柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
萩原延壽著『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』(第四巻『慶喜登場』、第五巻『外国交際』)で、興味ある記事に遭遇した。 すなわち、英語学校(English College)設立の問題である。 慶応3年(1867)4月29日、この日、将軍・慶喜と英国公使・パークスの内謁見(ウチエッケン、非公式の会見)が行われた。 そこで、慶喜から留学生の話が出るが、パークスは、経費と西欧文化普及の為には、留学の前に予備知識を授業する方が有効であるとして、「予備門」の設立を提案する。 (パークスは、この時、学校設立に関する清国の総理衙門の意見書の写しを提示している。) 慶喜は大いに大いに関心を示し、後日、具体的な話に展開する。 序に言えば、この時、パークスやサトウは、慶喜の人品・資質に大いに感銘し、英国外務省に対する公的報告書でも、慶喜を高く評価している旨、報告している。 同年5月28日、江戸に帰ったパークスは、英語学校の設立に関する正式な援助の要請を老中・小笠原長行(ナガミチ)から受け、試案を作成している。 その概要を、萩原延壽(ノブトシ)著『遠い崖、アーネスト・サトウ日記抄』(第五巻、『外国交際』)から抜粋する。 授業科目 また、同報告書で、大学に付いては、アイルランドの大学、特にダブリンのトリニティ・カレッジとベルファースト・カレッジ(通訳生・アストンの母校)を推薦し、「すぐれた人材を生み出しており、その教育課程は他の大学のそれにくらべ、海外では働く者に、よりふさわしくできているように思われる」と。 また「人物は絶対に紳士でなければならず、・・・・かれらがフランスから派遣されてくる人物に決して引けを取らないことを強く望む」と書いている。 これに対し、スタンレー外相は、「要求しているレベルの大学卒業生は、イギリス本国とインドで良い就職の機会に恵まれている為、・・・・説得して日本行きを承諾させることが出来なかった」と返答している。 しかし、この話は、幕府の崩壊によって沙汰止みになるのだが、軍関係を除けば、最初に登場する外国人お雇いの学校設立の計画ではなかったのではないだろうか。 また、後に、設立される「大学予備門」も、この辺りに原点があるのではないだろうか。 加えて、ここで興味を引くのが、アイルランドの大学を推奨していることだ。 確かに、通訳生・アストンの母校にも関係するのかも知れないが、アイルランド独立運動が、ナポレオンの時代にも盛んであったことを考えると、何かしら背景を想像するが、その辺りの事情は、書かれていない。 ただ、歴史上、お雇い外国人の系譜を辿る時、この「英語学校」設立計画の存在は興味深いことを付け加える。 Best regards |
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プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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