このところ、幕末外交史と語学教育について調べている。 明治中期以降の旧制中学の校長の足跡を追いかけていたが、情報保護の壁に当たり、思うような進展が無い。 そこで、本来の目的である当時の教育が、その後の日本に及ぼした影響と、それが今現在あるいは将来への指針となりはしないかと、幕末あるいは維新前後の状況を調べることにした。
そこで興味を持ったのが、幕末外交しにしばしば登場するフランスの通訳官あるいは宣教師でもあるメルメ・カションという人物である。 しかし、この人物に就いての情報が意外に少ないのである。 カションについて単独に扱った本は、今のところ、富田仁著『メルメ・カション-幕末、フランス怪僧伝』くらいしか見当たらないのだ。 益々好奇心が湧く。 そこで、この本を探し購入した。 横浜の有隣堂出版の680円新書版だが、プレミアが付いているのだ。 その最安値をさがした。 因みに、1000円。 著者である富田日本大学教授(昭和55年当時)も、フランス本国で、カションの事が殆ど知られていない事に驚いておれれた様だ。 もっとも、その後研究が進んでいることも事実なのだろうが。
富田仁著『メルメ・カション-幕末、フランス怪僧伝』をやっと読み終わった。 この人物が、本国であるフランスで、何故注目されなかったのか、改めて疑問に思った。 当時のヨーロッパは、動乱の時代である。 普墺戦争(1866)、その結果、プロイセンはドイツ連邦の盟主となり、普仏戦争で勝利して、ドイツを統一する。 しかも、ナポレオン三世は、メキシコでも戦っているのだ(1861-1871、マクシミリアンはナポレオン三世の弟)。 兎に角、ナポレオン三世は、帝国主義の権化であるような人物である。 結果として、第三帝政は、1871年のナポレオン三世の亡命によって終焉する。 故に、こうした背景を抜きにしては、カションの事を語れないと思うのである。
それは、さて置き、カションの日本における足跡は、幕末史に大きな影響を与えたのではないだろうか。 ただ、残念なのは、富田氏の言うように、アーネスト・サトウと違い、日記などの文献資料が残っていないことである。 しかし、カションは、イエズス会派の宣教師であった訳だから、所属するパリの外国宣教会に定期的報告を送っていたはずであり、アイヌに関する書籍の出版や仏英和辞典なのどの編纂などしているのだから、筆不精という訳ではないと思えるのだが。
ここで、少々長くなるのだが、カションの略歴を紹介しよう。 (富田仁著『メルメ・カション-幕末、フランス怪僧伝』 より) 尚、関係者、例えば、アーネスト・サトウなどとの比較年表を作成中だ。 かなり面倒な作業なので、しばらく掛かりそうだが、随時紹介していく予定である。
1828年(文政11年)9月10日、フランスとスイスの国境に近いジュラ山脈の寒村、レ・ブーシューに生まれる。
その後、時期不詳だが、サン・クロードの神学校に入学。
1843年(天保14年)3月8日、フランス人フォルカード神父マカオに到着、この時、会計助役になる。
同年6月30日、アーネスト・サトウ、ロンドンのクランプトンに生まれる。
1844年(弘化元年)3月11日、アルクメール号で那覇に来航、フォルカード神父らと、以降に年間、聖現寺に幽閉
1846年(弘化3年)5月1日、フランス船サビーヌ号那覇に来航、フォルカード師の日本教区長任命を伝える。
同年7月28日、フォルカード師、セシル提督のフランス・インドシナ艦隊に搭乗し、長崎港外に来航(フランス船の日本内地初来航)
1847年、薩摩藩士・岩切栄助、フランス語学習を命じられる。
同年、フォルカード師、香港で司教に就任、後、帰国する。
1848年5月、村上英俊、フランス語事始に取組む
1852年7月1日、パリ外国宣教会に入る。
1852年7月11日、パリ外国宣教会神学校に入学
1853年(嘉永6年)6月3日、ペリー来航
1853年5月21日、副助祭
1853年7月18日、ロシアのプチャーチン、長崎来航
1853年12月17日、助祭
1854年(嘉永7年)、村上英俊『三語便覧』を刊行
1854年(安政元年)3月3日、横浜で、日米和親条約調印
1854年6月10日、司祭
1854年8月、下田で日英和親条約調印
1854年12月21日、下田で日露和親条約調印
1855年(安政2年)2月26日、カションら那覇に到着、聖現寺で日本語を学習
1855年10月15日、琉仏和親条約締結
同年、村上英俊『洋学捷径・仏英訓弁』刊行
1856年(安政3年)7月21日、アメリカ総領事ハリス、下田来航
同年、アーネスト・サトウ、ロンドン西北郊外のミル・ヒル・スクールに進学。
1857年(安政4年)1月18日、カション、病気療養の為、香港へ出発
1857年(安政4年)1月18日、蕃書調所、授業を開始
同年7月10日、日蘭修好通商条約調印
同年7月11日、日露修好通商条約調印
同年7月18日、日英修好通商条約調印
同年、村上英俊、『五方通話』刊行
1858年(安政5年)8月5日、カション、グロ全権の通訳として、下田に来航。
同年8月12日、カション、本牧沖に到着。
同年8月16日、カション、品川に上陸。
同年9月3日、江戸で、日仏修好通商条約調印、条約文にカション訳の片仮名文を添付。
同年3月29日、村上英俊、蕃所調所教授手伝いになる。
同年6月2日、長崎・函館開港
1859年(安政6年)8月10日、ベルクール総領事、カションと共に来日、江戸・三田の済海寺に公使館を開設。
同年9月22日、日仏修好通商条約批准書交換。
