ故、言うのではないが、歴史をネットワークとして考えて行くと、別な姿が浮かんでくるものなのだ。 過去の事実である故、事実関係が比較的明確だから、ネットワーク理論の勉強には最適の教材だと思うのだが、さて如何なものであろう。 
 
Best regards
梶谷恭巨

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