この記事は、配信版の『柏崎通信』(昨年12月4日、737号)に掲載したものだが、改めて適塾の出身者を調べていたら、思い出して、序の事だから、掲載しようと思った次第。 以下、その記事を紹介する。
私の故郷である広島県山県郡安芸太田町(旧・加計町)は、今や典型的な過疎の町である。 しかし、昔から医療過疎という問題は無い地域だった。 歴史的社会的背景から不思議には思っていたのだが、特に気にも留めていなかった。 ところが、脚気問題で緒方惟準(洪庵の長男)を調べる序でに、曾孫である緒方富雄の『緒方洪庵伝』附録の適塾姓名録を調べてみると、何と、山県郡から適塾に入門した人物が二人も居るのである。
一人は、小田松眠(安政3年10月20日入門)、もう一人は、今田隆軒である。 詳細は不明だが、小田松眠は、それこそ加計の人で、姓名録には小田松調の忰(セガレ)とある。 また、今田隆軒は、安政7年正月十九日、芸州山県郡とのみ記載。 いずれにしても、当時の状況を考えると、芸北から二人が適塾(適々斎塾)に入門していたという事実には驚くのである。
そこで、当時の山県郡の状況を考えてみた。 山県郡は、主に太田川の流域に沿って発展した。 主な産業は、たたら製鉄、それに薪炭と材木の産地であった。 余談だが、戦国時代は、山陰・尼子氏の山陽への進入経路のひとつであり、「加計」の由来である「架け橋の戦」など、毛利氏との最前線だった。 更に、余談。 安芸の国の守護は、始め武田氏。 武田氏の所領は、最盛期、甲斐、常陸、それに安芸だった。 面白いのは、これ等の地に同じ地名があることだ。 しかも、その地域には金を産出する。 例えば、久慈、太田、山縣(山形)など。 常陸では、久慈川の上流に太田や山形があり、金砂郷は字の如く砂金を産出した。 広島では、太田川の上流が山県郡、久慈という地名もあり、勝草というところで金を採掘していたそうだ。 興味深い。
手持ちの資料が無いので、詳しくは言えないが、芸州広島の太田川水系は、昭和の初期くらいまで、栄えた地域だったのである。 事実、太田川沿いには大きな家が多い。 随分昔の事だが、広島大学から調査団が来た事があるそうだ。 私の実家にも、名前は失念したが建築学の教授が調査に見えたことがあったそうだ。 その時、判ったのだが、家の構造が、表から見るより実際には大きいのだそうだ。 また、人の出入の多い土間や広間の構造と奥の座敷では、明らかに建築様式が異なると言われた。 水野忠邦の倹約令の影響とも言われている。 いずれにしても、大阪の適塾に入門者を出す程に、芸北の地は、豊だったということなのだろう。
序でに言えば、私事だが、適々斎塾姓名録が書き始められた天保15年に、親族である広島草津の「西」の名前があった。 これも驚きである。 今その家系は、北海道札幌にあり、歯科医院を営んでいる。 北広島市を開拓する時なのか、あるいは、帝国大学医学部を卒業後、何らかの理由で北海道に渡ったと思われるのだが、現当主の政道氏に聞いても詳細は不明との事。 むしろ、「君が調べてくれ」と云われた。 柏崎荒浜の人々が江差を開拓したという話も在るので、合わせて調べてみたいと思っている。
話が横道に逸れてしまった。 しかし、歴史を調べていると思わぬ発見があるものだ。 だからという訳ではないが、暇な時でにで、身近な歴史を紐解いては如何だろう。 正史の裏には、思わぬ繋がりとドラマが隠されているかも。
Best regards
梶谷恭巨