同年11月25日、カション函館に赴任、称名寺に住す。
同年、アーネスト・サトウ、ユニヴァーシティ・カレッジに入学。
同年12月、蕃所調所で、フランス語学習あ建議される。
1860年(万延元年)3月3日、桜田門外の変
同年4月、蕃所調所で、小林秀太郎ら4名がフランス語学習を始める。
同年4月7日、ベルクール、代理公使昇任を幕府に通告
同年7月、カション、パリ外国宣教会より、ジラールに代わり、日本教区の長に任命されるが辞退。
1861年(文久元年)、暴漢に襲われるなど、身辺に機器を感ず。
同年6月、アーネスト・サトウ、外務省通訳生試験に合格。
同年8月、アーネスト・サトウ、領事部門の日本通訳生に任命。
同年10月、アーネスト・サトウ、ユニヴァーシティ・カレッジ卒業。
同年11月、アーネスト・サトウ、極東へ向け、サザンプトンを出航。
1863年(文久3年)1月、アーネスト・サトウ、上海到着。
同年4月、アーネスト・サトウ、北京英国公使館に到着。 中国語学習に専念。
同年8月15日(陽暦9月8日)、アーネスト・サトウ、横浜に到着。
1862年(文久2年)8月21日、生麦事件
同年12月、アーネスト・サトウ、ニール代理公使に随行して江戸に入府。
1963年(文久3年)夏頃、函館を去り、一旦、帰国
同年1月、高杉晋作らが、御殿山・英国公使館を焼討。
同年7月から8月頃、長州藩が、米国商船や仏国軍艦を砲撃。
同年7月2日、薩英戦争
同年8月、アーネスト・サトウ、薩英交渉の為、軍艦アーガス号で鹿児島へ。
同年9月14日、井上ヶ谷で、カミュ殺害される。
同年12月29日、遣欧使節・池田筑後守長発ら、横浜を出航。
1864年2月26日、岩松太郎(使節団目付・河田相模守家来『航海日記』を残す)、香港でカションと会う。
1864年(元治元年)3月22日、レオン・ロッシュ、横浜に赴任、カションを通訳官に任命。
同年7月4日、横浜鎖港談判の席上で、栗本鋤雲と再会
同年11月10日、幕府、横須賀製鉄所の建設をロッシュに一任。 横浜仏語伝習所開設が建議される。
同年、村上英俊、『仏語明要』刊行
1865年(慶応元年)1月29日、幕府、横須賀製鉄所建設約定書をロッシュに手交。
同年3月6日(?)、横浜仏語伝習所開校
1866年(慶応2年)9月9日、カション、ラ・ブールドネー号で、横浜より帰国。
同年10月、ロッシュ、横浜仏語伝習所得業式に出席。 塩田三郎が、その時の祝辞を翻訳。
同年、カション、パリで『日本養蚕論』(上垣守国『養蚕秘録』の翻訳)、『仏英和辞典』刊行。
同年、カション、パリ外国宣教会を離脱。
1867年(慶応3年)1月11日、徳川昭武、パリ万国博覧会出席の為、横浜出航。
同年4月1日、パリ万国博覧会開幕。
同年4月11日、徳川昭武、パリに到着。
同年4月28日、徳川昭武、フランス皇帝・ナポレオン三世と会見、カション通訳として陪席。
同年9月8日、栗本鋤雲、マルセイユに到着。
同年11月3日、万国博覧会閉幕。
1868年(慶応4年)1月9日、カション、向山隼人正の送別会を欠席。
同年、村上英俊、『仏蘭西答屈智畿』刊行。
1868年(明治元年)3月15日、村上英俊、私塾・達理堂を開設。
同年5月16日、カション、栗本鋤雲の送別会に出席。
明治4年頃、カション、ニースで死去。
(注1)富田氏の年表は、少なくとも、日本国内に関しては、陰暦で書かれているようだ。
(注2)青字は、一般的歴史事件
(注3)赤字は、アーネスト・サトウに関して。
(注4)村上英俊: 1811年5月29日(文化8年4月8日)-1890年(明治23年)1月10日、下野国佐久山(栃木県大田原市)に生まれ、江戸で医学・蘭学を修めた後、信州松代に移住、佐久間象山の勧めで、フランス語を独習する。 松代藩主・真田家の後援を得て、江戸の松代藩邸に住み著作に専念。 明治18年には、レジョン・ドヌール勲章を授与。 年譜に就いては、上記年表を参照。(朝日人物事典参照)
(注5)栗本鋤雲: 1822年5月1日(文政5年3月10日)-1897年(明治30年)3月6日、名を鯤(コン)、号を瑞見、通称を瀬兵衛。 幕府の典医喜多村槐園(カイエン)の三男にうまれる。 昌平坂学問所で学び、後に栗本氏を継ぎ、奥詰医師になるが、1858年(安政5年)2月24日、蝦夷地・函館に赴任、カションと知り合う。 昌平坂学問所頭取、目付、横須賀製鉄所御用掛、外国奉行を歴任。 徳川昭武の補佐役として渡欧。 帰国後(1868年、明治元年)、1873年(明治6年)以降、『報知新聞』の主筆を務める。
以上の様に、カションの幕末外交史での存在は重要である。 カション自身も、そう考えていたようだ。 結論的に言えば、比較年表から判断する以外にないように思える。 そこで、先にも書いたように、比較年表は作成中だ。 ところが、これが膨大になりそうなのである。 羽石重雄の年表まで含むと、幕末から昭和初期までになる。 比較する本も、『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』と富田氏の著作、それに渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』などを引きながら、登場人物をインターネットで検索している。
長くなったので、今回はこの辺りで。 ただ、比較人物史は、歴史研究に於て意外に手薄な分野である様に思える。 これも、唯物史観の影響だろうか。 続きは次回に。
Best regards
梶谷恭巨