柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
昨日、息子の入学式があった。 式典には出席したが、体調が悪く、その後のオリエンテーションは、女房殿に任せ、久しぶりにソフィアセンター(市立図書館)を訪ねた。 そこで、柏崎高校の『回顧百年』を読む。 『回顧六十年』は、既に読んでいたので、調べている範囲では、特に注目する事もないと思っていたが、意外に新事実などが加筆されていた。 ただ、大きな間違いもあったのだが。 さて、羽石重雄であるが、前にはなかった「葉隠校長」という記載があった。 この事実は、非常に興味深い。 何故なら、前任地である岩国中学では、むしろ、ハイカラである事が排斥の理由でもあったからだ。 そこで、大正4年(校長就任)の12月刊『親友会雑誌』第19号から、その部分を引用してみよう。 (『回顧百年』の又引き、また文中の難字にはカタカナをふった。) 「剛気勇健の葉隠校長」(『回顧百年』) 「本校としては、遺憾ながら未だ健全なる校風が成立って居ると認められぬ。 又此の土地は、以前、藩の置かれてあらざりし関係から、一般的に武士的精神が乏しい感がある。 随って学生の風も決して剛健とは云えぬ」と断じ、「今日世間の中学生に往々見るが如き、或は料亭に出入し、或は女学生と慇懃を通ずるが如き懦弱(ダジャク)の輩は、将来到底国家有用の人物となることは出来ない。 若し之れ有りたる場合には、全校共同の敵として擯斥(ヒンセキ)するようでなくてはならぬ。 然るに学校によりては、学生の意気乏しきためか、己には何等関係なきものとし、全然看過する風あるのは、甚だ宜しくない」と強い訓戒である。 (注)元田龍佐: 大分県出身、明治43年8月4日付けで長岡中学校長、大正元年10月11日付けで柏崎中学校長、大正4年2月27日付けで、再び長岡中学校長に転任した。 詳細については調査中。 とま、こういった具合である。 これは、羽石重雄の脩猷館時代、あるいは第五高等学校時代の文集などから予想できる事なのだが、それでは、何故、岩国中学で排斥運動が起こったのだろう。 しばらく、壁に当たって、取材を中断していたのだが、改めて、岩国から柏崎へ移る二年近い空白の期間に興味が湧く。 また、文中で、当時の柏崎の中学生に触れているが、確かに今も長岡などの城下町と住民自体の気風に違いがあると感じる。 これは、他所から来た者の感覚なのであろうか。 いずれにしても、柏崎の当時の状況を物語る事実である。 繰り返すが、柏崎には、独特の雰囲気がある。 どうも、今も過去の歴史の影響があるのではないかと。 例えば、戊辰戦争における商人達の動向である。 官軍を支援した星野藤兵衛は、明治維新後、結果的には没落している。 明治10年の行幸の折、子息と弟が前後二回に亘り、窮状を訴え、千円の下賜金と従四位を追贈されていることからも、その事が分かる。 これに反し、桑名藩に殉じた豪商や豪農もあり、むしろ、こちらの方が、その後発展した気配があるのだ。 まあ、この辺りの事は、今回のテーマに外れるので、次の機会に。 さて、羽石重雄だが、松本中学時代の羽石について、「はいし、はいしどうどう」と揶揄というよりは、愛着に近い感情で、同窓生が書いている。 なかなか資料が集まらず、ご好意で送られてきた断片的なコピーからでは、全体像を把握する事が難しい。 しかし、羽石重雄の足跡には、時代を物語る何かがあると確信するのである。 そのためには、もっと資料を集めなければならないのだが。 余談だが、柏崎中学の歴代校長の出身地を調べると、次のようになる。 (1)渡辺文敏: 山形県、次任地・新発田中学 参考までに掲載したが、こうして見る中々面白いものだ。 大正時代辺りまで、関係校長の足跡を追い掛けているが、出身地、出身校、任地のマップや比較年表を作ると面白いと思っている。 漸次作成の予定だ。 Best regards |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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