柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 萩原延壽著『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』(第四巻『慶喜登場』、第五巻『外国交際』)で、興味ある記事に遭遇した。 すなわち、英語学校(English College)設立の問題である。 慶応3年(1867)429日、この日、将軍・慶喜と英国公使・パークスの内謁見(ウチエッケン、非公式の会見)が行われた。 そこで、慶喜から留学生の話が出るが、パークスは、経費と西欧文化普及の為には、留学の前に予備知識を授業する方が有効であるとして、「予備門」の設立を提案する。 (パークスは、この時、学校設立に関する清国の総理衙門の意見書の写しを提示している。) 慶喜は大いに大いに関心を示し、後日、具体的な話に展開する。 序に言えば、この時、パークスやサトウは、慶喜の人品・資質に大いに感銘し、英国外務省に対する公的報告書でも、慶喜を高く評価している旨、報告している。

 同年528日、江戸に帰ったパークスは、英語学校の設立に関する正式な援助の要請を老中・小笠原長行(ナガミチ)から受け、試案を作成している。 その概要を、萩原延壽(ノブトシ)著『遠い崖、アーネスト・サトウ日記抄』(第五巻、『外国交際』)から抜粋する。

授業科目
(1)歴史、経済学、国際法
(2)英語、英文学、地理 
(3)数学、物理学、天文学
(4)工学
(5)化学
 「教師は、英国から大学を優秀な成績で卒業した者四名を教師として招聘し、そのうち校長をつとめるものが(1)を担当し、のこりの二名が(2)を、もう一名が(3)を教え、(4)は幕府が土木技師の雇い入れを計画しているので、これに教授の仕事を一任し、(5)はすでに幕府が雇い入れているオランダ人ハラタマ博士(Dr. Koenrand Woutler Garatamaに依頼するというものであった。 イギリスから招聘する四人の教師の報酬としてパークスが提案したのは、校長が年俸4800ドル(1200ポンド)、他の三名がそれぞれ年俸2400ドル(600ポンド)である。 ちなみに、通訳官サトウの当時の年俸は500ポンドであった(パークスよりスタンレー外相への報告、1867627日付)」 以上、科目は、箇条書きに、また便宜上、かな表記を漢字に、科目の数字に()を付けた。

(注)オランダ人ハラタマ博士: クーンラート・ウォルテル・ハラタマ(Koenrad Wolter Gratama)は、1831年4月25日にオランダのアッセンで十一人兄弟姉妹の末弟として生まれた。父は裁判官で後にアッセン市長にもなっている。ハラタマはユトレヒトの国立陸軍軍医学校を卒業後、三等軍医として一年間ネイメーヘンで軍務につき、1853年に母校である軍医学校の理化学教師となった。一方で、ユトレヒト大学の医学部、自然科学部に学生として在籍した。その間に二等軍医に昇格していた。
 1865年(慶応元年)の末に日本政府の幕府からハラタマに長崎分析究理所における理化学教師として招聘され、翌年4月16日長崎にしている。ハラタマの任務はボードウィンの下、養生所での調剤なども含めた病院の監督業務と、分析究理所での化学、物理学、薬物学、鉱物学、植物学などの自然科学の講義であった。その講義は医学所(精得館)の医学教育の基礎教育を担当する意味もあった。新たに設立された分析究理所の運営はハラタマに任された。ハラタマのオランダ語の講義は、随行する三崎嘯輔が通訳してほかの学生に伝えたと推測されている。この学生達の中に、後に日本の医学、科学の先覚者となる池田謙斎、戸塚静伯、松本圭太郎、今井厳などがいた。 (以上、長崎大学薬学部『長崎薬学史の研究』第二章「ハラタマの来日」から、詳しくは、
http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp2/chapter2-1.html

 ハラタマ博士は、1866年から5年間、江戸幕府から明治政府へ移る激動期に日本に滞在し、1869年に理化実験棟をもつ学校「舎密(セイミ)局」を大阪城前に開設した。彼はそこで化学を講義し、オランダから運んできた試薬と実験器具を用いて化学実験を教えた。これによって舎密局は、講義と実験による本格的な近代化学を日本に最初に導入した記念すべき場所となった。(以上、ハラタマ・ワークショップ2009より、詳しくは、
http://www.chem.sci.osaka-u.ac.jp/gratama/index-j.htm

 また、同報告書で、大学に付いては、アイルランドの大学、特にダブリンのトリニティ・カレッジとベルファースト・カレッジ(通訳生・アストンの母校)を推薦し、「すぐれた人材を生み出しており、その教育課程は他の大学のそれにくらべ、海外では働く者に、よりふさわしくできているように思われる」と。 また「人物は絶対に紳士でなければならず、・・・・かれらがフランスから派遣されてくる人物に決して引けを取らないことを強く望む」と書いている。

 これに対し、スタンレー外相は、「要求しているレベルの大学卒業生は、イギリス本国とインドで良い就職の機会に恵まれている為、・・・・説得して日本行きを承諾させることが出来なかった」と返答している。

 しかし、この話は、幕府の崩壊によって沙汰止みになるのだが、軍関係を除けば、最初に登場する外国人お雇いの学校設立の計画ではなかったのではないだろうか。 また、後に、設立される「大学予備門」も、この辺りに原点があるのではないだろうか。

 加えて、ここで興味を引くのが、アイルランドの大学を推奨していることだ。 確かに、通訳生・アストンの母校にも関係するのかも知れないが、アイルランド独立運動が、ナポレオンの時代にも盛んであったことを考えると、何かしら背景を想像するが、その辺りの事情は、書かれていない。

 ただ、歴史上、お雇い外国人の系譜を辿る時、この「英語学校」設立計画の存在は興味深いことを付け加える。

Best regards
梶谷恭巨


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